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明星の日記  作者: 芥之 相
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第四章 2024/3/30 宿屋ジルドレ・アザゼルの課題

赤星が、予想以上に軽かったアザゼルの店の出入り口扉を開け、その後ろからウリエルが『魔力晶』を両手で掴んだままパタパタと付いてきた。

 空は真っ暗で月明かりも無く、細い石畳の通路の間を通り抜ける風が森や花の匂いを乗せたまま2人の間を通り過ぎていくだけだった。

 世界に2人だけ取り残された気分になりながら、赤星は町の真ん中を通る石畳の方を向いた。

 街灯は消えて家の明かりも無く、聞こえる音は葉が揺れる音とウリエルがパタパタ歩き回る音だけだった。

 『闇の街』と呼ぶのに相応しい街だなぁと、赤星は思っていた。

 「私の居た街とは大違いだ」

 鬱陶しいネオンライトや耳障りな雑音を懐かしく思いながら、赤星はゆっくり風を背負って歩き出した。

 中央の石畳まで出てから、門の方に向かって歩くこと数分。

 通りがかる分岐の石畳をきょろきょろと見回しながら歩いていると、焦燥の中で、門の前のある石畳が仄明るいオレンジ色の線を伸ばしていることに気が付いた。

 顔を上げ、光の発生源を探していると、『闇の街』には不釣り合いの木で出来た建物に気が付いた。

 両脇の石の家から伸びたツタが建物の壁や屋根、窓にまで走って木の家を覆い隠し、夜中の、更にその家が光を放っていなければ、気付くことなど出来なかっただろう。

 赤星が立ち止まり、それに合わせてウリエルも立ち止まった。

 ウリエルは赤星の顔を見上げ、赤星の隣まで後ろ足で戻って、その視線と同じ方向を向いた。

 「あれ、宿っぽいよね?」

 「うん、宿っぽい」

 それから2人は、並んで木製の家まで石畳の上を歩いた。

 木製の家に近づくにつれ、少し嫌な臭いが風に乗ってやってきた。

 木製の家の前に着くと、下まで伸びきったツタの隙間から窓ガラス2枚に挟まれた扉が見え、その上に『宿屋 ジルドレ』という、虫食いだらけで所々黒く、斜めに打ち付けられた木の看板が見えた。

 良く言いすぎれば古風……だが、それだと古風という言葉にとても失礼かもしれない。

 「ここ、が。宿みたい」

 「そうだね」

 赤星はウリエルの方を向いたが、ウリエルはジ~っと、その奥を見透かそうとしているかのように扉を見つめていた。

 「どうかした? 泊まりたくないなら―――」

 「ううん、行こ」

 ウリエルは両手を赤星の方にグッと伸ばした。

 『魔力晶』の中のオウムが、激しく暴れ、壁にぶつかって気絶していた。

 「これもやらないといけないし」

 「……そう、だね」

 赤星は渋い顔になって扉を見つめた。

 「泊まりたくねぇ~」

 「……じゃ、野宿する?」

 ウリエルが面倒くさそうな顔でそう言った時、近くの森から石のフェンス越しに何かが蠢く草の音が聞こえてきた。

 「いや、無理。絶対。ウリエルちゃんも無理でしょ?」

 「うん……ここ、お風呂あるかな……?」

 「う~ん……あるようには見えないけどね」

 「無かったら他の家に借りる」

 「それ、迷惑じゃない?」

 「そんなことないもん」

 赤星は小さく笑ってから「ふぅ」とため息を吐いて背筋を伸ばし、『宿屋 ジルドレ』の古臭い扉を開いた。

 少し開けただけで、むわっと最低の匂いが顔を襲ってきたが、赤星は顔を歪めながらも、肩を使って扉を開き切り、その足元をちょこちょこっとウリエルが通り過ぎて、2人は中に入った。

 中に入った瞬間に、生ぬるい嫌な空気が、かび臭さを乗せて赤星の体を覆った。

 家の内装は、部屋の真ん中に心許ないたった一つのランプが吊るされ、入って直ぐ左側に丸机と3本足の丸椅子が2つ、その奥に上と下に伸びている階段が見えた。

 そして、正面奥の壁から右壁全体にかけて伸びるL字のカウンターがあり、そのカウンターの真ん中に、フードを深く被った背の低い猫背の男が立っていた。

 小さく左右にゆらゆら揺れ、骨の様な手をカウンターの上でこちょこちょと動かし、落ち着かない様子のその男の顔は、影に覆われて真っ暗で、詳しく見ることが出来なかった。

 赤星は男の顔をよく見ようと、眉間に皴を寄せてその男の顔を睨みつけた。

 「い、いらっしゃい」

 男は肩をビクッと縦に揺らし、急いだからか上擦った声でそう言った。

 フードの男はゆっくりと、しかし赤星から目を離すことなくカウンターの左側に動き、そこに置いてあったバインダーと鉛筆を持ち上げた。

 「本日は。宿泊で?」

 男はバインダーを持って赤星を見ながら、しわがれた小さい声を振り絞った。

 しかし、赤星は警戒して声を出せなかった。

 赤星は下目にウリエルを探したが、どこにも見当たらない。

 「……どう、いたしましたか?」

 男が顔を上げて背筋を伸ばしたことで、ランプの光の当たり方が変わり、男の口と穴だらけの真っ黒な服が見えた。

 口の周りはぼさぼさの伸びに伸びきった髭を携え、真っ黒な服の穴の奥からは黒い焦げた肌が見え、影を二重に作っている様に見えた。

 赤星がそれに気が付いた時、左側からカタンと音が鳴った。

 横目にその方向を見ると、ウリエルが椅子を引いてその上に座り、机に上半身を預けていた。

 直後に、はぁはぁと荒い呼吸音が聞こえてきた。

 赤星が視線を戻すと、男が薄い口を小さく開き、そこから白い、熱くも臭そうな息を漏らし、その奥に真っ黄色の何本も欠けている歯が垣間見えていた。

 赤星はわざと大きく足音を立てながら前に出た。

 男はもう1度肩を縦にビクッと揺らし、猫背になって頭を下げ、上目遣いで赤星を見た。

 赤星はその時、職場の上司を思い出したが、首を振って直ぐに切り替えた。

 「何泊か分からないんだけど、暫く借りれる部屋はある?」

 「はぁ……何泊か、分からないと……えぇ、えぇ」

 赤星が両手をドンとカウンターに着いて強めに聞くと、男は2歩下がりながらぼそぼそと何かを呟いた。

 「イイですよ、イイですよ……もちろん、イイですとも……この宿に泊まろうなんて、誰も考えませんから、部屋は常に空いてますとも」

 「……あ、そう」

 赤星はおじいちゃんを虐めている気分になり、少し引け目を覚えながら姿勢を戻した。

 「……では、お名前をお教えしてもらっても、良いでしょうかね」

 「赤星と―――」

 「ちょっとお待ちください」

 鉛筆を持つ男の手はピクピクしており、闇の中のバインダーに糸の様な文字を書いていた。

 「はい、もう1人の方の、お名前を」

 「ウリエル」

 男は肩を細かく震わせ、口角が上がったように見えた。

 男はまた、闇の上に文字を書き、バインダーをカウンターの上にゆっくり置いた。

 「では、鍵を……っと、お待ちください」

 男は屈み、カウンターの下に消えていった。

 赤星は腰に手を当てて下目にその男の背中を見ていたが、直ぐに飽きてキョロキョロ周りを見渡した。

 すると、あるものが目に留まった。

 カウンターのL字になっている場所から、右壁の1番左端に、ランプの光をキラキラと反射しているドアノブが見えたのだ。

 扉は闇の中に姿を隠しているのか、ドアノブ以外の凸凹を見ることが出来なかった。

 「はい、お待ちいたしました」

 男の声で、赤星は急いで視線を戻した。

 カウンターの上には鍵の乗ったトレイがあり、それを少しだけ男の骨の様な手が押し、トレイを赤星の方に近づけた。

 赤星はその鍵を持ち上げた。

 映画でしか見た事の無いアンティーク調の見た目をしているその鍵を、珍しそうに見つめた。

 「ウォード錠と呼ばれる物です……少々古臭いですが―――お部屋は2階です……もし、お風呂に入りたければ、地下にありますので……どうぞ、ごゆっくり」

 「っざす」

 赤星は未だにその男が信用しきれず、訝しむ様な目を向けながら、いつも通り適当なお礼を言ってそこを立ち去ろうとした。

 が、1歩後ろに歩いた所であることに気が付き、股を開いたまま足を止めた。

 男は驚いたのか顔を上げていて、ランプの光を正面に受け、顔が露わになっていた。

 眼窩の分かる窪んだ眼と、焦点の合わない真っ白な瞳が赤星を捉えていた。

 アザゼルよりももっと骨の様な体で、皮が動いている様に見えた。

 「お金、無いんだけど」

 男は骨の様な右手でフードの端を掴んで急いで下を向き、フードを下に降ろしてまた、深く被った。

 「代金はよろしいです……宿が使われるだけで、私は至福ですから……」

 消え入るような声を最後に男は揺れるのを止め、人形の様になって立ちすくんでしまった。

 「そう……じゃぁ、良いんだけど」

 赤星は男の事を変な奴だなと思いながらも、階段に向かって歩き出した。

 階段が上下に分岐する場所に来た時、ウリエルがパタパタと赤星の足元にやって来て、パンツをグイっと引っ張った。

 赤星がウリエルを見下ろし、目が合った。

 ウリエルの目はきゅるるんと輝き、下に続く階段を一生懸命指さしていた。

 「お風呂!」

 「あぁ、お風呂……入ってくる? 私は寝ようかなって―――」

 それを聞いた瞬間、ウリエルはぷくっと頬を膨らませて、思いっきり力を込めた右手で赤星の横ももを殴りつけてきた。

 「―――何、何で?」

 赤星は屈んで殴られたももを両手で押さえ、ウリエルを見上げた。

 ウリエルはリスの様に頬を膨らませていて、キリっとした目で赤星を睨みつけていた。

 「お風呂??」

 「そんなに入りたいの?」と聞こうと口を開いた赤星だったが、それよりも前にウリエルに胸倉を掴まれ、舌を噛んでしまった。

 「お風呂???? 一緒に????」

 「ああった、ああったから」

 

