第五章 2024/3/31 南国男の降臨 ルシファーの再臨
朝。
赤星が目を覚ますと、雑音や騒音は無く、鳥のさえずりと隙間風が流れ込んでく音、草木が揺れる音が聞こえてきた。
赤星はボーっと天井を見上げて目をパチパチと大きく瞬かせた。
今自分が置かれている状況や、今から起こりうるかもしれない事を思い出し、憂鬱になりながら体を起こそうとした。
しかし、体はピクリとも動かなかった。
「ラファエル~ウリエルちゃん~助けて~」
赤星の捻りだした様な声は、風に流されて壁にぶつかって消えた。
「あれ~? 居ないの~?」
赤星が少し大き目の声を出すと、赤星の左側から唸るような声が聞こえてきた。
赤星は油の差さってない機械のように重い首を動かして、左を向いた。
すると、真ん丸な目をしたウリエルと目が合った。
その後ろに、ウリエルのうなじに顔を埋めるラファエルの頭が見えた。
「助けて」
ウリエルは目を細めながらそう言ったが、赤星は目線だけで無理と伝えると、ウリエルは諦めて目を瞑った。
障子の隙間から外が見えた。
背の高い草、その上から頭を出した梢、その上に真っ青な空があり、灰色の雲がプカプカと優雅に浮いていた。
一体、今は何時なのだろうか……昼までに魔力を全身に纏う何てことができるのだろうか。
赤星は左手の腕時計を見ようとして、直ぐに諦めた。
赤星はふと、ミカエルの事を思い出していた。
心臓が激しく動き出していた。
赤星は息を吐いて首を戻し、自分の体に意識を集中した。
右手の指先が、ピクピクッと動いた気がした。
そして、それは少しずつ確実なものになって行き、少しすると右手だけは自由に動くようになっていた。
脳から右手までの道中にある右肩、右腕、右肩甲骨も次第に動くようになっていき、赤星は布団を体の上から退けて天井に右腕を伸ばした。
障子の隙間から光の刃が部屋を横切り、右腕を避けて壁を照らしていた。
グローブはテカテカと黒光りし、黒い煙を出さまいときつく締め付けていた。
赤星は右手を降ろし、左手の手首を握って左腕を無理やり持ち上げた。
左手首にあるラウンド型腕時計を見た。
しかし直ぐに、ここは確実に日本では無い事に気が付いたので、直ぐに見るのを止めて体の上で手を離した。
左手が虚しくも力なく自分の胸の上に落ち、肋骨が痛んだ。
「赤星おはよ~―――あぁ、ウリエル。ごめん」
ラファエルの力ない緩い声とウリエルがゴロゴロと畳を転がる音が聞こえ、赤星はまたギコギコ音を立てる首を回した。
ラファエルは上半身を起こし、ウリエルは立ち上がって伸びをしていた。
ウリエルを光が照らしつけ、髪がキラキラと輝いて眩しかった。
赤星も覚悟を決め、負けじと右腕だけで上半身を起こそうとした。
よろけて倒れそうになった赤星の左腕を、駆けつけたウリエルが急いで掴み、何とか上半身を起こす事が出来た。
「ご、ごめん……ありがとう」
「うんん、全然いいけど……大丈夫?」
心配なのかウリエルが左腕をきつく締めてきたので、赤星の顔の筋肉が弛緩した。
「昨日の話、聞いてたけど……あいつ本当に悪魔だよ!!」
「その通りだよ、ウリエル。アザゼルは最低の悪魔だ―――」
ウリエルの奥でラファエルが立ち上がり、「でも」と言いながら赤星の右側に回り込んできた。
「でもさ、赤星。君も、出来る事なら―――痛い目にはあいたくは無いでしょ?」
言いながらラファエルは屈み、赤星の右腕を掴んだ。
「とりあえず、立とうか。お腹も空いているだろうし。ね?」
「うん」
赤星が短く返すと、満足したように頷き、ラファエルはゆっくり立ち上がった。
赤星もそれに合わせるように、ウリエルの体温から自分の足に意識を向けた。
指先がピクピク痙攣するのを感じ、緩く脚に力が入った様な気がした。
奇跡に立ち上がることが出来たが、ラファエルとは身長差があるので、変な姿勢で肩を組みながら前に進み始めた。
ウリエルは赤星の左腕から離脱して、今度は後ろから赤星の両脚の太ももを掴んで、前に進むのをアシストしていた。
ウリエルが優しく揉んでくるので、凄くすぐったかった。
3人はゆっくりと時間をかけてアザゼルの店を後にした。
暖かい陽光が照り付けて上がった体温を、涼しい風が攫って通り過ぎて行った。
街灯は朝だというのに意味も無く点灯していたが、オレンジ色の光がガラスの中で反射し、外に出てくることは無かった。
その上の鳥たちも羽を休めていたが、赤星はそんな鳥たちに睨まれている様な、そんな気がしていた。
結局、歩くことに集中しすぎて特に会話も無く、3人が変な陣形で進んでいると、気が付いた時には『宿屋ジルドレ』の前まで来ていた。
赤星は二度とこの宿屋に来たくは無かったが、ラファエルが進みウリエルが押したので、仕方なく中に入るしかなかった。
ジメジメとした、薄暗く陰気臭いカウンターのある部屋で、3人は丸テーブルの周りに座った。
脚が三本の椅子は2つしか無かったので、ウリエルはラファエルに抱えられる形で、赤星と対面して座った。
丸テーブルは傷だらけで凸凹していて、手を乗せる気にもならなかった。
歩いた事がリハビリになったのか、赤星の体は少しだけ動くようになっていた。
上半身を揺らしながらバランスを取っていると、丸テーブルの横にフードを被った男―――ジル・ド・レが歩いてやってきた。
