巾着切りの恋 其ノ弐
江戸の吉原は男の欲望を満たし、女の魅力を際立たせる、日の本でも有数な『遊び場』である。街の造り――赤と黒の格子が独特な特徴であり、特別感を演出している。ここでは身分は平等、ただお金を持つ者だけがこの世の最上級の快楽を得られる。
しかし、注意しなければならないのは己の身銭である。それを忘れて遊び呆けたら骨すら残らない。髄の奥まで吸い尽くされてしまう。
そんな吉原の中で今か今かと花魁道中を待っているのは、邪気眼侍の桐野政明と巾着切りの誠二である。彼らのお目当ては今人気絶頂の花魁、細雪太夫だ。
「ククク……男と女の憧れである細雪太夫に懸想しているとは。何とも難儀な話だ……」
「うるさいな! 俺だってどうかしていると思っているよ!」
道の曲がり角でひそひそと話す二人。陰でこっそりと見るらしい。堂々と見ないのは邪気眼侍である桐野の恰好が主な原因だった。
適当に話をしつつ、時間を潰していると柏木の鳴る音がする。いよいよ花魁道中が始まる。誠二は食い入るように、桐野は興味深そうに見つめている。
禿たちを引き連れてゆっくりゆったり歩くその花魁の姿は、さながら大名行列のようだけれど、それよりも次元の高い、美の極致なものを桐野たちは魅せられているみたいだった。
その中心にいるのが、誠二が恋してやまない細雪太夫だった。
おしろいを塗っているがあくまでも薄くだ。全体的に化粧は濃くない。
だが顔の部位が全て美しくて完全と評するしかないほど整っていた。
この花魁に頼まれれば何でもしてしまいそうな気持ちになる。
たとえば殺人だろうが、盗みだろうが――そう感じた桐野は誠二が巾着切りをしてまで会おうとしているのが理解できた。必死になって金を作ろうとしているのも理解できた。それほど世の男共の憧れであり、世の女共の羨望の眼を向けられる花魁だった。
ちらりと誠二を見る桐野。かの巾着切りは目に恋慕の色を浮かべていた。
愛しくて恋しくてたまらないという眼のまま、去り行く細雪太夫の後を追っている。
おそらく細雪太夫に会えるまで、巾着切りをやめないだろう。そう桐野は確信した。
「……誠二よ。巾着切りの件、不問にしてやる」
「へっ? いきなりなんですか?」
「その代わり、真っ当に働くんだな」
桐野は大真面目な顔で誠二に言い聞かせる。
「汚れた金で買ってしまったら、貴様と太夫は惨めになるぞ」
「――っ!?」
誠二の良心をえぐるような言葉だった。
汚い手で稼いだ金で本当に会えても、心から楽しめるだろうか?
細雪太夫が笑顔を見せるたびに、罪悪感が起きないだろうか?
