文月の頭に心を思う
感想の受付を未登録ユーザーからも受け付ける設定があった気がするから、試しに設定してみよう。忘れてなければ、だけど。
この世には「感想」というものがある。
なんとなくの意味は知っている。字面から見ても、即ち
「何かを見て感じ、想ったこと」
ということではあるのだろう。ここで言う、「見る」という概念は、必ずしも目で視覚的、光学的情報を捉えることを意味するわけではなく、例えば心を震わす音楽の響きであるとか、鼻腔をくすぐる花の香りであるとか、箪笥の角に足の小指をぶつけた時の地獄の痛みであるとか、そういう観測全般のことを指すが、まぁそれはよくて。
でも、実際にはどうなんでしょう。この世には、
「なんとなく知った気になっているけど、厳密に言うとちゃんと意味は知らないんだよね。みんなが言っている言葉だから、共有された認識に乗っかりながら使ってるけど」
みたいな語句や概念が、改めて考えてみると相当量存在するものである。具体的には、「代謝症候群」とか、「LGBTQ+」とか。
もちろん、具体的に何を知り、何を知らないかというのは、個人に依る。もしかしたら、私が全人類の中で一番愚かであり、私がこれまでに観測し得た、全ての語句や概念というものが、私以外の全人類にとっては当たり前に理解されており、完全にイデアを捉えきった無欠のものとして取り扱われている、という可能性も別にゼロではない。
……まぁ、現実的には有り得ないけど。それは、相対的優秀さがどうこうとか以前に、分かりきった話である。言葉や概念というものは、しばしば個人の中にも生まれるからな。全部、は知り得ない。先に述べた定義は、要するに私が自創作の中で構築済みの、未だ書かれていない語句についても当然に含まれるわけで、余人がそれを知っていたら、私はビビる。思考盗撮を受けているんです、とお医者様に相談しなくてはならない案件となろう。
そうですね。話を戻しましょうか。そう、「感想」の話。
かんそう、とはいっても、日本国の夏季において、特に太平洋側……に限った話ではないかもしれんが、気候はじめじめとしており、湿度が高い日が続きがちである。不快ですよね。
しかし、気温が高く、かつ空気が乾燥している状況というのは、ものが燃えやすいということでもある。どちらが好ましいか、というのは必ずしも一概には言えない。だから、現実においては「実際にはない何かを仮定して羨む」よりは、「実際に起きている事について理解を深め、これを上手く扱う方法を考える」というアプローチのほうが、豊かになりやすい。
……何が、か。そうですね。発育とかでしょうか。豊かな発育こそが、人の世の宝ですので。
さて、皆さん。何が言いたいか――もとい、何を言わせたいかは、分かるでしょう。
でも、言わないでください。いや、別に言ってもいいんですけど。それが私に伝わる訳ではないです。それこそ「感想」や「レビュー」、変則的には「誤字報告」などの機能を使うか、作者へのメッセージ機能またはツイッターへのアクセスを用いない限り、私にあなたの声が届くことはない。そもそも誰も見てない可能性すらある。
(念のため言っときますけど、マジで「そういうことをしてくれ」って話じゃないですからね。しないでくれ、とも言わないにしろ)
話を本筋に戻す。一方的な主張というのは、相手の反応を置き去りに出来るという点で強く、相手の反応でアプローチを変えられないのが欠点とも言える。私の場合は後者だろうか。
そう、感想。乾燥じゃなく……英語で、なんだ? インプレッション?