「あぁ、お客様。どうされましたか?」
「ジル、3人分の朝食をお願い」
「えぇ、分かりました……少々、お時間がかかるので」
ジル・ド・レは変な所で言葉を区切り、腰を折り曲げながら後退りして行った。
「じゃぁ、そうだな……先にお風呂に入ろうか……時間が勿体ないしね」
「うん行こう」
赤星が食い気味に前のめりで目を見開いて返すと、ウリエルは怪訝な顔を、ラファエルは引いた様な顔をしていた。
ラファエルに引きずられながら階段を降り、その後のひんやりする廊下を歩き、一昨日見た光景をもう1度繰り返し、お風呂に入った。
一昨日と違うのは、ぷにぷにスベスベの女の子が1人多かったことだが、ジロジロ見ていると怒られたので、なるべく見ないように煩悩を押し殺していた。
3人は並んで頭、体を洗い、お湯に浸かった。
ウリエルはプカプカ浮かんでお湯に流され、赤星とラファエルは並んで座り、体の芯まで温まった。
もくもくと登る湯気がお風呂を埋め尽くし、天井のシャンデリアの光を乱反射しているせいで周りは何も見えなかったが、むしろ心地よかった。
赤星は傷が少しずつ癒されるのを感じながら、腕を上げて縁に乗せてラファエルの方を向いた。
「ところでさ、ラファエル」
「ん? 何? 赤星」
ラファエルも赤星の方を向いて目が合った。
顔は上気し、ポニーテールを解いた黒髪から覗く、繊細なうなじが輝いて、魅力的に映っていた。
「アザゼルはどこで寝てるの?」
「何でそんな事―――」
ラファエルの顔がニヤッとしたが、そんな訳無いと自己解決したように、直ぐに元に戻った。
「いや、何となく……アイツの家で、寝ちゃってたわけだし」
「う~ん。そうだなぁ……多分、その辺で寝たとは思うんだけど……街灯が点いてたから、もう目を覚まして外に居ると思うよ」
ラファエルの背がスーッと低くなり、顎までお湯に浸かった。
「アイツが外に居ると街灯が点くの?」
「そうだよ。この町の家全部の明かりもそうだけど、アザゼルの魔力で点いてるだけだから……そういえば、説明してなかったね」
ラファエルはザバァと音を立てながら姿勢を戻し、流れるウリエルを遠い目で見つめた。
「この町には、アザゼルとジル・ド・レしか住んでないんだよ」
「へぇ~……そうなんだ?」
「うん。この町はね、赤星……アザゼルが大好きだった恋人が、何よりも愛した、守るべき、愛すべき町なんだよ」
「その、アザゼルの恋人は、何処に居るの?」
赤星の質問に、ラファエルは目を細めて虚ろし、言い淀んだのか1度唾を呑んで続けた。
「―――死んだよ……この町はね、赤星」
ラファエルは顔を回し、赤星と目を合わせた。
唇はキュッと噛み締められていたが、何度か咀嚼した後に、ゆっくりと、その重たい唇を開いた。
「ルシファーが、最初に攻撃した町なんだよ」
「……そっか。じゃぁ、その時……アザゼルはこの町の為に戦ったの?」
ラファエルは唇を固く結んで目を逸らした。
ウリエルのバタ足の音が響いた。
赤星も、言いたくないものと察して、目を逸らし、天井を見つめた。
特に、深く聞くつもりも無かった。
アザゼルに同情したくなかったのか、面倒だったのか、自分でも分からない。
少しの間、お湯の音だけがお風呂に響き渡った。
「―――この町の住民を殺したのは、アザゼルなんだ」
ラファエルが突然話始めた。
赤星は知っておくべきだとでも言うような、覚悟を決めた様な声だった。
「勿論、アザゼルの意思じゃない……ルシファーの力に侵されて、自我を失っていた。私たち―――私とウリエルと、もう1人居たんだけど―――がこの町に着いた時には全員殺されていた。死体の前で放心しているアザゼル以外、全員」
「―――そっか」
「昨日私たちが寝てた場所、それに外にある庭は、アザゼルと恋人との、大切な、思い出のある場所なんだよ」
「……ふ~ん」
赤星は腕を降ろして脱力し、肩までお湯に浸かって目を瞑った。
オレンジ色の残像も、直ぐに闇に溶けて消えていった。
悲惨な光景を、アザゼルと恋人が、縁側で仲良さげに話している所を想像しそうになって、直ぐに振り切った。
「もう、戻ろう」
ラファエルがお湯を打ち上げながら立ち上がる音が聞こえた。
赤星は目を開いて顔を上げた。
一寸先はオレンジ色でラファエルの脚以外見えなかった。
赤星はジンジンする体に鞭を打ってお湯から立ち上がった。
ペタペタと音を立てて、ウリエルもお湯から上がった。
ラファエルは出口に向かって歩き出していた。
最後に見た目は虚ろで、表情は暗かった。
「よし!」
赤星は少し早歩きでラファエルの真後ろまで近づいた。
「よいしょぉ!」
そして、ラファエルのもちもち肌の体に腕を回して持ち上げた。
「おい! 何するんだよ!」
赤星の腕の中でラファエルは暴れたが、赤星は離さず、更にギュッと抱きしめて、綺麗に反った背中に頬っぺたを強く押しつけた。
凄くいい匂いがした。
顔を背中から離し、今度は肩に乗せて顔を真横に寄せた。
自分のささやかな胸が、自然とラファエルの背中にくっついた。
「改めてよろしくね、ラファエル」
「な、何が? 急に何? いいから降、ろ、せ!」
ラファエルが側頭部をぶつけてきたので、赤星は腕を離した。
ラファエルはぷんぷん怒ってお風呂を出て行った。
赤星は痛む側頭部を押さえてその背中を見つめた。
