鏡花水月
今回は、本編「運命の女神は勇者に味方する」のブックマーク登録400件突破&累計PV200万達成記念SSです。
そして、これまでのほのぼのしい話と異なり、かなり暗い話となるので、明るい話がお好きな方は読まれない方がよろしいかと思われます。
本編を知らない方にも伝わるように書いているつもりですが、本編を知っている方が勿論、分かりやすいです。
それでは、お楽しみください。
―――― 吐き気がする。
最初に思ったのは、そんなことだったと記憶している。
それは、もう既に遠い昔のことだから、はっきりとは覚えていない。
その手を取れば、自分の魂は今以上に穢れてしまうことは分かっていたが、これは一種の機会だと考えて受け入れることを決断した。
元より、その当時の自分の立場で選択肢があるはずなどなく、彼の者に目を付けられた時点で、観念するしかないのだが。
そして、話に聞いていたほど良いものではなかったことは確かだ。
それはそうだろう。
自分が最も憎む相手を抱く行為など、苦行の時間でしかなかった。
好きでもない相手なのではない。
殺したいほどの悪感情しか湧き起こらないような相手だ。
コトの最中で、憎悪のまま、首を締めようと何度思ったことか。
尤も、そんなことをすれば、反撃を受けただけでなく、自分の身内にもその処罰は及ぶだろう。
それだけの立場にある人間からのお誘いであった。
もしかしたら、それを狙われた上での誘いもあったのかもしれないと、後からになって思う。
この場合の「身内」は血の繋がった弟だけの話ではない。
自分が護るべき方々にも及ぶ。
自分の失態を理由に、あの方々を吊り上げようと、浅はかにも考えた可能性はある。
それらを思えば、なんとか、その場限りのお役目を果たせただけでもマシだと考えるしかないだろう。
自分の神経と精神は想像以上に図太かったらしい。
幸いにして、行為中にも肉体的な快楽はあったためにそれらを吐き出すことも問題はなかった。
それについては、年齢による部分はあったかもしれない。
身体機能が未熟な年代だった。
少しの刺激でも鋭敏に反応するほどの知覚過敏な年頃。
後の弟の言葉を借りれば、「健康的なお年頃」とでも言うべきか。
いずれにしても、相手に対する憎悪と、自身に対する嫌悪が薄れたわけでもなく、決して綺麗ではなかった自分の魂に、消えない汚れが一つ追加されたことは間違いない。
そして、同時に誘いをかけてきた相手の性癖も疑う。
自分が産んだ子とほとんど年も変わらない年頃の男。
その一点だけでも正気の沙汰とは思えない。
それも、憎んでいる相手が幼児の頃から育ててきた従僕を、ただの腹いせで閨の相手にさせる。
なかなか高貴な方の趣味は、下々の身分には理解できない部分がある。
話には聞いていた。
―――― 王妃殿下から手を差し出された男は出世する
―――― 王妃殿下から差し出された手を拒んだ男は破滅する
前者は分かりやすい関係である。
要は気に入られたら口を利いてもらえるというものだ。
勿論、差し出された以上、相手の希望に応える必要はあるが、相手は「色狂い」とも陰で揶揄されるほどの人間である。
相手が満足するまでひたすら奉仕を続ければ、さほどの技術は要らないとまで言われていた。
そして、後者は分かりやすい私怨である。
自尊心だけは高い高貴なる相手からの申し出をけんもほろろにあしらえば、国の中枢に居辛くなるような状況に身内ともども追い込まれることは目に見えて分かることだろう。
堪え性のない人間に権力を与えてはならないという良い見本である。
早い話が、その城にいた自分が、王妃殿下に目を付けられただけの話だ。
自慢ではないが、自分は人目を引く容姿ではあるらしい。
そして、城内にある噂を耳にして、目立つように振舞っていたこともあるだろう。
まさか、未成年のうちに手を差し出されるとは思ってもいなかったが。
手を差し出されるなら、後数年は先だと予測していたために、ある意味、自分にとっては大いなる誤算だったといえる。
だが、後の結果だけ見れば、この時点で手を差し出されたから、動きようもあったと言えるだろう。
元より出世などに興味はなかった。
自分が考えるのは、尽くすべき主人たちに仕えること。
今はまだ事情があって、お傍にいることはできないが、いずれ、自分はまたあの方たちのために生きることになる。
仮令、彼女たちが俺たち兄弟のことを忘れていても。
―――― そう思っていた矢先の出来事だった。
****
城から、自分の生活拠点へと戻る。
あの世界には魔法と呼ばれるモノが存在するが、今、自分が生活している場所にはそんな奇跡は存在しない。
いつもは浄化魔法で身体を清めるが、今回ばかりは頭や心を冷やすためにシャワーを使って冷水を浴びていた。
この世界の季節は春。
冷えた水を浴びるにはまだ早すぎる気温であった。
―――― 吐き気がする
何でもないことだと思った。
かつて、自分と弟を教育してくれた師の身に起きたことを思えば、大したことはされていない。
