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第一章:錆びたガレージの約束

車はただの移動手段ではない。 それは、記憶を乗せて走る器であり、夢を追いかける軌道でもある。 この物語は、ひとりの青年が父の足跡を辿りながら、風とともに走る意味を見つけていく旅路です。 エンジンの鼓動に耳を澄ませながら、あなた自身の「風」を感じていただけたら嬉しいです。

国分寺の住宅街にある古びたガレージは、秋の風に吹かれて軋んだ音を立てた。神谷悠人は、朝の光の中でその扉を開けると、懐かしい匂いに包まれた。油と金属と、少しだけ湿ったコンクリートの匂い。彼は深く息を吸い込んだ。そこには、長年動かされていない赤いスポーツカーが眠っていた。


父・剛志が最後に乗っていた車。彼が十八歳の頃に譲り受けたその車は、悠人の青春そのものだった。だが、父はあるレースを最後に姿を消した。事故だったのか、失踪だったのか、真相は誰も知らない。悠人はその日以来、車に乗ることをやめた。夢を諦め、整備士として生きる道を選んだ。


ある日、悠人のもとに一通の手紙が届いた。差出人は黒川誠司。父の旧友であり、かつて「風の剛志」と並び称された男だった。手紙にはこう書かれていた。


「君の父が最後に乗ったマシンが、今も北海道の風見峠に眠っている。あの車は、再び走る者を待っている。」


その一文に、悠人の胸はざわめいた。止まっていたエンジンが、再び回り始めるような感覚。彼は決意した。旅に出よう。父の足跡を辿り、もう一度「走る」意味を探すために。


整備は数日かかった。車体の錆を落とし、エンジンを分解し、ひとつひとつの部品を磨き上げる。父が残した工具は、今も正確に機能していた。まるで、彼の手の記憶が宿っているかのようだった。エンジンが唸りを上げたとき、悠人はハンドルを握りしめた。東京を後にし、北へ向かって走り出した。


長野の峠道で、彼は一人の女性と出会った。美月。峠のカフェを営む彼女は、かつて走り屋として名を馳せた人物だった。彼女は悠人の走りを見て、静かに言った。


「あなたの走り、父親譲りね。風を感じてる。」


彼女の言葉は、悠人の心に深く刺さった。彼女の峠を走る姿は、まるで風そのものだった。名古屋では翔太という若き技術者と出会った。彼は電気自動車の開発に携わっていたが、旧式のエンジン車にも深い敬意を持っていた。


「このエンジン音、いいですね。人の情熱が宿ってる。」


翔太は、車を単なる移動手段ではなく、「感情を乗せる器」として捉えていた。彼との対話は、悠人にとって新鮮だった。仙台ではリナという環境活動家と出会った。彼女は車による環境破壊を訴え、悠人の旅に疑問を投げかけた。


「あなたは、何のために車を走らせるの?過去の栄光?それとも、未来への責任?」


彼女の言葉は、悠人の胸に重く響いた。車とは何か。走るとは何か。彼は問い続けながら、北へ向かった。


風見峠に着いたのは、十月の終わりだった。北海道の空は灰色に染まり、冷たい風が悠人の頬を撫でた。峠の入り口には、錆びた看板が立っていた。「風見サーキット」と書かれた文字は、かすれて読みにくくなっていた。


誠司が案内した倉庫の奥に、父の愛車「K-ZERO」が眠っていた。深紅のボディ、流線型のフォルム、そしてステアリングに刻まれた「剛志」の名。悠人は車に近づき、そっとドアに触れた。冷たい金属の感触が、胸の奥に響いた。彼は目を閉じた。父の手の温もりが、そこに残っている気がした。


誠司の言葉に、悠人は頷いた。彼はK-ZEROの整備に取りかかった。エンジンを開き、オイルを交換し、タイヤを新品に履き替える。作業は夜通し続いた。父の走りを追いかけるように、彼は一つ一つの部品に向き合った。


数日後、サーキットに若きドライバー・蓮が現れた。誠司が育てた青年で、父・剛志の走りを研究し尽くしていた。


「あなたが神谷悠人さんですね。僕は蓮。剛志さんの走りを超えるために、ここに来ました。」


蓮の瞳は真っ直ぐだった。挑戦ではなく、敬意が込められていた。悠人は微笑み、言った。


「なら、俺は父さんの魂を乗せて走る。勝ち負けじゃない。これは、記憶のレースだ。」


スタートの合図が鳴る。二台の車が一斉に飛び出す。霧の中、エンジン音が交錯し、タイヤが水しぶきを上げる。最初のコーナーで蓮が先行する。彼の走りは冷静で、無駄がない。だが、悠人は焦らなかった。


K-ZEROのステアリングは、まるで意思を持っているかのように、路面の変化に応じて自然に動いた。第二コーナーで悠人は蓮に並び、第三コーナーで一瞬抜き去る。だが、蓮もすぐに追いすがる。


