泣き虫勝負ですか? 勝つのは演技派の私です
タイトル通りのお話ですが、茶番にお付き合いいただけましたら幸いです。
「もう我慢の限界だ! ジョアンナ! 貴様はいつも妹のエメルダを虐めてばかり……! こんなにも泣かされて、可哀想に。いい加減にしないか! そして彼女に謝れ!」
赤絨毯を敷かれた、王宮内のだだっ広い廊下。
そこで唾を飛ばして叫んでいるのは、侯爵家令息であるマルコム・トバール。
彼はエメルダと呼んだ少女の腰を抱き、眼前の婚約者を睨みつける。
マルコムとエメルダを擁護するように、彼らの周囲には第一王子をはじめとした有力貴族家の子息たちも、ジョアンナへ厳しい視線を送っている。
場所が場所だけに、直接関係のない人間たちまでもがこの騒動を見守っていた。
何より、もうしばらくすれば式典が始まるのだ。
そのため王宮内とはいえ、ただの廊下に過ぎないこの場所にも人の波ができはじめていた。
真昼間であろうと明かり窓だけでは薄暗かった廊下も、王宮中に魔導灯が導入されたことで十分明るい。
だから彼らの憤りも、興味深そうな人々の視線も、よく見て取ることができる。
煌々と照らす魔導灯の下、衆目の面前で婚約者に罵られたジョアンナ・カルスタイン伯爵令嬢は、細くゆっくりと息を吐いた。
「マルコム様、エメルダは私の従妹であって、妹ではないのですが……」
「えぇい五月蠅い!! エメルダは伯爵家に養女として引き取られたのだから、貴様の妹だろうが!!」
「ではマルコム様は婚約者の妹の腰を抱いていらっしゃる、ということでよろしいでしょうか? まぁ、どちらにせよ褒められた行いではありませんね」
「ぐっ……! ああ言えばこう言う!! 貴様のそういうところも好かんのだ! 頭でっかちで可愛げのない女め! そうやってエメルダを泣かせているのだろう!? いい加減にしろと言っている!」
正論を言いがかりと言われてしまっては、もうお手上げである。
とうとうこのような状況になったかと、顔色を変えずに、ジョアンナはこの茶番の終末を見据える。
この様子なら、すぐにでもマルコムは『婚約破棄』だのと言い出すだろう。
そうすれば、このジョアンナ・カルスタインはお終いだ。
「ですが……」
何かを言いかけて、けれどマルコムに口出しを封じられ、眉を寄せて逡巡して見せる。
表情のない仮面の下で、ジョアンナは続く言葉を待った。
「黙れ! エメルダは、ずっと貴様に泣かされているんだぞ! 家でも冷たくされていると……! 今日だって、姉に差し入れを持ってきたのに、叩き落としたと聞く。何故そんな真似ができるんだ!? 貴様には血が通っていないのか?」
「差し入れ……?」
ちらりとエメルダへ視線をやれば、今もグズグズと泣きじゃくっている。
その手には、確かにバスケットが握られていた。
中に入れていた飲み物の瓶が割れたせいで、底の方が濡れている。
「ふぇぇ、お、お姉さまもお菓子を食べたら、ご機嫌になってくれると思ったのぉ」
「でも、急に来た私がいけないのよ」
「わ、私が、お姉さまに嫌われてるから……」
などと言っては、口々に周囲の男性陣から慰められている。
ジョアンナにとって薄ら寒いやり取りも、彼らにとっては温かな交流なのだろう。
式典に参加しない彼らは、気にならないのだろうか。
今日のジョアンナは普段と異なり、これから行われる式典に参加するためにこの場にいるのだ。
マルコムは公式行事であるにもかかわらず、不遜にも婚約者のエスコートを拒んだ。
無作法を責められるべきは、彼の方だった。
よしんばエメルダがこの茶番のためでなく、純粋な親切心からその差し入れとやらを準備したのだとしても、そもそも無用の長物である。
たとえ、手続き上の妹に冷たいとされているジョアンナでなくとも――今日のように慌ただしい日に、まるで見当違いの厚かましさを押し付けられれば、誰だって叩き落とすに違いない。
それはむしろ、血の通った人間らしい行動と言えるだろう。
しかしその言い分の滑稽さに、彼らは気付いていないようだった。
そこには、ジョアンナの実の弟であるニールも含まれていた。
ジョアンナの家族は、ジョアンナよりもエメルダ贔屓だった。
エメルダは両親を事故で失い、カルスタイン家に引き取られた。
幼いころから一人で何でもできたジョアンナより、不幸なエメルダの心を癒すために注力するのも、無理はなかっただろう。
聡いジョアンナは自らの寂しさに蓋をして、それを仕方のないことだと受け入れた。
自分も、可哀想なエメルダの力になろうと、良くしてきたつもりだった。
しかしエメルダが元気になった後も、格差は続いた。
両親は、可愛くて甘え上手なエメルダを気に入っていた。
ジョアンナの父親など、早世した妹によく似たエメルダを、それこそ目に入れても痛くないほどの溺愛ぶりであった。
母親も、表情豊かで世話の焼き甲斐があるエメルダを可愛がった。
弟のニールは同じ年ということもあり、はじめのころこそ複雑な心境だったようだが、幾度も頼られているうちに今では守るべき妹分だと思っているようで、何かとエメルダの肩を持つようになった。
愛すべき大切な家族が一人増えたのだと、それだけならば良かった。
けれど……ある日からエメルダは、ジョアンナに冷遇されているのだと人前で泣くようになった。
そしてその日からジョアンナは、幼気な少女を泣かせる極悪人となった。
きっかけは恐らく、エメルダが伯爵家に引き取られてしばらくした後。
熱を出して寝込んでいた幼いエメルダは、医師から処方された薬が苦いと泣いた。
ジョアンナもその薬の味はよく知っていたから、口直しのために手ずからジュースを運んだのだが……。
手渡す際、エメルダがカップを上手く受け取れずに零してしまい、服が濡れてしまった。
自分の渡し方も良くなかったと、素直にジョアンナは謝った。
そして申し訳なさから、着替えとして一番のお気に入りの寝間着を彼女に譲った。
上質のシルクで作られたその寝間着は肌触りが良いのに加え温かく、汗をよく吸い、見た目もうっとりするほどの品であった。
だから許せ、というほどの意味を持たせたつもりはなかったけれど、早く良くなればいいと思ってのことだった。
元気になって、輝くような笑顔をまた見られればいいのに、と……。
ジョアンナにとっては、ただそれだけのこと。
けれど翌日、ジョアンナの願いは打ち砕かれる。
呼び出されたエメルダの私室で見た光景。
お気に入りだった寝間着は肩口から引き裂かれ、それを着たエメルダはワンワンと泣き叫んでいる。
まるで状況を理解できなかったジョアンナは、母に頬を張られてようやく意識をそちらに向けた。
「なんて子なの! 病気のエメルダにジュースをかけた挙句、寝間着まで取り上げようとするなんて! そんな卑しい子に育てた覚えはありません!」
「や、やめて、おばさま。エメルダがわるいの。おねえさまのお気にいりを借りたから……貸してもらえたのがうれしくて、それで……」
「まぁ! エメルダは悪くないわ。折角熱が下がってきたところだったのに、可哀想に。さぁ、新しい寝間着に着替えましょうね」
いつの間にか、ジュースはジョアンナがわざとかけたことになっていた。
寝間着はあげたつもりだったのに、貸したものを気まぐれで返せと迫ったことになっていた。
今の今まで家庭教師の授業を受けていたというのに、そのような真似ができるはずもない。
まるで心当たりのないジョアンナは、痛む頬を押さえ、ただただ呆然とすることしかできなかった。
そして反論や説明どころか一言たりとも許されないまま、ジョアンナはそのまま部屋を追い出された。
母に手を上げられたこともショックだったが、少しも疑うことなくジョアンナが『そんなこと』をする子だと、そう思われていたことのほうが辛かった。
その後も、事あるごとにエメルダは「お姉さまが……」と人のいる場で泣いてみせた。
その度に、父親に母親、弟までもがジョアンナを責めた。
「何故優しくできないのか」
