第三節 異変
「か、か、神様! ヤバいですよ! 死者が、し、ししゃっしゃ―――グッ」
「落ち着け、問題ないっった!」
「問題ない訳無いじゃないですか! 神々が帰ってきたと思ったら、今度は死んだ筈の人間が生き返ったんですよ?」
「あぁ、だから問題無いって―――止めろ、噛むな! ―――そんな顔するな! 今ミカエルとガブリエルが向かったのを、お前もそこで見たろうが!」
「で、でも。世界規模ですよ? 何億という人間が―――」
「あ? あぁ、そうか……お前は知らないのか」
「な、何がですか?」
「以前、こういったことは起こったことがある―――最後の審判というのを、聞いたことは無いか?」
「さ、最後の、審判……そうですね……うん。無いです……その時は、どうやってこの状況を解決したんですか?」
「最後の審判は、意図的に起こしたからな……ガブリエルが復活した者を集め、ある人物が判決を決め、ミカエルが集めた者を判決通りに裁いた」
「ある人物って、誰なんですか?」
「それは―――言えない……ただ、今回。その人物は生き返ってはいない」
「じゃ、じゃあ。今回はどうするんですか?」
「最後の審判以降、ミカエルには余と同じ程度の権力を与えている……今回は、まぁ、ミカエル次第だな。余は興味が無いし…ただ」
「……ただ? 何ですか? ―――あの! 日記見てないで、教えてくださいよ」
「……闇の町の住人にだけは、手を出さないように言ってある」
「闇の町? 何ですか? その陰気臭そうな町は」
「アザゼルが住んでいた町の事だ……赤星がそう呼んでいたから、借りたというだけだ……元々、名前は無かったからな」
「でも、何でそんな事を?」
「あぁ、元々余の所持物だったのはあるが……余の考えている計画に、闇の町の住人は最重要だからな」
「その計画、いい加減教えてくださいよ」
「言ったろ? 今に分かる事だ」
「……はぁ……そっすか」
第六章 2024/3/31 赤星とルシファーの戦い
消えゆく黄色い風の軌跡を追って、赤星は森の中に入った。
変わらぬ暗闇の中、背の高い草をかき分けながら進んでいると、急な坂に突き当たって足を止めた。
見上げても頂上は見え無かったが、黄色い風の軌跡が坂の向こう側に流れて行っていたので、赤星は消えゆく風を急いで追いかけるため、坂を駆け上がった。
「おい―――どこまで―――続いて、るんだよ」
滑り落ちないよう、足を回転させながら走っていると、周りの木々の背が低くなっていくのが分かった。
足を止めると後ろに倒れそうになり、前に体重を掛けて四つん這いになった。
ずるずると下に滑り始め、手を伸ばして力を入れ、今度は手だけで登り始めた。
殆ど壁の様な坂だった。
暫くそうして虫の様に這っていると、段々と体に角度が付き、楽になって行くのが分かった。
落ちるのが怖くて、それからしばらくは地面を見つめたまま這っていたが、正面の硬い何かに手が触れ、そこで久しぶりに顔を上げた。
「―――何をしている、赤星……いや、イヴリース」
げっそりと痩せた骸骨の様な、しかしイケメンな顔が、少し口角を上げて赤星を見下ろしていた。
「お前まで―――その名前で呼ぶなよ」
赤星は立ちあがり、アザゼルを睨みつけた。
アザゼルの左目が動き、赤星の額に移った。
「ラファエル、来てない?」
「あぁ―――」
アザゼルは体を横に向け、道を開けた。
赤星の視界が半分開け、辺りを見渡すことが出来た。
山、というよりは丘の様な場所で、周りには木1本すら生えておらず、その代わり、ぞっとするような数の苔の生えた古臭い墓石があり、周りには最近植えられたであろう綺麗な花が規則正しく並んでいた。
その周りには、背の低い芝生が生い茂っていた。
赤星がその中でも際立って目立つ墓に目を向けると、丁度その時、その手前の土から白くて長い腕がズボッと音を立てて飛び出してきた。
赤星はギョッとしたが、アザゼルはそれを見て、目にもとまらぬ速さで駆け寄って行った。
