1話
「アキラ、見ていてね。お母さんの、綺麗な魔法よ」
俺が三歳になった日、母さんは優しく微笑んで、指先を宙にかざした。
紡がれる詠唱は『ルーチェ・ファルファッラ』。
その瞬間、俺の「目」には、世界が数式に変換されていくのが見えた。
――違う。この世界の物理定数は、俺が知るものとは少しだけ違う。だが、根源は同じだ!
母さんの詠唱は、空間に満ちる未知の場――『エーテル場』のポテンシャルエネルギーを励起させる、特定の音響周波数に過ぎない。指先から魔力が供給され、場の量子が励起状態へと遷移する。
次の瞬間、母さんの指先から柔らかな光が生まれ、美しい蝶の形を結んだ。
光の蝶がふわりと宙を舞う。
「わぁ……!」
「アキラ、綺麗でしょう?」
父さんと母さんは、俺が子供らしく喜んでいると思っている。
違う。違うんだ。
俺は、歓喜していた。物理学者として、人類が未だ到達しえなかった、全く新しい物理法則を目の当たりにした喜びに!
(……なるほど。現象の境界条件は、術者の脳内イメージか。詠唱で指定した『蝶』という事前情報を元に、光子の空間分布を決定しているのか。再現可能か? いや――可能だ)
俺は、思考を並列処理するスキル『並列思考』をフル回転させ、たった今観測した現象を逆算――因数分解していく。
そして、おずおずと小さな手を、母さんの隣にかざした。
「アキラ?」
「……『るーちぇ・ふぁるふぁっら』」
まだ舌足らずな、三歳児の拙い発音。
だが、俺は正確に理解している。重要なのは音素の響きそのものではなく、エーテル場を励起させるための「周波数」だ。俺は、声帯を震わせ、完璧な周波数を再現した。
瞬間、俺の小さな掌から、母さんのものと全く同じ――いや、遥かに安定し、輝度の高い光の蝶が、生まれた。
「「――えっ!?」」
父さんと母さんが、信じられないものを見たという顔で固まる。
蝶は優雅に部屋を一周すると、すっと消えた。完璧なエネルギー制御だ。無駄な発熱も光子の漏れもない。
「あ……アキラ……? いま、のは……?」
「きれい」
俺は、にこっと笑って見せた。三歳児らしい、完璧な笑顔で。
父さんと母さんは、ただ口をパクパクさせている。
(よし、誤魔化せたな)
内心でガッツポーズしながら、俺は改めて己の境遇を整理する。
俺の名はアキラ。前世は、高槻彰という日本の物理学者だった。宇宙のすべてを記述する究極方程式を追い求める中で不慮の事故に遭い、気づけばこの剣と魔法の異世界に赤ん坊として転生していた。
そして、俺には転生時に与えられたらしい、ユニークスキルが備わっていた。
(確かめるか……『ステータス・オープン』!)
この世界の人間が持つという「ステータス」。教会で洗礼を受けねば見れないとされているが、そんなはずはない。ステータスとは、個人の魂に紐づけられた情報体に過ぎない。ならば、外部(教会)の観測機に頼らずとも、内部から直接アクセスできるはずだ。
俺はスキル『数理構築』を使い、脳内で「自己の情報体へアクセスし、パラメータを可視化せよ」というコマンドを構築し、実行した。
すると、俺の目の前にだけ見える、半透明のウィンドウが浮かび上がった。
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名前:アキラ
年齢:3歳
職業:なし
加護:女神の寵愛(極小)
HP:5/5
MP:???
スキル:
『言語解体』
『数理構築』
『並列思考』
『世界の理(???)』
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「……ビンゴ」
やはり、俺のスキルは、俺の思考プロセスそのものが定義されたものだった。
そして、MPが『???』。測定不能。俺のエーテル場への干渉ポテンシャルが、この世界の規格をぶっちぎっている証拠だ。
(面白い……面白すぎる!)
神の奇跡? 魔法の神秘?
