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西武池袋駅に着いたのは九時三〇分くらいだった。
西武口から外に出ると、いつものように池袋の高層ビルが出迎える。駅前の道路を多数の人が行ったり来たりしている。スーツ姿の社会人ぽい人や、パーカーやGジャンを着た大学生風の人、そして金髪色黒でピアスをつけた悪そうな男性やぼくらのように学生服の高校生まで、多種多様な人種で溢れている。駅前の横断歩道の前で青信号になるまで少し待つ。
「今日は暑いニャあ」
とめぐみが額の汗を拭っている。スマホの画面を見ながら、「二四℃だってー」とぼくに言った。
ふいに空を見ると太陽が燦々と照りつけている。「ほらぁーっ」とめぐみがスマホの画面をぼくに見せる。確かに二四℃。十月の日中。もう残暑とう季節でもないのに暑さは続いている。日本の異常気象は酷い。どうにかして欲しいと思う。
ぼくは虚弱体質ですぐ病気になる。
長い間ひきこもり生活したせいで、温度変化に弱い。家の中はエアコンが効いていたから、体温調節をする必要がなかったからだ。快適な室内生活に体が適応してしまったので、刻々と変化する外界の気温に対応出来ない。だから凄く寒がりだし、冬にはダウンにマフラーに手袋をつけて、靴下を二枚履いたりして外に出たこともある。体中が着ぶくれしていて、動きにくかった。
「それはファッション的にナシ! ねえねえの弟は可愛いお洋服を着てないとだめ!」
とめぐみに注意されたので、それからはもう少し、センスに気をつけるようにはなったが、それでも、防寒を意識した格好をしている。今日は暑いから学生服のままだが、普段はスヌードくらいはつけている。この時期でもだ。
ウイルスにも弱い。人間はウイルスに一度感染すると、抗体が出来て次からはそのウイルスにかからなくなる。だから小さい子供が外で砂遊びしたり、公園にある遊具なんかを触ることは、健康な体を作るにはむしろいいことだ、なんて言われたりもする。砂場も遊具も、たくさんの人が使用し、様々なウイルスが居るからだ。それに触れることで、子供は体内で抗体を作り、丈夫になっていく。もっとも、程度はある。あまりにも不潔だとウイルスが多量に繁殖して、抗体を作っても対応しきれず重病になったりするから、家に帰ったら手洗いうがいは大切だ。何ごともほどほどに、ということである。
しかし、ぼくはほどほどどころか、まったくと言っていいくらいに人がいる場所に行かなかった。
ひきこもり時代。外には出たけれど、夜、誰も居ないところを散歩していただけだったし、遊具に触れたりも勿論しない。人が充満する密室にも居なかった。学校の教室とか電車の車内とか。ああいう密室にはウイルスがうじゃうじゃいる。換気がどうしても不十分になるから、各々が持っているウイルスが空気中に散布されても、消えていかない。それでも学校に行ったりしていれば、日々、その環境に居ることで徐々に、抗体が出来ていくのだろうが、ぼくはそうじゃなかった。
だから、高校生になってからよく風邪を引くようになった。普通の人なら、充分、抗体がどうにかしてくれる程度の感染であっても、ぼくの体内環境では簡単には駆除出来ず熱が出る。
熱が出たら、「ねえねえがちゅーして風邪を半分、貰ったげる」と間違った優しさを発揮してきたり、「たくさん汗を書いて熱を下げるのよ。温めるには人肌が一番!」と先生が布団に潜り込んできたりしたこともあった。
こっちは熱が出て息が苦しくて咳も出て鼻水も出て、もう死にそうなくらいきついのにみんなはふざけているからそういう時はムカつく。けれど、彼女たちなりにぼくを心配してくれている証なのかな、と思う。
「ねえ、ちーちゃん」
