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明星の日記  作者: 芥之 相
4/12

第三章 2024/3/29 目覚め始めた悪魔と町の商人アザゼル

それから少しの時間が流れ。

 赤星の右手のベタベタが無くなってきた頃。

 強風に煽られてへし折れた傘の様に死んだテントの皮を剥ぎ、それを下に敷いて3人は顔を見合って座っていた。

 不思議なことに赤星の前髪は元の長さまで伸びていたが、その事に、2人はともかく、赤星すらも気が付いていないようだ。

 そよ風がその前髪をさらって行こうとするたびに、赤星は手で前髪を押さえていたのに、何で気が付かないのだろうか。

 赤星は1度、大きなくしゃみをした。

 半分になったジャケットを羽織って、両腕で体を抱いた。

 「で、これからどうするか、だよ。ウリエル」

 ラファエルは体育座りで膝を抱え、その上に顎を乗せる格好で、ウリエルにそう質問を投げかけた。

 ウリエルは正座で姿勢をピシッと伸ばしたまま、目を瞑って考え込んでいた。

 しかしその直後「あの」と赤星が声を出した事で、ウリエルは目を開き、2人は赤星の方を見た。

 「私、あの。明日っていうか、今がいつか知らないんだけど……仕事いかなきゃなんだけど」

 それを聞いてラファエルはムスッとした顔になり、ウリエルは小さく微笑んでいた。

 「そっか……そうだよね」

 ウリエルはそう呟くと、正座のままテントの皮の上を滑り、赤星の前まで進んだ。

 不思議な顔で見上げる赤星と、ウリエルの優しい目が合った。

 赤星の目の周りの痣の様な黒色が、影を帯びてもっと酷くなった。

 「君は次に目が覚めた時、いつも通りの日常を送れば大丈夫だから」

 赤星は言葉の意味が分からず、顔を歪めて、今まで使ってこなかったであろう脳をフルで回転させて、言葉の意味を呑みこもうとしていた。

 そんな赤星の左右のこめかみに、ウリエルの両手が優しく触れた。

 触れた両手の周りが、仄かな朱色を帯びた。

 「良いの?」

 ラファエルが含みのある言い方で、ウリエルの背中に声を掛けた。

 ウリエルは首を少し動かし、ラファエルを横目で見た。

 「……うん。多分……この子がボロを出さないことが、ミカエル様から身を隠す、最善の方法だろうから」

 「でも、主の命令だとしたら―――」

 「ううん。ミカエル様は、ルシファーの分体を自分の為に働かせようと、そうしていた様に感じたから」

 「えぇ? そんなこと―――」

 「それに、この子に罪は無いし」

 赤星は考えるのを辞め、キョトン顔を通り過ぎてアホ面でウリエルを見上げていた。

 「―――そうだけど、力は持ってそうだし、多分、確証はないけど……天月を連れ戻す、戦力にはなるかもよ?」

 「危ない事には、巻き込めないよ」

 ウリエルは顔を赤星に戻し、目を瞑った。

 すると、ウリエルの体から朱色の風が巻き起こりし、体の上を走り始めた。

 その風は、体からウリエルの右腕に集まり、赤星の左耳から侵入していった。

 「な、何この煙? 何してんの?」

 赤星はアホ面が悪化して口から涎を垂らしていたが、その風が目に入ったのかハッとして声を出した。

 「記憶を消すんだよ~」

 ウリエルの背中越しに、ラファエルの無責任な声が飛んできた。

 「な? ちょ、ま、待ってよ! 記憶を消すって、どこから? どこまで?」

 赤星は体を動かそうとしたのか、ビクビク動いていたが、腕の1本すら上げられないようだった。

 全身は脱力し、目も虚ろになっていく。

 そして遂に、朱色の風が赤星の右耳から少し淀んだ色になって飛び出して来る。

 その筈だった。

 「ウリエル! 風の色が変だ!」

 ラファエルが焦ったような声を出し、四つん這いで赤子の様に近づいて来ていた。

 ウリエルはそれを聞いて焦ったように目を開けた。

 赤星も恐る恐る、違和感のある自分の左耳を横目に見た。

 赤星の左耳から出てきた風の色は、朱色でも淀んだ朱色でもなく、真っ黒だった。

 ウリエルは咄嗟に手を離して赤星から距離を取ったが、その真っ黒な風は段々とウリエルの朱色の風を侵食し、真っ黒に染めていった。

 そして。

 真っ黒になった風がウリエルの体を包んでいったが、ウリエルもそれに抵抗するように、目を瞑り、集中して力を込めていた。

 握りしめられた拳からは、血液の代わりに濃い朱色の風が飛び出してきていた。

 その朱色の風と真っ黒な風が拮抗し、とてつもない風圧の、朱色と黒色のスプライト柄の風がウリエルの周りを包み、赤星は勿論、ラファエルすらも声を出せずにその様子を見守ることしか出来ていなかった。

 しかし次の瞬間。

 自然がそのエネルギー量に耐えられなくなったかのように、ウリエルの体から紫電一閃。爆発的な光と風が巻き起こり、周囲の物を吹き飛ばして消えていった。

 吹き飛んだラファエルは空中で翼を広げて態勢を整え、その翼を前に風を防ぎ、赤星は遠くの方で後頭部を木に打ち付けて地面にうずくまっていた。

 再び森一帯に凪が走った。

 風も無くなり、葉が擦れ合う音も無く、匂いも消え失せていた。

 だが直ぐに、ラファエルは翼を閉じて地面に降り立ち、赤星は立ち上がって、2人は急いでテントの死体の方へ走った。

 「ウリエル?」

 「な、何が、何が起きたんだよ……」

 そして2人は同時に、そこにある衝撃の光景を目にし、口をあんぐり開け、喋れなくなってしまった。

 その光景とは、テントの皮が抉られた穴の、土の窪みにあった、今までウリエルが着ていた服の間から、小さな女の子が顔だけを覗かせて周りをキョロキョロと見回していたのだ。

 そして、その女の子の目線が赤星で止まった。

 「ん!」

 女の子の両手が服の間から飛び出し、赤星に伸びた。

 「……あ、はい」

 赤星は直ぐに駆け寄って屈みこみ、女の子の腕が自分の首の後ろに回る様にして、服を全部すくい上げながら抱えた。

 ウリエルの特徴的な金髪からは星形が溢れ、花の匂いが赤星の鼻腔をくすぐった。

 背中には、とてもとても小さな翼の様な物が生えていた。

 これも、ウリエルの特徴的な朱色の翼だった。

 「間違いない、ウリエルだよ」

 駆け足で近づいてきたラファエルが、赤星の目を見てそう言った。

 小さなウリエルは、赤星の首に手をかけて、きつくギュゥっと強く締め、寝息を立てて眠りだしてしまった。

 「は、はは……これ、私のせい?」

 赤星は左手でウリエルの体を抱え、開いた右手で頬をポリポリかいた。

 途端に、ラファエルは驚愕の目になり、それを赤星の右手に向けていた。

 目をひん剥き、口を開けていた。

 「ど、どうしたの?」

 赤星は目線に気が付き、恐る恐る右手を頬から離した。

 「な、なななな、何が起きて―――」

 ラファエルが赤星の右手首を強く掴んだ。

 「何で君が、ウリエルの風を?」

 赤星の右手の周りには朱色の風が吹いて遊んでおり、時折傷口から飛び出す黒い風が、口の形になってそれを喰らっていた。

 