「どうしてそんなにも心が狭いのか」
「エメルダはこんなに泣かされても、健気にジョアンナを庇っているというのに――」
涙を流すエメルダの前では、ジョアンナの「やっていない」という言葉は、ただの雑音として流される。
そうしてエメルダが泣く度に、ジョアンナは信用や持ち物を奪われた。
それに加えてエメルダは、更に家族から贈り物と称した何かを買い与えられる。
卑しい嘘つきはどちらだと、一方の言い分を妄信しもう一方を責め立てるのが広い心の持ち主かと、何度も口をついて叫び出しそうになったけれど。
既に言葉の届かない相手だと、ジョアンナは身をもって学んでいた。
聡いジョアンナは、無駄が嫌いだった。
そのため彼女は言葉を重ねることを諦め、仮面を被り、違う自分を演じることを選ぶ。
冤罪の否定はするものの、それだけだった。
そんな日々が続き――そしてエメルダは、ジョアンナの婚約者までその涙で奪おうとしていた。
伯爵家に引き取られてからのエメルダは、事あるごとに泣いてはジョアンナを悪者に仕立てて、全てを手に入れてきた。
理由については不毛なので、ジョアンナは考えないようにしていたが……『ジョアンナのもの』を欲しがるエメルダが、婚約者であるマルコムに近づくのは自明の理であった。
はじめのうちはコソコソと密会を重ねていたようだが、次第にマルコムはジョアンナに苦言を呈するようになっていった。
優秀なジョアンナの言動はマルコムの劣等感を刺激するが、健気なエメルダに頼られると庇護欲をそそられるのか。
今ではこうして直接ジョアンナに向けて怒りを露わにしているということは、彼もすっかりエメルダに篭絡されてしまったということだろう。
ニールのみならずマルコムの友人たちまで侍らせているのは誤算だったが、それだけエメルダの涙に絆される人間がいるということだ。
「貴様のように冷血な人間と結婚などできるか! 婚約は破棄させてもらう! わかったな!」
「そんな! お姉さまが可哀想だわ……」
「何を言うんだエメルダ。君をこんな風に泣かせる女は願い下げだ」
「マルコム……」
そんなやり取りに加え、ニールや第一王子をはじめとしたその他の男性たちも、口々にジョアンナを非難する。
そして――
「わかりました。私、ジョアンナ・カルスタインはマルコム様との婚約破棄を受け入れます」
「そうか、ようやくわかった、か……?」
思わず言葉が尻すぼみになってしまうほど、マルコムは衝撃を受ける。
視線の先には、はらはらと涙を流すジョアンナの姿があった。
「うっ……マルコム様にそこまで嫌われてしまうなんて……私、わたくし……っ」
頬を伝う涙を拭いもせず、唇を噛みしめて俯くジョアンナ。
彼女は握りしめた両手を胸の前で組みながら、肩を震わせている。
鉄面皮だ氷の女だと罵ってきた婚約者の涙に、マルコムをはじめとした周囲はざわついた。
脆く、今にも折れてしまいそうなほど儚げなジョアンナの姿。
普段の彼女からは想像もできなかったその姿から、見てはいけないものを見てしまったような後ろめたさを感じる。
けれど……彼女から目を離すことができない。
先程まではくすんで見えた白金色の髪が、艶めかしく揺れる。
美しく整った顔立ちを歪めているにもかかわらず、彼らはむしろ危うげなその表情に釘付けになっていた。
ジョアンナは震える唇から、鼻声混じりの言葉を絞り出す。
「わたくし、エメルダみたいにっ、かわいくなくて……、っく、だから、せめてっ、マルコム様にふさわしい、ように……が、がんばってきたのに、こんな、こんなに嫌われるなんて……」
人々のざわめきの中、不思議と彼女の声はよく通った。
噛みしめた唇から零れる嗚咽は空気を震わせ、その場に居合わせた人間の心を揺さぶる。
涙に咽ぶ彼女の泣き顔はエメルダのように幼くはなく、舞台女優のように大袈裟でもなかった。
***
何よ……!!!
何なのよ、これは、一体……!?
涙ひとつでこの場の空気を全て掻っ攫っていったジョアンナに、エメルダは剣呑な視線を向ける。
その場所は、私のものなのに!!!
これまで散々エメルダに良いようにされてきたジョアンナが、今更になってこんな真似をしてくるなんて思わなかった。
歯噛みしてマルコムを見上げれば、片腕はしっかりとエメルダの腰を抱きながら、しかし瞳は一身にジョアンナの泣き顔に見入っている。
そのことも、エメルダは気に入らなかった。
視線の先のジョアンナは人形のようだった表情を一転させ、生々しいまでの人間味溢れる感情を爆発させている。
所々言葉を詰まらせながら、ジョアンナはマルコムが婚約者で嬉しかったと、幸せだったと、その淡い気持ちを吐露した。
そんな想い人に並ぶために努力してきたつもりだったが、王宮に招かれ邸を留守にすることも多く、会いたくとも会えない時間が増えていったこと。
それでも伯爵家を訪問してくれたマルコムの応対をエメルダが行い、自身とは違い可愛らしい彼女に心が動いてしまうのも無理からぬことだろうと、涙ながらにジョアンナは理解を示す。
「うっ……、それでもマルコム様は私の婚約者で、それがっ、気に入らないのだと思って、でも、わたくし、っ、わたくしにはどうしようもできなくて……」
「すこしでも、心をお許しいただければと……っ、そう思っていたのに、あ、会う度にエメルダを虐めていると、責められて……」
「やっと取れた時間をっ、マルコム様にお会いするために使っているのに、……ぅう、ごかい、誤解、だと、申し上げても……お聞きいただけ、なくて……」
エメルダにとって、それは当然のことだった。
自分が涙を流しながらジョアンナを庇えば庇うほど、周囲はエメルダの望んだとおりにジョアンナを嫌悪した。
ジョアンナが嫌いだったわけではない。
むしろ、エメルダの興味の対象はいつだってジョアンナだった。
正確には――『ジョアンナのもの』が、欲しくて欲しくて堪らない。
彼女のものが欲しい。
大切なものなら、特に。
取り上げたものがエメルダに与えられるときが、この上ない快感だった。
エメルダには、ジョアンナが何もかも持っているように見えた。
エメルダにはないもの。
エメルダが持っていないもの。
彼女の持ち物も、周囲の人間も、エメルダが望んだものは手に入れてきた。
生まれ持った素質を奪うことはできないから、その価値を奪った。
ジョアンナの称賛されるべき聡明さは、けれどカルスタイン家の人々にとっては、畏怖と……そこから生まれる嫌悪の源となっていた。
美しい容姿のジョアンナだったが、生き生きと感情豊かで可愛らしいエメルダと並べば、まるで作りものじみた不気味な印象を与えた。
エメルダは、もう一度見たかった。
幼いころに見た、大切なものを与える時に浮かべた、少しだけ悲しそうな表情を。
それなのに、あれから一度だってジョアンナは、あの表情を浮かべてはくれなくなった。
まるで本当に人形になってしまったかのように、ジョアンナの表情は乏しかった。
そして――今、ジョアンナは涙を流す姿を初めて見せ、ずっとエメルダのものだった周囲の関心を奪っていった。
この場にいる誰もが、ジョアンナの雰囲気に呑まれていた。
嫌な予感がひしひしと押し寄せる。
けれどエメルダ自身もジョアンナから視線を逸らし、再び自分へ注目させることができずにいた。
ジョアンナは想いを寄せるマルコムに取られた態度に言及した後、声を震わせながら言葉を続ける。
「ふ、二人が惹かれ合っているのなら……婚約は、家同士の契約、ですもの。私とエメルダの立場を交換することも……ッ、そのほうが、みんなが幸せなら、わたくし、わたくしは……」
言葉を詰まらせ、自らの肩を抱くジョアンナに、周囲の取り巻きたちはソワソワと動き出した。
エメルダの腰を抱くマルコムこそ、その場を動けずにいるけれど……。
微かな声で「ジョアンナ……? そう、だったのか……?」と、衝撃を受けているようだった。
すぐ隣にいるエメルダには、しっかりと聞こえていた。
――気に入らない!
