第119話 政子、空気を読む
三浦義村が和田の若者たちを退けた翌朝。
──鎌倉の空気が変わった。
昨日までの“火事場の匂い”は、
今日は“誰かが油を注いだ匂い”へと形を変えていた。
「和田の若者たちは……誰に焚きつけられた?」
「三浦殿は京の駒にならぬと言ったらしい」
「では……京は次に誰を揺らす?」
(鎌倉は今、
“次の火”を探している)
政子は政所の縁側に座り、
静かに空気を吸い込んだ。
──この匂い、知っている。
銀座の店で、
スタッフ同士の不満が誰かに煽られ、
一気に店全体へ広がる前の、
あの独特のざらつき。
「……これは、放っておくと店が潰れるパターンね」
義時が振り返る。
「姉上?」
政子は低く言った。
「義時。
鎌倉は今……
“誰かが意図的に空気を悪くしている”状態よ」
義時の顔が険しくなる。
(政子殿……
何を感じているのです……?)
*
──三浦義村の屋敷。
義村は、
昨夜の対峙の疲れを引きずったまま、
静かに座っていた。
胤義が言った。
「兄上……
和田の若者たちは、
“京の密使に焚きつけられた”と申しておりました」
義村は目を閉じた。
(やはり……
京は私を使うつもりだった)
家臣が駆け込む。
「殿!
鎌倉中で“義村殿は京と通じている”という噂が……!」
義村の胸に、
冷たいものが落ちた。
(また……
私の沈黙が……
鎌倉を揺らしているのか……?)
胤義が叫んだ。
「兄上!
噂に振り回されてはなりませぬ!」
義村は小さく頷いた。
「……分かっている。
だが──
私は……
どうすれば……
鎌倉を守れる……?」
その問いは、
誰よりも深く、重かった。
*
──政所。
義時が政子に報告した。
「姉上。
鎌倉中で“義村殿は京と通じている”という噂が広がっています」
政子は目を細めた。
(来た……
“空気を悪くするための噂”)
銀座の店で、
スタッフの一人を潰すために流される、
あの悪意のある噂。
政子は静かに言った。
「義時。
この噂は……
“誰かが意図的に流している”わ」
義時は息を呑んだ。
「では……
京が……?」
政子は首を振った。
「京だけじゃない。
鎌倉の中にも……
“この混乱を利用したい者”がいる」
義時の顔が険しくなる。
(鎌倉の中にも……
敵がいるのか)
政子は続けた。
「義時。
あなたが今すべきことは一つよ」
義時は身を乗り出した。
「何を……?」
政子は静かに言った。
「三浦義村を……
“公の場で”守りなさい」
義時は息を呑んだ。
「公の場で……?」
政子は頷いた。
「そう。
あなたが義村を信じていると示せば、
噂は消える。
鎌倉の空気も変わる。
そして──
京の策は一度、止まる」
義時の胸に、
その言葉が深く刺さった。
(政子殿……
あなたは……
空気を読んでいるのか)
政子は灯火を見つめながら呟いた。
「……銀座の修羅場で学んだことよ。
“空気”は、
放っておけば店を潰す。
でも──
正しい一言で変えられる」
義時は深く頷いた。
「三浦殿を……
守ります」
政子は微笑んだ。
「ええ。
それが……
鎌倉を守ることになる」
*
──夜。
鎌倉の空気は、
政子の言葉を待っているかのように、
重く、揺れていた。
静かに、
しかし確かに──
鎌倉の底が、
またひとつ鳴った。