 「ダメだ、色んな事が一気に起き過ぎて何から呑みこんで行けばいいのか分からない」

 赤星はテントの窪みに足を突っ込んだ状態でウリエルを抱えて座り、ラファエルはその周りを、腕を組んだ状態でせわしなく歩き回っていた。

 ウリエルの寝息と匂い、ラファエルの唸り声と独り言、そしてテントの皮が風で起き上がり、ペタッと地面を打つ音が赤星の耳にとめどなく届き、赤星は顎をウリエルの肩に乗せ、バランスを取って眠っていた。

 「とにかく、今は天月の事は忘れよう……今はウリエルを戻すことと、その―――そういえば、君、名前は?」

 急に声を掛けられた赤星はパっと顔をウリエルから離してラファエルを見た。

 ラファエルの顔は真っ青で渋い顔をしていた。

 どれだけ悩み考えていたかが伺えた。

 「え? ……赤星、だと」

 「そうか、赤星―――君の右手をどうにかする事、この2つだけを考えよう……天月には悪いが、これは異常事態だ、仕方がない……だが、どうする……」

 ラファエルは頭を抱え、屈んで唸り出した。

 赤星はそんなラファエルを見ていたが、むにゃむにゃと小さく唸ったウリエルが可愛かったのか、顔をパッとウリエルに向け、赤星は気持ちの悪い蕩け顔になり、頭を撫でようとしたが、横から「右手で触れるな!」というラファエルのごもっともな意見が飛んで来て、手を止めた。

 「……考えても仕方ないか……僕には知識が無い……僕は役に立たない」

 ラファエルは膝に手を当てて立ち上がった。

 「立って。町へ行こう」

 赤星は呆気に取られてラファエルを見上げた。

 直後、赤星は口を開いたが、ゴクリと喉を鳴らして呑みこんだ。

 多分、「家に帰れないの?」と言いたかったのだろう。

 だが、意図的ではないとはいえ、赤星が原因で起きた事だ。

 責任を感じたのか、赤星はスッと立ち上がって窪みからジャンプして飛び出した。

 「よし! 行こう!」

 赤星は分かり易く空元気で叫ぶと、向いていた方向にカタカタと歩き出したが、それは直ぐにラファエルに止められた。

 肩を掴まれた赤星の体がクルリと回り、ラファエルの額とと鼻がくっつきそうな位置で止まった。

 「そっちじゃない」

 「あぁ、ごめん―――」

 謝罪ついでに赤星の右手がラファエルの顔に近づき、それに対してキレたラファエルが数歩下がって距離を取り、赤星を棍棒で殴りつけて直ぐに振り返って歩き出した。

 怒った肩は激しく上下に揺れていた。

 結局赤星は俯いたまま、トコトコとラファエルの怒れる背中に従って歩いた。

 赤星の、脱力してぶら下がっている右手からは、回復薬は全く意味が無かったのか、血を滴り落とし、道筋を残していた。

 

 それから1時間ほどが経過し、2人は無言で縦に並んで歩き続けていた。

 進むに連れて、先程の様な神秘的な光景からはかけ離れて行き、下草が鬱蒼と生い茂って道という道は無くなり、のっぺりとした木々もその姿を隠してしまった。

 更に、先程の眩しさのせいか、木漏れ日もその意味をなさず、森は更に薄暗く感じられ、赤星は酷く気分が落ち込んだのか、顔いっぱいにそれを表現していた。

 しかし、ラファエルの優しくも暖かい草の様な匂いや、抱えているウリエルの花の様な匂いと寝息からかいつもよりは落ち着いていて、複雑な顔をしながらもいつもの傍若無人っぷりは発揮していなかった。

 時折赤星は木の根に躓き、ローファーが沼の様になった土に呑まれていたが、それでもまだ、我を保っていた。

 上下左右に屈曲し、躓き、肩が何か硬い物にぶつかり、草の中を移動する不気味な音を聞いて驚き、虫が顔に突進してきて、叫びたくなる度にウリエルを見て押さえる。

 そんな事を何度も何度も繰り返している内に、次第に赤星の目の色は死に絶えて真っ黒に染まり、感情もクソも無くなっていた。

 首1つ動かさないので、頭の上には蝶が1匹、当たり前のように佇んでいた。

 ラファエルはそんな赤星を気にする素振り1つ見せず、慣れたように障害物を軽々乗り越えて行き、前だけを見て歩き続けていた。

 そんな時。

 急に立ち止まったラファエルの背中が赤星の胸に直撃し、そこでようやく赤星は、平地の硬い土を踏みしめている事に気が付いた。

 周りを見ると、背後では不自然な程に森がスパっと終わっていて、正面には町の入り口なのか、石が積み上げられて出来た門の様な物があり、3人は今、間の道に立っていた。

 道の周囲には背の低い芝生が生えていた。

 前につんのめって倒れそうになったラファエルが、赤星の方を向いて赤く染まった頬を膨らませて怒っている様だったが、赤星の顔が横を向き、その顔が赤く照らされていることに気が付いたラファエルも、同じ方を向いた。

 「―――綺麗でしょ?」

 「……うん」

 既に日は傾いて森の背後に隠れ、森と町の間から見える地平線は紅葉色に染まっており、木々の梢や葉、下草がそれを反射し、キラキラ輝いていた。

 奥に見える山々も赤くなり、燃えている様にも見えた。

 過去の記憶が無く、ネオンライトの気分の悪くなる様な光や、耳も頭も痛くなる様な喧騒しか知らない赤星にとって、その景色はまさに絶景で、それに見とれていた。

 「僕は天使から人間の姿になって、長い間世界を旅して来たけど……ここに勝る景色は、そう無いよ」

 ラファエルはわざとらしくザっと足音を立てて門の方を向いた。

 赤星もそれに合わせて前を向いた。

 闇の宿る瞳も、目つきの悪い目も、その周りの痣の様な黒色も、体調の悪そうな蒼白な顔色も、伸びきった髪も、以前と少しも、何も変わってないのに、少しい大きい口の口角が少し上がっているだけで、赤星の気分が高揚しているのが見て取れた。

 ラファエルは視線を感じ取ったのか、何も言うことなく歩き出した。

 赤星も、それに素直に従って歩き出した。

 