そんな考えを当の誠二がしなかったわけがない。
現に顔色がみるみるうちに悪くなる。
「ククク……我のように、漆黒の闇に愛されているわけでもあるまい。日の当たる道を歩め」
「……そいつはできねえ。細雪太夫には今、身請けの話が出ているんだ」
「ほう。誰が身請けするんだ?」
「知らねえ。でももう噂になっている」
華やかな花魁道中が終わっても、辺りは熱狂に包まれたままの空気が漂う。
すっかり静かになってしまった誠二に桐野は声をかけなかった。
落ち込んだ者に下手な同情はしない。
その程度の気遣いぐらいは邪気眼侍も持ち合わせているのだ。
◆◇◆◇
「フハハハ。さくら、貴様の財布、取り戻したぞ」
「えっ!? 本当に!? わあ、ありがとう!」
明くる日、桐野は得意げに桃色の財布、つまりさくらの財布を彼女に手渡した。
さくらはそれを大事そうに胸に抱きしめてから「一体、どうやって見つけたの?」と不思議そうに訊ねる。
その隣でやりとりを見ていた弥助もぽかんとしている。
「ククク……邪気眼に不可能はない……」
「さ、流石ね! 末恐ろしいわ、邪気眼……!」
「さくら……あんたまで信じたら、あっしはどうしようもねえぜ?」
そんな会話をしていると、万屋の戸が例によって例のごとく乱雑に開けられた。
巾着切りの誠二である。
「やっぱり、ここにいたのか桐野さん!」
「むう。貴様は誠二か。何用ぞ?」
「うん? 知り合いですかい?」
唐突に現れた桐野の知り合いらしき者に弥助とさくらは困惑する。
「どうした? 巾着切りがバレて同心か岡っ引きにでも追われているのか?」
「そうじゃねえ! 俺ぁ巾着切りから足を洗ったんだ!」
「……っ!? あんたがあたしの財布を盗んだ巾着切りかー!」
さくらは一瞬にしてキレたようだ。
誠二の胸倉を掴んで捻り上げる。
「げええ!? 悪かったよ、反省しているって!」
「開口一番にそう言いなさいよ! そもそも謝るつもりあったの!?」
「落ち着けって! 旦那も見てないでさくらを止めてください!」
「ククク……断る……」
にわかに騒がしくなった万屋。
責めるさくらをなだめる弥助を見ながら桐野は不気味に笑っていた。
「それで、何をそんなに急いで駆け込んできた?」
怒るさくらをなんとか収めた後、桐野はぼろぼろになった誠二に問う。
「細雪太夫を身請けする、その相手が分かっちまったんだ」
「ほう、聞かせるがいい。罪人の名を」
「そいつの名は優正。今をときめく関取さ」
それを聞いた弥助とさくらは声を揃えて「優正関!?」と叫んだ。
「……知っているようだな」
「旦那が世間に疎くても、優正の名は知っているでしょう? 有名な大関ですよ!」
「そうよ! 横綱昇進間違いなしって言われているわ!」
そう説明されても、相撲をよく知らない桐野にはピンとこない。
「優正、顔も格好いいのよね。痩せていたら歌舞伎の女形でもイケるわよ」
「その力士が細雪太夫を身請けするのだな? それで貴様は何故ここに来た?」
桐野が話を強引に戻す。そもそもこれまでの話は桐野に関係ない。
「とある場所の決勝戦が五日後に行なわれるんだ。その試合に勝てば多額の褒賞金が出るらしい。その金で細雪太夫を身請けするって話だ! ちくしょう!」
最後まで言い終わった誠二は頭を抱えてしまう。
己の愛した女が別の男のものになる。
男としてこれほど苦しいものはない。
「だから、貴様は何故ここに来た? 愚痴でも聞いてほしいのか?」
「そうじゃない! 優正が勝つのを阻止してほしいんだ! その邪気眼で!」
弥助はまた呪い系の依頼かと頬の傷を掻いた。
店を開いた当初は結構やってきたのだ。
「あのなあ、兄ちゃん。ここはそういう店じゃねえんだ。そりゃあ店主はああだけどよ」
「うるせえ! てめえ黙ってろ!」
誠二が腕を振り回す。
それを弥助は掴んで関節を決めた。
「あいててて! わ、悪かった! やめてくれよ!」
「んだよ。根性ねえな」
腕を放されて、誠二は遅れて気づく。
邪気眼侍といい、今の達人の動きをした使用人といい、怒りやすい巫女といい、この店はおかしい。
「フハハハ。いいか誠二。人の運命というのは変えられん。ゆめ覚えておけ」
どこか道理のあることを言っているが、桐野が体よく追い出そうとしているのが長年の付き合いから弥助には分かった。
しかし誠二は不気味な男から常識的なことを言われてカチンと来てしまった。
「ちくしょう! こんな店二度と来るか!」
捨て台詞を吐いてすたこら逃げていく誠二。
さくらは呆れて「何しに来たのかしら?」と呟く。
「ククク……ここの瘴気にあてられたのだろう……」
要は変な『奴ら』の集まりだからかと弥助とさくらは同時に思った。
不思議と自分のこととは互いに思わないのだった。