 半ばウリエルに引きずられながら階段を降りると、薄暗いランプに照らされた長い廊下に出た。

 全体が石で出来ている廊下は少しひんやりとしていて肌寒く、奥の方はランプの光が切れているのか、見ていると意識が闇に吸い込まれそうだった。

 その廊下を進んでいくと、その真ん中の辺りで『男』と『女』と書かれた暖簾があり、2つの入り口が薄い壁で隔たれて隣接していた。

 暖簾の隙間を縫って生暖かい風が赤星の頬を撫でて廊下の冷たい風と溶けて無くなり、この宿に来て初めていい匂いが鼻腔をくすぐった。

 赤星は『女』と書かれた暖簾を屈んで避けて入り、ウリエルはジャンプして暖簾を手で叩いて揺らし、ついでに赤星の頭も叩いていた。

 暖簾を超えて直ぐの突き当りを右に曲がると、ムワっとした、しかし今度は心地の良い空気が赤星の体を包み、額にジワリと汗を浮かべさせていた。

 そこは、全体が木で作られた更衣室で、ロッカーが立ち並んでおり、更衣室に入って左側に進んで直ぐ、壁を隔てて窪んだ部分に、大きな鏡が壁一面に貼られた洗面台があった。

 更衣室の真ん中には、小さな2段くらいのシャンデリアがあり、更衣室を煌々と照らしていた。

 赤星は温泉に来たことは無いのか、そんなシャンデリアに違和感を覚えることは無く、辺りをキョロキョロしながら前に進み、更衣室中央のロッカーの前で立ち止まった。

 3段になっているロッカーの1番上を開くと同時に、その右下の二番目のロッカーも開いた。

 赤星が見下ろすと、ウリエルが飛び跳ねながら無理をして中を覗き込んでいた。

 左手に『魔力晶』を抱えており、着地した際にこけそうになっていた。

 赤星は微笑ましくなって口角を上げ、自分の開けたロッカーに視線を戻した。

 ロッカーの中は2つに上下に分けられており、下の段にはバスケットがあり、上の段には、もこもこのタオルと、シャンプーリンス、ボディーソープと手書きで書かれた小さい容器が置かれていた。

 赤星は服を脱ぐために1歩ウリエルから距離を取り、真っ先にパンツを脱いだ。

 「肌、綺麗」

 脱いだパンツを畳むことなく黒の下着姿で1歩ロッカーに近づいてバスケットに放り込んだ時、ウリエルが話しかけてきた。

 赤星はまた1歩距離を取り、ウリエルを見下ろした。

 ウリエルは目を瞬かせて、うらやましそうに赤星の蒼色を薄く帯びた真っ白な足を見つめていたが、次の瞬間にムスッとした顔になった。

 「なんか、ムカつく」

 「何でよ……」

 赤星は適当に返事しながら、シャツのボタンを上から外し始めると、ヒヤッとした感覚が足を襲い、下を見るとウリエルがぺたぺたと足を両手で触って来ていた。

 「人間は毛が生えるんじゃないの? ……毛穴すら見えないんだけど……何で?」

 「知らないよ……剃った事とか無いし……ねぇ、そんなに気になる?」

 ウリエルはそれを聞いて赤星を見上げ、眉間にしわを寄せた。

 赤星は既にシャツのボタンを外しきっていて、生暖かい風になびいて、左右に開いて揺れていた。

 ウリエルの顔がより一層修羅の顔になった。

 そして、ウリエルは自分の体を見下ろし、また顔を上げた。

 「どうしたの?」

 赤星が黒いブラのホックを外すために左手を背中に回していると、再びウリエルと目が合った。

 「……ンン……おっぱいも少しだけどあって、くびれてて、おへそも長くて、肌は白くて艶々スベスベで産毛の1本も見えない……ンン……うん。やっぱ、ムカつく」

 ウリエルはブツブツ言って赤星から目を離し、ロッカーに向き直した。

 『魔力晶』を頭の上に上げて背伸びをし、何とかロッカーに押し込もうとしていたが、見えていないのか、バスケットがロッカーの奥にぶつかってガンガン音を立てていた。

 「大丈夫? 私が持とうか?」

 赤星が聞くと、視界の先の『魔力晶』ピクっと動きを止め、次の瞬間に少しだけ奥に引っ込んで小さくなり、そしてさらに次の瞬間に、ウリエルは飛び上がったのか『魔力晶』が大きくなった。

 更に宙で一瞬浮かんだウリエルが、ロッカーのバスケットを引き出し、そこに『魔力晶』を突っ込んでロッカーの奥に押した。

 まるでスローモーションの職人芸に見えたその妙技に、赤星は自然と拍手を送っていた。

 ウリエルは顔を少し赤らめ、板の様な胸をトンと叩いて張っていた。

 しかし直ぐにまたムスッとした顔になり、赤星に貰ったボロボロのジャケットのボタンを外し始めた。

 赤星もホック探しを再開し、ウリエルがジャケットを適当にロッカーに投げ込んだ時には、赤星もブラをバスケットに突っ込んでいた。

 赤星はロッカーの中のタオルを引っ張り出し、体を隠して垂れ幕の様に脚に向かって伸ばした。

 その時、赤星は視線を感じ、直ぐにウリエルの方を向いた。

 ウリエルは裸ではなく、薄く白いキトンの様な布を纏っていて背中に小さな翼を生やし、赤星を呆気に取られたような顔で見上げていた。

 「―――あれ、服、着てたんだね」

 赤星はウリエルが口を開いたと同時に、それを遮るように声を出した。

 「……あぁ、えっと……多分、力が付いて来たんだと思う……結構寝てたし」

 「力が付いてくると、服も戻ってくるの?」

 「うん。天使とこの服は切っても切れないものだから……それより―――」

 「よし! 脱いだ! おっさき~」

 赤星はいつの間に脱いだのか、ぷりぷりおケツをウリエルに見せつけながら左手で垂れ幕タオルを胸の前で押さえ、グローブを付けたままの右手に2つの容器を抱え、器用に足の先でお風呂の扉を開き、その奥の湯気の中に消えていった。

 その速度たるや物凄く、最後に投げ捨てていた電子タバコと腕時計の音が、扉の開く音から遅れて聞こえてくる程だった。

 

 湯気の霧が晴れてくると、すぐ目の前にL字の壁があり、一方通行になっていた。

 それに従って赤星が滑ってこけそうになりながら進むと、目の前に大きな浴槽と中央の天井に、5段の大きなシャンデリアが吊るされているのが見えた。

 更衣室と同じく蝋燭が揺れていて、周囲を煌々と照らしつけていた。

 赤星は少しずつ、初めての光景と湯気の視界の悪さに慣れていき、温泉内全体が大理石で出来ている事に気が付いた。

 そして、浴槽の縁から伸びた蛇口には見た事の無い色の宝石の付いた蛇口があり、薄い緑色の気味の悪い液体を温泉内に送り込み、溢れさせていた。

 赤星はゆっくりすり足で前に進んでいくと、直ぐにシャワーが並んだ壁が見えた。

 奥の壁1面と右面にL字に並んで、最初の壁に突き当たって止まっている。

 1つ1つが離れていて、広い範囲に5つしか見えない。

 赤星は最初の壁に近いサワーの前に置いてある椅子に、恐る恐る座った。

 椅子は何故か真ん中が窪んでいて、赤星は違和感を覚えたが、それよりも、目の前の奇怪なシャワーの複雑さに目が行き、どうすれば分からずに困惑していた。

 赤星は右手の2つの容器を2段になっていたシャワーの蛇口の上の段に置き、左手をタオルから離して色々触っていた。

 途中で鏡に陰気な顔の自分が映り、左目の周りを触りながら、空いた手で色々触って回った。

 そんな時、その赤星の後ろをペタペタと小刻みな足音を立てて通り過ぎ、赤星の横でウリエルが立ち止まった。

 「何か探しているの?」

 「いや、どうやってお湯が出るのか分かんなくて」

 赤星は蛇口周りを捻りながら、ウリエルを見上げた。

 ウリエルは服も翼も無く、普通の人間の姿をしていた。

 タオルを体に巻き付けて全身を隠し、両手に容器を持っていた。

 そんなウリエルは、目を凝らして赤星の体を見ていたが、湯気で良く見えないのか瞼をひくひくさせて、イライラしている様子だった。

 「出し方分かる?」

 「うん……え? あ……うん」

 「まぢ? どうするの?」

 「そこの、壁にあるボタンを押すんだよ」

 赤星はウリエルの指さした壁を見た。

 そこには、シャワーヘッドの描かれた銀色の丸ボタンが埋め込まれていた。

 「あぁ、これか……分かりづら! ―――つめた!」

 シャワーヘッドから冷水が飛び出し、赤星の体を襲った。

 赤星は石壁を蹴って椅子と共に滑りながら離れ、冷水を浴びた体を両腕で抱えた。

 「……何してるの? というか……この椅子何なの……?」

 ウリエルは真ん中が窪んだ椅子を右足で蹴った。

 その時。

 「お客様~? 替えの服とタオルをお持ちしましたよ~!」

 お風呂の扉がガラガラと音を立てて開き、受付の男の声が聞こえてきた。

 赤星とウリエルは同時にL字の壁への曲がり角の湯気の中を見つめた。

 「……入ってこねぇよな」

 「来たらぶっ殺す」

 ウリエルは見た事無い程怒っていて、両手の容器をシャワーの前に投げ捨てた。

 静寂の中、室内を占拠する湯気がゆらゆらと揺れてシャンデリアの蝋燭の光を乱反射して煌めき、2人は固唾を呑んで男の次の動きを待った。

 冷水を吐き出していたシャワーヘッドがカチッと音を立て、冷水を止めた。

 直後「お客様~?」という声が聞こえ、L字の壁の先から腕の様な物が見えた。

 それを見た瞬間、緊張の糸が張り詰め、ウリエルが右手を前に構え、右手首を左手で掴んで支えた。

 そして、受付の男が姿を現した。

 何故か四足歩行になって、背中にはバスケットを乗せていた。

 中には色々なものが入っていた。

 そして、男はフードを深く被ったまま顔を上げていたが、黒い帯の様な物で目隠しをし、前を見ないようにしていた。

 しかし、それに気が付かなかったのか、ウリエルが構えた右手が発光し始め、それから直ぐに小さな火の玉が飛び出して男の方へ飛んで行った。

 小さいのに轟轟と燃え盛るその火の玉は、男に向かって物凄い勢いで飛んでいき、目を隠したままの男の顔面に真正面からぶつかった。

 火の玉は衝撃の瞬間にボワっと音を立てて男を包み込み、更に男の体が宙に浮くほどの爆風を起こして、結局、男は壁に勢いよく体をぶつけ、穴を開け、男湯の方へとその姿を消してしまった。