エメルダはマルコムの陰から、キッとジョアンナを睨みつけた。
今までは何をされたって人形のようだった彼女が、急にどうして?
しかし、ジョアンナの続けた言葉に、そんなエメルダの思考もどこかへ吹っ飛んでしまった。
「昔から……わ、私がエメルダを虐めていると、そんな話ばかりで……っ、と、とうとうマルコム様まで、そのように、お、おっしゃって……、ヒクッ」
「っぅ、そんなこと、そんな……酷いこと、するはずがないのに、聞いて、もらえなくて……」
「だから、だからわたくし、そんなことはしていないと、証拠を、集めたんです」
そう言ってジョアンナは、どこからか取り出した紙束を持ち――しかし、震える指先のせいで、彼女の言う『証拠』は一枚一枚ひらひらと辺りに散らばってしまう。
ワッと顔を押さえて嗚咽を漏らすジョアンナ。
エメルダを囲んでいたはずの男たちは、ばら撒かれた紙を拾い上げては、そこに記された内容に驚愕しているようだった。
「そんな……! これを見る限り、確かに彼女はエメルダを虐めてなど……そもそも、そんなことは不可能だ!」
「一体、どういうことなんだ……!?」
「マルコム! 俺は、お前がエメルダ嬢が虐められているから力を貸してほしいと……そう言ったから! だから俺は……!」
そんな紙屑が、一体なんだと言うの!!!
叫び出しそうになりながらも、エメルダはグッと堪えた。
今、口を開いてしまえば、己が不利になるだろうと……流石の彼女にもわかっていた。
先程までは一緒になってジョアンナを責めていたくせに、涙を流す彼女が用意した、たった数枚の紙切れを見ただけで、今にもマルコムに掴み掛らんとする彼の友人たち。
エメルダの傍に残ったのは、マルコムとニールのみ。
第一王子など、申し訳なさそうにジョアンナにハンカチを差し出している。
どうして……どうして!!!
エメルダには、今のこの状況が理解できなかった。
涙ながらに相手を糾弾するのは、自分だったはずなのに。
打開策を模索し始めたエメルダだったが……けれど彼女の鈍った頭が何かを思いつくよりも先に、状況は再び一転する。
喧騒を縫って、辺りに軽やかな笑い声が響いた。
この状況に似つかわしくない声の主は、つい今しがた俯き涙を流していたはずの、ジョアンナその人であった。
「ふふ、なぁーんちゃって」
よく通る声で、彼女はおどけたようにそう言った。
静まり返る空間の中で、ジョアンナは差し出されていた手を払いのけると、代わりに自らの懐から取り出したハンカチで顔を拭う。
たったそれだけの動作で、今しがたまで頬を流れていた涙は跡形もなくなる。
悲壮感溢れる表情も、戦慄く彼女の身体も、嗚咽交じりに震える声も……何もかもが、一瞬のうちに幻のように消え去っていた。
あれは――いったい、誰?
エメルダの視線の先にいるのは、彼女の知るジョアンナではなかった。
エメルダにとってのジョアンナは、感情の希薄な人形のようで、時折浮かべる表情と呼べるものがあるとすれば、眉を寄せる程度のものだった。
そんなジョアンナは、先程まで涙に咽んでいたかと思えば、今度は眩いばかりの美しい笑みを浮かべている。
どちらも、エメルダの知るジョアンナではなかった。
***
「私、演技には自信があるんです」
そう言い、ジョアンナは豊かな胸を反らす。
堂々とした立ち姿は、またしても彼らが初めて目にする彼女の姿だった。
「えん、ぎ……?」
理解が追いつかない中、どうにか絞り出したマルコムの言葉に、ジョアンナは満面の笑みで頷く。
「えぇ、演技です。先程、涙を流しながら心にも無いことを言ったのも、ふふ、ぜーんぶ、お芝居です。マルコム様は、お芝居がお好きでしょう? 婚約者でもない女性と、何度も劇場に通うほどですもの」
華やかな笑みを浮かべたまま、小首を傾げるジョアンナ。
彼女の言葉は、痛烈な皮肉のようにも、無邪気な問いかけのようにも響いた。
マルコムが決して芝居が好きなわけでも、劇場に通いながらも舞台を熱心に観ているわけではないだろうことは、居合わせた誰もに想像がついたが、この場でそれを口にする者はいなかった。
ジョアンナは自身を囲む、かつてのエメルダの取り巻きたちをグルリと見回す。
「それにしても、本当に純真な方たち」
「は……?」
思わず口を開いたのは、誰だったのか。
ジョアンナはそれに応えるように、「だってそうでしょう?」と口元を綻ばせる。
浮かんだ笑みとは裏腹に、彼女の瞳はゾッとするほどの冷たさを湛えていた。
「同情を誘えば、あっさりと手のひらを返して、つい先ほどまで大声で批判していた私を擁護してくださるなんて!」
大袈裟な身振りで両腕を開き、彼らを指し示す。
「外面だけを見て、己の感情ひとつで周囲と同調して傍若無人に振る舞うのは、マルコム様やカルスタイン家の人間だけではなかったのですね! 私、とても勉強になりました!」
「何を――ッ!」
今度は、明らかに皮肉であった。
激昂した数名が声を荒げるが、ジョアンナはあっさりと肩をすくめるだけで、堪えた様子はない。
「まぁまぁ、話はまだ終わっていません。それに、自らの落ち度のせいで私へお怒りになるのは、流石に短慮が過ぎるのでは? これ以上の恥の塗り重ねは看過いたしかねます」
「っ~~~!!!」
憎らしい物言いではあったが、彼らは一様に口を噤んだ。
カルスタイン家の人々は認めようとはしなかったが、ジョアンナが才女であることは周知の事実。
弱冠十代の彼女はその才覚によって、国王直々に王宮の研究機関に招聘されるほどであった。
選ばれし、ごく一部の人間の持ちうる才能と栄誉。
特に彼女と同年代の高位貴族の子息たちは、それを疎んだ。
表情の薄い人形のような彼女を、陰気で頭でっかちな女だと決めつけていた。
太刀打ちできない相手に対して、劣等感から爪弾きにしたのは彼らである。
実際、王宮でジョアンナの周囲にいるのは変わり者たちばかりだった。
通りかかるのを見かけたところで、彼女たちの話していることといえば、まるで常人には理解できないことばかり。
彼女は決して声高な人物ではなかった。
ジョアンナを物言わぬ人形のように扱ったのは、彼らも同じだった。
そんな彼女によく通る声で窘められ、人数と声の大きさでしか勝っていなかった彼らは、言い返せるほど厚顔ではなかった。
つい先ほど、自らの意志で彼女を口汚く罵ったことを思い出してもいた。
「感謝してほしいものですね。そこのニールやマルコム様と同様、愚かな貴方方の目を覚まして差し上げたのですから」
そう言い、ジョアンナはゆったりと腕を上げ、眼前の人物を示した。
「さぁ、ご覧ください! そこで醜悪な表情を浮かべている私の妹を! ふふ、泣いていたのは、私と同じように演技だったのですよ」
***
マルコムは、ショック状態から立ち直れずにいた。
度重なる状況の変化や、婚約者だった女性から与えられる情報の処理が追いつかないのだ。
鼻息も荒くジョアンナを非難した勢いは、とうに消え失せていた。
彼女の泣き顔を見てから……それが偽りのものだったと言われても、激昂する気力は浮かんでこない。
人形のようだった女が、言葉の刃を自分たちに振るうのを、黙って眺めているしかなかった。
そんなジョアンナの示した先――自らの腕の中にいるエメルダへ、ノロノロと視線を移す。
エメルダは突然向けられた数多の視線に驚き、表情を取り繕えずにいた。
ジョアンナを睨みつけていた目は吊り上がり、愛らしいはずの顔は大きく歪んでいる。
『醜悪』という言葉が、まさにピッタリだった。
そのことが、ジョアンナの言ったことを強く裏付けていた。
エメルダは可愛い少女だった。
マルコムは自身より優秀な婚約者などではなく、甘く癒してくれる彼女を好いていた。
縋られるのは気分が良かったし、いじらしい少女を大切に守ってやりたかった。
それが愛だと……思っていた。
「ねぇ、今こそ泣いてみせるときではないの?」
「ぁ……」