――物事について、心に感じたことや思ったこと。所感。
――「感想を述べる」「読書感想文」
(デジタル大辞泉 とやらから引用)
語義としては、そんな感じらしいですよ。だいたい予想通りって感じですね。
あと、impressionも感想を指す英単語として、別に間違いという訳でもないらしい。そこは大胆に間違ってろよ、と思う。ネタにならんやろが。
もちろん、私がこうして随筆を書いている時に、遡り訂正をすることが(誤字の修正とか細かい表現の見直しとかを除いて)殆どない、という実情が、読者の皆様方にとって
「あくまでそういう姿勢って見せてるだけでしょ」
という受け取られ方をしているかもしれないし、そもそもそんなもん知ったこっちゃない、考慮もしねえよという感じかもしれない以上、これを遡り訂正して面白おかしくネタにする、という振る舞いが出来ないわけではなく、そうしていないという保証もどこにもないのではある。
だが、私は現にしていない。もちろん、随筆として必要な「誇張」として、そういう部分にも面白さの添加がある方が、見ている側としては楽しいのだろう。商業随筆は多分そんな感じなんじゃないっすかね。知らんけど。
それでもこれをしないのは、単に私の諧謔の感性が一般的感性からズレているからである。要するに妥協……ではなく。狙ってやるとスベるから、その場の疾走感で全部乗り切ろうという話である。要するに妥協じゃねえかよ。
とまぁ、こんな感じで。現時点で二千文字弱だそうですが、実のところ、まだ本題についてはほぼ触れていないという。そろそろマジで本題の話でもしましょうか。
令和五年も本日で文月を迎え、なんと一年の半分が既に終わったということらしい。時間の経過の早さは、この際一旦どうでもいいが、七月というものは、文月という別名を持っている。文の月、即ち文芸月間というわけですね。たぶん。
無論、究極デブ将かつ面倒臭がりの根暗ゴミムシであるところの私は、基本的に自発的には何もしたがらない。それでも敢えてこの文を書くことには、動機があった。今回で言えば、そう。感想文。
主に義務教育期間中の、忌まわしい夏季休暇の課題として、読書感想文の提出義務があったように思う。……もしかしたら、なかったかもしれない。提出しなかったという意味で。
だが、読書感想文の提出義務の意味がわからない。感想というものは、誰かに強制されて生じるものではあるまい。そんなもんを、必須の課題にするな。ちゃんと加点方式のオプションにしろ。それなら、ちゃんと成績を求める奴がこぞって出し、やる気ねえ奴は素直にやらんだろう。
……まぁ、だから提出しないって選択をした奴は、単にそうなったとも考えられるか。じゃあ、それは別にいいや。
何にせよ、読書の感想……事象に触れ、何を思い、これをどう記述するのか、というのは「自由課題」的にやるのではなく、どちらかというと通常の授業の範囲で教えてくれるべきじゃないのか、と思う。
実のところ、感想は割とマジで自由なものである。故にこそ、
「さあ、課題図書を読んで、感想を書いてきてください。内容は自由です」
と言われて、言葉通りのガチ自由に書ける奴は、ごく限られたエリート自由人だけだ。言うて課題やぞ? そのへん、ちゃんとわかっとるか?
んで、そう。感想は、マジで自由である。
極論してしまえば、原稿用紙の最初の行に
「バチクソ面白かったです。まる。おしり」
とだけ書いて提出しても、語義的には間違っていない。許されるかは別として。
ただ、実態こそ知らんものの、直感として、この感想文は確実に悪い評価を受ける。実際にこんな文を提出されたら、両親どころか祖霊まで含んで、一族全員呼び出して説教したい気持ちにもなるだろうが、つまり本質的に自由ではない。
いや、マジで。この主張に対して偏屈だの捻くれてるだの、所謂一般常識に染まりきった普通の感性で口を出す奴の方が、本質的には捻くれている。
もしかしたら、マジで分からんのか?