 町は、ガタガタの石畳が中央に伸び、等間隔に背の低い街灯があり、仄明るいオレンジ色の光で道を照らしていた。

 街灯の中は電球やLEDではなく、小さな炎がメラメラと揺れているのが見えた。

 周りにそびえ立つ家々は、道から伸ばした石の階段で、少し高い位置に、これまたバランスの悪い石を積み上げて作られていた。

 紺碧の空と同じような冷たさを帯びた石の家は、庭に刺さったドワーフの置物でさえ冷たくし、赤星は少し気分が落ち込んだ様に猫背になり、口元が真一文字に結ばれていた。

 暖かさを感じるのは、木でできた家のドアと、オレンジ色の光を漏らす窓だけだった。

 ラファエルはどこかを目指して真っすぐにその道を歩き、赤星はきょろきょろと首を動かして、目新しい町並みを楽しんでいた。

 真っすぐ伸びる石畳の道を、1本の風が走り、赤星の半分になったジャケットを持ち上げ、横腹を撫でて通り過ぎた。

 赤星は身震いし、カサカサと揺れる、足元の花々に気が付いた。

 よく見ると、門から石畳の道を沿う様に植えられており、周辺の家の周りを囲うようにして延々と列を伸ばしていた。

 その花を伝って見ると、石畳の道が分岐して左右に伸びている事に気が付いた。

 オレンジの光を反射している花々は、眠たそうに、ゆりかごの様に左右に揺れていた。

 赤星は立ち止まり、自分の影を見下ろしながら、違和感を抱いていた。

 「……静かだな~、この町」

 そう気味悪そうに言いながら、赤星はもう1度身震いした。

 その時、腕に抱いていたウリエルが、眠たそうな目を擦りながらあくびをし、空いた手で赤星の顎をアッパーカットしながら伸びをした。

 「ふぁぁ~……ん? どこ? ここ」

 赤星は右手で顎を触るわけにもいかず、顎を上げたまま、居心地が悪そうに、その場で何度か小刻みな屈伸をした。

 そんな赤星の気持ちなど汲み取る気の無いウリエルは、赤星の腕の中でジタバタし始めた。

 両足が交互に赤星の丁度鳩尾を襲い、耐えきれなくなった赤星は少し屈んだ状態で左腕を開き、ウリエルがパッと離れ、タッという軽い音を立てながら両足で着地した。

 バサバサっと服も全て落下し、ウリエルはその服に包まった。

 赤星はその場で屈みこみ、顎を撫でればいいか鳩尾を撫でればいいか、自分でも整理が付かいのか、腕を宙でパタパタとさせて混乱しているようだった。

 「ここ、どこなの?」

 顎を撫でることに決めた赤星が、撫でながら顔を上げると、ウリエルがそう質問してきた。

 「知らない。私が聞きたいくらいだし」

 「そ。じゃ、ラファエルに聞く―――あと、そのジャケット頂戴」

 ウリエルは質素に返事をした後直ぐに、右手を「ん」と言って伸ばした。

 赤星はその手を見て苦笑いを浮かべたが、直ぐにジャケットを脱いでウリエルの右手に渡した。

 ウリエルはそのジャケットを着て、ボタンをしっかり全て止めた。

 半分になったジャケットはウリエルの体をすっぽり隠し、そこでようやくウリエルは服の中から出てきて姿を現した。

 靴は履いていなかったが、足に革の様な物を巻いていた。

 ウリエルは前を向き、再び石畳の道を進み始めた。

 赤星はその背中を薄い目でジーっと見つめた。

 本当にこの子供がウリエルかどうか疑っている様だった。

 しかしそんな時。

 そんな2人の背後で、カタ、カタという乾いた足音が鳴り、静かな町に響き渡った。

 赤星は気にもなっていないのか、今度は鳩尾を撫でながら猫背で立ち上がり、その先でウリエルは星形を散らしながら振り返った。

 ウリエルの目は見開かれ、瞳孔は揺れていた。

 「危ない!」

 そう叫びながらウリエルは、革が巻かれただけの足で思いっきり石畳を蹴り上げて、赤星の横を通り過ぎて行った。

 直後、ドンッという鈍い音が、赤星の背後から、再度静かな町に響いた。

 状況に付いていけていない赤星が急いで振り返ると、そこには、闇を纏ったずんぐりむっくりな小さい何かと、背中を石畳に着けて倒れているウリエルが居た。

 「だ、大丈夫?」

 赤星は急いでウリエルの元に駆けつけ、背中を支えて上半身を起こすのを手伝った。

 赤星が顔を上げると、そこにいたずんぐりむっくりな何かが街灯の炎に照らされて、その不気味で体温を感じさせない顔を、チラチラと見せつけていた。

 身長は今のウリエルと同じくらいの子供サイズ、肌は石で出来ているかのように灰色でカサカサしていて、湿度も体温も感じない。

 目は充血していて瞳は見えず、今何処を見ているのか全く分からない。

 豚の様な鼻と、顔の端から端まである大きな口から変な煙を出している。

 何か球でも入っていそうなくらいポッコリしたお腹の後ろから、同じくカサカサのしっぽの様な物を持ち、鞭の様に石畳に打ち付けていた。

 更に、短い手には石の塊を握っており、若干剣の様な形はしていたが、何かを斬ることは出来なさそうな程分厚かった。

 赤星はその生き物を睨みつけた。

 その顔に、全く恐怖は無さそうだったが、微かに右手が震えていた。

 「くっ―――さ、下がっていて」

 ウリエルがそう言って起き上がり、1歩前に出て生き物に近づいた。

 「危ないよ……私も戦う」

 屈んだままの赤星の瞳は揺れていた。

 それは恐怖からではなく、その生き物と似た生き物が、暗闇の中に途方の無い数並んでいることに気が付き、それを目で追っていたのだ。

 赤星は立ち上がって構えようとしたが、なんせ武器が無く、悩んだ末にウリエルの耳元まで屈んで話しかけた。

 「ねぇ、勝算あるの?」

 「あれは、確か、インプだった様な……1匹なら問題ない! はず」

 「1匹じゃないよウリエルちゃん! ちゃんと奥見て!」

 「え?」

 ウリエルは背が低く見えないのか、その場でぴょんぴょん飛び跳ねてみたが、それでも見えないようで、急に跳ねるのを止めて、後ろからでも分かるくらい、ぷくっと大きく頬を膨らませた。

 「どう? 見えたの?」

 「んんんんんん! うるさい! いいから、黙って逃げて!」

 ウリエルは肘で赤星の顔を押して無理やり引き剥がすと、右手を前に出した。

 すると、ウリエルの右手が強い光を帯びて辺りを照らし、朱色の炎が右手の周りに集まり始めた。

 その朱色の炎は次第に形を形成し、刀身と持ち手が同じ長さの短剣になった。

 ウリエルはそれをギュッと右手で掴み、その下に急いで左手を添えた。

 どうやら片手だと重かったらしい。

 ウリエルの両手はピクピク震えていた。

 しかし、その朱色の炎の短剣は街灯よりも数段強く光り輝き、町は夕方の様に明るくなって、奥にいたインプの姿が露わになった。

 インプは10を悠に超える数が居て、それぞれ槍や刀の様な形の石を握っていたが、そのどれもが分厚く、間違いなく鈍器だった。

 赤星は急に緊張したのか、ゴクリと唾を呑みこんで、両手をギュッと握りしめて立ち上がり、下手くそな構えを取った。

 左手脚が前に、右手脚が後ろに一緒に動いていて、凄く滑稽に見えた。

 暫く緊張が走っていたが、開戦の合図を切ったのは、2人の正面に立つインプだった。

 口を大きく開けて声になっていない出来損ないのうめき声を出しながら、カラカラと小石を吐き出し、尻尾を叩きつけた後に勢いよくウリエルに向かって突進してきたのだ。

 「うぉ、あっ―――」

 ウリエルはそれを見て朱色の炎の短剣を振り上げたが、バランスを崩してそのまま後ろに倒れ、赤星の小さく開いた両足の間の石畳に突き刺さり、そこから朱色の炎の柱を吹き上げた。