尊大に言い放つジョアンナに対し、エメルダははくはくと口を動かすことしかできない。
戸惑ったような表情を浮かべながら、マルコムの服の裾を万力のように締め上げている。
「だって、本当に涙脆い人だったら……こんな風に虐められたなら、きっと泣いてしまうはず」
エメルダを見つめるジョアンナの視線が、猛禽類のように鋭く光る。
しかし周囲の視線はエメルダに集中しているため、彼女の告げる残酷な言葉だけが響いた。
「どうしたの? 『そんなの嘘よ』と、哀れに涙を流すの。今がそのタイミングよ?」
ゆったりと締め付けるような圧に、空気が薄まるような感覚が広がっていく。
「今までは、随分ご立派な虐められ役だったわけでしょう? 私が意地悪な悪女だと証明したいのなら、今、悲嘆に暮れて泣き叫ばなくては」
まるで演技指導でもしているかのような口ぶりである。
マルコムは、確かに今こそエメルダが涙を流すことを期待した。
ジョアンナの質の悪い仕返しに、傷ついたという表情を浮かべてくれれば――。
けれど、エメルダの瞳に涙は浮かんでいなかった。
様々な感情の入り混じった彼女の顔は、決して可愛らしくも、麗しくもなかった。
それは、これまでの偽りを肯定しているかのようにしか映らない。
マルコムには、そんなエメルダが、酷く恐ろしいもののように思えた。
そして鈍い脇腹の痛みが……これは決して夢などではないことを、彼に突きつけていた。
「ひっ……!!!」
「っ、きゃぁぁあ!!」
マルコムは、気が付けば腕の中のエメルダを突き放していた。
彼女が持っていたバスケットは放り出され、既に割れていたガラスが再び耳障りな音を立てる。
盛大に尻もちをついたエメルダは、呆然とマルコムを見上げた。
今しがた起きた出来事が、理解できないと言わんばかりである。
俺は……今、何を?
先程まで、エメルダの持ってきたバスケットを叩き落としたと、ジョアンナを責め立てたのは自分ではなかったのか?
それどころか、自分は、彼女を――。
「何するのよ! 酷いじゃない!!!」
王宮の分厚い絨毯敷きでも、痛いものは痛いらしい。
一拍置いて怒りがこみ上げてきたのか、エメルダはマルコムを鋭く非難した。
足元でギャアギャアと喚く彼女の瞳に、やはり涙は見えない。
「あら、まぁ……マルコム様ったら!」
この惨状に、ジョアンナも思わず目を丸くしていた。
よく通る声でせせら笑うように名前を呼ばれ、再びマルコムは視線を足元から外す。
「マルコム様も、お可哀想に」
「は……?」
慈悲すら感じられるほどの声だったが、薄く笑うジョアンナの瞳には蔑みの色が浮かんでいる。
「エメルダには、何故か私のものを欲しがる悪癖があるようで」
「きみの、もの……?」
やけに苦々しく鈍い響きを繰り返すと、マルコムの胃はグッと落ち込んだ。
「えぇ、ですからエメルダがマルコム様を欲しがるのも、わかりきっておりました」
ジョアンナはそこで言葉を切り、座り込んでいるエメルダを見下ろす。
「だって貴女……意地汚いんだもの」
血も凍るような声で、彼女は吐き捨てた。
エメルダに向けた言葉ではあったが、マルコムは、まるで自分が腐りかけの残飯のような気持ちになった。
「長年同じ邸で暮らしてきたのだから、対処法を心得ているのも当然でしょう?」
得意気に続いた言葉は、やはり残酷にマルコムの心を抉った。
「だからどうでもいいものを、それらしく見せていただけのこと。演技は私、先程も申しましたが自信はありますので」
そしてジョアンナは、次々と例を挙げていく。
嬉々としてエメルダが取り上げたつもりのものは、どれもジョアンナにとっては取るに足らない下らないものばかりだった。
「適当なものをチラつかせれば、それで良いのです。王宮や邸の外でのことは、どの道エメルダにはどうしようもありませんから」
両親たちや弟に責められたところで、いつものことなのだ。
特筆すべき事ではなかったと、ジョアンナは言う。
当然の如く最後に挙げられたのは、彼女の婚約者の名前だった。
「ほんの少し、興味を示すだけで良いのです。エメルダには、それで十分。ですので、滞りなく研究が進んで……私は勿論、国王陛下を含め一同喜んでおります」
満足げな笑みだった。
ジョアンナの優先順位は揺らがない。
婚約者としての義務も、マルコムに会うために時間を捻出していたのではなく、空き時間を利用していたに過ぎなかった。
彼女はマルコムなどまるで眼中になく……そして彼女の言葉を借りれば、エメルダがマルコムに近づいたのも『ジョアンナの婚約者だったから』ということだ。
マルコムは置かれた立場によって、カルスタイン家の令嬢たちに振り回されていただけだった。
一方は目的のために彼を餌のひとつとして差し出し、もう一方が見境なく喰らいついていたのだ。
その事実は、マルコムの自尊心を酷く傷つけた。
「エメルダの行為は悪質でした。私もマルコム様や他の方を騙していたことに違いはありません。ですが、言わせていただきますと……騙された方も、悪いのです」
再びどよめきが広がるが、彼女は火に油を注ぐように続ける。
「本当に、貴族の子息として教育を受けられたのでしょうか?」
「なに、を……?」
傷心のマルコムは、これ以上何も聞きたくなかった。
けれど、思わず口が動いていた。
「だってそうでしょう?」
不出来な生徒を前にしたように、ジョアンナは眉を寄せた。
随分と久しぶりに感じる、人形のような表情だった。
「淑女教育では、『安易に涙を流してはならない。ここぞというときに使うからこそ、涙は切り札になり得るのだ』と教わります。それとは逆に、紳士教育では『女の涙に惑わされてはならない。欲しいもののために、彼女たちは容易く涙を流してみせるのだ』と教わるはず」
確かに、聞き覚えはあった。
当時のマルコムは、そんな嘘泣きに引っかかるものかと、鼻で笑ってみせたのではなかったか。
「生理現象は仕方ありませんが、その理屈でしたら、人前でピィピィ泣くような令嬢は要注意人物に他なりませんもの。疑いこそすれ、エメルダを全肯定するなんて……それも、こんなに大勢が。これは由々しき事態です」
しかつめらしく、ジョアンナは言い放った。
マルコムの脳裏に、父の姿が浮かぶ。
父はジョアンナを拒むマルコムを叱責し、エメルダこそが毒婦であると強く言い含めようとしていた。
それをマルコムは、才女ジョアンナを侯爵家に取り込みたいがための詭弁だと固く信じていた。
自分とエメルダの関係を否定されればされるほど、マルコムの想いは強固なものとなる。
しかし、蓋を開ければ……全て父の言った通りであった。
「貴族の女性は感情的になり過ぎぬよう、常に自らを厳しく律しています。そんな女性が、ここぞというときに涙を流すから、価値があるのです。自身に得るものが無くとも、悲しかったり嬉しかったりしたときに溢れる涙こそが本物なのです」
淡々と言い含めるような彼女の言葉に、マルコムは苦々しい気持ちで耳を傾ける。
マルコムの母は、厳しい人だ。
厳格な彼女は、子供たちを甘やかしたりしなかった。
笑うときですら、貴婦人らしく奥ゆかしい笑みを浮かべるような、そんな人。
そんな母は息子の婚約が決まったとき、安堵した笑みと共に薄らと眦に涙を湛えた。
そうだ、母はあの瞬間、間違いなく喜んでいたのだ。
母以上に厳格な父も、そんな母を抱き寄せて――。
「真偽を見極めることもせず、見たいものばかりを見た結果でしょう? だから、騙された方も悪いと申し上げたのです」
今度こそ、マルコムの全身を後悔が襲った。
貴族の結婚は家同士の契約である。
親の決めたこととはいえ、あれほど両親がこの婚約を喜んだ理由の中には、息子の幸せも含まれていたはずなのに。
周囲の警告を聞かず、心地良い夢に浸っていた。
その挙句に、このような事態を引き起こした。
全てを台無しにしたのは――マルコム自身の選択だった。
理解するや、マルコムは膝から崩れ落ちた。
***
どうして……!?