ぼくはもう目の前に立っている女性のリュックサックに意識を集中している。スマホのことはもう意識にはない。気が散ってしまうのはまずいからである。リュックはチェック地の柄をしている。ぼくはそのリュックの網目を上から下まで目で追って、端まできたらまた下へ向かっていくというのを繰り返している。薬の効果はあるが、それでも不安なのだ。この儀式はもはや癖だ。することで落ちつくのである。
「ねえ、ちーちゃん。大丈夫でしゅかー? あれだったら、ねえねえがおんぶしてあげよっか?」
「無理だろ」
いくらぼくが小柄だと言っても、体重は四〇キロ以上あるし身長だって一六一㎝だ。確かにめぐみの方が背が高いけれども、女性の筋力ではぼくを支えられない。
「じゃあ、試してみよーよ。ほら、おんぶおんぶ」
とめぐみは、自分の背中に手をやって、「ほらほら」と僕を誘う。
「ふざけんな、バカ。こんなところでできるわけないだろうが」
駅前の横断歩道の前。人がごまんといるのだ。こんな公共の場で女の子の背中に飛び乗るとか、ありえない。
「変な人に思われるだろ」
「だってちーちゃん変な人じゃん!」
とめぐみは目を大きく見開いた。
「だから大丈夫大丈夫。ほら、おんぶおんぶ。ねえねえの背中、温かいよ? 安心だよ」
「やだよ、無理」
「何で無理なのさー」
「だから、こんな人多いとこじゃ無理」
「え? じゃあ、いないとこならいいの? じゃあじゃあ、おうちに帰ったらねえねえがおんぶしたげるね」
「やだよ。そういう問題じゃない」
「えー? だって人多いとこが嫌なんでしょ? おうちなら誰も見てないからいーじゃん!」
「だから、そういう問題じゃないの」
「なによーもう! ちーちゃんのケチ!」
「ケチじゃない」
とぼくは自分を擁護する。そもそも、おんぶさせてくれないからケチって、意味がわからない。というかめぐみの言動はいつも意味がわからない。
「行くよ」
信号が青になったので横断歩道を渡る。
「ケチケチケチ」
とめぐみはぐちぐち言いながら後を着いてくる。渡り終えると東口駅前交番を左手にサンシャイン通りの方へ歩いていく。右手には松屋とマクドナルド。カレーやポテトの美味しそうな匂いがする。どちらもめぐみやあおいと何回も来ている。学校から近いから行きつけの店だ。
「ねえ、ちーちゃん」
「なんだよ」
「めぐ疲れた」
「はあ?」
「だからおんぶして。ねえ、お願い。お願い」
とぼくの腕を抱きしめて言った。胸が腕に押しつけられてドキンとした。めぐみは身長が一六五センチある。その身長相応に胸も大きい。
「お願いお願いお願いー」
「やだよ、歩けよ。もう、学校そこじゃん」
また、横断歩道の手前で止まった。サンシャインへ向かう十字路だ。その先には学校が入っている丸大ビルがある。
あおい:【まだ?】
あおい:【おしおき準備して待ってるね】
千尋:【恐いなぁ】
「もう歩けなぁーい。ちーちゃんだっこしてー」
「おんぶなのかだっこなのかどっちだよ」
「どっちでも!」
「ちーちゃんならどんな体位でもウェルカムだよ。めぐ、頑張っちゃう!」
「卑猥なこと言うな」
「え? 何が? めぐ、変なこと言ったかニャ。ねえ、何が卑猥なの? めぐ、わかんニャいから教えて?」
「自分で考えろ」
とぼくは言って横断歩道を渡り始める。丁度、青になったのだ。
「ちーちゃんだっこー」
とめぐみは甘えた声を出しながらぼくの後を着いてくる。横断歩道を渡るとすぐに丸大ビルに着く。
ぼくらはエントランスから中に入ってエレベーターで五階へ行く。
乗り合わせた人の中には生徒っぽい子が何人かいる。制服を着ている人と、私服の人だ。うちは私服登校も可能なので私服で来る人も結構いる。だけれど、学校での人間交流は、あまり活発ではないし、同じ高校の仲間だと判断するのは難しい。
ぼくは同級生の顔もあまり知らない。