 「危な!」

 赤星は瞬時に後ろに飛び退いて仰け反り、朱色の炎を何とか避けていた。

 「うっ、うっと―――ごめんなさい」

 「ちょ、そんな暇ないからね?」

 ウリエルは左手、右手の順で石畳を押して体を起こし、頭を膝につける勢いで謝罪した。

 しかし、既にインプは直ぐ傍まで迫って来ていた。

 考える暇も無かった赤星は、左足を大きく開いてウリエルの体の左側の石畳を強く踏みしめた。

 踏みしめられた石畳が、ガンッという音を立て、埋め込まれた石が土から飛び出した。

 赤星はそのまま前傾姿勢になり、ウリエルの後頭部に飛びかかるインプの頭に掌を押し付けた。

 ゴッという鈍い音を立て、インプの顔が陥没し、首から下がそれに引っ張られた。

 そしてそのまま、赤星はウリエルを避けるためにバランスを崩しながら、インプを頭から石畳に思いっきりぶつけた。

 最初、トンッという軽い音を立てて石畳に接触したインプの頭だったが、次の瞬間にはドンッという激しい音を立てながら石を割り、石畳に頭が埋まっていた。

 そして、ほんの一瞬の沈黙が走り、直後に赤星の右手から黒い風が吹き出して直径1mを超す柱を作り、それは直ぐに天高く昇り、消えて行った。

 インプの頭があった場所の左側に、赤星の顔が落ちて鈍い音を立てた。

 赤星は首が変な方向に曲がった状態で、直ぐに目を開けて状況を確認した。

 埋まっていた筈のインプは居なくなっていた。

 その代わり、インプの頭以上の大きな穴と、それを埋める黒い風が見えた。

 だがその風は、別の何者かの足が現れたことで虚しく空に消えていった。

 テカテカと黒光りするアウターが地面まで伸び、それと同じくらいテカテカな真っ黒なブーツを見て、赤星は唾を吐きかけそうになったが、首が痛すぎてそれは叶わなかった。

 「言いたいことは分かったぞ、ラファエル……だが、まずはあのクズどもを処分してからだ」

 癪に障る足は、赤星の視界から消え、数多のインプへと向かって消えていった。

 赤星はその足の正体が見たくてもぞもぞ動いたが、1人では起き上がれないようだった。

 「だれか~、助けて~……首、いだ~い」

 「―――だったらその右手、どけて貰えるかな」

 赤星の伸ばした右手を避けて、ラファエルの丸い顔が横を向いた状態で視界に現れた。

 髪が下に垂れ下がり、可愛い童顔の輪郭が露わになった。

 「もう大丈夫だよ。アザゼルなら、一瞬で終わる」

 ラファエルは赤星の頭の前から回り込み、左脇から腕を通し、赤星はラファエルの左肩に左手を乗せて肩を組んだ。

 赤星は起き上がり、むちうちになった首を動かすことなく、下目であの鬱陶しい足の正体を確認した。

 アザゼルと呼ばれたその人物は、闇に紛れる程真っ黒な長い髪に、襟を立てた踵まである長く真っ黒なアウターを着込んだ長身の男だった。

 アウターの所々に緑色の刺繍やライン、宝石の様な物が埋め込まれ、不気味に輝いていた。

 肩幅や背中はやや広く、力は強そうだ。

 そのアザゼルは立ち止まって直ぐに両手を大きく横に開いた。

 次にパンッと手を叩き、町どころか森にも届く程大きい音を立てた。

 その音は闇を通しても見える漆黒の波となり、インプを越して森の中に消えていった。

 そして、その波に撫でられたインプは、同じくパンッと音を立てながら爆ぜ、粉になって風に流され、その醜い姿を闇の中に消した。

 「す、スゲ―――あ、あいつ……何もんなの?」

 「アザゼルだよ、最強格の悪魔さ」

 男は振り返り、直ぐに赤星の方を見た。

 アザゼルのキリっとした左目とは何故か目が合わず、赤星の額を見ている様だった。

 赤星は胸が跳ねたが、アザゼルの右目の丸い眼帯を見て、心を落ち着けていた。

 

 その後、一行は無言で石畳の道を歩き、アザゼルの店を目指した。

 あれだけの音が鳴っても住民が見に来ないのを、赤星は不気味に思っていたが、それよりも、アザゼルが赤星の頭を撫でて一瞬の内にむちうちを治した事の方がよっぽど気味が悪く、赤星は終始アザゼルの背中を睨みつけていた。

 ウリエルは赤星の背中に乗って「さっきは殺しそうになってごめんさい」と執拗に謝罪してきていて、ストレスからか赤星の猫背は悪化し、顔は蒼白のその上をいっていた。

 一方のラファエルは赤星のむちうちが治ったことが分かると直ぐに手を離し、後頭部で手を組んで、呑気にアザゼルと会話をしながら歩いていた。

 赤星は顔を上げ、1度「はぁ」とため息を吐いた。

 音も温度も直ぐに闇に溶けて、そこを赤星が通過する頃には消えていた。

 赤星は首を動かし、引っ付いているウリエルを横目で覗いたが、ウリエルと目が合うと、直ぐに前を向き直した。

 ウリエルがまた謝罪し、赤星の頭を両手で掴んだが、それを無視した。

 赤星は、こめかみに触れた大きなウリエルの、あの手の暖かさを思い出そうとしていた。

 赤星は気付かぬ内に、あの優しくも暖かい、不思議な何かを求めていたのだった。

 