どうしてこんなことに!!!
エメルダは恐慌をきたし、半狂乱となっていた。
彼女に心底惚れ込んでいたはずのマルコムはすっかり項垂れて、こちらを見ようともしない。
彼の友人である第一王子を含む令息たちも、顔色悪く自己嫌悪に陥っているようだった。
ニール……!
そう、ニールは!?
背後にいるはずの兄を探すために視線を上げると、エメルダは新たに近づいてくる人物に気付く。
極端なほど身長差のある二人組だった。
一人は小柄だが目を見張るような美女で、その隣にいるもう一人も背の高いとびきりの美男子。
見慣れないその二人組は、自然と割れた人垣の間から進み出た。
「もう用は済んだでしょう? さぁ、時間よ! 散った散った!」
鮮やかな夕日のような色をした髪を靡かせて、女性の方が歯切れよくそう言った。
急かすように手袋越しに手を叩く彼女の横をすり抜けて、長身の青年はジョアンナへ歩み寄っていく。
新たな人物たちの登場に、困惑したような小さなどよめきが広がる。
理由は単純だった。
突然現れた二人組が、どこの誰なのか、わからなかったのだ。
王宮に異国の客人が招かれたという話は無かった。
雰囲気から、ジョアンナと親しいようだが……。
人一倍素早く体裁を整えた第一王子が、美女へ声をかけた。
「失礼だが、レディ。貴女は……?」
初めて目にした眩いほどの美貌を前に、彼はおもねるような笑みを浮かべて問いかける。
そんな彼の言葉に心底驚いたようで、美女は完璧に整った眉を大きく上げた。
そして口角を上げてニンマリと笑うと、高飛車に言い放つ。
「レディ? レディですって!? まぁまぁまぁ! 第一王子殿下程ともなると、実の妹の顔すら忘れてしまうのね! 流石ですわ、お・に・い・さ・ま!」
「は……? い、妹!?」
狼狽した第一王子は、改めてまじまじと眼前の女性を見つめる。
そうしている間にも、畳みかけるように彼女は喋り続けた。
「たった一人の妹じゃない。でもそうね、お兄様はちっとも私と口を利いてくれなかったのだもの。私の声も顔も、忘れていたって当然よね!」
「なっ……!? え……?」
「ねぇ、まさか本当にわからないの? 嘘でしょう? まさか、存在まで忘れていたって言うの? 信じられないわ、なんて酷いの!?」
「……ということは、お前、本当にヴァネッサなのか――!?」
廊下中に響いた彼の叫びは、酷く間抜けだった。
しかし、周囲の人々の心中もほぼ同じである。
その美しい姿から、想像しろと言う方が酷ですらあった。
ヴァネッサ第二王女といえば、王室の異端児として有名だ。
いつだって何やら怪しげなことをしていて、ろくに梳きもしない絡まった髪に、防護用だかなんだかと理由をつけた厚手の帽子を室内でも外さない。
ドレス姿など誰も見たことはなく、煤けた作業着姿が偶に目撃される程度であった。
そんな彼女の奇行は枚挙に暇がなく、妹を話題にされることを嫌った第一王子は、その存在について口にすることを止めた。
そしていつの間にか、王家の一員でありながら人々の話題に上ることすらなくなり、亡霊のような存在として扱われるようになる。
エメルダも存在は知っていたものの、見かけたことは無かった。
ヴァネッサは心底傷ついたという口ぶりで、今も兄を非難している。
しかし愉快そうな笑みを全く隠していないので、兄の失言を甚振って遊んでいることは明白だった。
それよりも、とエメルダは視線をジョアンナに移す。
青年が、ジョアンナに腕を差し出していた。
「遅いから迎えに来たんだ。無事、済んだようだね」
「えぇ。どうもありがとう、ロジャー」
無機質だった表情を一転させ、柔らかく微笑んだジョアンナは青年の腕を取る。
ロジャーと呼ばれた彼の身長はかなり高いが、ジョアンナも背の高い方だ。
彼女は青年の腕にピッタリと収まった。
エスコートのために腕を組み、互いを見つめ合う視線や雰囲気だけで、二人が愛し合っているのがエメルダにも伝わってくる。
マルコムへの想いが演技による偽りのものだったというのは、どうやら本当らしい。
背の高い青年に、エメルダは既視感を覚えた。
彼は相当強いくせ毛のようで、漆黒の髪は撫で付けて固めているにもかかわらず、緩くウェーブしている。
それを見て、エメルダは思い出した。
かなり印象が違うものの、黒髪の青年には話しかけたことがあった。
父に強請って連れてきてもらった王宮で、ジョアンナの仕事仲間を目にしたのだ。
ジョアンナの変人仲間のうちの一人。
それが彼だった。
顔が判別できないほどの分厚い眼鏡をかけていたので、これほどの美男子とは思わなかった。
それに癖の強い髪をそのままにしていたので、人の身体をした鳥の巣が歩いているように見えた。
話しかけたのも、ジョアンナの知り合いに愛想を振りまいておこうと思っただけ。
けれど、彼は――そうだ、あの男は、話しかけたエメルダを睨みつけて歩き去ったのだ!
長身から見下ろされ、潤んだ目で見上げてみたものの、返ってきたのは眼鏡越しにもわかるほどの冷たい視線。
初めてのことにたじろいでいるうちに、彼は踵を返して足早に立ち去って行った。
怖くて気味が悪くて、エメルダは彼をちっとも欲しくならなかった。
信じられないような対応をされたので、そのまま忘れることにしたのだ。
実はその時エメルダが向けられたのは冷たい視線どころではなく、竦みあがるほどの隠しきれない敵意や嫌悪感だった。
そのせいで、帰るなり寝込むことになったのだが……あまりのショックに、エメルダの記憶は自身でも気付かないうちに改ざんされていた。
マルコムにしたように、彼の前で泣いてジョアンナを悪人に仕立て上げようとしていたなら、既にその頃にはジョアンナを深く愛していたロジャーによって、どんな目に遭わされていたかわからない――などということは、エメルダには知る由もなかった。
睦まじそうな二人の姿を目にしても、エメルダはあのロジャーという青年にこれっぽっちの興味も湧かなかった。
いつもだったら、喉から手が出るほど欲しかったはずなのに。
エメルダは今、それどころではなかった。
それ以上に胸を占めたのは――狂おしいほどの敗北感。
幸せそうに笑うジョアンナ。
どこからともなく現れた彼女の恋人。
美しい本来の姿を晒した第二王女。
自分を突き離したマルコム。
助けてくれないニール。
役に立たなかった取り巻きたち。
軽蔑の篭った、たくさんの視線。
何より……無様に床に這いつくばったままの自分が、受け入れられなかった。
泣いて、甘えて、唆して――そうして周囲から関心を集めて手に入れてきたものは、今のエメルダを助けてはくれなかった。
これまで彼女が築いてきたものが、全て崩れ去ろうとしていた。
どうして!!!
