プロローグ
もうすぐ、雨が降るかもな
そう思うと、途端に窓の外の木々が左右に激しく揺れた。ヒューヒューという隙間風が室内に入り、部屋を若干照らす蝋燭の火もゆらゆらと揺れている。
ベッドに腰を掛け、両手で体を支えながら、私はただ窓の外にある灰色に染まった空を眺めた。特に面白味はない。しかし、この特有の天気が作り上げる哀愁漂う雰囲気を感じるだけで、私の心はほんの少し、あの場所に思いを馳せることができる。
エマとして戦ったあの地に―――
私はベッドから手を離し、足の上に置かれた生身の剣を覗き込んだ。剣に刻まれた数々の傷の奥に兵士ではない私が写っている。
剣の奥に写る私を眺めていると、最近私が密かに考えていたことを、ふと思い出した。
私にはこの部屋も、屋敷も不釣り合いだ。私はこれまで兵士として戦場を駆け回った。敵を見つけては斬り、次の瞬間には別の敵めがけて走る。一人、二人、三人…と次々に斬って来た。だからこそ、私はあの地で自分の居場所を得ることができた。しかし、聖伐が終わればただの傭兵。傭兵以前にただの孤児だ。所詮争いの道具の一つに過ぎなかった。私がいくら戦績を上げようと本土の連中には風の噂程度すら届くかは怪しいものだ。
隙間風は次第に強くなり、老朽化に伴い建て付けの悪くなった窓ガラスをガタガタと鳴らすようになった。
ふと、記憶の底から、とある本の一文を思い出した。
『私は戦うことしか知りません。私の身と心は10年間あの地にありました、そしてこれからも……』
どこか懐かしい記憶…
だからなのか、私は、私に対して親身に接する人の気持ちがよくわからない。経験上、人の感情というものについては一定の理解をしているつもりだった。しかし、今の私にはそれが知識として知っている事柄であって、応用できるものではない。あの人たちは皆、私を憐んでいるのだろう。同情しているのだろう。それらは決して悪意によるものではなく、むしろ無意識のうちに出てくる善意からくるものだ。だからこそ私はそれに答える必要があるのを知っている。
だが、答えようとするたびに、それは私自身が望むことなのか。と、常に私の心の奥そこにいる別の私が問いかけてくる。聖伐はなくなり、人を殺す理由はなくなった。時代も変わって、住む場所も変わった。なら私自身も変わらなければいけない。いや、変わる義務があるんだ。
それとは裏腹に、変わってしまった私は私か?
私が変わったらこれまでの人生はなんだったんだ…毎日そう考えさせられる…
いつからだろう、戦友のため、同じ釜の飯を一緒にした名も知らぬ同胞のため、恩師のため、そして、自分自身のために戦うのをやめたのは。そこに敵がいるから斬り、あそこに敵がいるから走る。そんなことを繰り返すうちに私は剣の重みすら忘れてしまった。
ならば変わってもいいのかもしれない。元々白紙だった私の人生だ。今さら変わってしまっても、それは元々まっさらだったキャンパスに遅筆な画家が絵を描く様なものだ。いいじゃないか…変わってしまっても……
―悔しい。悲しい。
そう言い訳ばかり列挙して周りに順応しようとする自分に嫌気がさす。今までの私の人生は全て剣と共にあったんだ。だったら今更手放すなんて――無理に決まってるじゃないか。
私の人生も、身も、心も、
全て剣にある―――
コン!コン!コン!
部屋の入り口から木製のドアを叩く音が響いた。
「エマ、旦那様が食堂にてお待ちです。」
ドアの外にいるのはこの屋敷で働いている唯一のメイドのナナリーである。
この屋敷の主人であり、私を買った――ジョン・W・カルロスのそばに幼少期からいるそうだ。
「今行きます。」
そう言うと、私は背の後ろに置かれている深緑色の布を手に取り、剣を丁寧に包み込んだ。そしてベッドの横に置かれる棚に立てかけた。ドアを開けるとナナリーが立っていた。彼女は冷たい目で私を見下ろした。私がこの屋敷に初めてきた時から彼女は常に無愛想で感情を表に出さず、何を考えているかよくわからなかった。
「ついてきてください。旦那様がお待ちです。」
抑揚のない淡々とした声である。
ドアを閉める頃には蝋燭の火は弱くなり、外の薄暗い光のみが少女の部屋を照らしていた。風の荒々しさもすでに収まっており、木々の揺れも落ち着いていた。
絨毯を踏み締める2人の足音と、ひゅーひゅーという悲しげな隙間風のみが響いている。まだ、夕方であるにも関わらず屋敷の廊下は薄暗い。
私たちは沈黙の廊下を通り食堂へ向かった。