 アザゼルの店は、静かな町の奥の方。

 最後の曲がり角を左に曲がった更に端に位置していた。

 仄明るい街灯の光が、何とか手を伸ばして掴んでいた、店の入り口の石柱を通り過ぎ、アザゼルが店の扉の前で立ち止まった。

 月明かりだけが残る薄暗い店の扉に、アザゼルの大きな右手が触れた。

 赤星はそこで、扉の真ん中に刻まれた、紋章の様な物に気が付いた。

 赤星は目を凝らしてそれを見たが、それが何を意味しているか分からなかった。

 すると少しして、アザゼルの右手を中心に、その紋章の溝を緑色の光が走った。

 それはすぐに、紋章からその周辺の稲妻状の溝に広がって行き、月明かりよりも明るく輝き、辺りを照らした。

 扉の真ん中の紋章は円盤状になっていたのか、扉の一部が時計回りに反転し、ガチャっと音を立てて止まった。

 「おじゃましま~す」

 そう言いながら、アザゼルの脇をすり抜けて、扉を押し開けながらラファエルが店の中に入って行った。

 それに慣れているのか、アザゼルも特に気にすることなくその背中に着いて、店の中に入って行ってしまった。

 パタンと重そうな扉が閉まり切り、同時に街灯の仄明るさも消え、薄暗い夜の帳に立ち尽くす、赤星とウリエルだけが残された。

 「入らないの?」

 「逆に、入れるの?」

 赤星と、その背中に乗るウリエルの目が合った。

 「アザゼルだっけ? みたいに手を当ててみたら?」

 「いいよ……内側から開けてくれるでしょ」

 赤星は扉の方を向き直し、ウリエルと一緒に見つめた。

 しかし、少し待ってみても、ピクリとも開く気配が無い。

 風がそよ吹き、2人の肌を撫で、風をなびかせて通り過ぎて行った。

 「―――やっぱり自分で開けないと」

 「……あの2人、絶対わざとだよね?」

 「あんたの影が薄いからじゃないの?」

 「……うっせ」

 「いいから、早く手を当ててみよ」

 振り返ろうとする赤星の顔を掴んで無理やり前に向けるウリエルに、赤星は素直に従って前に進み、扉に近づいた。

 右手を扉に向けて優しく触れてみたが、やはり何も起こらない。

 未だに出ている血液が、べチャっと不快な音と感触を残しただけだった。

 その時。

 扉が内側から勢いよく開かれ、赤星の右手は折れ曲がり、扉の硬い部分が赤星の額に打ち付けられ、鈍い音を立てた。

 「……何してるの?」

 額を押さえて屈みこむ赤星の頭頂部に、ラファエルの声が掛けられた。

 鈍く燃えるような痛みと熱に襲われて赤星が口を開かないでいると、背中のウリエルがタっと音を立てて赤星の背中から飛び降りた。

 そしてそのままウリエルは、赤星にもラファエルにも声を掛けることなく、パタパタ足音を立てながらアザゼルの店に入って行った。

 「……なんか、ごめん」

 ラファエルの憐れむ声が再び掛けられ、赤星は額を押さえたまま立ち上がり、無言でアザゼルの店に入って行った。

 その背後から重い扉の閉まる音が聞こえ、その瞬間、埃臭い店内の匂いが強くなり、薄暗いオレンジ色で照らされた店内が赤星の目に留まった。

 天井から頼りない細い糸の様な物で吊るされたオイルランプが、いくつも円形の光を重ね合わせ、棚で埋め尽くされた店内の隙間を埋めながら何とか照らしていた。

 扉を入ってすぐの場所で立ち止まった赤星の背中を押し退けて、ラファエルが真っすぐに通路を歩いた。

 赤星がその背中を見ると、その奥に、横に長く左右の棚で見切れたカウンターと、その真ん中に偉そうに鎮座しているアザゼルが見えた。

 膝をカウンターに着いて、何やら考え事をしている様だった。

 ラファエルがその目の前に立ってカウンターに体重を掛け、2人は会話を始めた。

 それを見て赤星は今度、自分の周りの棚を見渡した。

 赤星よりも背の高い棚が店内に規律よく立ち並び、どの棚も見た事の無い道具や瓶に詰められた液体が乱雑に置かれており、そのどれにもくたびれた値札が付いていたが、変な見た事の無い文字で書かれていたので、赤星にはそれらがどれ程価値のあるものなのか分からなかった。

 そうやって眺めていると、赤星の目に留まったものがあった。

 それは、用途の分からない緑色のガラス玉の様だった。

 赤星はそのガラス球に近づき、中腰になってそれを眺めた。

 よく見ると、ガラス玉の内側で緑と黒の煙が渦を巻いていた。

 時折その渦が緑色の雷の様な物を吐き出してガラス玉の中を乱反射し、その光のせいで外側から緑色に見えていたらしかった。

 赤星はそれに見入っていたが、次第にガラス玉表面に自分の蒼白な顔と死んだ左目が浮き出てきて、赤星は苦い顔になってゆっくりガラス玉から距離を取った。

 そんな赤星の足に何かがトンと触れた。

 「あっ―――」

 「大丈夫?」

 赤星は急いで振り返り、後ろに倒れそうになっていたウリエルの体を支えた。

 しかし、ウリエルは何かを持っていたのか、少し屈んだ赤星の頭上に舞ったそれが、下に居る2人に影を差した。

 赤星は直ぐにそれに気が付いて上を向いたが、一瞬にして視界が真っ暗になり、その何かに押しつぶされそうになったが、赤星の首を挟んで伸ばしたウリエルの両手から朱色の暖かい風が飛び出し、それを支えた。

 赤星は左目を瞑って、浮いた髪の間から右目でウリエルを見た。

 ウリエルは丸い大きな目を力強く瞑って、力を振り絞っていた。

 「人の店で、何を騒いでいる」

 その低く重く圧し掛かってくる様な声と同時に何かの影は晴れ、ウリエルはふぅと血からを抜き、その息で赤星は鼻の下を伸ばしたが、代わりに背の高い男の影が2人をすっぽりと覆った。

 ギクッと肩を上に揺らした赤星は、急いでウリエルを降ろし、引っ張りながら距離を取ろうとした。

 しかしその時、赤星の肩が棚に思いっきりぶつかり、棚が倒れそうになった。

 赤星は焦って、脱力して人形状態のウリエルを抱きかかえて顔を埋め、目を瞑って肩を上げたが、棚が倒れた音どころか、何かが落ちた様な音も聞こえなかった。

 赤星は恐る恐る、ゆっくりと目を開いた。

 するとそこには、アザゼルの下の影が有り得ない方向に伸び、倒れそうな棚や落ちそうな物を支えて、飛び出しているのが見えた。

 赤星は驚いた顔から、珍妙な物を見る顔に変えながらアザゼルの方を見た。

 げっそりと痩せ細った、骸骨に申し訳程度の肉と薄い皮を張り付けた様な顔に、不釣り合いな程キリっとした強い眼光が、赤星の顔を睨みつけていた。

 しかしどうしてか、目は合わない。

 そんな中、赤星の腕の中でウリエルがもぞもぞと動き出した。

 無意識に強い力で抱きしめていたのか、赤星が腕の力を緩めると、ぷはっと息を吐きながらウリエルが飛び出してきた。

 ウリエルは赤星の胸の中で何度か呼吸をして、そこを抜け出し、パタパタとどこかを目指して駆けて行った。

 「……いいか、この店にあるものは、お前が一生かけても買えない程高価な物ばかりなんだ……殺されたくなきゃ、気を付けることだな」

 赤星がアザゼルの顔を見上げていると、背後でゴソゴソと棚が起きる音と物が置かれる音が聞こえてきた。

 アザゼルの足元の影が元に戻って、再度、赤星を覆った。

 2人は見つめ合っている筈なのに目が合わない。

 そんな状況が気まずくなったのか、赤星はアザゼルの足の間から覗く、先程宙を舞った物の正体であろう大きな石の様な物に目を向けた。

 その目線の移りに気が付いたのか、アザゼルが体を横に向け、石の全貌が露わになった。

 その大きな石は、人が1人座れるように上の部分が平らになっていて、表面は凸凹が1つも無い、のっぺらな見た目をしていた。

 「これは『占い石』というものだ……代金はウリエルが払っている。既に、お前の物だ」

 「占い石? この只のデカい石、私のなの?」

 赤星が嫌な顔を浮かべてそう言うと、アザゼルがムッとした表情になった。

 アザゼルの強固な表情が、初めて動いた瞬間だった。

 「座ってみればわかる。只の石などでは無い事が直ぐに分かるはずだ」

 「わ、分かったよ……座れば、いいんだろ」

 アザゼルに鋭く睨まれ、しかし目が合わないことを不気味に思った赤星は、肩をすくめて立ち上がり、素直に従うことにした。

 「ちょっと待て」

 「何なんだよ……」

 立ち上がり、石に近づこうと歩き出した赤星の肩を、アザゼルの骨の様な手が掴んだ。

 赤星が顔を歪めてアザゼルの顔を見上げると、アザゼルも同じように顔を歪め、赤星の右手を凝視していた。

 その視線に気が付いた赤星も右手を見た。

 右手から血が滴り、一部の粘度の高い血が糸を引いて赤星の右手から床まで伸びていて、更に、先程まで座って居た床には右手の跡が付いていた。

 しかも、黒い煙は目に見えて濃くなって血の周りを漂っていた。

 この店に入ってから、赤星の右手の出血は酷くなっている様だった。

 「そうか、分かったぞ」

 アザゼルが語気を荒げて話始めた。

 「あのインプ達はお前が引き寄せたんだ……何てことを」

 「どういう意味だよ」

 「まて、とりあえずそこを動くな」

 「な、何でだよ。ちゃんと説明を―――」

 「うるさい! お前は―――いや、すまない……油断していた……俺のミスだ」

 アザゼルはブツブツ言いながらカウンターの方に早歩きで行ってしまった。

 赤星はその背中を呆然と見つめていたが、馬鹿らしくなったのか「けっ」と小さく言って石の方に右足を伸ばした。

 「動くな?」

 パタンと力なく閉まる扉の向こう側から、姿の無いアザゼルの怒声が飛んで来て、赤星の右脚は宙に浮いたままピタッと止まり、少しして、音もたてずにスッと元の位置に戻った。

