虐げられ令嬢と人魚王子 2
傷だらけのオーロラは海辺へと走っていた。
10歳の女の子は何もかも失ったばかりだった。
大好きな母も仲の良かった家族も、そして本来の自分も。
突如やってきた義母と義姉はオーロラをただ働く無情な人間に変え、そして身体も心も傷つけていた。
「もういっそ…………」
視線の先にあるのはゆらゆらと揺れる波。
それを見つめるオーロラの目は光を宿していない。
「何かしら、あれ……」
視界の端に映った大きな水飛沫。
遠目から見てもそれが魚によるものではないと分かった。こんな浅瀬で漁なんてしない。
そうなると考えられる可能性は一つしかなかった。
誰かが溺れている――オーロラは私ではどうしようもできないと一瞬目を背けたが、水飛沫の音は助けを求めるように激しくなる。
ゆっくり、近づいて覗き込んだ。
そして、目を疑った。
ばしゃばしゃと水飛沫をあげていたのは魚でも人でもない――網にかかった人魚だったのだから。
金髪の、ひょろりとした男の子。人間だったらオーロラと同じくらいの歳だろう。美しい男の子の下半身は翡翠色の鱗で覆われている。
ばち、と目があった。男の子は真っ直ぐにオーロラの目を見つめている。少し怯えたようにも見えて、オーロラはしゃがみ込んで目線を合わせた。
「あなた……怪我をしているのね」
しゃがみ込むと、網に絡まったひれから血が出ているのがわかった。
「少し痛いけれど、我慢してね」
オーロラはゆっくりと、網を解いていく。男の子は暴れることもなくオーロラをただ見つめていた。
怪我の手当をしようにも、包帯もなければ、人魚にどう手当してよいかも分からない。オーロラは痛々しそうに傷を見つめ、それからぽつりと呟いた。
「私と一緒ね……」
オーロラの腕は傷だらけだった。折檻された跡すらある。名のある家柄の令嬢とは思えない腕だった。
オーロラはおもむろに男の子の傷に触れていた。
この傷が治ればいいのに――
その一心で目を瞑る。
金色の葉の模様がうっすらと浮かび上がったかと思えば、男の子の傷は跡すらなく治っていた。
――もちろん、目を瞑っていたオーロラが自分の魔力でそれを行ったことには気がつくはずもなく。
オーロラは人魚が自らの力で直したのだと思い込み、「よかったわ」と微笑みかけた。
人魚の男の子は、そのまま海の中に消えていった。
***
「その人魚の男の子が、アクアライト様、ということなのですか……?」
にわかには信じがたい話だが、エレンはそうだよ、と笑う。
「たしかに私は幼い頃人魚の男の子を助けたことがあります。しかし、私はそんな珍しい魔法など持っていないので……ですので、私ではないのではないでしょうか……」
オーロラがそう言うのも無理はない。
なぜなら魔法の中でも癒しの魔法は、特に稀なものだとされているからだ。
「……じゃあ試してみようか」
エレンは何やら控えていた召使いに耳打ちをすると、オーロラを見てにっこりと微笑んだ。
「もし、治せたらあの時の女の子が自分だって認めてくれる?」
戻ってきた召使いに花を差し出された。花瓶に入れられてはいるが、葉は萎れ、元気が無いように見える。
オーロラはじっとそれを見つめる。
視界の先には見守るようにエレンが見つめている。
オーロラが魔法を使えると分かりきっているためこれは口実で本当はただオーロラを見つめていたいだけ。
もちろんオーロラは真剣に花を見つめているため気が付かない。
オーロラがゆっくり目を閉じると、金色の葉の模様が浮かび上がった。それから花はみるみる体勢を立て直しまっすぐ上に向かっていた。
周囲ではわあっと歓声が上がった。部屋にいるのはエレンの従者と海底王国の要人、ポートリヒト王国の要人が数名、それから召使いたち。
ポートリヒト王国の要人たちは全く社交の場で見かけない令嬢が珍しい魔法を発揮したことにかなり驚いているようだった。
エレンはいち早くそれに気がついたのか、間髪を入れずに驚くオーロラに歩み寄る。
「ね? 認めてくれる?」
オーロラは驚きを隠せない様子のまま頷いた。
理解して頷いたというよりかは、17年間魔法を使えるにもかかわらずそれを知らないでいたことに混乱している様子だった。
大方、オーロラをいじめていた人間が彼女が魔法保持者であることを気が付かせないようにしていたのだろう。
幸い、彼女に傷跡がないのは癒しの魔法のおかげだろうな。
エレンは7年間に渡って調べ上げたオーロラの家系図を思い浮かべて、顔を歪める。
それから、もう一度確かめるように尋ねる。
「改めて、僕と結婚してくれませんか。僕は、君を絶対に傷つけたりはしないし、誰よりも愛すと誓う」
真っ直ぐに見つめてくる透き通ったエメラルドブルーの瞳がオーロラの胸を高鳴らせる。
偽りを感じない目。それに、こんな私を愛すと言ってくれたアクアライト様のことをもっと知りたい。
「私でよければ……」
「良かった…………」
ほっと胸を撫で下ろしたのと同時にエレンはオーロラへと歩み寄ろうとする。
しかし、一歩踏み出した右足は何故か何もない床で滑り――エレンはぐらりと体勢を崩す。
これでは間に合わない――そうオーロラが思った瞬間、誰かがエレンを抱え込んだ。
「気をつけてください、エレン」
「悪いね、まだ慣れないみたいだ」
エレンを助けてそう呆れ顔を浮かべるのはエレンの従者だ。
よく状況が掴めず、目を瞬かせているオーロラに、エレンはにっこりと、それも少年のような笑みを浮かべる。
「何せ、陸に来て1日目だからね。薬で人間の足を手に入れたとはいえ、まだこんな調子で――だから、オーロラには四六時中僕のそばにいてもらうかも」