最終ラップ。悠人はトップに立つ。だが、ゴールラインの手前でアクセルを緩めた。蓮が追い抜き、勝利を手にする。


誠司がピットで悠人を迎えた。


「なぜ、抜かせた?」


「勝ちたかったわけじゃない。父さんの走りを、感じられた。それで十分だった。」


誠司はしばらく黙っていた。そして、静かに頷いた。


「お前は、剛志を超えたよ。」


その夜、誠司は悠人を山奥の小さな診療所へ案内した。そこには、一人の男がいた。白髪混じりの髪、穏やかな瞳。神谷剛志だった。


「父さん……?」


剛志は、悠人の顔を見て微笑んだ。


「……君は、誰だい?」


記憶は戻っていなかった。だが、K-ZEROの写真を見せた瞬間、剛志の瞳が揺れた。


「この車……懐かしい気がする。」


悠人は涙をこらえながら言った。


「俺は、あなたの息子です。あなたの走りを、ずっと追いかけてきた。」


剛志は目を閉じた。そして、ぽつりと呟いた。


「風の中で、何かを見た気がする……誰かが、俺を呼んでいた……」


その言葉に、悠人は確信した。父の魂は、まだ生きている。


東京に戻った悠人は、ガレージを改装した。整備工場としてだけでなく、若者たちに車の魅力を伝える「風見自動車塾」として再出発した。美月は講師として参加し、翔太は技術顧問として、EVと旧式エンジンの融合をテーマに研究を進めていた。彼は塾の生徒たちに、最新技術と伝統の両方を尊重する姿勢を教えた。リナも環境と車の共存をテーマに講義を始めた。彼女の授業では、排気ガスの測定や代替燃料の実験など、実践的な内容が多く、生徒たちの関心を集めていた。


悠人は、毎朝ガレージのシャッターを開けるたびに、父の背中を思い出した。K-ZEROは塾の象徴として展示されていたが、時折彼はその車に乗り、夜の首都高を走った。風を感じるために。父と対話するために。


ある晩、彼は美月とともに峠を走った。月明かりの下、二台の車が静かにエンジンを鳴らす。


「この道、懐かしいね」と美月が言った。


「父さんがよく走ってた峠だ。俺も、ここで何度も練習した。」


「あなたの走り、変わったわ。前より、優しくなった。」


「優しく?」


「うん。風を切るんじゃなくて、風と一緒に走ってる感じ。」


悠人は黙って頷いた。彼の走りは、父の記憶とともに変化していた。速さだけを追い求めるのではなく、風景や感情を乗せて走るようになっていた。


その年の冬、塾に一人の青年が入ってきた。名は佐伯涼。彼は蓮の弟だった。兄の走りに憧れ、だが同時に超えたいという強い意志を持っていた。


「僕は、兄を超えたい。でも、ただ速く走るだけじゃ意味がないって、最近思うようになった。」


悠人は彼にK-ZEROの整備を任せた。涼は驚いた。


「この車、触っていいんですか?」


「触るだけじゃない。走らせてみろ。車は、乗る人の心を映す。」


涼は慎重に整備を進めた。彼は一つ一つの部品に語りかけるように手を入れた。数週間後、K-ZEROは再び走る準備を整えた。


その春、塾主催のレースイベントが開催された。場所は風見峠。参加者は全国から集まり、旧式車とEVが混在する珍しい大会となった。


涼はK-ZEROで出場した。蓮も最新型のEVで参戦した。兄弟対決は注目を集めた。


レースが始まると、涼の走りは予想以上に滑らかだった。彼は兄の走りを研究し尽くしていたが、それをなぞるのではなく、自分の感覚で路面を捉えていた。


最終ラップ、蓮が涼を抜きにかかる。だが、涼は冷静だった。彼はアクセルを踏み込み、K-ZEROのエンジンを唸らせた。ゴールラインを越えた瞬間、観客から歓声が上がった。


勝者は涼だった。


蓮はピットで弟を迎えた。


「……すごい走りだった。」


「ありがとう、兄さん。でも、僕はまだ父さんの走りを知らない。もっと学びたい。」


悠人はその言葉を聞いて、静かに微笑んだ。走りは、記憶を繋ぐもの。そして、未来を描くもの。


数日後、悠人のもとに一通の手紙が届いた。差出人は――神谷剛志。


「風を感じた。君の走りが、俺の記憶を呼び戻した。ありがとう。もう一度、走ってみたい。」


悠人は涙を流した。父の記憶が、風とともに戻ってきたのだ。


その年の秋、風見峠で一台の赤いスポーツカーが走った。ステアリングを握るのは、神谷剛志。そして助手席には、神谷悠人がいた。


「父さん、風はどうだ?」


「最高だ。まるで、若返ったみたいだ。」


二人の笑い声が、峠に響いた。風は、彼らの記憶を乗せて、どこまでも駆けていった。


そして、風見塾のガレージには、今も赤いスポーツカーが眠っている。誰かが風を感じたとき、再び目を覚ますのだ。


走ることは、過去を追いかけることではない。未来へ向かって、風とともに進むことなのだ。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。 この物語を書きながら、私自身も「走ること」の意味を何度も問い直しました。 速度だけではない、記憶、感情、そして人とのつながり――それらすべてが車に宿ると信じています。 もし、あなたの心にも少しでも風が吹いたなら、それがこの作品の何よりの喜びです。

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