どうして!!!
どうして!!!
歪む思考の中で、それだけが木霊する。
どうして……。
エメルダは、どこまでも自分本位だった。
彼女は歩き去ろうとしているジョアンナに、浮かんだ言葉をぶつける。
「どうして、私に……っ、こんな酷いことするの!? どうして、今更……」
そうだ。
「どうして? どうしてよ!? 今までずっと、ずっと私が……」
流石に、その先は言葉にできなかった。
既に暴かれたとはいえ、エメルダが涙ながらにジョアンナを悪女に仕立て、彼女のものを取り上げ続けていたことを、エメルダ自身の口で認めるわけにはいかなかった。
けれど、ジョアンナにはわかったのだろう。
エメルダを見下ろして、彼女は言った。
「馬鹿な子。始めたのは、貴女じゃない」
一切取り繕わない、簡素な返事だった。
「わ、たし……?」
「仕掛けてくるのは、いつだって貴女。今日だって、そうでしょう?」
「ぁ……」
そうだった。
差し入れのバスケットを落とされたのだと、マルコムをけしかけたのはエメルダだった。
今日はジョアンナにとって、何か良いことがあるのだと、そう聞いたから。
「きょう、ひょうしょう、されるって……」
「えぇ。だから私の評判を落としたかったのでしょう?」
「…………」
その通りだった。
凄いことをして褒められると聞いたから、だからそれを奪いたかった。
簡単なはずだった。
だって、誰もジョアンナが何故褒められるのか、知らなかったから。
きっと大したことじゃないのに、大袈裟に騒がれているだけだと思っていた。
意地悪な女だと王宮の人たちに知れたら、それで台無しになるはずだった。
「全部演技だったと、先程言ったでしょう。貴女が私を『カルスタイン家の養女を虐める悪女』にしてから、私はずっと演技して過ごしてきたの。貴女の知っている私は、演じていただけで本当の私じゃないのよ。それを今日、止めたというだけ。これ以上貴女に付き合い続けるつもりは無いの」
「ぜっ、全部……!?」
先程泣いてみせたのも、マルコムへの想いも、エメルダが欲しがるものを誘導したのも、どれも演技だった。
だけどジョアンナの長期間に渡る演技は、それよりもずっとずっと前から始まっていたのだ。
信じられなかった。
信じたくなかった。
エメルダの知るジョアンナのほぼ全てが偽物だったなんて、認められなかった。
「この日を選んだのは、もう演技する必要がなくなるから、それだけのことよ」
「そん、な……」
「貴女は、きっと来るだろうと思っていたの。同じように無知で愚かな誰かを連れて……まさか、それがこんなに大勢だなんて思っていなかったけど。だからね、今日貴女にやり返したのは、最後の一幕というやつよ」
「さいご……?」
「ねぇ、貴女は私を悪者にしたくて、人目のある場所を選んだのでしょうけど……おかしなことをしている連中がいると、見られていたのは貴女たちの方よ」
ジョアンナはぐるりと、未だ廊下にいる人々を見回して笑った。
「だって皆さま、今日の式典の出席者ですもの。私が何者かは、当然ご存知のはず。今頃、想像と違って会場で狼狽えているのはカルスタイン伯爵夫妻くらいなものでしょうね」
ジョアンナは、既に自らの両親を肩書きで呼んでいた。
エメルダは堅苦しくそう呼んでいるだけかと思ったが、そうではなかった。
「今日の式典はね、叙爵式なの。私はもう、カルスタイン家の令嬢ではなくなるのよ」
心底嬉しそうに笑うと、ジョアンナは人差し指をピンと立てて天井を指した。
「ねぇ、私たちを明るく照らしているのは、一体なぁに?」
***
ヴァネッサが牧畜犬のように式典の参列者たちを会場へと追い立てた後、彼女たちも別の入口へ向かうべく足を早めた。
「急がなくちゃ。主役が遅れるわけにはいかないもの」
「ごめんなさい、こんなに時間がかかるとは思わなくて……」
ヴァネッサとロジャーに挟まれる形で足を進めるジョアンナは、申し訳なさそうに謝った。
今日の主役はジョアンナだけではなかった。
口さがない人々が『変人トリオ』と呼んだ研究仲間たちが、それぞれ叙爵される予定となっていた。
それでも、二人は肩をすくめただけだった。
「仕方ないわ。長年耐えてきたんだもの」
「そうさ。ようやく巡ってきた仕返しの機会だったんだ。君が立派にやり遂げたことを、僕も誇りに思うよ」
そう言ってくれる二人に、ジョアンナは温かい笑みを浮かべる。
「それに、もしそのせいで遅れたって、多少は目こぼししてもらえるだろう。向こうには第一王子もいたんだから」
ロジャーのその言葉に、ヴァネッサはぐるりと目を回した。
「本当に、信じられないわ。全く……。馬鹿だ馬鹿だと思っていたけれど、まさかあれほどだったなんて。でもこれで、あの人は王位継承レースから間違いなく外れたわね。自己都合で不参加を決めた式典の日に、あんな醜聞の真っ只中にいたんだもの」
特に感慨もなさそうに、ヴァネッサは言った。
堅苦しい式典などすっぽかして、同レベルの友人たちとつるむのだろうという予想は当たっていた。
彼女にとって、兄の評価とはその程度のものだった。
これから行われる叙勲式で、ジョアンナたちには一足飛びにそれぞれ子爵位が与えられることになっていた。
破格の待遇であったが、彼女たちはそれほどの功績を残していた。
魔導灯は、炎に代わるただの灯りではない。
この国の在り方を変えるほどの大発明であった。
魔導灯の燃料となる魔石。
魔導士が絶えて久しいこの国において、微量の魔力を含んだ魔石は、少し綺麗なだけの危険な石ころに過ぎなかった。
稀にアクセサリーとして加工されることはあれど、光を反射した際の輝きの美しさは宝石に及ばず、価値はほぼ無いに等しい。
それどころか魔力を含む特性上、意図せず暴発する危険がつきまとう。
他の鉱石を採掘する際、扱いに困る厄介な瓦石だった。
ジョアンナたちが作り上げたのは、魔石を安定した動力とする魔導装置の根幹である。
廃品としてすら扱いに困り果てていたクズ石に、莫大な利用価値が生まれた。
魔導灯を足がかりとして、今後はもっと様々な魔導装置の開発が予定されている。
そのため本日与えられる子爵位ですら、上の爵位へ陞爵されるための踏み台に過ぎない。
これは魔導士が存在した時代とも違う、個々人の魔力に頼る必要すらない、技術の時代の幕開けだった。
新たに生まれる若き当主たちを知らないことは、国王主導の事業に無関心であることと同義。
詳細とはいかずとも、概要くらいは把握していて当然のことである。
ろくに考えもせずエメルダ側に付いたことで露呈した愚か者たちの先程の無知ぶりは、この狭い社会においては大罪人であることを自ら周知しているようなものだった。
「会場の様子も見せたかったくらいよ。貴女のご両親、他家の貴族たちに囲まれて泡食ってたわ。『表彰』ですって!? もう! 認識不足にも程があると思っていたけど、今日は驚きの連続ね!」
ヴァネッサはリーチの差があるにもかかわらず、ドレスの裾を器用に捌いてちょこまかと動きながら、息も切らさずにそう言った。
彼女はその小柄な体格で機敏に動き回っても、いつだって疲れ知らずだった。
「それが狙いよ。聞かれもしなかったし、私も詳しくは言わなかったもの。あの人たちは娘の研究成果を『式典の最後にオマケで労ってもらう程度のもの』だと思っていたの。それ以上だなんて、露とも思わなかったでしょうね」
「その価値はあったわよ。彼らが何も知らないと広まるなり、誰も近づかなくなったもの」
「あぁ、今も間違いなく針の筵の中にいるだろうさ」
