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邪気眼侍  作者: 橋本洋一


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23/29

火消しの根性 其ノ肆

「わ、私は、大黒屋という、商家に勤めていた、女中でした……」

「大黒屋だと? 我が相棒よ、聞いたことはないか?」


 桐野の問いに弥助は「そういや、巾着切りの野郎のときの商家がそんな名前だったような……」とうろ覚えな記憶を言う。


「そうか……女中が何故、火付けなどした? まさか、大黒屋の命令なのか?」

「…………」

「いかに沈黙を貫いても、顔で分かる。貴様はそやつらの命令でやったのだな」


 桐野の断定的な物言いにおみよは小さく頷いた。喜平治が思わず彼女を殴りそうになるのを、弥助は「まあ待ちなって」と止めた。


「こ、こいつは! 商家に命じられて火をつけやがった! 許せねえ! ぶっ殺してやる!」

「あんたが殺さなくても、奉行所がやるさ。落ち着きな」

「だけどよ――」


 喜平治が怒りの声を上げる前に、桐野が「貴様が商家から得た報酬はなんだ?」と冷静に詰めた。


「無報酬というわけではあるまい。それにかの商家に恨みがあった……というのも違いそうだ」

「なんでてめえにそんなことが分かるんだよ! 何十人と焼き殺した女だぞ!」

「罪悪感を覚えていなければ、自殺などするものか。喜平治よ、少し黙ってくれ」


 桐野は冷静に、おみよの様子だけを見ていた。今にも涙を流しそうな、ひたひたと濡れた目。それでいてこの世全てに絶望している目だった。後悔と虚無が入り混じった印象を受ける。


「報酬、というものはもらっていません。私はただ、お父さんと会いたかっただけなんです」

「お父さん……父親と会えない事情でもあったのか?」

「はい……お父さんとは五つのときに別れました。母は物心付く前に死別したので、私に残されたのはお父さんだけだったのです」


 そこで桐野は「大黒屋が父親に会わせてやるとでも言ったのか」と真実を突き止めた。おみよは静かに頷いた。


「……てめえの家族に会うために、火を付けたのか」

「喜平治さん。こらえてくれよ。それにさ、長い間会っていない父親に一目会いたい気持ちは分かるのかい?」

「分からねえよ。少なくとも火付けの理由にはならねえと俺ぁ思う」


 弥助に対して厳しい言葉で返す喜平治。

 そうでなければ火消しとして命がけで現場に当たれないだろう。


 おみよは「そのとおり、火付けの理由にはまったくなりません」と下手人であるのに首肯した。その潔い態度に違和感を覚えたのは、これまで黙っていたさくらだった。


「ねえおみよさん。その、お父さんとは……本当に会えたの?」


 一同は一斉におみよを見つめた。

 おみよは能面のように無表情と化していた。


「お父さんの元に案内したのは、浪人の人だった。大黒屋の主人に雇われた用心棒で、会わせてやるって言われた……火付けをしたすぐ後だった……」


 怒っている喜平治さえ口を挟むことなく聞いていた。そして次の言葉で全員が察した。


「連れられたのは――墓場だった。無縁仏がたくさんある、寂しくて悲しいところだった」

「嘘でしょ……」


 さくらは口元を押さえた。

 三人の男はここで初めておみよを哀れんだ。


「浪人は言った……これがお前の父親だって……墓を指差して……私は、そこで後悔した……」


 ぽろぽろ、ぽろぼろと。おみよの目からゆっくりと涙が溢れ出ていく。

 さくらも同じく泣いていた。目の前の女性が可哀想で。愚かな行ないをしたけど、それ以上に悲しくて――


「大黒屋は理解っていたのだな……貴様の父親が既に亡くなっていることを」

「……左様でございます」


 それ以上、邪気眼侍は何も言わなかった。

 おみよを責めようとか諭そうとか、あるいは許そうとも思わなかった。

 ただそうであるように、騙された女への哀れみだけ持っていた。


「許せねえ……! 旦那、俺は許せねえよ! 人の想いを踏みにじるやり方は、絶対にしちゃあならねえんだ!」


 弥助が憤るのも無理はない。泣いているさくらも同様の気持ちだ。


「…………」


 押し黙る喜平治はおみよへの怒りと同情で頭がぐちゃぐちゃになった。あの可哀想な娘のために怒るべき相手が、その身に受ける罰よりも苦しい思いをしたと分かって――何も考えられなくなった。


 それでも喜平治は火事で全て失った女の子のために戦わなければならない。しかしその相手が哀れな女だと知った今、振り上げた拳の落としどころが見当たらなくなってしまった。