アザゼルの惨めに丸まった背中のせいで、その腕の正体を見ることは出来なかった。
赤星は直ぐに、アザゼルが居なくなって開けた、もう半分の景色を眺めた。
するとそこには、横になって血を流しているラファエルと、その傍に駆け寄るウリエル。
そして、その正面に腕を組んで立つ、ルシファーが見えた。
それに気が付いた時、ルシファーの顔がゆっくりと赤星の方に向いた。
「おぉ、イヴリース……来たのか」
赤星はラファエルを見たまま、口を開いて何も言えなかった。
体の奥から、沸々と怒りが湧いてくるのが分かった。
ルシファーはそんな赤星に気が付いたのか、再度ラファエル達の方を向いた。
「どうやらラファエルは、戦いが嫌いらしい……まぁこいつは、俺が起こした凄惨な現場に幾度となく居合わせたからな……イヴリース、お前から距離を取らせただけで、1度も戦う様子を見せずに、この様だ」
ルシファーは1歩、2人との距離を縮めた。
赤星の体はプルプル震えていた。
全身に力が入り、体温が上がっていくのが分かった。
ウリエルがラファエルとルシファーの間に立ち、剣を構えた。
「ルシファー! お前は、絶対に―――」
そんなウリエルの後ろに、再びアザゼルが現れた。
そして、ウリエルのジャケットの襟を掴んで持ち上げ、勢いよく背後に投げた。
「お前の相手はこの俺だ」
アザゼルはルシファーの方を見もせずに振り返り、その場から姿を消した。
赤星は瞬きもしていなかった。
アザゼル達の方を追おうとも思わなかった。
不思議だが、アザゼルがウリエルを殺すとは、微塵も思わなかった。
ルシファーは訝しむ目をアザゼルの消えた方に向けたが、薄気味悪く、小さく口角を上げ、再び赤星の方を向いた。
「―――どうしたイヴリース、何を怒ることがある……いや、まさかな―――ラファエルが死にかけているのを見て、感情を揺り動かすなど―――そこまで、人間的感情が芽生えている筈がない―――イヴリース、お前が居た国は……そんなにひどい国なのか?」
ルシファーがつらつらと語り、考え、また語りながら赤星の方に近づいて来ていたが、赤星は何にも聞いていなかった。
ただイライラだけが募り、そして、今まで感じてこなかった不思議な感情が、心の奥の鍋で、沸々と煮立って来ていた。
その感情で体温が上がってきたが、今までと違って、心地の良い上がり方だった。
ポカポカと体の芯から温まって行くようだった。
「まぁ、落ち着け、イヴリース……直ぐに忘れる……というより、俺の一部に帰るんだ……たったの1だたものが、ただの0に戻るだけだ……」
「黙れ」
赤星は唸ったが、ルシファーはそれを無視し、歩きながら続けた。
「イヴリースが望むのなら、俺の力の一部を残し、生きる権利を与えてやってもいいが」
ルシファーの顔が、赤星の目の前に来ていた。
「どうする?」
「黙れって―――言ってんだよ!」
赤星は顔を少し引き、額を思いっきりルシファーの額にぶつけた。
バチっと雷が走り、直ぐに消えたが、ルシファーは後退りして自分の額を押さえていた。
赤星は自分の右肩甲骨に違和感を覚えたが、それを無視した。
正面で動揺しているルシファーは、驚いた顔で赤星を見上げた。
「イヴリース―――何だ、その目は―――それに、お前―――ハッ」
赤星は考える時間が勿体なく思い、ルシファーの胸倉を掴んで闇の町の方向へ投げ飛ばした。
赤星は態勢を整えて、ルシファーの飛んで行った方を眺めた。
すると、木々の上空を飛んでいくルシファーと、その奥に小さく闇の町が見えた。
赤星は足に思い切り力を入れて蹴り上げた。
その時、右肩甲骨に激痛が走り、直ぐに楽になった。
というより、全身が楽になり、飛んでいる様な、浮いている様な感覚になった。
実際、浮いてはいたのだが。
赤星は違和感を覚えながらも体を細め、速度を上げてルシファーの方に降下した。