 店内は静まり返り、血を意識し始めてか、血の滴る音が大きくなった気がした。

 埃臭さと黴臭さの中に、鉄臭さが混ざって、赤星は出来る限り呼吸を抑えて待った。

 少しして、赤星が即興の鼻歌を奏でて体を揺らしていると、アザゼルがカウンター奥の扉を開けて出てきた。

 しかし先程とは違い、左肩にウリエルを乗せていたが、アザゼルは全く気にしてないのか、表情はぶっきらぼうのまま、赤星の方に近づいてきた。

 目の前まで来てようやく、ウリエルがアザゼルの頸動脈に丸い歯を立てて噛みついているのが見えた。

 「―――グローブを右手に着けろ、出血が止まる……聞いているのか?」

 「あぁ―――うん」

 赤星はウリエルから目が離せず話を聞いていなかったが、アザゼルが突き出したグローブを、よく見ないまま左手で受け取った。

 その時、ウリエルが歯を立てたまま「悪魔め」と唸っている様に聞こえた。

 歯が丸いせいか、全く食い込んでなく、跡すらもついていなさそうだ。

 「……さっきからどこを見ている。そのグローブの説明をしたいのだが?」

 アザゼルがイライラしたような声で声を掛けた。

 赤星はハッとしてアザゼルを見上げたが、やはり目が合わない。

 アザゼルは眉を吊り上げて、赤星の額の辺りを睨んでいた。

 「え? 私がおかしいの?」

 「何だ……何が言いたい」

 アザゼルは今度、呆れた声で質問してきた。

 赤星はそれにイライラを隠すことなく返した。

 「お前痛覚とかねぇの?」

 アザゼルは赤星の視線がウリエルに移ったのに気が付いたのか、赤星が続けようとした罵倒を遮って口を開いた。

 「―――裏でラファエルに私が悪魔だということを聞いたらしい……それからはこんな感じだ……それがそんなに気になるのか?」

 「気になるだろ!」

 「そうか……やはり、人間というのは難しいな……まぁ、お前は人間かどうか怪しいが」

 赤星は声が詰まって何も言えなくなり、呆れた表情でアザゼルに視線を戻した。

 「で、このグローブ着けると何? 出血が止まるの?」

 「あぁ、元の用途は別なんだが、お前にとってはその程度の価値しかないだろうな」

 含みある言い方をされてあからさまにキモがり、顔を歪めた赤星はグローブに視線を落とし、そこで初めてちゃんとグローブを見た。

 指を通すために5つの穴が開いている手のひら程のグローブで、黒くてテカテカ輝き、天井からの光を浴びている部分はオレンジ色にメラメラと揺れていた。

 赤星はそれを右手に着けながらアザゼルの顔を見上げた。

 「……別の用途って何だよ」

 グローブの手首部分のベルトを締めながら赤星が聞いたが、アザゼルは答える意味があるのか色々と脳で処理しているのか、複雑な顔になった。

 少ししてウリエルが小さく唸り、赤星がベルトの余った紐部分をどうしようか悩んでいると、アザゼルがゆっくり口を開いた。

 「細かい説明は省くが、そのグローブは、魔力を浴びるとその魔力を弾く特性を持つ、ある繊維で編まれているものだ……即ち、お前の傷口は漏れ出す魔力で無理やり塞ぐことが出来る」

 「な、なるほど?」

 調節金具部分に余ったベルトを巻きつけながら、赤星が答えた。

 アザゼルはそれを見下しながら、ため息を吐いて続けた。

 「つまり、元の用途というのは敵の魔法を弾くというものだ」

 「なんでそれが、私にとって、価値にならないんだよ」

 赤星はベルトをロールケーキの様に巻き終わり、満足げにアザゼルを見上げながら聞いた。

 「……お前は戦闘を経験することは無いからだ……仮に戦闘になったとして、一瞬で殺される……だから、お前にとってそれは価値が無い」

 「そんなこと、分かんねぇだろ」

 「いや、分かるな」

 赤星は怒って吊り上がった目に、アザゼルは挑戦的な目になったが、やはり目は合わない。

 「まだそこに居たの? 早く『占い石』と『魔力晶』やろうよ」

 そう言いながら、ラファエルがアザゼルの背中からひょこっと顔を出した。

 ラファエルはアザゼルの左側を回ってウリエルを引き剥がし、大きな人形を持つかの様に、両腕で胸の前に抱えた。

 アザゼルは横目に、赤星は少しトロンとした目でラファエルを見つめていた。

 2人が声を出せずにいると、ラファエルが気持ち悪い物を見る顔になって、2人を交互に見比べた。

 腕の中のウリエルはアザゼルを見上げて唸り散らかしていた。

 「何見てるの? 赤星、その横のガラスの玉持って来てよ」

 ラファエルはそう言い残してカウンターの方へ歩いて行った。

 赤星はスッと元の顔になり、隣の棚の、先程見ていたガラス玉を手に取った。

 そして歩き出そうとすると、『占い石』を持ち上げて抱えていたアザゼルが赤星を細くした目で見ていた。

 「……割るなよ」

 「割らねぇよ!」

 赤星は床を踏み鳴らしながらアザゼルの横を通り過ぎてカウンターに向かった。

 通りがかりに足を踏もうとしたが、寸での所で耐えた。

 

 道具類の棚を数段通り過ぎると、次第にポーション系の変な色の液体が入ったフラスコ棚に切り替わり、更にそれを抜けた先に横長のカウンターがあった。

 入口から見えていた筈のカウンターは想像以上に遠くにあり、赤星は鼻の穴を大きくして一生懸命に呼吸していた。

 赤星が呼吸をする度に、明かりに照らし出された白い埃が、空気中をふわふわと舞って踊っていた。

 赤星はカウンターの真ん中に立っているラファエルの左側に立ち、カウンターの上に『魔力晶』をゆっくり優しくコトッと音を立てて置いた。

 赤星は体重をカウンターに預けて前のめりになり、横目でウリエルを見た。

 ウリエルはラファエルの腕の中でシュンと脱力していて、本物の人形みたいになっていた。

 赤星から少し遅れて、アザゼルは棚の間の通路に『占い石』をドンッと雑に置いて道を塞ぎ、カウンターの内側を目指して歩きだした。

 「お前が一番丁寧に扱ってねぇじゃん……」

 赤星が尻目にそう言うと、背中にアザゼルの視線を感じ、スッと顔を戻した。

 すると、ラファエルと赤星の目が合った。

 「じゃぁ、まず『占い石』に座ってみてようか」

 ラファエルが優しくそう言うと、カウンターを挟んだ反対側で、両手をカウンターの上に着いて立ち止まったアザゼルが、動き出そうとした赤星を「待て、まだだ」と言って止めた。