笑わせるな。
この世界は、物理法則で出来ている。そして、数式で記述できる。ならば、俺のやることは一つだ。
この世界の物理法則を完全に解明し、その設計図を丸裸にする。そして、いつか――女神が定めたこの世界のシステムそのものを、ハッキングしてみせる。
◇
三歳で魔法を“再現”してしまった俺は、周囲から神童として扱われるようになった。そして五歳になった春、町の教会が運営する、才能ある子供たちのための特別教室に通うことになった。
「良いですか、子羊たち。世界の真理を学ぶ栄誉に感謝しなさい」
初老の神官は、厳格な顔でそう言った。教室には俺を含め五人の子供。その中に、一際態度の大きい金髪の少年がいた。確か、村の有力者の息子だったか。
「算術の基礎です。女神様がお作りになったリンゴが二つ。女神様が三つのリンゴをお与えになりました。全部でいくつですか?」
「五つです!」「女神様に感謝を!」
子供たちが声を揃える中、金髪の少年が鼻を鳴らした。
「ふん、当然だ」
俺は内心、深い溜息をついた。これは教育ではない。思考停止の訓練だ。加算の公理系には一切触れず、ただ女神への信仰を刷り込んでいるだけ。こんな授業に、俺の貴重な時間を費やす価値はあるのだろうか。
午後は、神聖魔法の実践だった。
「聖なる光の奇跡、『小光』を授けます。私が言う祈りの言葉を、一言一句間違えずに唱えなさい。理由は考えてはなりません。ただ、女神様を信じ、祈るのです」
神官が示したのは、単純な円とルーンが描かれた魔法陣。
金髪の少年――ルシウスが、得意げに前に出た。
「お任せください。我がヴァイス家の篤い信仰心、お見せしましょう!」
ルシウスが詠唱すると、彼の掌から勢いよく光が放たれた。子供にしては強い光だ。
「おお、見事だ、ルシウス! やはり君は選ばれている!」
神官が手放しで褒め称える。だが、俺の目には、その光がエネルギーを撒き散らしているだけの、ひどく効率の悪いものにしか見えなかった。
俺は、静かに手を挙げた。
「アキラ、何か質問ですか?」
「はい。その術式ですが、詠唱の周波数とルーンの幾何学的配置によって、光子の放出効率を最適化できると思われます。例えば、このルーンの角度を少し変えれば、指向性を持たせ、レーザーのような――」
「黙りなさい、この異端者が!」
神官の怒声が響き渡った。
「女神様の御業を、人間の浅知恵で弄ろうなど、なんという不敬! 境界条件? ポテンシャル? そのような異端の言葉、二度と口にするな!」
「ふん、だから田舎者はこれだから困る」ルシウスが、勝ち誇ったように俺を嘲笑う。「魔法は信仰心の現れだ。小難しい理屈をこねる暇があったら、女神様に祈るんだな」
ああ、そうか。
やはり、彼らは何も理解していない。ただのマニュアルユーザーだ。
ならば、見せてやるしかない。本質を理解するとは、どういうことなのかを。
「申し訳ありませんでした」
俺は一度、殊勝に頭を下げた。そして、顔を上げ、神官に問いかける。
「ですが、僕の考えが正しいか、試してみてもよろしいでしょうか? 女神様の御業の、さらなる可能性を探るために」
「……何をする気だ?」
「簡単なことです」
俺は、ルシウスの隣に立った。そして、教科書通りの完璧な発音で、しかし、ごく僅かな魔力で詠唱した。
「『小光』」
俺の掌に、小さな、しかし一点の揺らぎもない、純粋な白い光が灯った。ルシウスのものよりずっと小さいが、エネルギー密度は比較にならないほど高い。
「なっ……!?」ルシウスが目を見開く。
「これが、基本ですね。ですが、僕の仮説が正しければ、詠唱の周波数を少しだけ高くすれば、光の色――つまり、光子のエネルギー準位も変わるはずです」
俺は、先ほどの詠唱の音階を、ほんの僅かに高くして、もう一度唱えた。
「『小光』!」
すると、俺の掌から現れた光は、白ではなく、夜空のような、澄み切った青色をしていた。
「な……なな……!?」
「ひ、光の色が……変わった……だと……?」
神官が、自分の目を疑うように、わなわなと震えている。ルシウスは、自分のプライドが粉々に砕かれたような顔で、呆然と青い光を見つめていた。
「どうやら、僕の仮説は正しかったようです」
俺は青い光をすっと消すと、唖然とする教室の面々に、三歳児の無邪気な笑顔を向けてやった。
「女神様の世界は、本当に不思議で、面白いですね」
この日から、教会で俺を「異端者」と呼ぶ者はいなくなった。
ただ、皆が俺を、理解不能な、畏怖すべき何かを見るような目で、遠巻きにするだけだった。