 男が背負っていたバスケットには色々な遊び道具の様な物が入っており、水鉄砲やプロペラの付いたゼンマイ付き人形が弾けて散らばり、大量のアヒルが個々にプイ! やピッ! といった鳴き声を出しながら温泉内をバウンドし、四方八方に飛んで行った。

 暫くしてアヒルは泣き止み、ガラガラと音を立てながら崩れる大理石の壁以外に音を立てるのは、ウリエルのはぁはぁという呼吸だけとなった。

 赤星は愕然として顔を動かす事すら出来ていなかった。

 大理石が崩れ終わって煙も収まり、また湯気が室内を満たした頃、ようやく動き出したのはウリエルだった。

 赤星の視界の端で、ウリエルがふぅとやり切った顔で額の汗を拭い、シャワーの前に行くと、立ったまま蛇口を上に捻ってボタンを押した。

 温水が出ているのか、激しい湯気がウリエル体を包んで、その時ようやく、赤星も考えるのを止めて、椅子に座ったまま再びシャワーの前に進んだ。

 膝に乗せたタオルをL字の壁の方に適当に投げつけた。

 赤星は前傾姿勢になり、蛇口を赤い印の付いている方に捻り、再びボタンを押した。

 今度は温水が出てきたが、考えられないぐらい熱く、赤星は直ぐに蛇口を青い方に捻った。

 丁度いい温度を見つけ、まずは髪を洗い始めた。

 たった1日ぶりのお風呂なのに、今日起こった事全てを、その間だけは忘れることが出来る程、気持ちがよかった。

 途中で前髪を横に避けるためのアメリカピンを外し、洗い終わると直ぐに元の位置につけ直した。

 丁度シャワーヘッドからの温水が止まった。

 髪から水が滴り、薄目だけを開けてボディーソープに手を伸ばした。

 水は長いまつ毛から瞼、そして頬へと、目を避けながら流れて行った。

 手で体を洗い、ボディーソープの容器を投げてボタンを押し、温水を出してボディーソープを洗い流すと、そのままの流れで顔に温水を打ち付けた。

 シャワーヘッドからの温水が止まり、赤星はシャワーヘッドを元の位置に戻した。

 顔を左右にブルブルと振り、手探りでタオルを掴むと、大部分が濡れていて、角の何とか湿気を纏っているくらいの場所で顔の水を取り除いた。

 湯気のせいか視界がぼやけ、正面の鏡に自分の顔が歪んで映り、折角すっきりした気持ちを落ち込ませながら、赤星は立ち上がった。

 タオルを胸の位置からまた垂れ幕の様に降ろしたが、今度はびしょ濡れのタオルが体のラインに沿ってぴったりくっついていた。

 赤星は浴槽の方を振り返り、そこで蕩けた顔でぷかぷか浮いているウリエルを見つけた。

 赤星はこけないようにゆっくりすり足で浴槽まで近づき、タオルを浴槽の縁に置いて浴槽に浸かった。

 肩まで浸かり、赤星は不思議な感覚に襲われた。

 全身の血がぶくぶくと沸騰しているかのように体中熱くなったが、決して不快ではなく、頭はふわふわして意識は薄れ、今日感じた傷や筋肉の痛みが一気に引いて行くのを感じていた。

 そんな中、黄色いアヒルが赤星の腕にトンとぶつかった。

 赤星は無意識にそれを右手で掴み上げていた。

 グローブの存在に気が付いたが、赤星は直ぐに見て見ぬふりをし、アヒルをまじまじと見つめた。

 黄色い体と赤い嘴を持ったアヒルが、つぶらな瞳で赤星と目を合わせていた。

 そんな時。

 「―――くらえ!」

 その声と一緒に、赤星の左頬にお湯がぴゅーっと1本線にぶつかってきた。

 赤星は何度か目を瞬かせてから、お湯の飛んできた方を向いた。

 そこには無事だった水鉄砲を持ったウリエルが居た。

 「やったな~!」

 赤星は広い浴槽に潜り、水鉄砲を持ったウリエルに対抗してお湯を掛けては潜るを繰り返し、ウリエルはそんな赤星を水鉄砲で撃ち抜いて、2人は暫くの間遊んでいた。

 