 「何だよ、アザゼル」

 ラファエルが怪訝な顔を浮かべたが、アザゼルはそれを無視して赤星の右手を見た。

 「赤星、だったか。右手をカウンターの上に出せ」

 「なんでだよ」

 赤星がアザゼルを睨みつけると、アザゼルは深く不快そうな大きなため息を吐いた。

 「お前は一から十まで説明してやらんと言う事を聞けないのか……いいから出せ」

 赤星は顔全体をピクっとさせ今にも叫び出しそうだったが、それに気が付いたのか右に立つラファエルが赤星の右腕を掴んで持ち上げ、カウンターの上に投げ捨てた。

 赤星はそこで初めて、グローブの間から血が漏れていることに気が付いた。

 「まず、その使い物にならない魔力を、多少なりとも扱えるようになってもらう……でなければ、そのグローブは右手に密着しないからだ」

 アザゼルが折れて一から十まで説明したことに、ラファエルは「おぉ~」と感嘆の声を漏らしていたが、当の赤星はそれ所では無さそうだった。

 「魔力を扱うって……私、そんな事出来る気がしないんだけど」

 「問題無い」

 アザゼルはきっぱりと言い切り、複雑そうな顔の赤星の額を見ながら続けた。

 「お前はミカエルの『天秤の矢』を砕いたそうだな」

 「あぁ、あのゴミ男に突き刺さってたヤツ? まぁ、そうだけど……たまたまだし」

 「『天秤の矢』と比べれば、そんなグローブはオモチャみたいなものだ……極々少量の魔力で密着する」

 「んなこと言われてもなぁ」

 赤星は右手を注視し、どうにか魔力を込めてみようとした。

 華奢な腕の骨が浮かび上がり、静脈が垣間見えた。

 「赤星、ただ力を込めるだけじゃダメだよ」

 「じゃぁ、どうするの?」

 赤星が聞くと、ポカンとした顔のラファエルは喋らなくなった。

 「……ラファエルには分からん筈だ……天使は魔力を扱えん。だが、力を込めるだけではないというのは、その通りだ」

 「へぇ~、天使って魔力使えないんだ」

 「そりゃそうだ、魔力は書いて字の如く邪悪な魔の力だからな……人の扱う呪文も同じく邪悪なものだが……それも天使は扱えない」

 ラファエルはムッとした顔になりアザゼルを睨んだ。

 「馬鹿にするなよアザゼル。天使だって守りの術は使えるんだ」

 それを聞いてアザゼルの口角が少し上がった。

 「守りの術など、全く意味を成さないと思うが?」

 「何だと~?」

 「悔しかったら堕天でもしてみるんだな」

 「するか! バカ堕天使!」

 突然始まった喧嘩を他所に試行錯誤していた赤星だったが、流石に蚊帳の外で悔しかったのか、とっ掴み合う2人の横から「あの」と声を掛けた。

 声を荒げた両者の「あぁ?」という声が掛けられたが、負けじと切れ気味の赤星は続けて声を振り絞った。

 「どうやってもできないんだけど?」

 「何だ、まだ出来ないのか?」

 「できるかぁ??」

 心底がっかりしたようなアザゼルは、何かに気が付いたのかハッとしてカウンターの下に屈み込み、視界から消えていった。

 そして、少し何かを漁るような音が聞こえて、次にアザゼルが見えた時、同時にカウンターの上に小さな巾着袋が置かれた。

 古臭く繊維が自由奔放に飛び出しているかび臭そうな巾着袋は、アザゼルの手を離れて重力を受け、崩れた形で脱力した。

 「これは? アザゼル」

 ラファエルが不思議そうに巾着袋を眺めながら質問すると、アザゼルは破顔して気持ちの悪い顔になった。

 「これは私の作り出した、そして、この世で私しか作り出すことのできない最高傑作」

 突然明るい声で語り出したアザゼルを、赤星とラファエルは苦笑いで見上げて次の言葉を待った。

 アザゼルは体を仰け反って大きく息を吸い、次に前のめりに頬を少し赤く染めた骸骨の様な顔を突き出して叫んだ。

 「『魔丸薬』だ????」

 アザゼルに反して至って冷静な2人は目をパチパチさせて『魔丸薬』? という顔を浮かべていた。

 それを見てアザゼルも冷めたのか、スッと表情を戻して巾着袋から丸薬を1つ取り出し、いつもの調子で説明を始めた。

 丸薬は、深い青色のいくらの卵を少し大きくしたくらいの球体で、とても薬と名乗っていい物ではないように見える。

 「この丸薬1つに相当量の魔力が詰め込まれている……つまり、これを食えば誰でも魔法が使えるようになるし、自分の保有するキャパ以上の魔力を扱うことが出来る」

 アザゼルは手に取った丸薬を赤星に突き出した。

 赤星はそれを渋々受け取り、恐怖を浮かべた顔でアザゼルを見上げた。

 「え、っと……食べなきゃ、ダメなの?」

 「俺が思うに、あの方の力を持つお前だが『天秤の矢』で無理やりその力の一部を引き出されただけで、お前自身が自覚してないから扱えないんだ……だから―――」

 「だから?」

 「荒療治だが、きっかけを与えて暴走させる」

 「誰が食うかぁ??」

 怒りと叫びの直後、赤星の右手がキュッと締め付けられ、よく見るとグローブが赤星の右手にピッタリとサイズを縮めていた。

 しかしそれに反応している間もなく、赤星の右側でボンっという音と共に、深い青色の煙の様な物が視界を横切った。

 赤星とアザゼルは急いでラファエルの方を向いた。

 すると、ラファエルが、顔の周りの穴という穴から煙を吐き出して白目を剥き、後ろに倒れそうになっていた。

 腕の中のウリエルは何が起こったのか分かっていないのか目を見開いてキョロキョロと挙動不審になっていた。

 アザゼルが前につんのめって腕を伸ばし、ラファエルの胸倉をつかんだ。

 そしてそのまま力任せに引き寄せ、カウンターの反対側で担ぎ上げた。

 その際、ウリエルは雑に頭をカウンターにぶつけ、力の抜けたデッサン人形の様に床に倒れて後頭部を打ち付けていた。

 「説明を聞く前に食う奴があるか! 天使が食うと何が起こるか分からんのだ! 赤星、悪いが少しの間まっていてくれ。そうだな、落ち着け……まずはどうする―――」

 パタンと扉が閉まってアザゼルとラファエルは行ってしまった。

 赤星が立ち尽くして扉を見ていると、視界の下の方で立ち上がったウリエルが、頭の前と後ろをを押さえながらカウンターの壁を思いっきり蹴り、何処かに歩いて行ってしまった。

 赤星はその背中を見送って、そっと丸薬をゆっくり戻し、よいしょと言いながら『占い石』の上に腰掛けようとしたが、パンツの上からヒヤッとしたのか1人で「ひゃ」と言って蒼白な顔を赤らめ、次は慎重にお尻を降ろし、今度こそ『占い石』の上に座った。

 くるぶしが飛び出し、膝の上に手を乗せて背筋を伸ばし、手首も飛び出した。

 手首のラウンド型腕時計が天井からの光を反射して輝いていた。

 赤星は足をパタパタ体を前後に揺らし、最初は辺りを見渡していたが、少ししてハッとし、電子タバコを取り出した。

 その時、扉の向こう側からラファエルの叫び声が聞こえ、赤星はビクッとして目を見開いたが、ゆっくり電子タバコを口元に近づけて一吸いし煙を吐き出した。

 煙を見上げ、空気中の白い埃を押し退けて消えていくのを眺めてリラックスし、脚を開き、脱力して猫背になった。

 そこでようやく、『占い石』の表面が発光している事に気が付いた。

 キラキラとサンフラワー色に輝く『占い石』の表面を、赤星は上半身を曲げて両脚の間から覗き込んだ。

 前髪が顔から離れ、紫色の瞳に輝きが宿った。

 トランプのダイヤの様なひし形が、サンフラワー色に輝いてまばらに置かれ、それを線で繋いで星座の様な形を示していたのだ。

 しかし赤星は別に星座に詳しくないので、苦虫を?み潰したような顔になって姿勢を戻した。

 するとその途中、いつの間にか目の前に来ていたウリエルと赤星の鼻の頭がぶつかり、起き切らないところで赤星は体を止めて目を合わせた。

 ウリエルの目が腫れていたので赤星は心配になったが、次の瞬間にウリエルがムッとした顔になって体を少し反らし、それを戻す勢いのまま赤星の額とウリエルの額がぶつけてきたので、話が変わってきた。

