第15話 政子、静かに“線を引く”
大姫の心が少しずつ開き始めた頃。
鎌倉の空気は、どこかざわついていた。
比企家の動きが原因だと、誰もが薄々気づいている。
だが私は、今日は政治のことを考える気にはなれなかった。
(……大姫の顔が、まだ少し曇っている)
庭で遊ぶ大姫の姿を見ながら、
私は胸の奥に小さな棘のような違和感を覚えていた。
「政子様」
侍女が駆け寄ってきた。
「比企能員様がお見えです」
(……来たわね)
私は立ち上がった。
*
比企能員は、にこやかな笑みを浮かべていた。
だが、その笑みの奥にある“探るような目”は隠せていない。
「政子殿。
大姫様のこと……心配しておりますぞ」
(心配してる顔じゃないわね)
私は静かに言った。
「お気遣いありがとうございます」
能員は一歩近づいた。
「政子殿。
鎌倉殿の御心を乱すようなことは……
どうか、お控えいただきたい」
(……あら、そう来るの)
私は微笑んだ。
「比企殿。
あなたは“鎌倉殿のため”と言うけれど──」
能員の目が細くなる。
「……?」
「本当に守りたいのは、
“あなた自身の立場”ではなくて?」
能員の笑みが、完全に消えた。
(ああ、この沈黙。銀座でもよく見たわ)
能員は低い声で言った。
「政子殿……
そのような言い方は──」
「比企殿」
私は一歩、能員に近づいた。
「私は、あなたを敵に回すつもりはない。
でも──
大姫を利用するなら、話は別よ」
能員は息を呑んだ。
「……政子殿……?」
「子どもを巻き込む大人は、
どんな理由があっても許さない」
能員は完全に固まった。
(怒ってはいない。ただ“線を引いた”だけ)
私は続けた。
「比企殿。
あなたが鎌倉殿を支えたいなら、
私も同じ方向を向けるわ」
能員の目が揺れた。
「……同じ方向……?」
「ええ。
“鎌倉殿が迷わないようにする”という方向よ」
能員はしばらく黙っていたが、
やがて小さく頭を下げた。
「……心得ました」
(あら、思ったより素直ね)
*
能員が去った後、義時が駆け込んできた。
「姉上!
比企能員が……“政子殿は侮れぬ”と……!」
(侮れぬ、ね)
義時は続けた。
「姉上……
何をされたのです……?」
「何もしていないわ。
ただ、線を引いただけ」
義時は完全に固まった。
(この子、毎回驚いてる気がする)
*
夕方。
頼朝が、珍しく落ち着いた顔でやってきた。
「政子。
比企能員が……
“政子殿と話して考えを改めた”と言っていた」
(あら、そう言ったの)
頼朝は続けた。
「政子……
お前は……私よりも……
人の心が見えているのだな」
(まあ、銀座で鍛えられたからね)
私は静かに言った。
「頼朝さん。
私はただ……
守るべきものを守りたいだけよ」
頼朝は息を呑んだ。
「……政子。
お前は……私の……」
また言いかけて、口を閉じた。
(またそれ)
廊下の侍女たちは震え上がった。
「聞いた!?
政子様が比企家を“黙らせた”……!」
「やはり……恐ろしい……!」
(黙らせたんじゃなくて、話しただけよ)
私は空を見上げた。
──怒りではなく、
“線を引く”ことで守れるものがある。
それを、私は銀座で学んだ。
そしてこの日、
**政子は初めて“政治の場で自分の意思を示した”。
鎌倉の空気が、静かに変わり始めた。**