 「あぁ~……暑い~……死ぬ~」

 赤星は受付の男が置いておいてくれたバスローブを身に着けて、洗面台の前の丸椅子に座って体を伸ばし、脱力してした。

 左手首の腕時計がライトを受けて揺らめき、ポケットから半分飛び出した電子タバコが、危なっかしく揺れていた。

 ロッカーに脱いだ衣服は無く、書置きがあったが変な文字で読めず、ウリエルによると『洗濯しておきます~』と書いてあったらしかった。

 ウリエルは少し罪悪感を抱いた顔で、両手で『魔力晶』を掴んで膝の上に抱え、赤星の横にちょこんと座って居た。

 「……あの人に悪いことしちゃった」

 「あぁ~、いや……でもさぁ、入ってくる方が悪くない? 男子トイレのおばちゃんじゃないんだからさ~」

 「男子トイレの事なんて分からないでしょ」

 ウリエルは足の立っていない丸椅子から飛び降りた。

 「謝ってくる」

 赤星は背を伸ばしたままウリエルと目を合わせた。

 ウリエルの顔は遊んでいる時が信じられない程暗かった。

 「ウリエルちゃん」と赤星は優しい声で呼びかけて続けた。

 「あの男は怪しいから……私と部屋に行こうよ」

 赤星はよっと言って椅子から立ち上がった。

 そして「でも」と話し出したウリエルを正面に抱えて持ち上げた。

 「ちょっと、降ろして!」

 「ダメだよ~、プリンセス~」

 赤星は変なアカペラソングを歌いながら更衣室を後にして石の廊下に出た。

 ウリエルのおかげか、ひんやりもせず、埃臭さと黴臭さは鼻腔に入ってこなかった。

 風を切り、同じシャンプーを使った筈なのに全く違う匂いのするウリエルの匂いを堪能しつつ、赤星は階段を駆け上がった。

 古臭い階段はキィキィと悲鳴を上げていた。

 ウリエルは赤星の背中に『魔力晶』を持ち、振り落とされないようにするのに必死で、抵抗できないようだった。

 『魔力晶』の中のインコが階段と同じく悲鳴を上げて、ガラス玉の中で何度も壁にぶつかっていた。

 赤星は3階に到着すると、マグロの様に暴れ出したウリエルを降ろして前を向いた。

 地下と違って木製の廊下に照明と呼べるものは無く、今は出ている月明かりを受けて、薄暗く縞模様を作っていた。

 そこで赤星はあることに気が付いた。

 「やべ」

 「鍵でしょ? ほら」

 ウリエルはゴソゴソと、ダブダブのバスローブのポケットを漁り、ウォード錠を取り出して赤星に突き出した。

 「さっすが~……って、いつ取ったの?」

 「君がバスローブに着替えて直ぐに椅子に座りに行ったから、ジャンプして鍵を取っておいたんだよ……案の定、私を抱えて暴走し始めたし……」

 「そっか、あんがとね」

 赤星が反省を見せずににっこりお礼を言うと、ウリエルは薄い目で赤星を睨みつけていた。

 赤星はそれを気にすることなくウォード錠に視線を移した。

 鍵部分と持ち手部分のつなぎ目が広くなっていて、そこに『11』と書かれていた。

 「11ってことは……ここか」

 赤星は立っていた場所のまま左を向いてそう言った。

 錆びだらけでボロボロ、至る所が茶色くなっている、金色の『11』という装飾が、扉の真ん中にベタっと張り付いていた。

 「何か嫌だね、階段の目の前って」

 「いいから、入ろうよ―――もう、眠いし……」

 ウリエルが欠伸をしながら言ったので、赤星は急いでウォード錠を鍵穴に刺して回した。

 「天使も眠るんだね」

 赤星は首を回して、同時にドアノブを回しながら聞くと、ウリエルがキっと赤星を睨みつけて返した。

 「当たり前でしょ。元々天使も人間と同じで、同じ主に作られたんだから」

 「ふ~ん……その、主って神様の事? どんな奴なの?」

 赤星が扉を開けると、ウリエルが明らかに大きな足音を立てながら赤星よりも先に部屋に入って行った。

 そして振り向いて赤星と目を合わせた。

 「主は、偉大な方だよ……会う事なんて無いんだから、聞いてもしょうがないでしょ」

 「そうだね」

 赤星は適当に返し、外れ難いウォード錠を頑張って外して中に入った。

 そして内側からもう1度ウォード錠を鍵穴に刺して、ガチャっと鍵をかけた。

 赤星は振り返り、落ち着いて部屋を見渡した。

 部屋の内装は至ってシンプルで、入って右奥にベッドが1つあり、左奥には机と照明、その前に椅子が置いてあるだけだった。

 室内は綺麗で、木の匂いが立ち込めていた。

 この宿屋は受付の1階以外は、しっかり綺麗にされているらしかった。

 ウリエルは机に近づき、ようやく『魔力晶』を手放して机の上に置いた。

 ウリエルはまた、大きな欠伸をした。

 「ベッド、1つしかないね……ウリエルを抱いて寝てもいい?」

 「……朝起きて、真っ黒焦げで良ければね」

 「それは嫌かな~」

 ウリエルは面倒くさそうに返し目を細めていたが、何かに気が付いたのか首と一緒に上半身を傾げた。

 赤星はそんなウリエルの傍まで歩いた。

 「どうしたの?」

 「……んん? うん……ちょっとまって」

 ウリエルはベッドに近づくと、その下に潜ってお尻しか見えなくなった。

 少しして、ウリエルが何かを引っ張って出てきた。

 それは、ベッドの半分の高さしかない、もう1つのベッドだった。

 「なにこれ……スライド式の2段ベッドなんて初めて見た」

 「異国だし、知らないものなんて一杯あるよ―――」

 ウリエルはまた欠伸をしながらその引き出したベッドにドサッと倒れ込んだ。

 直ぐに寝息が聞こえてきて、部屋に反響しながら赤星に届いた。

 「寝るのはやぁ―――あぁ、」

 赤星は大きな欠伸をした。

 しかし、まだ寝るわけにはいかない。

 赤星はウリエルを抱えて真っすぐに寝かせ、シーツを首の下まで掛けてあげた。

 頬にキスしたくなるのをグッと堪えて姿勢を戻し、机の方を向いた。

 椅子に座って机に向かい、背を伸ばしてまず先に、どう照明を付けたらいいものかを悩んだ。

 しかし少しして、早く寝たいし、別に見えるので直ぐに諦めて『魔力晶』に向き直った。

 『魔力晶』の中に居たインコは既にいなくなり、中は緑と黒の煙が渦を巻いていた。

 渦から発される雷が、仄かに机の周りを照らしていた。

 「よし……どうするんだっけ―――触ればいいのか」

 赤星は両手を胸の高さまで上げて、グーパーを何度か繰り返した後に、ゆっくりと『魔力晶』を両手で覆い隠してみた。

 『魔力晶』はひんやりと冷たかったが、直ぐに赤星の火照った体と同じ温度になり、『魔力晶』と赤星は1つになった様に感じた。

 赤星は両手を『魔力晶』の奥側にスライドして、恐る恐る『魔力晶』中に何が居るかを見た。

 そこに居たのは、赤色に輝く蛇だった。

 蜷局を巻いて、赤星の目を見つめていた。

 スリムな矢の形の顔に、それに付いている丸い目と縦に細い瞳で見つめてくる蛇と、赤星は暫く見つめ合っていた。

 その時、蛇が口の隙間から真ん中の割れた舌を出し、上下に揺らしながらシュル?と不気味な音を立てた。

 それで赤星はハッとし、いつの間にか丸まっていた背中を伸ばした。

 「赤の蛇、か……これで何が分かるんだよ」

 赤星は馬鹿らしくなって両手を『魔力晶』からパッと離した。

 『魔力晶』の中の蛇も同時にパッと消え、また、緑と黒の煙の渦になってしまった。

 赤星は両手を上に伸ばしながら今日一大きい欠伸をしてから立ち上がった。

 壁の真ん中にある窓に近寄り、外を見た。

 目の前に平地と、その奥に森と、見える景色は緑しかなかったが、空を見上げると色々な特徴の星々が赤や青、白と個性を出しながら輝き、真っ暗で何もない筈の夜空を飾り付けていた。

 赤星は扉を上に上げて顔が出るくらいに開いた。

 月明かりに照らされる木々の梢の揺れる音、葉の擦れる音と風が吹く音が大きくなった。

 お風呂上りでまだ火照っていた赤星の顔を通り過ぎて風が部屋に侵入していった。

 赤星は改めて、あの街がいかにクソかを思い知らされた。

 暫く風を浴び、窓を閉めてベッドに横になった。

 すると、直ぐに力が抜け、意識が朦朧としてきた。

 ウリエルの寝息をBGMに、赤星は深い眠りに就いた。


 赤星は、暗いく、深い意識の奥底で、ある声を聞いていた。

 「―――何故だ―――記憶が―――奪えない? ―――何が……」

 暗闇の中で、少しずつ、ゆっくりと。より一層暗い、靄の様な物が揺らめき、段々と輪郭を形成していった。

 赤星は遠目にその靄を見つけて、気になりはしたが、今居る場所から少しも動くことが出来なかった。

 「―――こいつは―――イヴリースは―――いつだ―――自我を―――何故だ」

 動けないせいか、より一層気になり、詳しく見たくて、その靄をジッと見つめていた。

 しかし、その靄に浮く、取って付けた様な蛇のような目が、キッと睨みつけてきた。

 「―――まさか―――お前―――」

 気が付くとその目は。

 縦に長い瞳孔は、赤星の目の前へと迫って来ていた。

 「―――イヴリース」

 「―――どぅわ!」

 気が付くと赤星は、布団を打ち上げて、ベッドの上で上半身を起こしていた。

 意識が朦朧として額には冷汗を浮かべ、視界もハッキリしなかったが、部屋の入口の方から「ヒッ」という金切り声が聞こえてきて、正気を取り戻し、赤星は勢いよく振り返って声の正体を確認した。

 遠目でぼやける輪郭でも、その正体は直ぐに分かった。

 受付の男が、背中にお盆を乗せて四つん這いで床に這っていた。

 赤星は急いでベッドの上に立ち上がり、頬を力強く両側に引っ張った。

 瞬間、意識がハッキリし、視界の霧も晴れた。

 怯えたように後退りする男を、何倍も高い位置で赤星は睨みつけた。

 それと同時に、昨夜の受付の男の表情を、男がウリエルを見ていた、あの目を思い出していた。

 「なにしにきた?」

 赤星の渇きに乾いた口内から発せられたカッスカスの声にも、男はビクッと怯えていて後退りし、恐る恐る口を開いた。

 「ちょ、朝食を」

 「あ?」

 「それと―――お着替えを、置いておきましたので―――」

 「鍵は?」

 「は、はい?」

 「鍵、閉めてたよなぁ!」

 赤星はギュゥっと音を立てながら右手を握り込んで、ベッドから飛び降りた。

 ドンッという音の後の一瞬の静寂で、ウリエルの呑気な寝息が耳まで届いたが、赤星は男を睨みつけて逃がしはしなかった。

 男は「ひぃ」と言って更に後退りし、続けた。

 「あ、合鍵の方を―――ヒィ! すみません??」

 男は赤星に睨みつけられて飛び上がり、お盆を床に置いてさっさと部屋から出て行ってしまった。

 お盆の上では、2つの小さいマグカップの中で湯気を立てる黒い液体と、底の深いお皿の中に、小さく切り分けられた4つのパン入っていた。

 黒い液体はゆらゆらと朝日を反射して揺れながら輝き、パンには何かが塗られているのかテカテカと光っていた。

 それを見て、赤星のお腹の虫が鳴き声を立てた。

 「……悪いことしたか。いや―――」

 赤星は屈んでお盆を持ち上げた。

 「合鍵は、無いよなぁ」

 赤星は自分の常識を疑いつつも、お盆で『魔力晶』を壁側に押し退けて机の上に置き、椅子に座った後、迷いなくパンに齧りついた。

 コッペパンのような見た目なのに、蜂蜜を濃縮したような強烈な甘みが口いっぱいに広がって、甘いミルクの様な匂いが鼻腔を通り抜けて外に出て行った。

 「う~ん」と唸りながら、2つ、3つとパンを口に詰め込み、唸る事すら出来なくなってきた頃に、黒い液体の入ったマグカップを口元に持って行って一気に飲み干した。

 黒い液体はコーヒーだった様で、激甘のパンに染み込んで個性も何も無くなってふやけた所で、赤星は3つ分の塊を喉に押し込んだ。

 喉が膨らみ、ゴクリと音を立てて元の窪んだ形に戻り、赤星は「ぷは~」と至福の顔で息を漏らした。

 しかし、次の瞬間。

 後頭部に鈍い痛みが走り、次の瞬間視界は真っ暗に、頭を机の上のお盆に思いっきり打ち付けていた。

 中途半端にぶつかったお皿が吹き飛んで壁にぶつかって割れ、中のパンは宙を舞い、空っぽのマグカップも宙を舞った。

 もう1つのマグカップはお盆にひっくり返されて赤星の頭の上に着地した。

 勿論、ひっくり返った状態で。

 「あっっつうッッ!」

 赤星は勢い良く頭を上げ、真っ黒なコーヒーが小粒大のつぶてとなって、部屋中に飛び散った。

 少し遅れて、マグカップが割れた音が部屋に響き渡った。

 痛む額を右手で押さえ、ヒリヒリする後頭部の髪の上に浮いたコーヒーを左袖で拭いながら、顔を真っ赤にして赤星は急いで後ろを振り向き、目線を下に落とした。

 そこに居たのは、眉間にしわを寄せ、目尻を吊り上げていたウリエルだった。

 朝日を受けて、髪の星形がキラキラと輝いていた。

 「何で! 私の朝ご飯は?」

 赤星は何かに気が付き、そーっとウリエルの右手に目線を移した。

 ウリエルはその目線に気が付いたのか、右手を赤星の方に突き出した。

 右手には、真っ黒に染まったパンが1つ握られていた。

 「これ! 何?」

 「う~ん……あ、朝ご飯?」

 「違う!」

 赤星の口にカポっとパンが収まったが、赤星はラッキーと思いながら、ウリエルの指を舐める勢いで食べ進めた。

 ウリエルが直前で指を引っ込め、赤星が物欲しそうな目で指を眺めていると、ウリエルがそっぽを向いてどこかに歩き出した。

 「そうだ、『魔力晶』はどうだった?」

 「あぁ―――やってみせようか?」

 「うん」

 ウリエルが肩を怒らせながら向かった先は扉の前に置いてあったバスケットで、中には洗濯済みの、2人が昨日着ていた服が綺麗に畳まれて入っていた。

 ウリエルはバスローブを脱いで天使の格好になり、その上から赤星のジャケットを着つつそう質問してきた。

 赤星は残念に思いながらも、『魔力晶』を両手で掴んで、椅子の向きを変えてウリエルに見えるようにした。

 『魔力晶』の中の渦が、緑と黒から赤色に変わり、次に形を変えて蛇になった。

 シュルルと舌を上下にしながら『魔力晶』内をぐるりと回り、赤星からウリエルへと眺める対象をせわしなく変え、その度に蜷局の位置も変わり、尻尾の先端がパタパタとせわしなく動いていた。