あの若く美しかった師は、自分と弟を城から逃がした後、城下の片隅で、物言わぬ姿で発見された。
当時の自分も、城へ戻った時、師を知る者として、その検分に立ち会うことになったのだが、それは凄惨な遺体だった。
勝気な瞳こそ閉じられていたが、あちこちが切り刻まれ、明らかに暴力的な行為を受けた跡が幼かった自分の目にも分かるほどであった。
この世界には治癒魔法がある。
だが、その治癒魔法は誰でも使えるものではなく、全てを癒すことができるわけでもない。
そして、その師の身体にはその治癒魔法どころか、救護処置すらもとられた後はなく、暴力を受けて捨て置かれたことがよく分かるものだった。
さらに、首や手足に拘束具の跡もあったために「魔法封じ」を使われた可能性があったらしい。
そうでなければ、あの師が簡単に死ぬはずがない。
この国の人間のほとんどは知らないが、あの師は、別の国の高貴な生まれだった。
身分を隠して、この国にいたのだ。
だが、そんな高貴な血筋の人間も、「魔法封じ」をされてしまえば、普通の女性と変わらない。
後に、女性としての尊厳を踏みにじられるような行為の跡もあったと聞かされた時は、気が狂うかと思った。
どんな手を使っても破滅させてやりたかったが、その黒幕だと思われるような相手はあの国で二番目に権力を持ち、血筋も良い。
両親を失い、行き場を失くした兄弟たちが、その身体に刃を突き立てるには、あまりにも遠すぎる相手だった。
だから、じっくりと長期戦の構えとした。
師は俺たちをこの城から逃がしてくれたけれど、この先、生きていく以上、年齢に関係なく仕事は必要である。
そして、身内は既に亡かった自分と弟にとって、あの国以外のツテは皆無だ。
だから、この世界で見様見真似の知識と魔法を駆使してなんとか生活基盤を整えた後、城でも最低限の居場所を作るために戻ったら、師の訃報を聞かされることとなった。
弟には詳細を言っていない。
言えるはずがなかった。
師を母のように慕っていた弟だ。
感情のままに突撃されて、弟まで失うことになったら、俺は亡くなった母親にも顔向けができなくなってしまう。
だから訃報だけは伝えた。
それでも、それを知った弟は……、魔封じで拘束して、魔法で無理矢理、意識を落とすしかなくなるほど激しく取り乱したほどだった。
その全容を知れば、どうなるかなんて分かり切ったことだろう。
いや、年代的に全てを理解もできなかったか。
それを知ったのは弟がまだ5歳だ。
今なら分かるとは思うが、今更伝える気もない。
弟が知るのは、師が何者かに殺されて、人が来ないような所で発見された。
それだけで良いのだ。
尤も、自分で調べる分には止めない。
弟にはそれを知る権利もある。
あの国へ戻って、自ら動けるような年齢になっていれば、冷静に受け止めることもできるだろう。
過去を思い出していたせいか、先ほどよりはマシな精神状態になっているようだ。
少なくとも、身体が冷えていることを自覚できる。
風邪だけは引かないようにしよう。
病気に対処する術がほとんどないあの世界と違って、この世界は風邪を引いても病院と呼ばれるものがある。
だが、あまり、積極的に関わりたくない場所でもあった。
この世界に来て間もない頃、弟が、高熱を出した時、隣人たちに促されてそこに向かったが、そこで座薬なる薬を使われた姿を見て以来、健康には気をつけるようになっている。
勿論、弟もだ。
あの時の弟の叫びは忘れたくても忘れられない。
尤も、あの対応が特殊なものだと今なら分かっているが、当時の俺たちに分かるはずもなかった。
「そろそろ、止めるか」
シャワーのハンドルを捻り、冷水を止める。
ひんやりした頭と心。
そこに何かが下りてくるような奇妙な感覚。
そして、何かが身体に染み渡るような不快感が再び襲ってくる。
少しぐらい気を紛らわせたところで、すぐに消えてくれるようなものではないらしい。
自身が汚れることには何も問題はないが、ここまで悍ましく思う感覚はそうそう味わいたいモノでもない。
だが、簡単に薄れるものでもない。
それならば、できるだけ、何事もなかったかのように振舞うべきだろう。
****
季節は春。
この国は、桜という花が好きらしく、学校や公園と呼ばれる場所にはよく見かける植物が植えられている。
季節を感じさせる花ではあるが、俺はあまり好きになれなかった。
綺麗だとは思う。
一斉に咲き、そして、散る姿は確かに心を打つというのも分かる。
だが、この国の七割を超える品種であるソメイヨシノと呼ばれる桜がクローンであると知った時から、綺麗だけど好きにはなれない花となった。
人の手によって生み出された品種交配とも違う存在。
決して、種では増えない品種。
接ぎ木、挿し木、取り木と呼ばれる手法で増やすことはできるけど、それは新たなクローンを生み出すだけで、次世代は育たないのだ。
強い個体を生み出すこともできず、進化することもなく、自然繁殖もできない花は、誰かの手を借りなければ存在し続けることすらできない。
それを哀れだと思うよりも、嫌悪が先立つのは、自分の境遇のせいだろうか?