「おみよ……貴様に選択をさせてやろう……」


 しばらくして声をかけたのは桐野だった。

 弥助やさくら、そしてやり場のない怒りを抱えた喜平治を放置して、おみよだけに語りかける。


「このまま貴様を死なせてもいいと我は考えている……奉行所に捕まれば死罪、それも火あぶりに科せられる……そんな残酷な死を貴様に与えるのはあまりにも……」


 桐野の声が少しだけ震えた。

 まるで寒さに怯える子供のように、己の言葉を紡ぐのを厭う――


「しかし、それでは大黒屋は破滅しない……貴様を利用して商家に火付けしたという証拠は何もない。ただ無駄に貴様は死ぬだけだ……」

「……それでもいいんです。私は、無念のまま死ぬのが相応しいと思います」

「貴様は楽になりたいだけだ。多くの人間を焼き殺したという罪悪感から解放されたいのだ」


 桐野が何を言いたいのか、長年の相棒である弥助にも分からなかった。

 当然、さくらも喜平治も分からない。

 桐野は深呼吸して、自分の策を告げた。


「貴様を使って、大黒屋を破滅させる」

「……旦那、何をするつもりなんですか?」


 弥助はすっかりおみよに同情している。

 できることなら生きて罪を償ってほしいと考えていた。

 それができないのなら、すっぱりと死なせるべきだ。

 そんな相棒の心を知ってか、桐野は一番残酷で卑怯な作戦を言う。


「大黒屋に、おみよが命じられたときに、その証拠となるものを得ていたと嘘を言う」

「……まさか、おみよを餌にして大黒屋の者共を一網打尽するんですか?」

「そう浪人など多くないはずだから、すぐに終わるだろう」


 桐野の作戦を弥助はすんなりと聞き入れられなかった。

 決行するということは、おみよを利用するのと一緒だ。

 それは大黒屋と一緒ではないか――


「大黒屋を潰しておくべきだった。相撲賭博の件を明らかにし、もう二度と商売のできないようするべきだった」

「旦那……後悔しているんですかい? でもこんなこと予想なんてできやせん」

「理解っている。我が相棒よ……しかし、やるべきことをやっていなかったのは、後悔よりも反省する」


 桐野は喜平治に「おみよの身柄を任せてもよいな?」と頼んだ。


「なんで俺が……火付けの犯人を匿うような真似を?」

「もし我の策がしくじったとき、関わりのない貴様が奉行所で証言するのだ。今ここで聞いた全てを」

「そうしたら、そいつは火あぶりになるぜ」


 おみよの全身が小刻みに震える。

 桐野は「そうはさせない」ときっぱりと言った。


「我は人を超えし存在……策は十中八九成るだろう……」

「はん。そんな自信どこから出るんだよ」

「我が相棒、そしてさくら。ここから出るぞ。瘴気が強くなってきた……」


 桐野は素早くおみよの家から出る。

 弥助とさくらは黙って従った。


 二人きりになった火付けと火消し。

 おみよは何を話せばいいのか分からないので沈黙している。

 喜平治はため息をついた。


「しょうきって、なんなんだよ……」



◆◇◆◇



「旦那。その作戦って――」

「弥助。貴様は命を懸ける覚悟はあるか?」


 おみよの長屋から離れたところで桐野は弥助に覚悟を訊いた。

 弥助はいつになく真剣な表情の桐野を見て「もちろんあります」とすぐさま答えた。


「旦那の下男になってから覚悟はしていますよ」

「そうか……さくらよ。貴様はこの件から手を引いてくれ」


 桐野の唐突な言葉に「何を言っているのよ!」とさくらは怒鳴った。


「ここまで来て手を引けるわけないでしょ!」

「貴様は優しい女だ。これ以上関われば、貴様自身が傷つくことになる」

「そんなの、百も承知――」

「おみよは死ぬことになる」


 桐野の予言でさくらは次の言葉を発せられなかった。

 桐野は悲しげな表情のまま「頼む」とだけ言う。


「貴様には荷が重すぎる。もう関わりを持つな」

「……それは、あたしがまだ子供だから?」

「女に背負わせるのは重い……そう言っているのだ」


 さくらはじっと足元を見つめて、それから足早に去っていった。

 弥助は「よろしいんですね」と丁寧に訊ねた。

 桐野はさくらの姿が見えなくなってから答えた。


「ああ。我が邪気眼は全てを見通す……これでいいはずだ」

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[一言] 大黒屋、悪いやっちゃなあ やっちまえ、邪気眼侍!
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