感想は自由で、誰かに強制された正解というものがある概念では別にない。それでも、これが間違い足り得るのであれば、それは単純に表現力が足りていない、という意味でなくてはならない。
そういう意味で、例えば「思いを言葉にする」ことを能力として必要とするという観点において「何でもいいから自由に書いてこい」というのは、どう考えてもおかしい。感想文の記述は、理解度のテストではない。どれくらい出来るか、を上から目線で品評される謂れはどこにもない。
感想文とは、ただ「思ったことを伝えて、書く」という、根源的な自己表現だ。それは、我々が学生時分に考えていたことよりも、遥かに尊いものである。何故それが、教育課程で強要される義務になる。そんなことをしたら、感想文とは「嫌で面倒臭いもの」になってしまうだろうが。
……という感じのことが、今回の本題である。
こういう問題は、学校の教育課程に対する問題点として、主に体育でよく挙げられている。曰く、体育の授業で運動が嫌いになった、とかいうやつ。
気持ちはわかる。苦手なもんは、苦手だ。強制された程度で、得意にはならん。苦手なことが好きな奴は、居ないとは言わんが稀だ。そしてそれは、座学でも同じなのだろう。
で、気持ちがわかるのと同時に、一方で「しなくてはならないこと」とか「出来るべきこと」というものは、単に気持ちで凌駕出来るものでは基本的になく、人生においてやる必要があるから仕方なくやることというのは、個人の適性など無関係に無数に存在する。
なので、気持ちに配慮して、それをなるべく嫌じゃないように進める……ということが、出来れば理想的ではあるのだろう。現実的には、無理。少子化の進んだ今ですら、そこそこ人口のある地域での一クラスあたりの人数は、流石に十人を下回ることはないだろう。たぶん。そんなまとまった人数に、全員に理想的に配慮することは出来ない。物理的に無理だ。なんなら、教師一人当たり生徒三人の受け持ちとかですら、出来るとは限らん。
そんなわけで、学校教育に「全て」を依存することはほぼ上手く行かないので、個人毎の適性に合わせた教育や経験というものは、別途必要になるのであろう。なければないなりに人は育つが、上手くいくかは博打でしかない。それは、どういう選択をしても本質的には変わらず。
で、話を戻すと。色々あって、自分自身の気持ちというものを抑えつけて、それを表面に出すのが難しくなってしまったことを自覚して、我々はもっと軽率に自分の気持ちを記述しても良いのではないか、と思ったわけだ。
知ってる人の、映画を観てきた感想の文章を見た。そこには、文脈上映画の登場人物であろうキャラクターへの愛、より根源的には好ましさの表明がしっかりと表現されていた。
そう、感想ってのは別にそういうので良いのである。高尚な表現が必要なわけでも、文章の出来が評価されるべきでも、何でもない。ただ思ったこと、伝えたいこと――いや、伝えたいことではない。心の奥底に感じられた、そこにある感情を、転び出るハートを、そのまま形にするだけでよいのだ。
ハートが転び出るというと、モンスターハンターのモノブロスを思い出しますね。角を壁に突き刺した時の落とし物に、モノブロスハートが低確率でラインナップされてるアレ。いやまぁ、そんなことはよくて。
もちろん、どんな思いでも誰にでも無制限に伝えるのが正しいというわけではないが、そういう感じの物怖じが現に必要かどうかは、どちらかというと個人の品性に依る。相手を傷付けるための口が達者な人もいるし、考えなしに思ったことを口にすることで、結果相手を傷付けるということもあるだろう。
だが、それは実際には結構極端な例だ。そもそも、そういうことを危惧して発言を止められるくらいに思慮があれば、概ね大丈夫な気がする。第一、そういう精神性を持つ人間は、ほんの些細な日常でのワードチョイスにミスっただけで、悶々とした夜を過ごすものだ。
ぶっちゃけ、我々はそこまで気にされていない。ならば、良いと思ったことを素直に良かったと伝えることに、何の否があるというのか。
ということで、物怖じせずに感想文が書けるようになりたいね、という話でした。
それこそ最初は「良かった!」とかだけでも良いのである。「良かったんだ」ってなるし。やらないと、大抵のことは上手くならないんだから、したいと思ったことはやる、それに尽きる。
でもまぁ、最後に失速するようなことを言うと。
褒めるのが下手な人っていますよね。誰かの作ってくれた手料理を「店の料理みたい」と言ってみたり、誰かの創り出したキャラクターを、属性の共通部分がある「〇〇に似てますね!」と言ってみたり。
違うねん。前者は「店が出せそうなほどのクオリティだぜ!」と言いたいこと、後者は「俺の好きな〇〇のように好きだ!」と言いたいことはわかる。でも、受け取り手にはそうは伝わらん。伝えるための言葉には、相手の気持ちの考慮が要る。それだけは、忘れないようにしようね。お互いにね。