大きく頷いた仲間たちは、ジョアンナの復讐計画を全面的に支持していた。
研究室で顔を合わせたその日から、年近い三人は意気投合した。
芽生えた友情の中に、演技は不要だった。
仲間たちと共に過ごす時間の中でだけ、ジョアンナは素の自分でいることができた。
他の二人もそれは同様だった。
境遇は違えど、同じような状況にいたのは変わらなかった。
かけがえのない時間を共に過ごした三人は、研究を進めるための仲間というだけでなく、互いの望みを叶えるために協力し合う心強い味方でもあった。
ジョアンナが望んだのは、カルスタイン家と縁を切ることだった。
受けた仕打ちを考えれば、家族の情よりも独立を選ぼうと、非難される謂れはない。
何よりもあの家の人々は、嬉々として泥船を沈ませることを選ぶ連中だった。
ジョアンナ一人がどれほど必死に水を掻き出そうが、結果が変わることはないのだ。
両親と弟は、悲劇の少女を救う自分に酔いしれていた。
不条理なことに目を瞑る家族を見るのが辛くなかったと言えば、嘘になる。
けれど、エメルダだけが悪いわけではない。
彼女の、あの愚かで卑しい嘘を肯定し、行為を助長させたのは、間違いなくカルスタイン家の人間だった。
そこにはジョアンナも含まれる。
ジョアンナは無駄が嫌いだった。
自らの望みを理解するや、家族との対話や説得を諦めた。
仮面を被り、どうでも良いものを対価として渡し続け、向けられる敵意を割り切った。
そうして自身の心の痛みを、可能な限り最小限に抑えたのだ。
そしてエメルダは、歪な子供のまま成長した。
泣けば何でも手に入れられるのだと、そのように教育したようなものだった。
それでも、エメルダには自ら改心する機会はあったのだ。
ジョアンナは抗うことを止めたが、冤罪の否定だけは続けていたのだから。
エメルダの主張が全て真っ赤な嘘であることは、彼女自身が一番理解していたはずなのに。
邸の外でも義姉にいじめられたと泣く彼女に対して、ジョアンナはそんな人ではないと否定してくれた、親切で善良な令嬢も皆無ではなかった。
けれど彼女は、自らの行いを決して改めなかった。
歪なまま成長したのは、ジョアンナも同じだった。
己を偽り、被害を最小限に留めるために周囲を騙した。
自分がいなくなれば、かつての家族たちがどうなるのか……理解した上で、それを復讐として取り入れた。
生家を離れ、婚姻によるものでも、どこぞの家門の庇護の元でもなく、独立した存在であるために、彼女は自らの才能で認められようと努力してきた。
その望みを、自らが新たなる当主となることで叶えたのだ。
そして彼女は、家を離れる日にエメルダの正体を暴くことを選んだ。
全てジョアンナの計画通りに、事は済んだのだった。
「ふふ……、これからもっと忙しくなるわね!」
突き当たりを大きく曲がりながら、ヴァネッサの笑顔が弾ける。
忙しいことの何が嬉しいのかと言ってやりたいが、既に息が上がり始めているジョアンナには難しい。
隣を走るロジャーも、眼鏡を外したことによる緊張のせいで鈍る足を動かしながら、やけに長い廊下にげんなりしている。
そして彼には、既に一度往復した分の疲労も蓄積されていた。
勝手知ったる我が家を軽快に走るヴァネッサだけが、身体を弾ませながら言葉を続けた。
「まずは新子爵として、他の貴族たちにもみくちゃにされるでしょ? それにこれからしばらくは全員王宮住まいになるんだから、どうせ時間を気にせず研究の続きに没頭するに決まっているわ!」
子爵位に付随する、ややこしいあれこれに煩わされるであろうことは承知している。
けれど領地は無いので、それだけは気が楽だった。
カルスタイン家を出ると決めたジョアンナは、時間をかけて少しずつ身の回りのものを王宮に運び込んでいた。
どちらにせよ、物に対する執着は置かれた環境のおかげで希薄だったので、もとより大したものはないのだが。
一時的な仮住まいとして借りるだけだが、ジョアンナに与えられた新しい部屋は職場直結で、警備が厳重で、全てが揃っている理想の環境だった。
「だけどなにより、叙爵式の後であなたたちの婚約が発表されるでしょ! その後は婚約式の準備があるし、もっと先だけど、勿論結婚式も完璧にしなくちゃね!」
そこでヴァネッサは、一段と瞳を輝かせる。
恋に生きる彼女は、親友たちの恋路にも積極的だった。
頭でっかちなジョアンナとロジャーの交際は、全て彼女のお膳立てによるものである。
異性を意識したことのなかった二人が、互いに抱く気持ちに名前を付ける前の状態から、彼女は全てを理解していた。
そして尊敬し合う関係の中、些細な言動から次第に惹かれ合っていく親友たちの姿を特等席から眺めながら、後押しを惜しまなかった。
辺境育ちのロジャーに王都の有名スポットを教え込んだ上で幾度となくジョアンナをデートに誘うようけしかけ、ジョアンナには古代語で書かれた魔導書の代わりに恋愛小説を押し付けた。
結局のところ、研究の合間に過ごすリラックスした休憩時間が二人には一番効果的だったのだが……。
それでも彼女の協力が功を奏したことに違いはなかった。
ヴァネッサは、自分の恋にも親友たちの恋にも全力だった。
彼女が幼いころから焦がれた、年上の騎士への気持ちが叶う日も近いだろう。
ジョアンナとロジャーをくっつけることに成功したヴァネッサは、二人の結婚に関する一切を取り仕切ることを宣言していた。
人によってはヴァネッサをお節介と称するのかもしれないが、当事者たちに不満などない。
自分の気持ちに気付けたのは、彼女のおかげだった。
やりたいようにやらせて問題ないこともわかっている。
それに忙しなく動き回る彼女を見ることが、ジョアンナとロジャーの愉しみでもあった。
ジョアンナの心が痛むのは、マルコムの父親であるトバール侯爵のことだ。
彼はジョアンナの才能をよく理解していたし、義父として申し分のない存在だった。
才女を家系に取り込もうという意欲も称賛すべきだが、致命的だったのは、ジョアンナと婚姻を結ばせるのに適した息子がマルコムしかいなかったことだ。
そして息子は、父親が望んだほど物分かりが良いわけではなかった。
度重なる叱責も、付け焼刃にしかならなかった。
トバール侯爵には、国王より直々にジョアンナとマルコムの婚約解消が打診された。
ジョアンナが叙爵されることやマルコムの公然たる不実がその理由だったが……つまり、打診という名の強制によって、既に二人の婚約関係は解消されていた。
その上で、ジョアンナとロジャーの婚約が新たに結び直された。
娘の親友たち、それも国を発展させてくれる存在たちの結びつきを、国王は諸手を挙げて歓迎した。
婚姻による侯爵家とのつながりはなくなったが、ジョアンナは侯爵にこれからの研究に幾らか関わってもらうよう提案し、了承を得ていた。
話のわかる相手であったし、愛する息子を道具として使わせてもらったのだから、その程度は恩返しすべきだと感じていた。
侯爵自身、息子の行動があまりに酷いと頭を抱えていた。
そしてこれ以上、家やジョアンナに迷惑をかけるようなら勘当するしかないと、彼女たちの前で零したのだった。
「あなたたちの新居も整えないといけないでしょ? あんな陰気で寂れた邸、新婚夫婦には相応しくないもの!」
ヴァネッサの鼻息が荒くなったが、息が切れてきたわけではないらしい。
理由は、ジョアンナとロジャーに褒賞として下賜される予定のとある邸である。
それは数代前の国王が愛人のために建てたという瀟洒な邸だったが、いくつかのいわく付きでもあった。