 ウリエルがジャケットのボタンを留めながら赤星の方へ近づいてきた。

 目の前で立ち止まり、『魔力晶』を覗き込んだ。

 「これ、赤い蛇? なんか……可愛くない」

 「そこ?」

 ウリエルは微妙な顔になって姿勢を戻した。

 風に流され、ウリエルの香りか服の香りか、花の匂いと柔軟剤が混ざった匂いが赤星の鼻腔をくすぐった。

 「早く着替えて……ラファエルが心配だから」

 小声でボソッと、尻すぼみにそう言ったウリエルが、扉の方を振り返った。

 鼻の下を伸ばしていた赤星がハッとなった。

 「うん……いや、先に行ってていいよ。早く行きたいでしょ?」

 それを聞いたウリエルが顔を戻し、赤星と目が合った。

 ウリエルは心配そうな顔をしていた。

 「分かった…けど」

 「けど?」

 「迷わない?」

 疑うような目になって言うウリエルと目を合わせたまま、赤星は目を細めてムスッなった。

 「なんか私って……全体的に信用されてないよね」

 「……まぁ」

 赤星が『魔力晶』を机の上に戻して立ち上がると、既にウリエルは扉の前まで移動していて、何とも言えない顔で赤星の方を見ていた。

 そして、ボソッと何か言った後「じゃぁ、先に行ってる」と言って、部屋を出て行ってしまった。

 「……まぁ、何だったんだろ」

 赤星は心にしこりが出来た様な気持ちになりながら、バスケットに近づいて着替え始めた。

 バスローブを容赦なく脱いで全裸になると、次に黒のブラジャーを持ち上げた。

 その時、1枚の紙が黒のブラジャーから飛び出し、パラパラと宙を舞ってバスケットの上に落ちた。

 赤星は先に黒のブラジャーを着け、その紙を持ち上げた。

 その紙には殴り書きでこう書いてあった。

 『ラファエルの容体は良くない。ウリエルを連れて来るな。カウンターの奥に必ず1人で来い。必ず1人でだ。さもなくば』

 それから後の文字は、汚過ぎて読めなかった。

 「ふむふむ……成程。そうか」

 赤星は手紙を持つ手を降ろし、放心した。

 鼓動が早くなり、静かな部屋の床が時折立てるパキパキという謎の音よりも大きくなって、鼓膜に響き始めた。

  赤星はアザゼルの事が嫌いで、言う事なんか端から毛頭聞く気はなかったが、字面からして、アザゼルが相当焦っている事が伝わり、何故か分からないが、赤星が1人で来ることが相当大事な事の様に書かれているせいで、赤星は段々と焦り始めていた。

 赤星は紙を後ろに放り投げ、屈んで黒のレース状の下着を持ち上げて表裏を確認した。

 その時。

 「お客様ぁ!」

 扉がバンッと音を立てて勢いよく開き、レース越しに、黒のフィルターが掛かった受付の男の顔が映って見えた。

 受付の男はフードを被り忘れているのか、無造作に伸びた髪の毛が好き勝手な方向に飛び跳ね、眼窩の形が分かる程痩せた皮だけの顔に真っ白の瞳を付属し、皴だらけでカサカサに乾燥した黒い肌が飛び出していた。

 男は目を見開いて口を開き唖然としていたが、その目が徐々に徐々に下に動き、伸びた髭の隙間から真っ黄色な歯が見えてきて、口角が上がって行くのが見えた。

 「―――てめぇ」

 赤星は震える声を出しながら、こめかみに青い血管を浮かび上がらせ、ピクピクと震わせていた。

 それを聞き、男はバっと音を立てながら顔を上げたが、次の瞬間にその男の顔は歪んでいた。

 赤星が思いっきり振りかぶった右の拳が、男の鼻頭を押しつぶして凹ませながらドンという鈍い音を立て、顔全体の凹凸が無くなったと同時に、グシャっという醜い音を立てながら後ろに吹き飛んで行った。

 顔について行くように、首から下がバービー人形の様に脱力してそれに従った。

 直ぐに、男が壁にぶつかった音と、窓ガラスが割れて地面に落ち、更に粉々に砕ける音が聞こえてきたが、赤星は残酷にも扉をパタッ閉めていた。

 赤星は怒って肩を上下に揺らしていたが、ハッとして直ぐに下着を身に着け、続けて皴一つないシャツとパンツを順番に履くと、腕時計と電子タバコを乱雑にポケットに放り込んで、扉を開け、男に一瞥もくれることなく階段を駆け下りた。

 その際に男が「で、伝言……」と小さく呟いて腕を伸ばしていたが、赤星の「やばいやばい」という独り言に虚しくもかき消され、それを最後に男は遂に気絶してしまった。

 

 外に出ると、町の様子は昨日と同じく人っ子一人居る気配はなく、風が石畳の上を駆け抜けて町中を走り回り、花や草を揺らしてせわしなく匂いを運んでいるだけだった。

 街灯がキィキィ音を立てて風に揺らされ、パタパタと見た事もない鳥が飛び立っていった。

 しかし、風よりもだけ鳥よりも早く、赤星は石畳を駆け抜け、アザゼルの店へと向かっていた。

 道中、赤星はポケットを弄って電子タバコとラウンド型腕時計を取り出した。

 ラウンド型腕時計を巻きつけながら右に曲がって、町の真ん中を走る石畳の上の風を切り、そして突き当りを左に曲がった。

 やはり『闇の町』には全く人の気配が無かった。

 そして遂に、ウリエルの背中を見つけたが、すでにそこはアザゼルの店の前で、扉が完全に閉じるのを防ぐために置かれた木の棒の上から足を通し、狭い隙間を通ってウリエルが店に入ろうとしていた。

 「ちょっとまったぁ!!」

 赤星が滑りながら店の前でブレーキを掛けると、ウリエルが扉の隙間から顔を出して真ん丸な目で赤星の顔を見上げていた。

 「早い……けど。そんなに急いでどうしたの?」

 「いや、ちょっと。ごめん、ちょっと。待って……」

 運動不足華奢貧弱骨赤星が膝に手を着いて喘ぎ喘ぎに話しているのを不憫に思ったのか、ウリエルが扉から体を出し、赤星の前に全身を現した。

 「大丈夫?」

 「あぁ、うん……ちょっと、マジで。ちょっと、待って」

 少しして、赤星が腰に手を当てて何とか姿勢を戻すと、変なものを見る目のウリエルと目が合った。

 その目が早く話せと急かしている様に見えた赤星は、胸を叩いて急いで息を整え、1度ふぅと大きく息を吐いてから続けた。

 「1回、戻ろう」

 「は?」

 「宿に、戻ろ。ね?」

 赤星がウリエルの両手を握って持ち上げると、ウリエルが口をキュッと一文字に結び、遂に壊れたとでも言いたそうな目で赤星を見上げた。

 その時、扉の間に挟まれた木が宙に舞って扉が両側に開き、中からアザゼルが飛び出してきた。

 宙に舞った木を掴みながらアザゼルは、ウリエル、そして赤星へと視線を動かした。

 赤星は目つきを悪くしてアザゼルを見たが、やはり目は合わず、そして何故かアザゼルは昨日と違って元気そうだった。

 「ようやく来たか……それにしても、そんな所で何をしている」

 ウリエルがグルルと唸りだしてアザゼルに顔を向けた所で、赤星は掴む手の力を強くして、同じくアザゼルを見上げ、顎でウリエルを指して意思表示した。

 しかし、一方のアザゼルが意味を理解できていないのか、変な顔になっただけだった。

 それを見て、赤星はピキっと来たので、ウリエルの手を離して解放した。

 ウリエルは即座に飛び上がり、アザゼルの頸動脈に噛みついたが、やはりアザゼルは我関せずで、急にハッとしたように「あぁ、そうか」と言い出した。

 「あの手紙は昨晩ジル・ド・レに渡したものでな。だが、今朝になってみると驚いたことにラファエルの容体が良くなたんで、ウリエルが来ても大丈夫だと今朝伝えに言った筈だが……奴から何も聞いていないのか?」

 「あぁ……そっか……」

 赤星がそっぽを向き、それを怪しいと思ったのか、アザゼルが「どうした?」と追及してきたことで、赤星は半目でもう1度アザゼルの目を見た。

 「殴り飛ばしたんだよ」

 しかし、アザゼルの反応は赤星の危惧した反応とは打って変わって、感心したような表情だった。

 「お前……あの、ジル・ド・レを殴れたのか? やるな……奴にはお灸が必要だった。よくやった」

 「まぁ、ほぼ全裸だったし」とは言えず、更に急に褒められて赤星は頬を少し赤らめたが、直ぐにキッとなってアザゼルを睨みつけた。

 「……なんか機嫌良さそうだけど、何かいい事でもあった?」

 赤星が聞くと、アザゼルは聞いてくれと言わんばかりに前のめりになった。

 「あぁ、ラファエルが堕天したからな」

 「はぁ?」

 「あの、あの―――ラファエルが堕天したんだ???」

 ウリエルも赤星も、顔の開ける所は開き切って背を伸ばし、アザゼルを見つめていた。

 