さっきまで無かった風を感じ、全身を撫でて通り過る風が心地よかった。
髪が全て後ろに流れ、視界が開けた。
途中でルシファーと目が合い、ルシファーのハッとした顔が目に入った。
ルシファーはくるりと1回転し、宙で姿勢を立て直した。
再び赤星を見上げた時には、ルシファーの背中から銀色の片翼が生えていた。
「イヴリース、お前―――」
ルシファーは宙で静止し、腕を大きく広げて笑い出した。
「力の使い方を、覚えたのか???」
しかしその時には、赤星はルシファーの目の前まで降りて来ていた。
「ちったぁ、黙ることを覚えろ?」
赤星は全体重を乗せた右拳をルシファーの鼻の頭に振り下ろした。
ドンッという波紋状の衝撃波と共に雷がバチンと広がり、ルシファーが目の前から消えて行った。
しかし、それは、ルシファーを殴り飛ばしたからでは無かった。
赤星の体はふわっという、浮いたような感覚に襲われ、天地がひっくり返ったように感じた。
気が付くと、赤星の足の裏に硬い地面の感触と、ファサッという芝生を踏む音が聞こえた。
赤星が顔を上げると、目の前に蒼白な拳が現れた。
その横に、楽しそうなルシファーの顔があった。
赤星はそれに気が付き、本能的に慣れない魔力を操作して顔に集めた。
一瞬、拳が目の前で止まったが、直ぐに顔が歪む感触と共に遅れて激痛が走り、足が地面から離れるのが分かった。
頭頂部から足に向かって風が流れ、後頭部が石畳に1回ぶつかった。
しかし、それでも勢いが止まることは無く。
体がまた浮き上がって、足を上に後ろに回転し始めた。
それから、右肩に硬い物がぶつかって体が右に回転し、額を石畳にぶつけてまた縦に回り、最後に背中に硬い物がぶつかって崩れ、脱力した体の上に硬い物が降ってきた。
赤星は全身の骨という骨が粉々に砕けた様な激痛と一緒に、ひっくり返ったまま脱力し、足の裏を少し高い位置で曲げて、体重を預けていた。
「凄いじゃないか、イヴリース―――体が残っている」
赤星が唯一動かせる瞼を開くと、上下反転したルシファーが舞い続ける石煙の先に映った。
赤星が精一杯の力を使って睨みつけると、ルシファーが小さく笑った。
「いいだろう。イヴリース……お前の体は残してやる」
「黙れよ。あっ」
口が動かせることに気が付き、驚いていると、ルシファーが屈んで顔を近づけてきた。
「誰に力の使い方を教わった? 短期間で、これ程使えるようになるとはな……アザゼルか? まぁ、もっとも。お前は全部の力を引き出せていないし、俺自身、力を全く持っていなかったとしても―――まさか俺に殴られて、生きているとは思わなかった」
わざとらしく驚いた顔をするルシファーを見上げながら、赤星は表情筋を縮めた。
「うるせぇ」
「黙れとか、うるせぇとか―――他の言葉は喋られないのか?」
「……お前と喋る事なんてねぇよ。木と対話してた方が有益なんだよ」
間近まで来たルシファーを煽る様に、赤星は舌を外に出した。
その直後。
ルシファーが赤星の舌を咥え、そのままの勢いで上下逆になった赤星の唇とルシファーの艶やかな唇が重なった。
「゛ん゛ん??」
赤星は抵抗しようと首を動かそうとして無理で、舌を動かすと、生暖かい何かが絡まってくるので、出来るだけ自分の口内に収めようと必死になった。
しかし、そんな事を気にしていられるのも僅か一時だった。
体の奥から暖かい液体が登ってくるのが分かった。
多分、吐瀉物では無い筈、だった。
もっと暖かい、もっと突発的な何かだった。
そしてそれは、遂に喉元までやって来て、口の中に感じた事の無い程の苦みが走り始めた。
舌は痺れ、感覚がなくなっていくのが分かったが、その液体の様な何かの正体が分かった。
『魔丸薬』の時に感じた味だった。
きっと魔力なのだろう。
赤星が耐えきれずに舌を伸ばすと、その液体が舌を伝って、ルシファーの口に流れて行った。
そして。
「んがっ! 何だこれは??」
ルシファーが情けない声を出して赤星の顔から離れ、尻もちをついて倒れてしまった。