こうして毎日学校に来ているのは、ぼくが感じるところでは一〇数人くらいだ。他は来たり来なかったり、あるいは全く来ない人もいる。レポートとスクーリングとテストさえやっていれば単位とれるのだから、それも卒業することのみを目標とするのなら、けして間違いではない。むしろもっとも効率がいい方法とも言える。
だけどそれだけじゃ、ぼくの目標は叶う気がしないから、学校に来ている。それはめぐみもあおいも同じだろうと思う。だから、一〇〇人程いる同級生と言っても、顔がわかる人は数少ない。
五階に着いたらエレベーターを降りた。同乗者も一緒に降りたから、生徒だった様だ。
教室は狭い。三学年、三〇〇人入れるほどのスペースはないので、ジュンク堂の方にある別館も利用しながら運営されている。別館はここより大きいので、スクーリングなど人が多数集まることが想定される時は、そちらで授業をうける。
「ちーちゃん、だっこー」
「知らないよ」
ぼくは教室へ行く。
学校の中は、母が言うところ予備校のようだ。床は絨毯が敷いてあり、壁は白い。そして仕切りで簡易的に小さな部屋が何個も作られていて、各部屋の前に「A」とか「B」とか、プリントされた紙が貼ってある。学校でいうものとは違うけれど、収拾がつかなくなるため、大まかにクラスがある。ぼくは「一―A」クラスだ。だけれど担任はいないし、クラス活動も委員も部活もないので、共同体意識はあまりないが。
一―Aクラスにぼくは入る。
めぐみも「だっこー」と言いながら着いてくる。
あおいと同じように、めぐみも一学年遅れで入学した一年生だ。
めぐみは非行少女だったから、中学校はあまり行っていなかったし、当然というか高校に進学することもなかった。高校に行かず、街に出て遊び歩いていた。薬物を乱用し、快楽に溺れた自堕落な毎日が、めぐみの日常だった。先生と出会ったのはめぐみが一五才の時だ。それから薬物依存の治療をして、去年、高校生になった。あの最初の登校日、めぐみもいたらしいがぼくは覚えていない。ぼくは記憶力があまりないのだ。
虐待された子供は心を守るために解離する、というが、その言葉は記憶を忘れる、という意味でも使える。
ぼくは琴音先生から心理学や精神医学の話しをよく聞く。だから少し知識があるけれど、例えば仕事で大失敗したとする。凄くショックを受け落ちむ。世界が終わったように感じる。そして、それからしばらく経った後、こんな経験をしたことがある人は多いはずだ。その失敗の後の、記憶がない。前後の記憶がない。どうやって会社から帰ったのかわからない、といった経験だ。それは、自分を守るために心を現実から切り離していたから、覚えていないのである。まさにこれは解離そのものである。
自分を後ろから操作している感覚がする、というのは前に話した。ぼくは昔、そういう状態によくなっていた。
これも解離の一つで、そしてとても重度化した状態だけれど、その時に現実で何が起こっていたか、については確かにぼくも記憶が曖昧だったりする。
断片的に父の暴力や母の様子は覚えているけれど、ハッキリと具体的に全てを述べられるような、そんな具合ではない。鮮明じゃないのだ。解離は心を守るために現実から切り離すこと、なのだから克明に覚えていないのは、当たり前と言えば当たり前だ。
それでも、ぼくがおかしくなった原因が不透明では問題は解決できないから、琴音先生と出会ってから、催眠療法とか暴露療法とかいう方法を使って小さいころの記憶を少しずつ思い出した。
その詳細はまた後にするけれど、そういう経緯があるからかぼくはよく記憶違いをするし、記憶力もない。
例えば食事の好みとか。
あおいは、辛いものが好きだ。中でも中華が好き、とぼくは思っていたのだが、実際には辛いものはあまり好きじゃなくて甘いものが好きなのだ。
それは、入学してからかなり早い段階に聞いたのだが、初めて話した日に中華を食べたからか、あおい=中華=辛いのが好き、になってしまって、未だに勘違いすることがよくある。