 それから店内に入り、2人はアザゼルに従ってトコトコとカウンターの裏の扉を通って奥の部屋へと入った。

 奥の部屋は、何故か日本の家屋にある様な畳の部屋で、3区画に障子で分けられており、真ん中が広く、左右にその半分の大きさの部屋が置かれていた。

 そして、現在3人が立っている場所の向かいは、壁ではなく障子になっていて、隙間から木製の縁側とその奥の庭が見えたが、今の2人にとってそんなことはどうでも良かった。

 イグサの匂いや、隙間風が運んでくる独特の匂いが満ちに満ちた部屋も、2人にはどうでも良かった。

 アザゼルが部屋に入って左側の部屋に繋がる障子を横に動かして開き、中に入って行ったので、2人は顔を見合わせ、頷き、続いて中に入った。

 部屋の中央に敷布団が敷かれ、その中にラファエルが掛け布団を被った状態で上半身を起こし、放心状態で口を半開きにしていた。

 「らふぁえる~!」

 ウリエルがパタパタと早歩きでラファエルに駆け寄って行ったが、何故かカプっと頸動脈に噛みついていた。

 ラファエルは放心状態ながらも、懐かしい匂いがしたのかウリエルの頭を撫でていた。

 ウリエルは直ぐにハッとし、ラファエルの脚の上に乗って背中に腕を回し、抱き着いていた。

 「堕天したって、本当なの?」

 赤星はアザゼルを通り過ぎてラファエルの傍に座り、直球な質問を投げかけた。

 その質問に、ラファエルの目の焦点が戻って来て、少し口角を上げた。

 「直球だね、君……そうだよ、本当だよ……堕天した」

 ラファエルは俯き、両手で頭を抱えた。

 「何で、今更……」

 嘆きだしたラファエルの上のウリエルが赤星をキッと睨みつけてきたので、赤星は急いで口を開いた。

 「な、何だろ。そうだな……まぁ、アザゼルも、私たちもいるし、何とかなるでしょ!」

 「いや、ならないな」

 アザゼルの嬉しそうな声が聞こえ、赤星とウリエルはバっと勢いよく睨みつけた。

 アザゼルは腕を組んで何度も頷き、嬉しそうに声を上擦らせながら続けた。

 「旅人という身分に落ちてまで人間に限りなく近づき、それでもなお堕天しなかったラファエルが……あの、ラファエルが、遂に堕天した!」

 アザゼルがバっと音を立てながら両手を開き天に突き出した。

 「あの神が、遂にラファエルを見放したのだ! あれだけラファエルに甘かった神が!」

 「―――ちょっと黙れよ、お前」

 赤星は立ちあがり、アザゼルの胸倉を掴んでから、重く圧し掛かるような声で呟いた。

 しかし、アザゼルはニヤリと口角を上げ、赤星の額を見つめた。

 「お前も、あの方の分体なら、感じる所があるんじゃないのか? 仲間が増えたんだぞ? あの方が全盛期の只中でも反逆しなかった、主の従順なる僕たるラファエルを、神が見放したんだぞ?」

 「ねぇよ……そろそろ黙んねぇとかっ飛ばすぞてめぇ」

 アザゼルは口を開いて大きく声は出さずに笑った。

 「だっ―――ははは! よし! その意気だ! 赤星!」

 「あ?」

 「着いて来い」

 そう言ってアザゼルは赤星の手を振り払うと、黒光りするアウターをなびかせて外に出て行った。

 赤星はそれに着いて行こうと歩き出したが、後ろから「待って」と話しかけられて足を浮かせたまま止立ち止まり、顔だけで振り返った。

 「気を付けて」

 ウリエルが真面目な顔でそう言ってきた。

 赤星は足を降ろし「大丈夫」と言い残し、部屋を出た。

 アザゼルの背中を睨みながら後ろ手に障子を閉じ、体を左に向けた。

 アザゼルは庭が見えていた障子の隙間に両手を入れ、勢いよく両側に開いた。

 庭の景色が開けたと同時に、障子が壁の端にぶつかったトンッという音が響き渡った。

 庭には背の高い雑草が鬱蒼と生い茂り、それも、何種類もの形の違う葉を持つものばかりだった。

 その左右奥には木の柵が設置されていて、周りには森が広がっていた。

 しかし、奥の柵に、得体のしれない生き物がいて、赤星はアザゼルの背中からその生き物に目線を奪われた。

 何重にも捻じ曲がった角や尻尾、更に翼まで生えているその生き物は、体の色もこの世の生き物とは思えなかった。

 角は白濁色で体毛はオレンジ、蹄は黒色でテカテカ輝いていたのに、翼はマゼンタとちぐはぐな配色をしていたのだ。

 その生き物は、真っ赤な目で赤星を一瞥し、真っ赤な鼻をひくつかせながら、ふんっと鼻で笑ったように見えた。

 「何をしている。早く降りてこい」

 赤星が縁側でその生き物と睨みあっていると、アザゼルは既に庭まで降りていて、足の先から膝まで見えなくなっていて、赤星を恨めしそうな目で見上げていた。

 赤星は一瞬躊躇して顔を歪めながらも、息を吸って勇気を振り絞り、縁側から庭へと片足を入れた。

 足の裏にグチュっとした感触が走り、革靴の靴底半分が埋まるくらい沈んだ。

 「うぇぇ」

 嫌々ながらも、赤星はもう片方の足も庭に降ろした。

 体が更に数センチ沈んだ気がした。

 赤星は足元を見ながら、足を何度か上に浮かせた。

 背の高い草は赤星の太ももの半分くらいで、上から覗いて初めて、草の間に色鮮やかな花が生えていることに気が付いた。

 「よし、それじゃあ早速だが―――」

 「え?」

 爆音がアザゼルの方から聞こえ、赤星が顔を上げると、物凄い勢いの鉄の玉が頬を掠めて通り過ぎ、それが壁を貫通する鈍い音が背後から聞こえた。

 赤星は急いで振り返り、少し離れた位置にある、和室の入り口の壁に大きな穴が開き、その周りにひびが走っているのが見えた。

 赤星は恐怖で顔を引きつらせながら、アザゼルの方を向き直した。

 アザゼルは右半身を前に体を傾け、右腕を伸ばし、右手には銃の様な物が握られていた。

 木製の長い銃身でそこから伸びる短いグリップをアザゼルの細指が握っていた。

 そして、特徴的な銀色に輝く突起物が銃の上から伸びているのが目に留まった。

 銃身の先端からは硝煙が立ち上って空気に馴染んでいっていた。

 丁度朝日が差し込み、硝煙がキラキラと輝いていた。

 場は緊張感に包まれ、庭の草や周りの木々が揺れる音と、暖かな陽光が作り上げる匂いが辺りを包んだが、赤星の心境は全く穏やかでは無かった。

 「―――これはフリントロック式の銃だ……私が人に伝えた。だが、1つ、違う点があるとすれば、魔力がソースのため、威力が段違いに高い」

 アザゼルはそんな自慢げに話したフリントロック式の銃を、右手をパッと開いて離した。

 草の上にドサッと音を立て、赤星の視界からは消えてしまった。

 「ご親切にどうも……ただ、その1つの銃がなけりゃ、もう撃てないんじゃねぇの?」

 赤星が引け腰になりながら一生懸命に煽っていると、アザゼルの口角が上がった。

 「安心しろ」

 そう言い放ったアザゼルの開かれた右掌の前に、小さな玉の様な物が現れた。

 その玉はキュルルと音を立てながら勢いよくその場で回転していた。

 そして、次の瞬間にポンと音を立てて先程のフリントロック式の銃が姿を現し、アザゼルの右手に収まった。

 赤星は唖然とその光景を見ている事しか出来なかった。

 アザゼルの右手がギュッとグリップを握る音が聞こえ、赤星はハッとしてその場から動こうと足を浮かそうとした。

 しかし、その時になって初めて気が付いた。

 足元の草がうねり、脚にきつく絡みつき、地面に強く引っ張ってきていたのだ。

 赤星は足が動く前提で体を前に傾けていたので、前のめりに倒れ、顔から地面に突っ伏すように倒れてしまった。

 赤星は次の爆音を聞いて急いで顔を上げ、鉄の玉を捉えることが出来たので、唯一動かせる体と顔を横に向けた。

 するとその直後。

 横を向く際に、遅れて浮いた髪の毛の隙間を縫って、その何本かを引き裂きながら鉄の玉が通り過ぎ、再び壁を貫いて消えていった。

 赤星は肩を地面に強く打ち付けたが、痺れる両手をドロドロの土に着いて力を入れ、直ぐに上半身を起こした。

 足を延ばして太ももを両手で掴み、更に足に力を入れて手前に引っ張り、絡みつく草を引きちぎろうとしたが、想像以上の力で、むしろ体が持っていかれる程だった。

 「―――そうだ」

 アザゼルが声を出し、赤星は足を動かしながら顔をアザゼルに向けた。

 フリントロック式の銃の銃がドサッと地面に落ち、次の準備が始まっていた。

 それを確認して、赤星は足に視線を戻した。

 「『魔力晶』には何が映った?」

 「あぁ? あぁ、うん……何だったっけ」

 赤星は考えるふりをしながら視線を脚に戻し、汚れを気にせずお尻を地面に着いて、足を必死に動かしていた。

 ブチッブチっと音を立てて数本の草が脚から手を離していた。

 お尻はグショグショに濡れ、気持ちの悪いぬるぬるとした感触が、2つの山頂を包み込んでいた。

 「どうした。時間稼ぎか? なら―――」

 片足の草が離れてシュルシュルと縮み、そこでようやく、改めて赤星はアザゼルの方を振り返った。

 右手には既にフリントロック式の銃が握られていて、今まさに力を込めている所だった。

 更に、あろうことか、左手の前にも小さな玉が回転しているのが目に入った。

 「ッ、クソッ―――早く、離せぇ??」

 赤星は急いでもう片方の脚を両手で握って思いっきり引き寄せた。

 自由になった片足で踏ん張りながら引っ張ると、近くにあった赤い花から「ピギィィ」という甲高い悲鳴が聞こえてきた。

 ブチっと音を立てて草が千切れ、支えを無くした赤星は、その勢いのまま後ろに倒れてしまった。

 その途中、赤星の浮いた前髪を切りながら鼻の頭を掠めて鉄の玉が通過し、縁側を粉々に砕いた。

 赤星は後ろ半身を泥まみれにしながら息を吐いたが、頭頂部からガチャリと音が聞こえ、顎と目を上げながら音の方向を確認すると、アザゼルが右手の銃を離して左半身と左腕を前に銃を突き出し、倒れている赤星に向かって銃口を向けていた。