 赤星は仰け反って声も出せないまま目を見開き、前髪を上にあげて額を押さえたが、一方のウリエルは我関せず、屈み込んで石の表面を眺めていた。

 星座の輝きを反射してウリエルの顔がキラキラ輝き、髪から発せられる星形と混ざって更に眩しかった。

 「これ、さそり座だよ」

 「あ、あぁ。へぇ、そうなんだ」

 片手で膝を抱え、開いたもう片方の手で星座を指さし、キラキラ輝く瞳で赤星を見上げて言うウリエルに、赤星は呆気に取られ、上擦りながらも何とか声を捻りだした。

 ウリエルが顔を上げたので、2人の目が合った。

 「さそり座だと、何なの?」

 「知らない」

 ぶっきらぼうにそう言って、ウリエルはまた、プイっと星座の方を向いてしまった。

 その時、カウンターの奥にある扉がガチャっと音を立てた。

 赤星が顔を上げて音の方を向くと、アザゼルが骨の様な顔を更にげっそりさせて飛び出してきた。

 アザゼルは後ろ手にゆっくり扉を閉め、口を小さく開けたまま虚ろな目で赤星の額を見つめた。

 「……何だ、もう座っていたのか……」

 そう言って近くにあった椅子を引きずって手繰り寄せ、ドスンと力なく座ったアザゼルに、赤星は心配する様子一つ見せずに、身持ちの悪い物を見る目を向けた。

 「その石に星座が映っているだろう……一体、何座だった?」

 そんな赤星の方を見ずに天井を見つめたままアザゼルがしゃがれた声で続けた。

 赤星は直ぐに答えることが出来なかった。

 視界の端で、目つきを変えて唸りながら振り返ったウリエルを何とか抱えて持ち上げ、腕の中に納めようと奮闘していた。

 その様子をアザゼルは不愉快そうな目線で見つめていた。

 しかし、赤星はそんなアザゼルの目線を気にしている場合ではなく、ウリエルの両脇に腕を通して抱え、ウリエルの頭の上に顎を乗せることで何とか抑え込んだ。

 ウリエルはアザゼルを睨みつけてガルルと唸っている。

 「で、何座なんだ……早く言え」

 「さそり座だよ。私は分からなかったけどォバ―――」

 赤星はピキっとこめかみを痙攣させ、ウリエルを解放することを考えたが、話が進まないと、小さい舌打ちでスルーし、イライラしたトーンで返した。

 ウリエルが軽く飛び上がって赤星の話中の顎を押し上げ、赤星は舌を思いっきり噛んでしまった。

 「そうか、さそり座か……それにしても、星座も分からないのか? 人間は……いや、お前に基本的教養が無いだけか……」

 「基本的教養に星座をふくめッ―――」

 赤星はまたアッパーを喰らいそうになって顔を上げ、直ぐに口を閉じてウリエルの頭に顎を乗せて力を入れた。

 赤星もウリエルも、縦に並んでムスッとした顔でアザゼルを睨みつけることしか出来なくなった。

 「―――さそり座か、そうか……あの方の、いや。お前なら、そうかもな」

 「そうかもなって何だよ」と言いたくて口を開こうとしたが、開こうとした分ウリエルが浮いてくるので顎と一緒に顔が上に上がっただけで、モヤモヤして顔を歪めた。

 「後は『魔力晶』だが……これは宿でやってくれ……手を当てて中の様子を教えてくれればいい……私は、限界だ。すまないな……ラファエルの世話もあるし―――そうだな、明日、明日でいいから、結果を教えてくれ」

 アザゼルは立ち上がり、支離滅裂にぶつぶつ言葉を発しながら扉の奥に消えていった。

 赤星は少しの間その扉を眺めていた。

 天井に吊るされたオイルランプが揺れてカランと音を立ててぶつかり、店内がそれに合わせて揺れ、明暗が曖昧になり、赤星はボーっと放心していた。

 少しずつ、少しずつ赤星の意識がハッキリしていき、自分の呼吸音が大きくなっていき、腕の中に居るウリエルの体温や心音、花の匂いを感じ始めた。

 ウリエルは唸るのを止めており、上下に揺れなくなっていたことに気が付いた赤星は、顔をウリエルの頭から離し、姿勢を良くした。

 顎の跡が付いていたウリエルの髪の毛が、ぴょこんと浮き上がった。

 ウリエルを抱いたまま、次第に赤星の心臓の動きが早くなっていった。

 「……宿って、どこ?」

 「知らない」

 赤星は独り言のつもりだったが、質問されたと思ったのかウリエルが顔を上げ、2人は目を合わせた。

 ウリエルの顔はムスッとしていた。

 赤星は腕を離し、ウリエルは直ぐに膝から飛び降り、タっと軽い音を立てて着地した。

 そのままウリエルはカウンターに近づいて行き、ぴょんぴょん飛び跳ね始めた。

 ちりぢりの赤星のジャケットが上下し、ウリエルの見えてはいけない所を見てしまいそうな赤星は急いで立ち上がり、ウリエルの体の左脇から左腕を通して上に持ち上げた。

 カウンターの上に辿り着いたウリエルは、手を一生懸命伸ばして『魔力晶』を両手で掴み、引き寄せて胸に抱いた。

 それを見ながら赤星はハッとし、右手が使えることに気が付いた。

 赤星は右手でウリエルの右脇を持ち、器用にウリエルの体を180°回した。

 ウリエルは怪訝な顔で赤星を睨みつけていたが、赤星は『魔力晶』の方に目線を奪われ、それに気が付いていなかった。

 ウリエルの手の中の『魔力晶』の中で渦を巻いていた筈の緑と黒の煙は無く、今は、小さな緑色のインコが羽を大きく広げて狭そうに、クルクルと飛び回っていた。

 ウリエルはその赤星の視線に気が付いたのか、『魔力晶』の緑色のインコを見つめ、小さく「うわぁ」と言って口を小さく開き、目を閉じるのを忘れて輝かせていた。

 ウリエルの両眼にも緑色のインコが宿っていた。

 そんなウリエルを「よいしょ」と言いながらゆっくり下に降ろし、赤星は腰に手を当てて「ふんっ」と上半身を勢いよく後ろに曲げた。

 『占い石』と塞がった通路、並ぶ棚が全て逆さまに見えたと同時に、埃臭さと黴臭さが戻って来て、一瞬で鼻腔を占拠した。

 パンツから下着の紐と上前腸骨棘が飛び出し、肩を張ったせいで胸のボタンが張り裂けそうになったところで、その匂いを我慢しきれなくなり姿勢を戻した。

 すると、ウリエルが『魔力晶』から顔を上げて赤星の顔を見上げていた。

 「何してるの?」と言いたげな顔だったがウリエルは声に出さなかった。

 赤星は見つめ合って恥ずかしくなり、使えるようになった右手で頬を掻いた。

 「泊まれるとこ、探す? ウリエルちゃんは、泊るところあるの?」

 「無い」

 赤星はカウンターの扉の方を見上げたが、直ぐにウリエルの返事が返ってきたので視線を戻してウリエルの方を見た。

 「そっか、じゃぁ……行く?」

 「うん」

 赤星は通路を塞ぐ『占い石』を大股で跨ぎ、ウリエルが飛び越えるのを手伝って、2人は縦に並んで扉の方に歩いて行った。

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