すると、そんな赤星の太ももに小さな手が触れた。
赤星は「ん?」と言いながら下を見た。
ウリエルが手を伸ばし、「私も」と言っていた。
3人は階段を上がり、再び丸い机に戻ってきた。
机の上には、3人分の朝食が乗ったお盆が置かれていた。
ラファエルは2人よりも前に進み、ぷんぷんと肩を怒らせて先程と同じ椅子に座って、ガシガシとパンをかじりだした。
赤星はウリエルを抱えたまま、その対面の椅子に座って同じくパンを食べ始めた。
空いた手でウリエルにパンを渡すと、両手でパンを握って小さく食べ始めた。
3人はパンを食べ終わり、各々飲み物を呑み始めた。
赤星ラファエル用はコーヒー、ウリエルはオレンジジュースだった。
ウリエルはムスッとして不服そうだったが、赤星は、部屋でコーヒーをぶちまけたのが、ウリエルがコーヒーを嫌がったと、ジル・ド・レがそう勘違いしたのではないかと考えた。
赤星はコーヒーを呑みながら周りを見渡してジル・ド・レを探した。
すると、丁度カウンターの影に隠れる扉が開き、ジル・ド・レが戻ってくる所だった。
2人は目が合ったが、ジル・ド・レは引きつった笑みを浮かべてカウンターの前で立ち止まった。
赤星は直ぐに目線を戻してラファエルを見た。
ラファエルはまだ怒っている様だったが、頬は仄かに上気しており、満足そうな顔をしていた。
「そういえば、お風呂もご飯も、久しぶりだっけ?」
赤星が聞くと、ラファエルは睨みつけてきたが、直ぐに諦めた様な顔になり、普通の丸い目で再度目を合わせた。
「昨日は本当に自分が嫌になって、ずっと寝てたからね……まぁ、でも……どうやら、寝ている場合じゃなさそうだから」
ラファエルはカップを置き、椅子を引いて立ち上がった。
赤星はそれを見てカップを回すのを止め、急いで中のコーヒーを飲み切った。
下のウリエルもそれに続き、コップを机の上に置いたが、コップがまだ斜めの状態で手を離したので、バランスを崩して倒れた。
ウリエルはそれを無視し、赤星が椅子を引いた所で直ぐに飛び降りた。
「よし、じゃあ」
ラファエルの声が聞こえ、赤星はウリエルに気を遣いながら立ち上がって顔を上げた。
「門の外で練習しようか……昼までに出来ればいいけど」
ラファエルは話しながら宿屋を出て行った。
赤星もウリエルも、それに続いて外に出た。
ジメジメした空気から解放されて、伸びをしながら門の方へと歩いた。
まだポカポカとする体に、風と朝日が心地よかった。
空は快晴で雲もあまり見えない。
花の香りが鼻腔に広がり、脳がマヒしている様だった。
赤星が石畳に開けた穴を通り過ぎ、3人並んで門の外に出ると、もはや懐かしいと思える景色が広がっていた。
禿げた土の道を挟んで、光を受けてキラキラ輝く芝生が風に揺らされて波を打っていた。
その奥に見える木や鬱蒼と生い茂る雑草が音を立てて煩く感じた。
その左手に見える山を背景に、ラファエルは芝生を踏み荒らして立ち止まった。
「よし、じゃあ。練習を始めようか」
「お願いします」
赤星がぎこちなくお辞儀をすると、ラファエルが複雑そうな顔で赤星を見ていた。
「まぁ、でも。実を言うと、魔力何て長物を持ったことが無いから、私も扱い方なんて分からないんだけどね」
「えぇ? じゃぁ、何するの?」
ラファエルは腕を組んで唸りだした。
「う~ん。そうだなぁ……あぁ、そうだ!」
ラファエルは腕を解いて、傷だらけのコートのポケットに手を突っ込んだ。
そして直ぐに、見覚えのある小さい巾着袋を取り出した。
「それ―――」
「あぁ、『魔丸薬』だよ」
ラファエルは言いながら巾着袋の口を広げた。
「何で、持ってるの?」
ラファエルは手を止め、顔を上げた。
口角を意地悪そうに上げて笑っていた。
「ムカついたから、盗んできた」
「あ……そう」
ラファエルが巾着袋に親指と人差し指を入れ、赤星はそれを見つめていると、横に立つウリエルが赤星の脚を叩いてきた。
「ん?」
「私、どうすればいい?」
「う~ん。そうだなぁ」
赤星はその場で屈み、考え出した。
「あんまり、良い予感がしないから、離れておいた方がいいかも、ね」
ウリエルはムスッとした顔になった。
「……分かった。門の向こうで座ってる」
ウリエルはトコトコと門の方へ歩いて行った。
「よし! 食べてみよう!」
気が付くと、ラファエルは赤星の前まで歩いて来ていて、手には『魔丸薬』が握られていた。
『魔丸薬』は深い青色で、いくらの卵のように内側と外側で輝きが違っていた。
それを見ていると、胃がひっくり返ってきて、先程食べた朝食が全部出てきそうだった。
「それ、食べたくない―――」
「ダメだよ。これ以外、解決法無いでしょ? もうアザゼル来ちゃうもん」
赤星は癖で腕時計をチラッと見て、意味ないことを思い出した。
赤星が顔を上げると、ラファエルのワクワクしていそうな顔が太陽に照らされていた。
「……分かったよ」
赤星は立ちあがり、『魔丸薬』を受け取った。
口元まで持っていき、そこで『魔丸薬』の内側に更に濃い青色の煙がうねっているのが見え、躊躇った。
しかしそこで、『魔丸薬』の奥で目をキラキラ輝かせ、口を半開きで見上げてきているラファエルが、遠くぼやけて見えた。
赤星は覚悟を決め、目を思いっきり瞑って『魔丸薬』を口に放り込んだ。