出会ってからずっと崩れなかった余裕の表情から、心の底から驚いている顔になり、赤星はそれが可笑しくて堪らなかった。
「ぶっッっはハハハハハ! んがっ、だって! だっせぇ? 何―――その顔! ッぶっは」
「イヴリース、お前―――その質の悪い魔力は何処から摂取した!」
「ぐふっぅ」
赤星は無意識に右腕を動かし、口元を拭った。
「絶対教えねぇ」
赤星は右手を地面に着き、体を押し上げてくるっと飛び上がって立ち上がった。
『魔丸薬』で得た魔力が無くなって、むしろ体が楽になったように感じた。
赤星はルシファーを見下ろしながら、1歩1歩、ゆっくりと近づいた。
ルシファーは最初こそ驚いた顔だったが、直ぐに唇をキュッと結んで立ち上がった。
「もう、時間が無いようだ。イヴリース―――力づくでも、俺の力を返してもらうぞ」
ルシファーの髪が、何かを感じ取っているかのように逆立ち始めた。
そして、銀色の左翼を広げ、右手を伸ばして赤星の方に突き出してきた。
「テーネブリス」
消え入るような声の後直ぐ、ルシファーの右手から暗黒色の風を纏ったキラキラ輝く星の様な結晶物が、天の川銀河の様に列を成し、赤星の体を貫いていた。
赤星はほぼ無意識に、右手をその結晶物と自分の体との間に入れた。
次の瞬間。
まず先に全身の感覚が無くなり、次に五感が奪われた。
石煙の煙たさやルシファーの残り香、そして僅かな陽の光も、コロコロと石が転がる音や自分の呼吸も、何もかも感じれなくなった。
ただ、そんな状況でも、赤星は何かを感じ取っていた。
正面から猛スピードで迫りくるとても大きな黒い影と、赤星の頭上遥か遠くに居る筈なのに、暗闇の中、真っ白で異常な程眩い輝きを放っている何かだった。
左前方には3つの小さな黒い影と、町の外れに消えかけの小さな光が見えた。
赤星は瞬時にこの3つの影がラファエル達であると理解した。
そして。
正面の大きい黒い影は、間違いなくルシファーだ。
きっとルシファーは油断している。
意味不明な呪文で赤星の五感を奪い、勝利を確信している。
正面の黒い影が手で触れそうな位置に来た時、赤星は感覚的に右足を振り上げてみた。そんな気がした。
すると、パッと急に視界が開け、気が付くと赤星の体は宙に浮き、右足を前に脚を広げた状態で後ろ周りに回転していた。
「うぉわぁあああ」
右足の爪先でルシファーを蹴り上げており、赤星はルシファーの体を右足で石畳に叩きつけるようにして着地した。
ルシファーの体がくの時に曲がり、直ぐに脱力して地面に頭を打ち付けていた。
「―――あの一瞬で、ここまでやるとはな……初歩的とはいえ……俺の呪文を破るか」
「私の事、舐めすぎなんだよ!」
赤星が右足をぐりぐりしながら言ったが、ルシファーは余裕の笑みを浮かべ、右足首を掴んできた。
「あぁ―――流石に俺が創り上げ、俺の魔力を持っているだけの事はある―――だが」
足首を握る力が一気に強くなった。
万力で締め付けられているかの様で、少しも動かすことが出来なくなった。
「勘違いしていないか? それは―――俺の力だ」
「―――な、何だよ? これ!」
ルシファーの手から黒い手の様な物が溢れ出し、赤星の足の爪からスルスルと体内に侵入してき始めた。
最初こそくすぐったいだけだったが、次第に体温が上がり、体が痙攣を始めていた。
そして、激しい頭痛が起こり、赤星は両手で頭を押さえて身を屈めた。
「て、てめぇ―――」
「あぁ、そうなのか……お前が居た国は―――何て国なんだ……そうか、生きるのに必死で信仰力が薄いのか……成程……通りで―――何だこの男は……上司? 気色の悪い人間だ―――よく耐えていたな、イヴリース……見ているだけで悪寒が止まらん―――」
「人の記憶、勝手に漁ってんじゃねぇッ!」
赤星の苦しがる顔の直ぐ下にあるルシファーの顔は嫌悪感に満ち溢れていた。
