巾着切りの恋 其ノ肆
力士の優正に対し、八百長をするよう仕組んだのは江戸の大商人、大黒屋金兵衛である――彼の表の顔はちりめん問屋だが、裏では幕府の役人と結託してあくどいことをしていた。まさに大逆無道な人物と言えよう。
「大黒屋よ。こたびの相撲賭博、上手くいきそうか?」
幕府の役人が数人揃っている、料亭の広間で大黒屋は「ご安心ください」とにこやかに応じていた。彼はでっぷりと太っており、顔には深い皴が刻まれているが、どことなく油断ならない雰囲気を醸し出している。悪い知性の塊と言えばいいのだろうか。
芸者が三味線を弾き、庶民では手の出せない料理でもてなしている彼は客人たちに酒を注ぎつつ「このとおり、優正関が行なうという証文とその親方の借金の手形もございます」と懐から紙を見せる。
「このような場に持ってきて良いのか? 金庫などに仕舞うほどが安心するだろう」
「実は懇意にしている寺社から『物を失くす』という宣託をいただきまして。こうして肌身離さず持っているということです」
「左様か。ま、用心深いおぬしなら問題なさそうだ」
「用心、と言えば私にはこのとおり用心棒がいますから」
そう言って指さしたのは、下座で酒も飲まず、料理にも手を付けてない。いわゆる達人という風格を醸し出している男がいた。細目でエラが張っている、細身の男。名を大城忠弘という。
「こちらの大城先生は剣術の達人ですから」
「ほう。良き者を雇っているな。羨ましいぞ、大黒屋」
羨ましい、とは言うもののさほどそうではなさそうな幕府の役人。
ただの相槌だと分かっているので、大黒屋も大城も大して反応しなかった。
場がひととおり盛り上がったところで幕府の役人たちは帰っていく。
今回の接待の目的は裏で相撲賭博をすることの目こぼしだった。
それらが済んだ大黒屋も駕籠に乗って帰ることにした。
「それでは、先生頼みましたよ」
「……任されよ」
駕籠に乗って料亭から自身の屋敷へ向かう大黒屋。
普段よりも揺れが大きい駕籠。担ぐ者が慣れていないせいだろう。
しかし大黒屋はそんなことを気にしないほど上機嫌だった。
優正関が八百長をすることでかなりの儲けが出ると分かっていたからだ。
「幕府の役人様は話が分かって良いですね」
内心、彼らのことを馬鹿にしていると、ふいに大城が「止まれ」と駕籠屋に命じた。
駕籠が止まり地面に置かれると、大黒屋が怪訝そうに「どうしましたか?」と大城に訊ねる――駕籠の窓を開けて息を飲んだ。大城が刀を抜いて臨戦態勢になっていた。
「せ、先生?」
「ここにて待たれよ。そこの曲がり角に……」
大城が駕籠を守るように刀を中段に構える。
そこへ「うへえ。厄介なのが出てきたな」と曲がり角からぬっと出てきた。
顔に覆面をしている、怪しげな男がそこにいた。手には刀――ではなく木刀を携えていた。
「何者ぞ?」
大城が短く誰何する。
しかし覆面の男は「こんなのしているんだぜ」と自分の顔を指す。
「名乗るわけねえだろうよ。しかし、旦那も知らなかったよな。あんたみたいな達人がいることを」
「旦那? それがおぬしの雇い主か?」
「それに答える義理もねえ」
覆面の男は木刀を上段に構えた。
それに対応するように、大城は構えを平正眼に変えた。相手の左小手に切っ先を向ける構えである。
「いいねえ。血がたぎってきたよ」
「くだらん。だが、仕事ゆえ――斬られても恨むなよ?」
「あっしも同じこと言おうと思ってた――案外気が合いそうだ!」
最後は大声で叫ぶように言って――上段から大城の頭蓋を割ろうと大振りをする覆面の男。ある程度予想していた大城だが、それよりも二倍は早い打ち込みに刀で受けることなく、大げさに後ろに下がった。
そのまま突こうとするが、覆面の男は中段に戻るのが早かった。これで大城は先ほどの攻撃は虚撃――当てるつもりがなかったと気づく。
だが本当に頭蓋を割るという気迫に満ちていたのは事実だ。それを含めての虚撃だったのかと大城は目の前の覆面の男の実力を高く評価した。
「先生! わ、私はどうしたら――」
既に駕籠から出てしまっている大黒屋。
待てと言ったのが聞こえていなかったのかと大城は舌打ちする。
「他に仲間がいるかもしれない。その場に留まるのが最善だ」
「し、しかし――」
「しかしもかかしもない。おぬしが離れたら守れなくなる」
覆面の男から目を離さずにそこまで言って、今度は大城が攻撃を仕掛ける。
中段から大きく袈裟切りをして――そこから切り上げる。
袈裟切りは避けた覆面の男だったが、切り上げだけは木刀で受けねばならなかった。
あまりの斬撃に木刀が真ん中から斬れてしまった。
「ひゅう。あぶねえなあ」
「――っ」
驚愕したのは大城のほうである。
本来なら胴も斬ってしまえたはずなのに、結果から木刀のみに被害がとどまっている。
覆面の男は斬られた木刀を両手に持って、改めて構えた。
右手に短い切っ先のほう、左手に持ち手のあるほう――変則的な二刀流だ。
「あっしは本気を出すつもりはなかったけどさ……兄さん強いね。こりゃ命がけでやんないといけないな」
「……面白い」
大城も基本的な中段から見慣れない構えへとなる。
刀を逆手に持って腰を低くして、まるで独楽のような形になる。
両者、決死の覚悟で臨む――
「――きりゃあああああああああ!」
気合と共に低い姿勢から一気に覆面の男に迫り、そのまま足元を狙って刀を振るう!