口蓋垂に直撃した『魔丸薬』を噛まずに飲み込もうとしたが、入口の方で突っかかって戻って来て嗚咽し、あまつさえ、その流れのまま奥歯で噛んでしまった。
一瞬グニっとした感触がし、直ぐにプチっと弾けた。
その直後、ボンッと音を立てて深い青色の煙が噴き出してきた。
味は最悪のゲロマズで、舌を刺すような苦みが走ったと思ったら、直ぐに何も感じなくなった。
赤星は顔を歪め、口を閉じた。
すると、顔の穴という穴から深い青色の煙が飛び出してきた。
鼻から抜ける煙からは、最低の匂いがした。
体温が、心拍数が跳ねあがり、脳が痺れた様な感覚になって、視界が霞んで物音が遠ざかった。
今自分が何処に居るのか、ちゃんと立っているのかも分からない。
「―――し! ―――かほし! ―――赤星! 大丈夫?」
ズアァと霧が晴れ、音が戻ってきた。
体が後ろに思いっきり引っ張られた感覚が襲い、気が付くとラファエルが体を揺らしてきていた。
「良かった、意識はある? 大丈夫? これ、何本に見える?」
ラファエルが顔の前でピースし、にっこりしていたが、赤星が答える前にハッとし、首を横に振って真顔に戻ったが、その顔も深い青色の煙の奥に隠れてしまった。
「あぁ、えっと……うん。何があったの?」
深い青色の煙の奥に、心配そうなラファエルの黄檗色の瞳が見えたので、赤星は何でもないように答えていたが、卒倒しそうな程体調が悪く、今すぐにでも意識が途切れてしまいそうだった。
「君、その煙どうにかならないの?」
「うん……無理……と、とりあえず座っていい?」
「……君、今、座っているのに……分かってないの? 本当に、大丈夫?」
その時赤星はしまったと思い、更に悪いことにそれを顔に表していた。
「……もう。僕にくらい本音で話してよ―――で、どう? 何か、感じる?」
「ん? うん……死にそう」
「んん。まずいな……と、とにかく。その煙をどうにかしないと」
ラファエルの柔らかい手が赤星の両耳を塞いだ。
暖かさを感じたが、直ぐに自分の体温と馴染んで消えてしまった。
外の音はくぐもって聞こえにくくなった。
赤星は口を堅く閉じ、右手で鼻を摘まもうとした。
表情筋が硬くなって視界の下に自分の頬が見えたが、それよりも、自分の右手から尋常では無い量の煙が出ていることに気が付いて、それ所では無かった。
グローブは食い込むようにキツく締まっていて、飛び出た細い筈の指は真っ赤なソーセージの様になっていた。
しかし、そんなグローブも意に介さず、蒸気機関車の様に煙が噴き出ていた。
「赤星、君。この手は流石に―――」
「マズくない?」
「―――おい、何をしている。貴様らは―――」
2人が右手を挟んで絶望の顔を見合わせていると、門の方から低いドスの効いた声が聞こえてきた。
「「アザゼル!」」
2人が揃って声のした方を向くと、例によって頸動脈をウリエルに噛みつかれているアザゼルが、不快を隠すことなく顔で表現し、2人を見下ろしていた
「どこに行ってたんだ!」
「早く! 助けて!」
2人が言いたいことを言っていると、アザゼルの顔が更に歪んだ。
「黙れ! 俺は墓参りに行っていたんだ!」
ラファエルも赤星も、それを聞いて口をキュッと真一文字に結んで黙った。
「それよりも、だ! 何故魔力も扱えない状態で『魔丸薬』を使った!」
「アザゼルも昨日使わせようとしてただろ!」
「あの時は私が居ただろうが! いいか、ラファエル。お前はこれを飲んで堕天したんだ。つまり、これがどれだけ強力な魔力を持っているか分かっていた筈だろ?」
「クッ……む、むぅ」
「い、いいか、ら。早く、何とかして」
赤星の視界は、深い青色の煙以外、最早何も見えていなかった。
呼吸をする度に、煙を吐いているのか吸っているのか分からなくなっていた。
「あぁ、すまない。しかしな、そうなってしまっては、お前が頑張るしか解決策は無いんだ。だから頑張れ」
「がんば、れって。何を?」
「アドバイス出来ることと言えば、目を瞑って、魔力を感じ取る事だな……まずはそこからだ―――昨日の私との戦いで、魔力は全身に回っている筈だ。傷が癒えた、あの時に」
赤星はアザゼルの話の途中で目を瞑っていた。
煙が顔を覆っているせいか、直ぐに自分の意識に集中できた。
音が、残影が、風のくすぐったさが次第に遠ざかって行き、改めて体温を感じて薄っすらと汗をかいてきた。
右手を締め付けるグローブの痛みが増し、体の隅から隅まで走る血液の様な、変な液体を感じ取った。
ドクドクと脈打ち、血液よりもドロドロの粘着質な青色の液体で、それに気が付いた時には、頭の先から足の指の先まで染み渡っているのを感じ取った
特に、頭と右手の周りに執拗に集まっていた。
これが、魔力なのだろうか。
頭と右手のその液体に意識を向けると、こちらに気が付いた動物の様に、うねうねと警戒しているかのように強く揺れ出した。
力を入れ、液体が全身に、均等に巡る様に試みた。
その時だった。
目の奥に、耳の奥に、脳みその奥の神経系が焼き切れるかのように痛んだ。
灼熱の痛みにうなされ、無意識に両手で頭を抱え込み、体を曲げているのが分かった。
目の玉が半回転し、自分の体の中を見ているかのような感覚が襲ってきた。
闇の中、痛みの方向から、何かがこちらを覗き込んで来ていた。
何度も見た、蛇の目だ。