 「早く起き上がるか、右手を前に構えた方がいいぞ」

 アザゼルの声と共にガチャっという音が聞こえたので、赤星は顔を横に向けながら手を地面に着いて起き上がろうと力を入れた。

 しかし今度は、体が泥に掴まっていているのか、グチャグチャと後ろ半身に引っ付いて地面と固定し、何とか浮いたのは痩せてくびれた腰回りだけで、上半身すらまともに起こせなかった。

 「おい! ちょっと待てよ!」

 「知らん。というより……さっきまでの威勢はどうした? 助けでも乞うてみるか?」

 「誰が、てめぇなんかに―――」

 赤星は歯を食いしばえい、顔を歪めながら全部の力を腕に込めた。

 すると、ズボォという水っぽい音を立てながら赤星の肩、肩甲骨の順で起き上がり、その勢いのまま上半身を起こすことが出来た。

 あとは、脚だけだが。

 「ヒントをやろう」

 「ヒントだぁ?」

 「―――生き残りたければ、右手を使え」

 そのアザゼルの冷たい声と共に、トリガーを引く音と、火薬が火を付けた甲高い音が庭に響いた。

 赤星は首を回してアザゼルの方を向き、唖然とした表情で迫りくる鉄の玉と目が合い、ほんの一瞬だけ絶望に打ちひしがれたが、奥にぼやけて見えるアザゼルの余裕の表情が目に入り、それが癪に障った赤星のこめかみに青筋が浮かび、眉間に皴が寄った。

 眼前まで来ていた鉄の玉を、体を捻りながら風を切って伸ばした右手で受け止めた。

 グローブは更にきつく右手を締め付けていて、それでも抑えられない魔力なのか、黒い煙が勢いよく漏れ出して、伸びる右手の軌道を残していた。

 鉄の玉を、第2関節から先を垂直に曲げた手のひらの真正面で受け止めた。

 一瞬、鉄の玉を黒い煙が包み、宙で静止したかに見えたが、次の瞬間には鉄の玉が赤星の手のひらに衝突し、その中で鋭く回転してグローブとの摩擦で嫌な音を立て、バチっと電気の様な物が空に飛び散っていった。

 赤星は右手に鈍い痛みを感じ、その次の瞬間には、体がふわりと宙に浮いていた。

 そして、視界に映る景色がクルクルと周ってひっくり返り、風が全身を駆け抜けて行くのを感じた。

 それから直ぐ、グシャっと何かを潰す感触が背中に走り、そして、鋭い痛みが一斉に体の節々を襲った。

 木の破片の様な物が宙に舞うのがぼやけて見えたが、首が言う事を聞かず、重力に従って下がり、顎が鎖骨の間にある窪みにピッタリとはまった。

 朦朧とする意識の中で、体温が上がり、心臓の動きが早くなっている事に気が付いた。

 耳の奥に心臓の音が煩いくらいに響き渡ったが、少ししてからスゥっと周りの音が大きくなっていった。

 「もういいでしょ!」

 「ダメだ。ソイツは力の使い方以前に、戦う事が何を意味するかを知っておかなければならん」

 「っ―――いや。だから、もう十分でしょって! 言ってるのッ!」

 今だ焦点の合わない視界の先で、朱色の光が乱反射して視界を埋め尽くした。

 そのあまりの眩しさに赤星は目を瞑り、全身の力を抜いて自分の体の事だけに考えを巡らせた。

 頭の先から足の先まで、ピクリとも動かすことが出来なかった。

 上半身はジンジンと痛みが走り、少しずつそれは大きくなり痛みを増していく。

 右腕は間違いなくイカレている。

 左腕は動きそうだが、脳がそうさせてはくれない。

 背骨は変な方向にうねっているのが分かった。

 赤星は大きく息を吐き、まずは呼吸を整えようと努力した。

 しかし無情にも、次第に意識が薄れていき、音や痛みがはるか遠くに離れて行った。

 そして、視界に広がる闇の中に、何かが見えた。

 少しして、完全に意識が闇に呑まれ、何処かで見た覚えのある、縦に長い瞳孔がこちらを見つめて来ていた。

 「―――そうじゃない―――イヴリース―――」

 霞の中から聞こえる様な、透き通るような声が話しかけてきた。

 それなのに、凄く重く苦しく感じ、酷く圧し掛かってくるような声だった。

 「―――感じろ―――俺の―――」

 ハッと、赤星は勢いよく顔を上げた。

 気が付いた時には、視界綺麗に開け、久々に解像度の良い景色が見えた。

 ウリエルの小さな背中と、その奥に、アザゼルが銃を降ろしているのが見えた。

 体を動かそうとすると、その部位がパキパキと音を立てて軋んだ。

 今の自分の状況に改めて意識を向けると、次第に呼吸がし辛くなり、薄い息がピーピー音を立てて出たり入ったりしていた。

 視界が、意識がハッキリしている分、このまま死ぬのではないかと、恐怖に駆られていた。

 そう諦めかけた時だった。

 突然、心臓が1度、大きくドクンと音を立てて跳ね、肋骨を力強く押した。

 その瞬間、視界がぐらっと揺れ、目ん玉がグリっと上に向いた感覚がして視界が真っ暗になった。

 心拍数が上がり、1回1回の心臓が送り出す血液量が多くなり、体温が上昇し、先程までケガをしていたであろう箇所がボギッボギッと音を立てて変な方向に曲がり、傷が治って元の形に戻った。

 耳に蒸気を直接当てられたような感覚に襲われて首がグギッと1周し、そこで視界が開けた。

 ウリエルが心配そうな顔で見つめて来ていた。

 その奥のアザゼルが唖然として、間抜けに口を開いて見つめてきていた。

 経験した事の無い、不思議な視界だった。

 フィルターが掛かったみたいに、景色が白と黒のモノクロに見えた。

 赤星は自分の手を見て、何度か開いたり閉じたりした。

 そして、心臓の高鳴りと、自分の荒くなった息を感じ取った。

 その時、自分が有り得ないくらい興奮している事に気が付いた。

 赤星は居ても経っても居られなくなって急いで立ち上がった。

 下げたままの視線で、まだ両手を開いたり閉じたりして、感触を確かめていた。

 まだ、体温が上がっていく。

 視界が降りた事で、何故か前髪が伸びている事や、呼吸をする度に口から黒い煙を吐き出している事に気が付いた。

 それを無視し、赤星は両手を降ろして右足を引いた。

 今すぐ駆けだしたい、高揚した気分だった。

 視界の下の方で、ウリエルが一生懸命口をパクパクさせて何か言っている様だったが、その声は耳に届いてなかったし、どうでも良かった。

 赤星は唸りながら1度はぁと大きく息を吐き、右足で泥を蹴って走り出した。

 絡みついていた草や泥が、ドヮッと音を立てて消えた。

 紫色の瞳が闇を纏い、星の輝き1つ無い、ドス黒いブラックホールの様になっていた。

 その瞳に唖然と立ち尽くすアザゼルが映った。

 髪が風に流される、くすぐったい感覚があったが、それに気が付いた時には、眼前にアザゼルの顔が迫って来ていた。

 アザゼルは両手を前に出し、防御の構えを取っていた。

 赤星は前傾姿勢に、勢いのままにアザゼルに殴りかかった。

 全体重を乗せた右拳はアザゼルの両手に当たる少し手前で、パァンと爆音と爆風を出して静止したかに思えた。

 しかし、その後直ぐ、赤星が足を泥に着いた時には、目の前にアザゼルの姿はなかった。

 赤星は右手の痺れを感じながら、ゆっくり顔を上げた。

 アザゼルは木の柵に寄りかかって驚いた顔を浮かべていた。

 影を操り、自分の体を支えて耐えたのだと、赤星は無意識に感じ取っていた。

 変な形の影がアザゼルの背後から近づいて来て、足元に戻っていった。

 木の柵の向こうの変な生き物がアザゼルに近づいて角を腕に当て、甘えていた。

 赤星はアザゼルに視線を戻した。

 すると、アザゼルの口角は不気味に吊り上がり、笑っている様だった。

 そして、ただの1回。

 赤星が瞬きをした時に、赤星の顔の横にアザゼルの顔が来ていた。

 口がパクパクと上下し「それでいい」と、そう言っていた様に見えた。

 アザゼルの骨の様な手が一杯に開かれて赤星の顔を覆い隠した。

 一瞬にして、視界が暗闇に呑まれた。

 赤星の背筋がゾクッと震えた。

 そしてその直後に、赤星の意識は、暗闇の奥、深く深くに落ちていた。

 