綺麗だからこそ、誰かの手を借りて存在するという行為が醜悪に思えるのだ。
相手は観賞用植物である。
人間の勝手で生み出され、持て囃されるために作られているのだから、人の手を借りなければ生きられないのも当然だと理屈では分かっているのに。
快音が響く。
いつもはそれを心地よく思えるのに、どうもそんな気分になれない。
この公園は家族連れが多く訪れる。
そして、総合公園を謳っているだけあって、野球場、陸上競技場、弓道場、テニスコートが併設されているだけでなく、バッティングセンターがあるのだ。
弓道場があるのも珍しいが、バッティングセンターがあるのはかなり珍しいだろう。
この公園を作ろうと思った時の自治体の首長や関係者が野球好きだったとしか思えない。
俺はバットを構えて振り切る。
手応えはあるが、いつものようにスッキリしない。
バッティングセンターで打つというよりも、機械的に射出される軟式ボールを当てるだけの単純な作業になっているからだろう。
周囲から何故か視線を感じるが、それもあって、余計に嫌な気分が広がっていく。
―――― 吐き気がする
またあの不快感が蘇る。
どれだけ洗浄魔法を使っても、どれだけ自分の身体を洗っても、決して消えることのない穢れ。
どんなに記憶が薄れても、一度、汚れたモノはもう戻らない。
―――― 吐き気がする
あれは仕方がなかったのだ。
だが、避ける手段がなかったわけではない。
弟のように城に立ち入らなければ、目を付けられることすらなかった。
それでも、誰も味方がないまま、何のツテのないまま、主人たちをあの世界に戻すことなどできるはずがない。
―――― 吐き気がする
だから、受け入れた。
いつか、来る日のために。
それなのに、誰のせいでもなく、自分で選んだ道と理解しているのに、それでも自分の中にあるナニかが、許してはならないと叫んでいる。
あの師を殺したのは、あの女だと知っているから。
―――― 吐き気がする
自分の中のナニかが騒めいた。
いつも様々な方法で押さえ込んでいるはずの魔力が、内から食い破るようなモノに変わっていくのが分かる。
その気配に気づき、近くにある椅子にもたれかかる、
―――― これはマズい……、か!?
魔力は身体の表面に薄っすらと滲み出る程度しか外には出ない。
そのほとんどは、内側の中を血液のように流れているだけだ。
だが、感情が激しく揺さぶられると、制御不能の暴力に変わることがある。
俺たちの世界では、魔力の暴走と言われる状態となり、意識のないまま強大な魔法を乱発することすらあるという。
魔法というものがない世界にいる者たちにも分かりやすく言えば、剥き出しの刃物や安全装置を外した銃器を携えた人間が、錯乱状態に陥ったようなものだ。
そんなことを、こんな休日に、家族連れで賑わう公園で起こすわけにはいかない。
無様だが、弟を呼ぶしか……、頭が割れそうなほどの衝撃に、顔を顰めたそう思った時だった。
「顔色が悪いけれど大丈夫ですか?」
そんな鈴の鳴るような声が聞こえた。
瞬間的に頭が冷える。
いや、急速に意識が落ち着いていく。
忘れるはずがない。
忘れたことなどない。
そんな澄んだ声だった。
「ああ、どうしよう? 大人を呼んだ方が良いですか? いや、お連れの方とかはいませんか?」
その高い声は明らかに慌てている。
そんな状態にしたのは自分だと思うと、酷く申し訳ないが、同時に、もっと聞いていたいとも思った。
ずっと、聞いていなかったのだ。
それでも、この声を忘れたことなどなかった。
弟と一緒にいた頃よりは、少し声が低くなったか?