「―――イヴリース―――俺を―――力を感じろ―――目を開け―――そして―――」
「赤星!」
グシャっという鈍い音と共に鋭い痛みが胸を貫いた。
叫び声を聞き、赤星は目を開いた。
開けるだけ開いている筈なのに、視界はいつもの半分しか無い。
赤星は自分の胸の辺りに突き刺さる、光り輝く槍の様な物に気が付いた。
深い青色の煙は影も見えなくなっていた。
「貴様、何者だ」
アザゼルの地響きのような低い声と、ガチャリと銃を構える音が聞こえた。
一体、何が―――。
「ちょっと前ぶりだなぁ、赤星」
血の気が引いているからか、赤星の体が小さく震えた。
この嫌悪感を覚える声に、聞き覚えがあった。
光り輝く槍の向こうに、黄色のズボンと毛の生えた脚が映り込んだ。
足元は癪に障る程、真っ黄色のサンダルを履いていた。
その人物はその場で屈み込んで、赤星の顔を覗き込んできた。
アザゼルの銃口がこめかみに当てられていたが、警戒する様子1つ見せていない。
「あま、つき……てめぇ」
「その状態で、まだ喋れんの?」
天月は呆れ顔を浮かべて、赤星に刺さっている槍に手を伸ばして掴んだ。
槍は光の粒になり、空気に溶けて消えていった。
その直後、赤星の体が燃えるように熱くなった。
その熱さは液体の様に下半身へと溢れ返り、伸びて行った。
ドクドクと心臓が激しく脈打ち、その度にその熱は強くなっていた。
血が、吹き出しているのだろうか。
しかし赤星は、立ちあがった天月の顔を見上げていた。
その後直ぐに、バァンと爆音が鳴り、天月が視界から消えていった。
アザゼルが1歩前に出て赤星の視界の先で立ち止まった。
「赤星、集中しろ。魔力で傷は塞がる。もう、コントロール出来るはずだ」
赤星の方を見もせずに言い放つと、アザゼルは天月が飛んで行った方へ歩いて行った。
すると、視界の下の方で、倒れるラファエルとの背中を抱えているウリエルが見えた。
ウリエルの顔は見た事が無い程蒼白で、上半身を少しだけ起こしているラファエルの体に、先程赤星に刺さっていた物と同じであろう槍が刺さっていた。
不幸中の幸いか、槍が刺さったままなので、出血のような物は見られなかった。
「あの、野郎……ぜってぇ、殺す」
赤星は痛みも出血も忘れ、くらくらする頭を体に引っ付けて四つん這いになり、腕と足に思いっきり力を入れて、ふらふらとその場で立ち上がった。
体は前後に揺れて、何とか立てている状態だった。
右手で胸にぽっかり開いた穴を覆った。
すると、不思議な感覚に襲われた。
目を瞑っていた時に感じた、あの粘着質な液体の様な物が、傷口に集まってくるのを感じた。
そしてどういう原理なのか、髪がゆっくりと伸びている気がした。
胸の内側に張り付く液体は血液よりも温度が高く、スライム様に傷口を覆って隠した。
ネバネバと形を作り、体の内側から傷を塞いでいる様だった。
気が付くと、出血は止まり、穴も塞がっていた。
今のは、自分の意思だったのだろうか。
体が本能的にそう動いた、そんな気がしていた。
傷は塞がったが、それでも尚、赤星の頭はボーっとし、体温も高く、それなのに寒気が止まらなかった。
小さく震え、赤星は未だに晴れない視界をアザゼル達が消えた方に向けた。
その先で見えた光景に、赤星は両手で瞼を上下に押し上げ、見開いた。
アザゼルが芝生の上に倒れており、その前に立つ天月が光の剣の様な物を突き立てていた。
赤星は1歩、足を前に出して近づいた。
すると、その音を聞いたのかアザゼルが首を動かして赤星の額を睨みつけてきた。
「来るな! 嫌な予感がする」
アザゼルは消え入る様にそう言うと、また天月を睨みつけた。
「嫌な予感? 何、言ってんだ? アザゼルさんよぉ」
天月の喋り方は、前から気に食わなかった。
しかし、今の天月はそれよりもずっと気持ち悪く、極めて醜悪に感じた。
赤星は片足を引き、力を入れた。
前傾姿勢になると、体温が更に上がっていくのを感じた。
頬は仄かに紅潮し、目の周りの痣の様な黒い模様との色の差が明らかな違和感を醸し出していた。
そして頭皮がぞわっとしたと思ったら、前髪が顎まで、後ろ髪が肩甲骨まで伸びた。
アメリカピンで留めきれなかった髪の先が、耳を隠し、左目の視界の端に映ってきた。
優しい風に流されて、伸び慣れない髪が揺れた。
瞳は黒く淀み、深淵の様なその瞳には2人の影が浮いていた。
息を深く吐くと、黒い煙が青い煙と混ざって飛び出してきた。
天月はアザゼルを見下ろして口をパクパクさせていた。
何か会話をしている様だったが、何も聞こえない。
赤星はそこで始めて、聴覚が無くなっていたことに気が付いた。
心臓は早鐘を打っており、高揚感が次第に体全体を包むのが分かった。
風に吹かれて少し浮いたシャツの穴から、ささやかな膨らみの縁が影を帯びていた。
その膨らみの少し左側で、心臓が激しく肋骨を押しているのが分かった。
赤星はそれを右手で強く押さえつけながら、更に姿勢を前に倒した。
下にだらんと伸びた左手が芝生を撫でた、その時。
赤星は無意識に、思いっきり地面を蹴り上げた。
足が少し沈んだと次の瞬間には体が少し浮き、前に飛び出していた。
風が刃の様に鋭く頬を抉った。
しかし、それを感じるよりも前に。
天月が目の前に現れた。