何度も訂正されているのに、どうしてか間違えてしまう。多分、これも解離の影響で脳での記憶処理が上手くいかなくなった証なのだ。
だからめぐみがあの日、教室にいたこともまったく覚えていない。
しかしそれは、ただ単に周りが見えていなかったせいかもしれない。最初の日は本当に余裕がなくていっぱいっぱいだったから。
「おはよ、千尋」
と教室に入るとあおいが言った。
あおいは席に座っていて、「こっち」と手招した。室内は三〇人くらい入れる大きさになっていて、学校机とイスが置いてある。あおいは一番、後ろに座っている。
「おはよう」
「おはにょー」
「遅かったわね」
「そう? いつもと一〇分くらいしか違わないじゃん」
電車に一本乗り遅れたとはいえ、ロスは一〇分くらいだ。
いつもと大して変わらない。
「一〇分、寂しかった」
とあおいは淡々と言った。
寂しかったとは思えない棒読みだから本気なんだか嘘なんだか相変わらず判断しづらい。
「だからおしおきだ。この白状野郎め」
と両手でほっぺたをつねった。
相当の力で左右へ引っぱられた。
あおいは小柄で痩せ細っているけれど、意外と力が強い。
「女を待たせるとは男として最低だ」
「イダタ……、やめて」
「誰が止めるか、おしおきだ」
とあおいは楽しんでいるようにも見える。
あおいは能面とよく言われる。いつも無表情だからだ。
話し方もあまり感情が乗らない冷めた言い方をする。だから感情が見えにくい。けれど、長く付きあってきたから、最近はそんなあおいであっても微妙な表情の違いとか、声の違いがわからるようになってきた。
今のあおいは間違いなく、ふざけている。そして気持ちが上がっている。
「イダタ……、やめてくれ」
「じゃあ、あおいちゃん綺麗です、世界一美しいです、って一〇回言えたら許したげる。あ、五秒でね」
「え?」
「私が五秒数えるから、そのあいだに……ね。はーい。1……」
と数字を数え始めた。
意味がわからない。
そもそも、一〇分遅れたといっても、待ち合わせしてたわけでもないのに、なぜおしおきされないといけないのだ。道理が合わない。といっても、つねられているのは痛いので、ぼくは言われるがままに、
「あおいちゃん綺麗です。世界一美しいです」
と早口で言い始める。つねられている痛みと、無理矢理に言葉を言わされる恥辱感は好きな人には好きなのかもしれないが、ぼくはMじゃないし、快感を感じたくはなかった。
しかし、何とも言えず気持ちが高揚したのは事実だったが。
「あおいちゃん綺麗です。世界一美しいです……、あおい……」
「4、5! はぁーい、終わり―。ん、だめね。七回しか言えなかったじゃない。一〇回言えなかったから、罰ゲーーーム」
「はぁ?」
「口答えしない」
「イダタ……、痛いぃ」
「罰ゲームはぁ、そうねぇ、何がいいかなぁ。うーん、何だろう、何がいいだろー?」
「おい、早く……」
「黙りなさい、本当は嬉しいくせに。このどMの変態め。ほら、言いなさい。私に苛められて嬉しいって言いなさい」
あおいは実は結構どSなタイプで、冷めた調子で人を攻撃するかなりのサイコパスなのだ。
映画とかだったら、感情を表に出さず淡々と人を殺して四股切断するけれど、内心はめちゃくちゃ興奮しているようなそんなヤバイやつだ。
「誰が言うか……イダタ」
「ぼくはあおい様に虐げていただけて大変幸せです、嬉しいです。ほら、言いなさい」
「ぼ、ぼくはあおい様に虐げていただけてとても、とても幸せです。嬉しいです」
「うんうん、よく言えました。千尋はいいこだね。いいこいいこ。えらいえらい」
とあおいはほっぺたから手を離した。そして「かわいいかわいい」とぼくの頭をなでた。
「ぐ……、バカにしやがって」
「ふふふ、かわいい」
とあおいはニコリと笑った。