「―――だが、大丈夫だ。イヴリース……直ぐにこの記憶ともおさらばだ」
「―――っざッけんな! んな事させねぇよ??」
赤星の内側で何かが大きく燃え上がった。
髪の毛が異常に伸び、視界が隠れそうになったが、体からあふれ出る上昇気流に乗って上にふわふわ浮いていた。
両目でルシファーを睨みつけると、ルシファーは目を丸くして驚きを隠せないようだった。
ひどい頭痛も消え失せていて、ルシファーの黒い手も消えていた。
「人の記憶にずけずけと―――何度も何度も消しやがって……てめぇ、今。おめぇよぉ! ラファエルやウリエルの記憶まで消そうとしてただろ! なぁ!」
赤星はルシファーの上に乗りかかって胸倉を掴んで上下した。
ルシファーは目を丸くしたまま成すがままだった。
「―――今までの私の生活がどうとか、男と恋したとかどうだとかはっ! 心ッ底! どうでもいい! だがなぁ! ラファエル達の記憶だけは―――」
赤星はきつく握りしめた右手を上げ、ルシファーの顔面目掛けて振り下ろした。
しかし、その右手の手首を誰かがギュゥっと掴んで来て、空中で止まった。
バァン! と轟音を立ててルシファーの後頭部の石畳が深く抉れた。
「誰だ! ―――あぁぁ」
赤星は情けない声が自分から出ている事にも気が付かず、全身の力が抜けていくのを感じた。
赤星を見下ろし、手首を握りしめていたのは、ミカエルだった。
「そこまでにしてもらおう―――赤星、それに……愚弟―――」
「まぁ、まぁ。つんけんしてないでさ! 今は因縁何てちっぽけな事は忘れて。さっさと終わらせちゃおうよ」
ミカエルの背後からひょこっと顔を出したのは、見覚えの無いふわふわした印象の大人の男だった。
開いているのかも分からない程細い目に、筋の通った鼻を持つ男で、茶色い髪が好き勝手に跳ねている、所謂天然パーマだった。
「僕はガブリエル。よろしくね」
ニコッと口角を上げたガブリエルは、ミカエルに握られたままの赤星の手を握った。
「因縁などでは無く、私は―――」
「ま、ミカエルはその2人よろしく~。僕はルシファーなんかに触りたくないんでね。末恐ろしくてちびっちゃいそう」
ガブリエルは軽快な足取りで、何処かを目指して歩き出した。
そのすぐ後、アザゼルの嘆き声が聞こえてきた。
だらんとした顔に、何とか引っ付いている目の玉だけを動かして声の方を見た。
家々の隙間を縫って、何が起きているかを少しだけ見ることが出来た。
アザゼルの抱える女性の体の至る所が、緑色に腐食し、朽ちていたのだ。
一体、何が起きたのだろうか……。
「心配しなくとも、アザゼルは問題ない……主は、見捨てるような御方ではない―――では、暴れないように」
赤星は見ていられなくなって顔を戻した。
言葉少なく、ミカエルは脱力したままの赤星を片腕に抱え、ルシファーを見下ろした。
ルシファーは抵抗する気も無いのか、唖然とミカエルを見上げて放心していた。
「―――同じ過ちは繰り返さない、賢い愚弟だと思っていたが―――期待は外れたな」
ミカエルはそう言って指を1度鳴らした。
すると、何処からともなく火の鉄線の様な物が2本現れ、それぞれ1つの輪になってルシファーの体をXの字で囲ってしまった。
そして、ミカエルがもう1度指を鳴らすと、それぞれに対応するもう2本の火の鉄線が現れて巻き付き、鎖状になり、ルシファーの体をきつく縛り付けた。
ルシファーは1度小さく唸ったが、それ以上、何も言わず、静かにミカエルに抱えられた。
赤星も同じく半ば放心状態でミカエルに抱えられていた。
ミカエルの不思議で嗅いだ事の無い、言い表しようのない、しかしいい匂いを嗅ぎながら、ミカエルの美脚を眺め「あぁ、綺麗だなぁ」と小さく零していた。
体がふわっと浮かび、視界の端にもう1つ、緑色の塊が飛び上がるのが見えた。
景色が数多の線になり、今何処を飛んでいるのか分からなくなった。
赤星は現実逃避し、美脚を眺めながら、金魚の様に口をパクパクさせていた。