天月はアザゼルを見下ろしてニヤニヤと薄気味悪く笑っていて、赤星が直ぐ傍まで来ていることには気が付いていない様子だった。
「天月ィ―――」
赤星は脚を着く直前で勢いよく右腕を振り、肩甲骨を引けるだけ引いて太鼓を打ち、その勢いを殺さないままに右腕を伸ばした。
右手は間違いなく天月の頬を捉えていた。
しかし、ドデカい金属の塊を殴ったかのように、天月の頬の手前で赤星の右手は空中で停止した。
天月はピクリとも動かず、その代わり、質量を持った空気が雷と爆音を生じ、赤星の右手を捕まえていた。
「物理技はな、赤星―――」
天月が顔を動かさずに横目で赤星を捉えた。
「逆術が一番簡単なんだよなぁ」
「……逆術?」
天月がゆっくりと余裕を持って体と顔を赤星の方に向けた。
「習ってないのか? 敵の攻撃を相殺する、天使の使う守りの技―――逆術……常識だろ?」
「―――チッ」
天月が嘲るような笑みを浮かべて講釈を垂れ、それが赤星を無性にイラつかせた。
赤星は右手をさらに強く握りしめ、既にギュウギュウに締め付けているグローブの隙間から、ボウゥと音を立てて煙が溢れ出してきた。
天月との間の空間を、赤星の右手が徐々に抉り、前進し始めた。
しかし天月は目を瞑り、ぶつくさと未だに講釈を垂れていて、その事に全く気が付いていない様子だった。
赤星は目を瞑り、神経を集中させて、先程感じた魔力の液体を右手に集中させた。
そして、液体が右手に集まり切った所でキリっと目を開いた。
瞬間、バチィッと雷と煙が混ざって弾け、散々に飛び散って2人を包んだ。
そして、天月との間の空間も弾け飛び、堰を切ったように赤星の右手が天月の顔面を捉えた。
天月の醜い鼻の頭がひん曲がり、膨れ上がった頬と同じ高さになった頃に、ようやく赤星に肉を押し潰すようなグシャっという感触が走った。
痛みや反動は感じることは無く、目の前の天月の体が浮いて吹き飛んで行った。
草木を巻き込んで半端な高さで叩き折り、森の奥深くへと天月の姿は消えていった。
遅れて聞こえてくる木々の倒れる音と共に、光が森へと刺し込み、舞い上がった土煙に乱反射して森に輝きを放った。
「―――赤星」
「……」
「―――赤星!」
「あ?」
アザゼルの声でハッとした赤星は、姿勢を戻して声の方を向いた。
地面に横になったままのアザゼルが、上半身だけを起こして赤星を見上げていた。
「意識は、有るのか……」
「あぁ、うん……初めて魔力を扱った時とは……なんか、違うんだよね……」
赤星は自分の両手を上げ、開いては閉じてを繰り返した。
「それは分かる……目の輝きが違うからな……お前は自覚が無いだろうが」
「どう、違うの?」
アザゼルは立ち上がり、土汚れを掃いながら続けた。
「あの時は瞳が黒かったが、今は青い」
「青い?」
「あぁ、普段は淀んだ紫色をしているが、あの時は黒、そして今は―――青だ」
「……そう。でも、なんで分るの? お前、私と目合わせた事無いじゃん」
赤星はアザゼルを睨みつけたが、やはり目が合わない。
アザゼルはいつものように赤星の額を見ていた。
「お前の目を見るとあの方を思い出してな……どうしても見れない……それに―――」
「何か童貞みたいだな、お前」
赤星が上司を頭の片隅にそう言うと、アザゼルが複雑そうな顔になった。
「何だ、その……どうてい? というのは」
「知らないの? じゃぁ、今度から童貞って呼ぶわ」
「止めろ、気持ちが悪い」
「ふっ。なんかお前の顔、2徹明けの上司に見えてきたわ……なぁ、童貞―――」
「おい! 赤星ィ!」
森の奥から天月の叫び声が聞こえ、2人は森の方を向いた。
森の奥から5つ、星の様な輝きが見えた。
それに気が付いた次の瞬間。
赤星の体に光の槍が突き刺さっていた。
刺さったのは、両肩と両膝、そして額の真ん中だった。
赤星は脱力し、人形のように芝生の上に仰向けに倒れた。
目ん玉がグリっと上に回転し、意識を失った。
全身の感覚が一瞬にして無くなった。
そしてまた、視界の先に暗闇が広がった。
そしてまた遠くの方から、蛇のような目がこちらを見つめていた。
しかし今度は喋りかけて来るようなことは無く、その瞳は無言で近づいて来ていた。
赤星は微動だにすることが出来ない。
そして遂に、その瞳が目の前までやってきて、動けない赤星の事を覗き込んでいた。
「イヴリース、目を覚ませ」
今度聞こえてきた声は鮮明だった。
低く穏やかな、吐息交じりの落ち着く声で、印象としては好青年を連想する声だった。
すると、不思議な事に、その声と同時に瞳の周りに肉片がペタペタと現れ、それは人の形を成していった。
「イヴリース、お前はまだ―――役目を果たしていないだろう」
肉片は遂に完成した。
闇の中でもキラキラと輝く銀髪、端正で凛々しい顔つきの、声に似あう好青年だった。
青年は赤星から数歩距離を取り、右足で胡坐を、左足を立ててそれを腕で抱え、右手で髪を撫でていた。
「見ろ、この髪を……お前に力を預けたせいでこの様だ。更に―――」
青年の背中から銀色の3枚の左翼が飛び出し、パサッと優雅に広がった。
「この片翼も……元は漆黒の翼だったんだが―――お前が持っている翼の事だが―――お前は1度も見た事が無いだろうな……俺が記憶を奪い続けて来たから」
赤星は感覚が無く、有るかどうかも分からない口をポカンと開き、唖然とした。
記憶を、奪い続けて来た?
