第116話 火種、最初の炎
院宣が落ちて二日目。
──鎌倉の空気が変わった。
昨日までの“陣営の裂け目”は、
今日は“火種の匂い”へと形を変えていた。
「三浦殿は……まだ沈黙か」
「北条殿は……どう動くのだ」
「和田の若い者たちが荒れているらしいぞ」
(鎌倉は今、
“誰が最初に動くか”を息を潜めて見ている)
政子は政所の廊下を歩きながら、
胸の奥にざらつく違和感を覚えていた。
──この空気、知っている。
銀座の店で、
大口の客同士が火花を散らす前の、
あの独特の静けさ。
「……嫌な予感がするわ」
義時が振り返った。
「姉上?」
政子は小さく首を振った。
「義時。
鎌倉の空気が……
“荒れる前”の匂いをしているの」
義時は息を呑んだ。
(政子殿……
何かを感じているのか)
*
──三浦義村の屋敷。
義村は、
家臣たちの圧力と院宣の衝撃で、
心が限界に近づいていた。
「殿!
北条につくべきです!」
「いや、京につくべきです!」
「殿が決めねば、三浦家は滅びます!」
義村は頭を抱えた。
(私は……
何を選べば……
誰を守れば……
正しいのだ……?)
そこへ、
若い家臣が血相を変えて飛び込んできた。
「殿!
和田の若者たちが……
北条家の屋敷に乱入しました!」
空気が凍った。
「な……に……?」
「三浦家の名を叫びながら、
“北条を討つべし”と……!」
義村の顔が青ざめた。
(なぜだ……
なぜ三浦の名を……?
私は……
そんな命を出していない……!)
家臣たちがざわつく。
「殿……
これは……
“誰かが三浦を利用している”のでは……?」
義村の心が大きく揺れた。
(京……
お前たちか……?)
*
──北条義時の屋敷。
和田の若者たちが暴れ、
北条家の門前で乱闘が起きていた。
「三浦殿の名を騙るとは……!」
「やめろ! ここは政所の前だ!」
「北条を討て! 院宣が出たのだ!」
義時は駆けつけ、
怒号の中で叫んだ。
「やめよ!!」
しかし、
若者たちは止まらない。
(これは……
ただの暴発ではない。
“誰かが仕掛けた火”だ)
義時は歯を食いしばった。
「三浦殿を……
巻き込むつもりか……!」
*
──政所。
政子は報せを聞き、
静かに目を閉じた。
(来た……
最初の火種)
銀座の店で、
客同士のトラブルが爆発する瞬間を
何度も見てきた。
その直前に漂う、
あの独特の“空気の重さ”。
「……義時。
これは偶然じゃないわ」
義時が息を呑む。
「姉上……?」
政子は低く言った。
「誰かが……
“鎌倉を燃やすために”
火をつけたのよ」
義時の顔が険しくなる。
(京……
お前たちか)
政子は続けた。
「義時。
この火は……
放っておけば鎌倉を焼き尽くす。
でも──
消し方を間違えれば、
もっと大きな炎になる」
義時は拳を握った。
「では……
どうすれば……?」
政子は静かに言った。
「まずは……
三浦義村を守ること。
彼を失えば、
鎌倉は本当に割れる」
義時は深く頷いた。
(政子殿……
あなたは……
何を見ているのです……?)
政子は灯火を見つめながら呟いた。
「……銀座の修羅場より、
ずっと厄介ね」
*
──夜。
鎌倉の空気は、
ついに“火種”から“炎”へ変わり始めた。
政子は筆を取る。
「……義村。
あなたを揺らす者がいる。
あなたを利用し、
鎌倉を割ろうとする者が。
だが──
あなたが立ち続ける限り、
鎌倉はまだ燃え尽きない」
筆を置いた。
静かに、
しかし確かに──
鎌倉の底が、
またひとつ鳴った。




