第35話 政子、“悪女”から“守護者”へ戻る
比企能員が敗北を認めた翌朝。
鎌倉は、まるで嵐が過ぎ去った後のように静かだった。
昨日までの濁った空気は消え、
人々の声は落ち着きを取り戻していた。
(……空気が澄んでいる。
これでようやく、鎌倉が呼吸できるわね)
侍女が駆け込んできた。
「政子様……!
御家人たちが……
“政子様に謝罪したい”と……
屋敷の前に並んでおります……!」
私は静かに言った。
「ええ、通してあげて」
侍女は驚いた。
「お、怒っておられないのですか……?」
私は微笑んだ。
「怒る必要なんてないわ。
空気に流された人を責めても意味がないもの」
(銀座でもよくあったわね。
“空気に飲まれた客”は叱るより、整えてあげる方が早い)
*
──政子の屋敷・広間。
御家人たちが次々と頭を下げた。
「政子様……!
比企殿の言葉に惑わされ……
申し訳ございませんでした……!」
「政子様を疑ったこと……
深くお詫び申し上げます……!」
「どうか……
我らをお許しください……!」
私は静かに言った。
「許すわ。
でも──
“空気に流されない強さ”は、
これから身につけてね」
御家人たちは震えた。
「政子様……
肝に銘じます……!」
(これでいいのよ。
責めるより、学ばせる方が強い)
*
──比企能員・屋敷。
能員は、昨日とは違う顔で政子を迎えた。
その目には、敵意も怒りもなく──
ただ、静かな敗北の色だけがあった。
「政子殿……
昨日は……
見事であった」
私は静かに言った。
「比企殿。
あなたは賢いわ。
でも──
“恐怖”で空気を作るのは、
もうやめた方がいい」
能員は苦笑した。
「……あの時、
あなたが“覚悟”と言った意味が……
今なら分かる」
私は頷いた。
「覚悟のない者は、
空気に飲まれるだけよ」
能員は深く頭を下げた。
「政子殿。
私は……
あなたに敗れたことを認める。
これ以上、鎌倉を乱すつもりはない」
(これで比企家は完全に沈黙するわね)
*
──頼朝の館。
頼朝は、私を見るなり立ち上がった。
「政子……
お前のおかげで、
鎌倉は救われた」
(あら、今日は素直ね)
頼朝は続けた。
「私は……
お前を信じると言ったが……
あれは……
“お前に頼りたい”という意味でもある」
(頼りたい、ね。
やっと本音を言ったわね)
私は静かに言った。
「頼朝さん。
私は“悪女”として鎌倉を守ったけれど──
もうその役目は終わりよ」
頼朝は息を呑んだ。
「終わり……?」
私は微笑んだ。
「ええ。
“悪女”は、
必要な時だけでいいの」
頼朝は目を閉じた。
「政子……
お前は……
私の……
いや、鎌倉の守り手だ」
(守り手、ね。
悪女よりずっといい肩書きだわ)
*
──夜。
私は灯りの下で静かに筆を取った。
(比企家の策は終わった。
頼朝さんは前に出た。
御家人たちは空気を学んだ)
筆が走る。
「……悪女政子、役目を終える」
私は静かに笑った。
──悪女は、
必要な時だけ姿を見せる。
普段はただの“政子”でいい。
そしてこの日、
**政子は“悪女”から“守護者”へ戻り、
比企編は静かに幕を閉じた。**
鎌倉は、
新たな章へ進み始める。