そのせいですっかり見る影もなくなったかつての豪邸を蘇らせることに、ヴァネッサはここでも闘志を燃やしていた。
それだけの価値があるに違いないが、実際に住むことになる二人にとって重要なのはそこではない。
邸の造りや装飾などと比べるまでもなく、王宮への移動が短時間で済むことが、何よりも魅力的だった。
ジョアンナが必死に足を動かした先に、ようやく目的の扉が見えた。
実際には大した時間はかかっていないはずだが、この駆け足は永遠に続いて終わらないのではないかと恐怖を感じ始めていたところだった。
日頃の運動不足を強く実感しているジョアンナとロジャーにとって、長い長い道のりであった。
それもこれも、ヴァネッサの言う『効果的で特別な演出』のために、通常の出入口から遠く離れた扉まで誘導されたせいだ。
式典前から疲労した価値は十二分にあった。
叙爵式に参加したどの貴族たちも、三人を『変人トリオ』などと呼んでいたことはすっかり忘れ、重要人物として丁重に扱った。
そうしてジョアンナたちは、栄光の光の下を歩み続けたのだった。
***
ジョアンナは自らの人生を切り開き、その後も順風満帆であったが、実家であるカルスタイン家はそうはいかなかった。
王宮の廊下で引き起こした騒動で醜態を晒したエメルダを、ニールは何とか連れ帰った。
それは決して簡単なことではなかった。
ジョアンナたち式典の参加者が足早に立ち去り、残されたエメルダの取り巻きたちは、正気に戻ると再び一斉にエメルダとマルコム、ニールを責め立てた。
自分たちに落ち度があったことは理解していたが、それでも気持ちが収まらなかったのだ。
ニールはエメルダが悪であったと認識したものの、過ごした時間が長すぎて、騙されていたのだと明かされたところで義妹のことも姉のことも、どう考えて良いのかすらわからなかった。
帰りの馬車の中、エメルダは自分を嵌めたジョアンナのこと、役に立たなかったニールやマルコム、手のひらを返した他の取り巻きたちのことを口汚く罵り続けていた。
あれだけの醜態を晒したにもかかわらず、自分に責任があるとは微塵も思っていないようだった。
エメルダに応えるように、次第にニールも激昂し、邸に到着するころには盛大な言い合いに発展していた。
その混乱に、式典から戻った両親も加わった。
カルスタイン伯爵夫妻は、叙勲式の主役の一人が自分たちの娘であることを知らなかった。
とんだ大恥をかいたが、文句を言おうとジョアンナに近づいた際、先手を取った娘に「金輪際カルスタイン家と関わる気は毛頭ない」ときっぱり絶縁を宣言されてしまった。
よく通る声で大勢の貴族たちの前でそう言われてしまっては、面目などない。
恥辱に震える夫妻は、どこからともなく現れた国王に「娘の巣立ちが寂しいのはわかるが、成功を祝う気も無い者がこの場におるのは感心せんな」と言われ、警備をしていた騎士によって物々しく退室させられた。
国王がジョアンナのプライドを傷つけないようそのような言い回しをしたことも、両親の代わりに彼女の努力を認め、望みのものを与えたことも、的外れに激高する彼らが知ることはない。
カルスタイン家の人間は、誰も自分が悪かったのだと認めはしなかった。
既にいないジョアンナを責め、嘘泣きばかりしてきたエメルダを責め、こうなったのは互いのせいだと責め合った。
癇癪を起こして暴れまわったのはエメルダだけではない。
そうして家庭は崩壊していった。
残った問題はそれだけではない。
エメルダの取り巻きたちの家への謝罪に駆り出され、神経を擦り減らす日々。
彼女を修道院へやることも提案されたが、それだけはカルスタイン伯爵が跳ね除けた。
既に義娘へ感じていた可愛さなど消え失せ、憎らしさが募るばかりであったが、それでも亡き妹の忘れ形見であることに変わりはない。
伯爵はそう周囲や自らに言い聞かせたが、実際はエメルダを貴族の女性として修道院へ送るほどの高額な寄付金を出すことを惜しんでのことだった。
ジョアンナを欠いたカルスタイン家は、次第に落ちぶれていった。
彼女が長年をかけて逃れた泥船は、やはり沈む運命であった。
金のために、エメルダは平民の成金の後妻として嫁がされた。
しかし彼女は婚家で様々な問題を起こし、一年と経たずに出戻ってきた。
そしてその賠償のために、辛うじて持ち直したかに見えた伯爵家はより困窮した。
ジョアンナは、徹底して絶縁状態を維持していた。
けれど困窮した伯爵家の人間のせいで、無関係の領地民が巻き込まれるのは心苦しい。
領地の状況を危惧した彼女の働きによって、カルスタイン領には監査役が送り込まれた。
不当な増税や横領などを防ぐための措置だったが、伯爵の信用が皆無であると周知したようなもので、既に彼らに体裁など残っていなかった。
領地こそ健全に運営されたが、邸で暮らす彼らは細々とした生活を続ける他無くなった。
そして、言い争いの絶えない日々は続くのだった。
***
美しく整えられた庭園から、子供たちのはしゃぎ声と、それに振り回される父親たちの情けない悲鳴が聞こえてくる。
「まぁ見て。あの子たちの仲の良さそうなこと」
「そうね。本当に、いつ見ても可愛らしいわ」
庭園を見渡せるテラスにて、母親たちは喧騒を楽しみながら優雅にティーカップを傾けた。
ジョアンナとロジャーが下賜された幽霊屋敷を、ヴァネッサは見事な手腕で立派な邸宅へと蘇らせた。
それから数年経った今でも、目まぐるしい日々は続いている。
ようやく取れた休日に、こうして家族と共に親友一家を招いて過ごすことは、ジョアンナにとって特別な行事の一つだった。
彼女たちの視線の先では、それぞれが同じ年に産んだ長男と長女が仲良く手を繋いで戯れている。
両家の親密な関係は結婚前からずっと続いているが、自分たちの子供を今のうちから婚約させてはどうかという話題が上がることは、一度たりともなかった。
結婚相手を親が勝手に決める昔ながらの制度を嫌悪し、それから逃れるために全力で抗った彼女たちが親になったのだから、当然と言えば当然であった。
少なくとも自分たちは、子供の将来を勝手に決めることはするまいと固く心に誓っていた。
けれど、こっそり期待することは個人の自由だ。
ジョアンナも決して口には出さないが、互いの子供たちが結ばれることを心の底では願っていた。
せめて自分たちのように、仲の良い関係を続けてほしいと思う。
明るい声が響く暖かな陽の光の中、ゆったりと時間が流れていく。
ジョアンナは、今日も幸せだった。
長々とお付き合いいただきありがとうございました!!!
短編なのに、キャラ数も多い!
今回は嘘泣き女子と、そんな子に騙される人にやり返すお話が書きたいな~と思って書いてみました。
泣いてる人に優しくするのは、勿論大切なんですが。
信じすぎるのも、やりすぎるのも良くないよね、というお話のつもりです。
もう少し長めの後書きっぽいことを、活動報告に追記しました。
よろしければこちらもご覧ください。
https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/684063/blogkey/3099587/
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ここまでお読みいただきありがとうございました!
2023/01/14 誤字と一部表記を修正しました。誤字報告してくださった皆様、本当にありがとうございます!!!