猫女房 其ノ弐
元太に案内され、やってきたのは何の変哲もない、どこにでもあるような町人長屋だった。しかし立ち話をしていた住民たちは元太を見ると話を止めて、一様に同情の顔を見せた。どうやら、元太の女房のれんが猫になったのは、周知の事実らしい。
「ククク……まるで腫れ物だな……」
「あんた、はっきり言うんだな。ああそうさ、れんは人付き合いが良かったから、直ぐに分かっちまったよ」
桐野の指摘に対し、疲れた顔を見せる元太。
どうしてこうなってしまったのかと思い返す日々を送っていたのだろう。
桐野はともかく、弥助は可哀想にと思ってしまう。
「ここが俺の家だ――れん、帰ってきたぞ」
がらりと戸を開ける元太。
桐野と弥助は、一緒に中へと入る――そこには一人の女性がいた。
元太とそう変わらないか少し年下の若い女性。ずっと着替えずにいるのか、着物はくたびれていて汚れていた。顔も酷い有様で、何日も風呂に入っていないのが分かる。
家の様子は意外にも整然としていた――元々物が少ないのか、猫になった女房に怪我をさせないように元太が片付けたのか、それは定かではないが、ともかく物が少ない家だった。
「れん。こちらは――」
「にゃあにゃあ」
桐野たちを紹介する前に、れんは元太にすり寄って脚に頬ずりをした。
その様子は懐いた猫を見ているようで、弥助はゾッとした。れんが整った顔立ちの女性だったこともあり、そんな女性が猫の振る舞いをするのも奇妙に思えた。
「……桐野さんと弥助さんだ。この人たちは」
「……ふぎゃあああああ!」
突如、れんは桐野に向かって爪を立てるように手を振った。
桐野は予想していたように後ろへ半歩下がった――どうやら無事のようだ。
「桐野の旦那! 大丈夫ですか!?」
「……大事ない。どうやら嫌悪されてしまったようだ」
「ああいや。れんは俺以外の人間に懐かないんで」
困ったように笑う元太。
するりとれんはその場から去り、台所へと向かった。
四つん這いで、猫のように。
「なんでしょうか?」
「……お腹が空いたんだ」
元太が疲れ切った声で説明する。
桐野は厳しい目つきで、弥助は当惑した顔で様子を窺う。
三人が注目する中、れんはおもむろに駕籠に入っている生魚を掴んで――そのままむしゃむしゃと食べ始めた。
「げええ!? 本当かよ!?」
弥助が慄くのも無理はない。
皮や骨を気にすることなく、頭の付け根から貪るように食べる様は。
まるで怪談に出てくる死体を食らう化け物のようだった。
顔が血だらけになっても食べるのをやめない。
そうこうしているうちに凄惨な食事が終わったようで、れんは家の畳の上で丸くなり、すやすやと寝息を立てて寝た。
それでようやく、弥助は「本当にとり憑かれていますね、旦那」と桐野に言う。
「ふむ……もしも……いや、やめておこう」
「どうしたんですか、桐野の旦那?」
「……くっ! 我が右腕が、疼く!」
桐野はしばらく考えこんだ後、唐突に右腕を抱きしめ始めた。
元太はぽかんとしていたが、弥助はいつもの発作かと平然としていた。先ほどのれんを見ての衝撃が残っていたのだ。
「ククク……なるほど、つまりは……」
ようやく腕を放した桐野。
それから着物の袂から何やら取り出した――小さな木片のようなもの。
「旦那、それはなんですかい?」
「……ケダモノの魂を引き寄せるものだ」
そう言って、木片をれんの傍に投げる――彼女は寝たまま反応しない。
「……何も起こりませんけど」
「だろうな。予想通りだ」
よく分からないことを桐野は言う。
弥助はまたいつものはったりかと考えた。
元太はそっとれんを抱いて、顔に着いた血を手拭いで拭き始めた。
「随分と献身的なのだな」
木片を回収した桐野が何でもないような口調で元太に言う。