「まぁ、疑問に思うのも分かる……いい機会だ、話してやろう……今回の傷は深いようだし、俺は話を遮られるのが嫌いだからな……お前は話を遮る癖がある。そうだろう?」
青年は小さくふっと笑ったが、その笑みも直ぐに消え、翼も消えた。
一瞬、翼の輪郭に沿って銀粉が舞っていたが、それも直ぐに闇に溶けて行った。
「さて、どこから話そうか……そうだな」
青年はわざとらしく少し考える素振りを見せ、顔を上げた。
「ある日の事だ……俺は、ミカエルに負けた……俺の兄だが、お前の兄でもあるな……まぁ、そんなことはどうでも良いか―――その日、俺は神の裁量で死国に送られることになった。死国というのは、神が俺のために作った―――お前が知っている言葉で説明すると、地獄のような場所だ。その間実に9日間。正に地獄の日々だった―――が、俺にそんな時間を与えたのは神の迂愚な部分だったな」
青年の口角が僅かに上に上がった。
「まぁ、その考えに至ったのは初日だった―――俺は、残りの8日間でお前を作り出したんだ。いつの日か来る、自らの廻天の為に」
赤星にはこの青年が何を言っているか分からなかった。
右から左に通り抜けようとする言葉を、寸での所で脳に留めようと踏ん張って考えた。
そんな赤星を無視し、青年は続けた。
「そして今の今まで、俺は死国からお前を監視し続けた―――廻天の時期を伺いつつ」
青年はそこまで話して言葉を詰まらせ、クックと声を押し殺して笑い出した。
「だが、な―――あぁ……お前は実に面白かった―――何故、人間の女というのは、あぁも恋愛をしたがるのか。本当に謎だ……俺にしてみれば、そんなお前は実に厄介だった訳なんだがな」
青年は声を殺すのを諦めて大きく笑うと、少ししてまた、笑いを押し殺して続けた。
「―――俺は、な。お前が愚かにも男に恋心を抱く度に、お前の記憶を消し、その土地を離れさせるという事を繰り返させた……本当に、何度も、何度もな……お前の記憶が無くなったと知った時の男の顔と言ったら……クッククッ」
青年はお腹を抱えて暫く笑い始めた。
笑いすぎて目に涙を浮かべていた。
「何故、俺がそんな事をしていたか、分かるか?」
はぁとひと息ついて、落ち着かせながら青年は口を開いた。
「俺が、お前に預けた力を取り戻すために、俺自身がお前と交わる必要があるからだ―――他の男と交尾されては困る」
青年はそこまで言って、目つきを悪くした。
「だが、何故か、俺の記憶を消す力がお前に通用しなくなった。……原因は分からん。お前が居た国の信仰力が落ちていたか、過度なストレスでお前自身が自我を持ち過ぎたか、長年の拘束で俺自身の力が弱まったか―――原因を探し出すとキリがない」
赤星はもう、考えるのを諦めていた。
その代わり、1つの単語だけがクルクルと頭の中を回り、叫びまくっていた。
交わるって……交尾って……。
「そこで、俺は遂に蘇ることを決めた……それが今だ。イヴリース―――」
青年はゆっくりと立ち上がった。
「安心しろ、お前を傷つけた人間か天使かは俺が処分しておこう……お前が目を覚ますのは、その後でいい……しばらくはゆっくりと、休んでおけ」
青年は立ち上がり、歩き出した。
動けないままの赤星の目の前までやってくると、青年は少し屈んで、更に少しだけ前に進んでいった。
青年の綺麗な顔が一瞬、上から下に移動していった時、赤星の心臓が1度大きく跳ねた。
しかしその直後、有るかも分からない赤星の腹部に激痛が走った。
この青年が、赤星のお腹を裂いて、無理やりに何処かへと通り抜けようとしているかのようだった。
信じられない激痛に、赤星は唯一動かせる視界を痙攣させ、そしてまた、グルっと目ん玉が上を向き、世界がひっくり返るような感覚に襲われた。
ハッと目を覚ました。
降り注ぐ陽光が目を貫き、赤星は瞼を少し閉じた。
しかし、それに気が付いた時、またあの激痛が腹部を襲った。
赤星は直ぐに仰け反って腹部を天に突き出し、芝生を握りしめた。
周りで誰かが叫んでいる様だったが、内容までは聞き取れない。
赤星は必死で目を開けた。
とにかく、死ぬ前に何が起こっているか理解したかった。
すると、視界の先では真っ白なシャツと一緒に自分の腹部が裂けていくのが見えた。
しかし見えるのは真っ赤な内臓でも吹き出す血液でもなく、真っ黒で暗黒な縦長の裂け目だった。
そして、裂け目の中から、見覚えのある銀髪が頭頂部を覗かせていた。
いつの間にか灰色の雲が空を覆い、直前まで照り付けていた太陽は隠れていた。
そこまで見て、赤星は我慢できず力一杯に目を瞑った。
低く轟くような音が真っ暗な頭の中に響き渡った。
地面が揺れている感覚が全身を襲い、次第に体が楽になっていくのが分かった。
「言っただろう、ゆっくりしておけと」
気が付くと、赤星は全体重を地面に預けて仰向けに倒れ、過呼吸になっていた。
耳元で聞き覚えのある少年の声が聞こえ、赤星の体が小さく震えた。
そして暖かい何かが頬に一瞬触れ、直ぐに離れて行った。
全身汗だくだった。
赤星は恐る恐る目を開いた。
空は一面灰色で、風は止み、草木は音を立てて揺れるのを止め、単調な。代り映えのしない景色が広がっていた。
赤星の体の前に、そんな景色とは不相応な、銀髪の背の低い青年が立っていた。
受けるような陽は無いのに、銀髪の周りは黒く鈍く光っていて、飛び出した首の後ろの肌は色も無く蒼白、服装は何故か赤星と同じくシャツとパンツだった。
「ようやく―――お出ましか……」
天月が怯えた声を出していたが、青年はそれを無視し、音を立てながら首を曲げ、シャツとパンツを半分捲くって、蒼白な肌を露出させた。
触れれば折れそうなほど華奢な腕と脚を外に出し、軽くジャンプすると、ようやく青年は前を向き、天月に気が付いたのか「ん」と小さく唸った。
「お前が、イヴリースに攻撃をしたのか?」
「あぁ。そうだ」
青年は透き通るような、穏やかな声だったが、声を掛けられた天月はビクッと肩を揺らし、緊張している様だった。
その横に立つアザゼルは口をあんぐり開け、驚きを隠せない様子だった。
「そうか―――助かったよ―――お前のおかげで―――甦れた訳だ―――だが」