 ―――何だったのだろうか。

 あの高揚感は、幸福感は、もう2度と……経験できないのだろうか。

 体の底の方から、熱が這い上がってきた。

 その熱が心臓を鷲掴みにし、無理やりに心臓を動かしている様だった。

 もう1度―――もう1度だけ。

 全身に力を入れると、激痛が体を包んで赤星は目を覚ました。

 ガバっと勢いよく上半身を起こすと、伸ばした腕の下にひんやりと、滑らかな生地の布団が二つ折りになっていた。

 今はどうやら夜の様で、真っ暗な視界の中で、風が障子を叩く音と草が揺れる音が聞こえ、冷たい風が頬を撫でて通り過ぎた。

 音の方向を向きたくて首を動かそうとしたが、激痛が走ったので諦めた。

 続けて全身が痛んだので、赤星は脱力して後ろに倒れ込んだ。

 背中にふわっとした感触を感じ、後頭部がパサッと柔らかな枕に包まれた。

 「よく眠れた?」

 首が動かせずに、微かに月明かりを帯びる色白の天井を見つめていると、ラファエルの、今までに無い程優しい声が左側から聞こえてきた。

 どんな表情で話しているのか分からないが、次にラファエルが「ふふっ」と小さく笑ったので、少なくとも笑顔であるということは分かった。

 「アザゼルは強かった?」

 ラファエルの言葉を聞いて、アザゼルとの戦いを思い返していた。

 おかげで全身の痛みが引いて行くような気がした。

 「うん……手も足も出なかった……あの時……自分が、自分じゃ無くなった感じがして……」

 赤星は唯一動かせる下顎と舌を使って、乾いた口と喉から必死に声をだした。

 ラファエルは1度「うん」と相槌を打ち、聞く姿勢を取った。

 「でも、今までに感じたことがないくらい、楽しかった」

 赤星はアザゼルに殴りかかった場面を思い返しながら続けた。

 「もう1回、あの状態に―――」

 「ダメだよ」

 赤星の言葉をラファエルが遮った。

 「呑まれちゃダメだよ。制御しないと」

 赤星はあの幸福感を振り切って、ラファエルの言葉の意味を考えた。

 ?まれちゃだめって……どういうことなのだろうか。

 赤星は使えない脳をフル回転させて考えた。

 そんな赤星に気が付いたのか、少ししてラファエルが続けた。

 「アザゼルとの戦いで何があったのかは見てない。だけど、きっと……あの時の君は、ルシファーの力に呑まれかけていたんだと、そう思うんだ」

 それを聞いて、赤星は首の痛みを忘れて無理やり左を向いた。

 首が鈍い音を立て、激痛が走ったが、それも一瞬で、目の前の景色を見たら直ぐに癒された。

 ラファエルは、布団の中でウリエルを後ろから抱きしめたまま、赤星の方に体を向けていたのだ。

 赤星の顔の筋肉が緩んだが、頑張って筋肉を動かして言葉を発した。

 「ルシファーの力? 私の中に眠ってるとか、そういう?」

 ラファエルは少し考えるような格好になって口を開いた。

 「勿論、君はルシファーの分体かもしれないから、眠っている力があるのかもしれない……だけど、それだけじゃないと、僕は考えてる」

 「ん? どういう―――」

 サァーと音を立てて部屋正面の障子が横に動いたのが、視界の端に映った。

 「ようやく目が覚めたか―――何だ、その目は」

 赤星の視界の先で、ラファエルが汚物を見るような目をアザゼルに向けていた。

 「アザゼル、君、やり過ぎだろ。赤星を殺す気?」

 「何を言っている、その逆だ……おかげで力に気が付いたろう。それに、戦いの厳しさもな」

 アザゼルはスッ布擦れの音を立てながら部屋に入り、後ろ手で障子を閉めて前に進んできた。

 赤星はそんなアザゼル何て生き物はどうでも良く、ラファエルが自分のために怒ってくれたことが心の底から嬉しくて、1人勝手に顔を綻ばせてポカポカしていた。

 しかし、そんな赤星の視界の先にアザゼルがドサッと座って現れ『魔力晶』を力強く畳に叩きつけた事で、赤星は我に返った。

 「あ『魔力晶』じゃん」

 言いながら、赤星は内心ギクッとしていた。

 「あぁ、私がこの足で取りに行った……お前、人が預けたものを何だと思っている?」

 アザゼルはまた赤星の額をキリっと睨みつけてきた。

 赤星は直ぐに目を逸らし、ラファエルを見て表情筋を緩めた。

 「はぁ……まぁいい。状況を説明する……赤星、お前いつまで横になっている? それが人の話を聞く態度か?」

 アザゼルが赤星を見下しながら強気で言い放った。

 「無茶言うなよアザゼル。それだって赤星は限界なんだ」

 「そうだそうだ」

 殴りかかろうとして直ぐに激痛が襲ったので、赤星は只唸ることしか出来ず、ラファエルの言葉にすかさず同調した。

 アザゼルは赤星を冷ややかな目で一瞥し「まぁいい」と言って『魔力晶』を向き直して続けた。

 「確か、赤い蛇だったな……腕を動かせるか? 1度見たいんだが……」

 「う~ん。無理」

 「そうか」

 赤星は腕を動かそうとしたが、細かくピクピクと痙攣しただけで。只々苦痛だったので、赤星は顔を歪めて目線だけでアザゼルの方を見た。

 アザゼルは仕方ないという顔をしていた。

 赤星は気分が悪くなって目線を正面に戻すと、ラファエルがウリエルの体越しに腕を伸ばして『魔力晶』に触ろうとしていた。

 アザゼルもそれに気が付いたのか、『魔力晶』を赤星の方に寄せてラファエルから距離を取らせた。

 「いいじゃん。触らせてよ」

 ラファエルがダンダンと畳を叩いた。

 月明かりに埃が照らされて、赤星は小さくくしゃみをした。

 「ダメだ……天使が触るとマズいことは、ラファエルも知っているだろう?」

 「もう天使じゃないんだよ……アザゼル、わざとだろ」

 傍でラファエルが憎むような目で見上げていたが、赤星は違和感を覚えて迷わず口にしていた。

 「でも、ウリエルは触ってたよ?」

 「何?」

 アザゼルの足がザっと動いた。

 「ウリエルが触っただと? ……では、何故『魔力晶』は、割れていない? 知識もないのに有識者の前で嘘を吐くとはいい度胸だな」

 「嘘じゃねぇよ!」

 赤星は叫んだ後に大きなくしゃみをした。

 その間、アザゼルの影がゴソゴソ動き、腕を組んでいた。

 「それじゃぁ、中に何が映ってたの?」

 「緑のインコ」

 ラファエルの癒しの質問に赤星は食い気味に返した。

 「そうか、緑のインコか……成程」

 「何か分かったの?」

 ラファエルの視点が、赤星から上に動いた。

 「……ウリエルが小さくなった時、赤星の魔力が流れ込んだんだろう?」

 2人が赤星を見た気配がして、赤星はバキバキと音を鳴らしながら小さく肩をすくめた。

 「……まぁ、そう仮定すると。緑のインコ程度の魔力がウリエルに宿ったとしても、違和感はないな」

 「何で?」

 赤星が反射で質問すると、ラファエルと目が合った。

 「1から説明すると、『魔力晶』が示すのは触った人が持つ、魔力の危険度と属性なんだよ」

 「……はぁ」

 赤星は少し考え、辞めて『魔力晶』を眺めた。

 『魔力晶』の中で緑の雷が一瞬発光し、消えていった。

 そんな赤星に気が付いたのか、アザゼルが言葉を引き継いで続けた。

 「危険度は緑、黄、赤の順で色分けされていて、緑が1番安全で赤が1番危ない。属性は各属性に動物が決まっている。それが可視化できるのが『魔力晶』なんだ」

 「ふ~ん……じゃぁ、緑のインコはどうなるの?」

 「少し待て」

 アザゼルの影が動いてゴソゴソと音がし、視界の端に小汚い紙が映った。

 月明かりを受け、汚い紙の向こう側が透けて見えた。

 「……そうだな、緑だから安全なのは確定だ……だが、インコは―――」

 アザゼルが息を呑む音が聞こえてきた気がした。

 「どうかしたの? アザゼル」

 「いや」と唸り、アザゼルは小汚い紙を降ろした。

 紙には見た事の無い字がつらつらと書かれていたが、その下にイラストとして、鳥や四足動物が段々と強くなるよう、順番に描いてあった。

 「インコなんて前例は、無い……それに、蛇もだ」

 ラファエルは手をパタパタさせてアザゼルから紙を受け取り、ジロジロと眺めた。

 「アザゼル、確かに前例は無いけどさ」

 「あぁ」

 「インコは鳥系列だろ? 蛇は本当に分かんないけど」

 一瞬沈黙が走ったが、アザゼルがラファエルから紙をひったくり、クシャっと丸めてその沈黙を破った。

 「前例がなければ意味はない……悪いな、とんだ不良品で時間を取らせてしまった」

 アザゼルは吐き捨てるようにそう言うと、『魔力晶』を持って立ち上がった。

 赤星はどうでも良かったし早く寝たかったが、ラファエルが訝しむような目でアザゼルを見上げていた。

 赤星は首を無理やり戻して天井を見上げた。

 すると、障子に手を伸ばしたアザゼルの影がピタッと止まった。

 「それと、言い忘れていたが」

 「何だよ」

 アザゼルを下目に見ると、アザゼルは障子から目を離さないまま続けた。

 「さそり座は不吉の予兆だから、これから数日間は周りに気を付けた方がいい……それと、明日の昼までに魔力を全身に纏えるようにしておけ」

 「おい。おい!」

 アザゼルが言いたいことだけを言って障子を開き、出て行こうとしたので、赤星が急いで声を掛けた。

 「それ、マジで言ってる?」

 アザゼルが首を回して赤星の額を睨んだ。

 「あぁ大マジだ。私の予想だと、そろそろミカエルが動き出す……むしろ、今日来てもおかしくないくらいだった……お前も、死にたくは無いだろう?」

 赤星はミカエルの名前を聞いて唖然としていたが、何とか声を捻りだし、首を戻したアザゼルの背中に声を掛けた。

 「何でミカエルが動き出すと、私が死ぬことになるんだよ」

 「ミカエルがお前を狙ってくるからだ……あくまで私の予想だが……力を使えるようになることに、百利あって一害も無いだろうからな」

 アザゼルは部屋を出て、後ろ手に障子をパタンと閉めてしまった。

 「赤星、やるしかないよ……僕も、ウリエルも手伝うからさ」

 「うん……いや……うん」

 赤星は森で見たミカエルの桁違いの力を思い出していた。

 大人ウリエルもラファエルも、手も足も出ていなかった。

 というより、凄く怯えていた。

 今の自分が、あの時のウリエル達より強い訳がない。

 「大丈夫だよ赤星……ミカエル様は、殺しはしないよ―――僕の予想だと、ルシファーの分体を利用したいと思っている筈だから」

 「うん……」

 赤星は目を瞑った。

 暗闇の中、月明かりの青白さがぼんやりと残っていた。

 自分の呼吸と体中の痛み。

 それを押し退けるような爆音で、心臓が早鐘を打っていた。

 赤星は大きく息を吐き、何にも考えないようにした。

 しばらくして、横から2人分の寝息が聞こえてくるようになった。

 それを聞いて安心し、赤星の意識も薄れていった。

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