それでも高い声であることには変わりないのだけど。
―――― 顔だけでなく、その声も似てきたな
自分の側で慌てている少女を見ながら、俺はそう思った。
誰に似ているかなんて言うまでもない。
彼女たちは血の繋がった親子だから似ているのは当然の話だろう。
前々から遠目には見ていたから、その姿は知っている。
だが、俺は弟のように近付く気などなれなかった。
どんなドMだ?
彼女たちは、俺たちのことを忘れているのに。
俺たちやあの世界のことを全て忘れなければ、彼女たちは、この世界で平穏に生きていくことなどできなかったのに。
そんな状況で彼女に近付こうとするなんて、被虐趣味があるとしか思えなかった。
だが、弟はあっさりと近付いた上、友人枠に収まっていた。
それも、以前とは全く違う関係性を築いたのだから、恐れ入る。
俺は怖くて近付くことすらできなかったのに。
そんな俺が今、何故か、彼女から話しかけられていた。
……というよりも、かなり心配されていた。
これは一体、どういう状況だ?
いや、それ以上に、何故、彼女がここにいるのだ?
バッティングセンターに女性がいないわけではない。
だが、大半は男連れだ。
女性に良い所を見せたい男が多いということだろう。
「母を呼んだ方が良いかな……」
呟かれた言葉に、これまで以上の衝撃があった。
―――― あの方を呼ぶ!?
それだけは避けたかった。
自分のことを覚えていない女性。
だけど、それでも、こんな無様を晒すわけにはいかない。
「大丈夫!!」
思わず、立ち上がった。
「ふえ?」
「心配してくれて、ありがとう。ちょっとだけ、立ち眩みを起こしただけなんだ」
そう言った俺は上手く笑えていただろうか?
だが、ここに母親も来ているなら、今、顔を合わせるわけにはいかなかった。
考えてみれば、バッティングセンターだ。
少女一人で来るようなところではない。
「立ち眩み……? それなら、これをどうぞ」
そう言って手渡されたのは、「天然水」と書かれたペットボトルだった。
「立ち眩みなら、水分補給が良いと聞きます。まだ開ける前で良かった」
そう言って差し出される。
普通なら、断るところだ。
年下の少女から施しを受けるなど、恥だろう。
あるいは、見知らぬ人間からならば、何らかの罠を疑うところだ。
「ありがとう」
だが、俺はあえて受け取ると……。
「どういたしまして」
その少女は桜の花が綻ぶように笑ってくれたのだった。
****
あれ以来、好きな花は「桜」になった。
我ながら、単純とは思う。
たまたまあの周囲には桜が咲き乱れており、それと少女の笑顔が重なっただけの話。
だが、あの日、全てを諦めかけていた俺の心と魂が、あの少女と出会ったことで救われたことに間違いはない。
あの時の俺は荒んでいて、一歩間違えば、絶望の闇に堕ちていた可能性があった。
あるいは、何も信じず、この先の困難も自分一人で様々なことに立ち向かおうとしていたことだろう。
いずれにしても、その先にあるのは自滅しかなかった。
多少賢しいだけで、大した力のない俺が、たった一人で全てに立ち向かえるはずがないのに。
そんな俺に救いの手を差し伸べてくれたのは、間違いなく、あの少女だった。
だから――――。
「ユーヤ、部屋まで供をせい」
もう何度目になるか分からないほどの申し出にも……。
「畏れ多きお役目。承ります」
俺は笑みを浮かべて応じてやろう。
どんなにこの身が穢れても、彼女たちの顔を翳らせるようなことになっても……。
それでも、俺は、あの少女を守り通すと誓ったのだから。
前書きにもあります通り、当作品は、「運命の女神は勇者に味方する」の番外編です。
本編がブックマーク登録400件突破&累計PV200万達成記念として、書かせていただきました。
ようやく、「異世界(恋愛)」っぽい話を……、あれ? 恋愛?
今回は異世界要素があっても、恋愛要素はあまりないですね。
合わせ技で「異世界(恋愛)」ってことで!!
さて、今回の話は、本編713話「自分の癒し」の詳細と、この話の最後の部分が、本編153話「緋色の髪の貴婦人」に繋がっております。
お読みくださっている方々のおかげで世に出せた作品です。
本当にありがとうございます!!
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
これからも頑張らせていただきますので、お力添えのほどをよろしくお願いいたします。