しかし覆面の男は予想していたのか、高く後ろに飛びあがって回避する――その際、右手の木刀を投げつけることを忘れない。それは大城の顔面の左横をすれすれに通り過ぎて――地面に突き刺さる。
「こりゃやべえ。逃げるとしますか」
その言葉通り、覆面の男はすうっと闇に吸い込まれるように逃げ去っていく。
追うかどうか迷った大城だったが、雇い主の大黒屋のことが気がかりだったのでやめた。
刀を仕舞って「大丈夫か?」と大黒屋に声をかける。
「え、ええ。しかし、あれは何者ですか?」
「おぬしの商売敵……ではなさそうだな。一貫しておぬしを狙うそぶりを見せなかった」
「はあ? では何が目的――」
そう言った後に大黒屋は気づいた。
駕籠の担ぎ手が一人いないことに。
遅れて気づいた大城が「おい。もう一人はどこだ?」と残されたほうに訊く。
「あ、あれ? おかしいな……新入り! どこだ!?」
「新入りだと? いつからだ?」
「いつから? ええと今日からの新入りです……」
大城に嫌な予感がよぎった――それを確信させる大黒屋の声。
「な、ない! 証文が、懐から――」
◆◇◆◇
「本当にお世話になりました!」
頭を深く下げる、旅姿の優正。
街道沿いで見送りに来た邪気眼侍の桐野政明は「ククク……気にするな……」と笑った。
「しかし、力士を引退して良かったのかよ? もうすぐ横綱昇進だったんだろ?」
桐野の隣にいる巾着切りの誠二。どこか拗ねているのは優正が自身の恋する花魁、細雪太夫を身請けしたからだろう。
「良いんです。私は元々、金を稼ぐために力士になったのですから。十分に集まりましたし、桐野殿からもいただきましたから」
「ふん。相撲賭博で貴様の勝ちに賭けたからな。我も懐が潤った。それにハレの門出には贈り物が必要だ」
桐野は不気味に笑っている。
誠二は「金を稼ぐのが目的?」と不思議そうにする。
「もしかして、最初から細雪太夫を身請けするために力士になったのか?」
「ええまあ。桐野殿には話しましたが、あなたには言ってませんでしたね」
優正の言葉に、誠二は「あはは。負けたよ……」とがっくり肩を落とす。
「そんな執念を持っているあんたなら、細雪太夫の良い旦那さんになれるだろうよ」
「……うん? 旦那ですか? それは無理ですよ」
「謙遜しているのか? やめてくれよ。ますます俺が惨めになる」
落ち込む誠二に困惑した優正は「桐野殿は話していないんですか?」と問う。
桐野は「まあな」と短く答えて、それから誠二の肩に手を置く。
「貴様の恋した女が来るぞ」
「……ああ! 本当だ!」
街道にある茶屋から出てきた細雪太夫。いつもの花魁姿ではないが、美しさは遜色がない。ゆっくりと優正の元に歩いていくそれもまた優雅だった。
「お待たせ。久しぶりにお団子が食べられて幸せだったわ」
「良かった。ここのは格別に美味しいからね」
優正と親しげに話す細雪太夫。
下を向いている誠二に「貴様、何を落ち込んでいる?」と桐野が言った。
「憧れだったんだろう。話しかければいい」
「そ、そんなことできねえ。お似合いの二人に……」
誠二が困ったように言うと、細雪太夫は「お似合い? こんなのと?」と笑った。
「まあいい男になったのは認めるけどね。私からしたら鼻たれ小僧よ」
「や、やめてくれよう。ユキ姉さん」
困ったように笑う優正。
誠二は少々戸惑ったように「ええと、前々からの知り合いですかい?」と問う。
すると二人は顔を見合わせて、それから細雪太夫は答えた。
「知り合いっていうか、姉弟よ。これは私の弟」
「……えっ? ええええ!?」
優正は「幼い時にユキ姉さんは売られてしまって」と少々恥ずかしげに言う。
「ようやく見つけたと思ったら太夫になっているんだから。おかげで身請けするのに苦労しましたよ」
「私だって生きるのに必死だったの」
誠二はがっくりと力が抜けたような気持ちになった。
そしてそれまで優正に対して思っていたことが反転した。
この力士は、実の姉を助けるために、戦ってきたのだと分かって――
「……なんだか、自分が恥ずかしくなってきました」
「ククク……そんなことはない」
桐野は慰めるように誠二を諭した。
「貴様が駕籠屋になりすまして、我が相棒が戦っている間に証文を盗らねば、今この光景は無に帰す……違うか?」
「そりゃあ……まあ……」
「確かに巾着切りは罪だ。しかし――」
そこで桐野は珍しく、素直に笑った。
「貴様は人を助けた。それだけは胸を張っていい」
「桐野さん……」
「それより、想いを告げなくていいのか?」
桐野の言葉に誠二は目の前の庶民の恰好をした細雪太夫を見る。
彼女は弟と自由を楽しんでいた。
それを見て、誠二は首を横に振った。
「俺は巾着切り……悪人です。雪のように白いあの人に触れちまったら汚れさせてしまう」
「…………」
「幸せになってもらえればいいんですよ」
少しの会話の後、優正と細雪太夫は故郷へと帰っていく。
二人の姿が見えなくなるまで、誠二は手を振り続けた。
桐野は空を見上げる。
旅立ちの日によく似合う、快晴だった。