元太は「今まで散々、こいつに苦労を掛けちまった」と悲しそうな表情を見せる。
今までの人生を後悔しているような雰囲気だった。
「罰が当たったんだ。それは仕方ねえ。でもよ――」
元太は桐野と弥助がいるのにも関わらず、静かに涙を流した。
ぽたぽたとれんの顔に雫が垂れる。
「どうして、れんに……やるなら、俺にしてくれよ、神様……」
「元太さん……」
弥助は何を言っていいのか分からなかった。
一方、桐野はその様子を見て「帰還するぞ、我が相棒」と踵を返した。
「えっ? でも、何の解決に――」
「元太。明日、また同じ刻限に来る」
桐野はそのまま帰ってしまう。
弥助は元太とれんが気になったが、従わないわけにはいかず、後を追った。
「旦那。あれどうにかなりませんかね?」
町人長屋を出て大通りに出た桐野と弥助。
桐野は「情報の混濁がある……」と呟いた。
「我が相棒よ、調べてほしいことがある」
「へえ。なんでしょうか?」
「元太についてだ」
弥助は怪訝な顔をした。猫になったれんではなく、正常な元太を調べろなど意味が分からない。
しかし桐野の命令は彼にとって絶対だった。
「分かりやした。ちょっくら調べてきます」
「ククク……流石だ、我が相棒よ……う! 我が邪気眼が、邪気眼が!」
「ちょ、ちょっと! 人がいるところで発作は止めてくださいよ!」
◆◇◆◇
「調べたんですけどね。元太って野郎は嫁さん泣かせのとんでもない男でした」
夕方。一先ず発作が収まった桐野は、万屋の中で弥助の調査内容を聞いていた。
弥助は不快感を隠さずに「元太は賭け事が好きだったらしいです」と言う。
「大工仲間から聞いたんですがね。宵越しの金すら賭けていました。ほとんどの給金をです。賭け事狂いがなければ、一廉の大工になれたんじゃないかと皆が言っていました」
「件の猫女房は賭け事について何か言及していたか?」
「もうやめてほしいと何度も訴えたらしいのですが、その度に『俺が稼いだ金を好きに使って何が悪い』と怒鳴ったり、時には手を挙げたりしました」
弥助は「信じられねえ話ですわ」と憤慨していた。
桐野は「先ほどの献身的な姿とは異なるな」と考えた。
「ええ。でもれんさんが猫になっちまって、それどころじゃないらしく、今は賭け事やっていないようです。反省しているようで、ようやく大事なものに気づいたって周りに言っています」
桐野は「ククク……なんてことないな……」と怪しげに笑った。
弥助は「どうかなさいましたか?」と問う。
「我が相棒よ……我は迷っていることがある……」
「何を迷っているんですか? 実家に戻ることですか?」
弥助の茶化した言葉を無視して「解決すること。それが問題だ」と桐野は言う。
「はたして、今のままのほうが幸せではないかと。我は思うのだ」
「そんなわけないですよ! 猫のまま生涯を送るのが幸せですか? 元太もそうです。確かに嫁さん泣かせの悪い奴だけど、極悪人ってわけじゃあありません。あのままほっとけないですよ!」
弥助の真っすぐな言葉に桐野は不敵に笑った。
その言葉を待っていたような反応だった。
「なんと曲がらない、真っすぐすぎる言葉だ。我が相棒ながら心配になるほど、純情だな」
「だ、旦那? それはどういう意味ですか?」
「しかし、それこそが、我にしてみれば希うほどの……やはり契機はそこにあるか……」
ぶつぶつと言い続ける桐野。
若干不気味さを覚えた弥助だが、次の桐野の言葉に驚愕する。
「我も覚悟を決めた。明日、約束通り解決しよう」
「ほ、本当ですか!? ていうか、解決ですか!? いったいどうやって!?」
桐野は自信満々に、大胆不敵に、己が相棒と認めた男に宣言した。
「我が邪気眼は全てを見通している……ククク……フハハハハハ!」