青年がその場で何度か屈伸を始めたと思ったら、次の瞬間には赤星の目の前から消え去っていた。
その際、刃の様な風が起こり、赤星の靴裏と、その少し前の地面を抉り去っていた。
更に、それとほぼ同時に鈍い音が轟き、天月の喘ぐ声が聞こえた。
赤星は上半身を起こし、しっかりと前を見た。
するとそこには、体に風穴が開いた天月が木の幹に体を預けて息も絶え絶えで座り込んでいて、その前に青年が立ち、それを見下ろしていた。
天月の風穴を埋めようと、薄く透明な赤色の風が漂っていた。
「逆術などと……まだ、使用者が居たとはな」
青年は小さく嘲ると、そんな天月から、直ぐに自分の左手に視線を移した。
「まぁ、今は。こんなものか」
青年はそう呟くと、身を翻して赤星の方へと、今度は1歩ずつ地面を踏みしめるようにして近づいてきた。
赤星は急いで立ち上がろうとしたが、下半身が言う事を聞かず、腕を使って、お尻を擦りながら後退りすることしか出来なかった。
そんな赤星の前に、小さな後ろ姿の天使が現れた。
「―――それ以上近づかないで!」
「お前は―――」
「ウリエル! ダメだ! 早く、逃げて!」
ウリエルの頭の上から、青年の訝しむような顔が見えた。
「ウリエルだと? 何だ、その姿は……」
青年が言いながら1歩近づいて来ると、ウリエルの右手に朱色の風が集まり始めた。
それを見て、青年は足を止めた。
「俺と戦う気か? ウリエル……お前は、現役で既に、俺より弱かったのに?」
「お前なんか知らない! いいから、離れろ!」
「知らない、か……ふっ。面白い」
青年はまた、1歩ずつ歩き出した。
ウリエルの右手に、インプ戦と時とは違った、小さな刀身の剣が出来上がった。
「ウリエル! そいつはルシファーだ! 今の君じゃ―――」
「今の、だと?」
ルシファーと、そう呼ばれた青年は顔だけをラファエルに向けた。
「お前はラファエルだな? ……ふっ。そうか、お前らは、あの天使こぼれに負けたのか―――イヴリースも含めて」
ルシファーは顔を戻し、ウリエルを鋭い目つきで見下ろした。
「お前は記憶を失っている様だから、教えておいてやろう」
青年は1歩近づき、それに合わせてウリエルは右足を下げた。
ウリエルの体は小さく震えていた。
「俺が嫌いなのは、神に優遇されている人間と―――それに、弱い奴と話を遮る奴だ」
ルシファーが目の前まで来ると、ウリエルはようやく剣を両手で構えた。
「だがお前は、そのどれにも当てはまらない……実力差を知っていて尚挑んで来る、馬鹿な奴だ……今なら見逃してやらん事も無い」
「―――絶対、嫌だ!」
ウリエルは叫びながらルシファーに斬りかかった。
ルシファーはそれを、余裕の笑みで見守っていた。
そんなルシファーの頬にウリエルの剣が触れる。
その直前。
「止めろ、ウリエル」
ウリエルのジャケットの襟を後ろから掴み、ルシファーから引き剥がすようにしながら、アザゼルが現れた。
ウリエルは暴れる猫の様に、無暗に剣を振り回していた。
「久しいな、アザゼル」
背の高いアザゼルを見上げながら、ルシファーがゆっくり口を開いた。
「あの時は―――いや……お前の女の墓は建ててやったか?」
アザゼルはルシファーと目を合わせようとはせず、答えようともしなかった。
ルシファーは顔色1つ変えずにそんなアザゼルを見上げたまま話続けた。
「もし、墓があるなら行ってみるといい」
「―――何故?」
ルシファーがアザゼルの体をウリエルとは反対側に回り、横に並んだ時。
我慢できずにアザゼルが質問を投げかけた。
ルシファーは立ち止まり、小さく笑った。
「―――さっきの地震で、何も感じなかったのか?」
「感じる……?」
「あぁ。随分と、前の事だがな」
ルシファーの噛み締めるような口調に、アザゼルは、まさかという顔になった。
「まぁ、最後の審判とは少々違うが―――殆どの事はあれと相違ない」
ルシファーの言葉の途中で、アザゼルはウリエルを持ったまま姿を消していた。
速すぎて赤星の目には分からなかった。
それとも、目の前での考えも及ばないやり取りや、これからどうなるのかを考えるので脳が手一杯で、他に容量が割けていなかっただけなのかもしれない。
現に、今の絶体絶命の状態においても、赤星の視界はぼやけていた。
灰色の空は更に黒色を増し、時々雷が地上に降り注ぎ、轟音を山中に響かせていた。
それなのに不思議と風は吹いていなかった。
そのせいか、真っ二つに裂けたシャツが汗でピッタリ肌にくっつき、簡単には剥がせそうになかった。
体は恐怖やら何やらで冷え切り、赤星は小さく震えていた。
「イヴリース……時が来たようだ」
「ちょ、と。ま―――」
そんな赤星の体の上にルシファーが乗り、声を掛けてきた。
ルシファーからは温度を感じず、赤星の震えは大きくなっていた。
そんな赤星の顎をルシファーの細指がつまみ、上にクイッと上げた。
蒼白な青年の顔が近づいて来たが、赤星は体を動かすことも、声を出すことも出来なかった。
「ルシファー―――??」
そんな2人の横から、消え入るような叫び声が聞こえてきた。
赤星は顔を動かせなかったが、視界の先でルシファーがその声の主を見た。
「何だ、ラファエル。お前には何も出来まい」
ルシファーは顔を赤星に戻し、再度顔を近づけてきた。
赤星は恐怖で目を瞑った。
それで聴覚が冴えたのか、「やるぞ、僕だって―――僕だって、もう堕天したんだから。ちょっとくらい……時間くらい、稼いでやる」というラファエルの呟く声が聞こえてきた。
そしてその直後。
赤星の体が軽くなった。
恐る恐る目を開けると、黄色の残り風が一方向に流れ、優しい風が赤星の伸びた髪とシャツを攫って通り過ぎて行った。
赤星はハッとして翻ろうとするシャツを手で押さえ、全身に魔力を回した。
少し時間はかかったが、魔力が全身に回り、体温が上がるのを感じた。
しかし、今回の体温の上がり方は前回までとは違う気がした。
動悸はしないし、視界も精神も、安定していた。
暴走したいとは思わない……ただ、その代わり。
守らなきゃ。
その考えだけが脳みそを満たしていた。
赤星は立ちあがり、風が過ぎ去った方に体を向けた。
辺りは暗闇と静寂が満ち満ちていたが、一筋の光が灰色の雲を貫いて赤星を照らしていた。