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八時十五分。
「じゃ、ちーちゃん」
とめぐみが玄関先でぼくを呼んでいる。
「そろそろ行くよー」
とハルタのローファーを履いている。
髪はバッチリととかされていて、部分的にウェーブがかかっている。めぐみの栗色の髪はパーマがよく似合う。動きがついた毛先がとてもいやらしい。
「うん」
と僕は玄関へ向かう。
「学校かぁ」
今日は登校日だ。
ぼくらは狭山市から池袋まで西武線で通っている。学校は一〇時からだから、そろそろ行かないと時間的に間に合わない。
あおい:【いまどこ?】
と、川澄あおいからラインがきた。
あおいは中野に住んでいるので、ぼくらより通学が楽だ。
千尋:【家】
とぼくはラインを返し玄関で靴を履いた。
めぐみと同じハルタのローファー。サイズは25.5㎝。ぼくは足が小さい。背も小さい。ネグレクトの影響で食事が少なかったから、栄養不足なのもしれない。
痩せ細っているからか、幼く見られる。最近、私服で街を歩いていた時、「中学生?」と声をかけられたことがあった。
もっと大人になりたい。そういう欲求から、髪を七三分けにして、前髪を上げている。クシで分け目を整えて、ジェルできっちり固めている。
その方が少しでも大人びて見える気がするからこうしたけれど、先生からは、「かわいいー」と言われている。けれど先生の感想なんか参考したらいけない。
「さて、行くか」
と玄関を出た。
風が少し冷たい。陽は出ているけれど、やっぱりもう十月なんだなと思う。
「ちーちゃん! 今日もかわいーね」
「何が?」
「七三リーゼントの髪!」
「触るな」
「むぅー、いーじゃんニャいかぁー! 触るくらいぃー」
「だめに決まってるだろ」
「じゃあ、ほっぺた!」
「やめろ!」
「にしし、怒った? ねえ? 怒った?」
「別に。でも、めぐみの手、冷たいね」
「ごめん。めぐ、冷え性だからー」
「いーよ、大丈夫?」
「へーきへーき」
とめぐみはその場で二度三度ジャンプした。ほんとに元気だな、と思った。
「気をつけるのよ」
と先生が玄関先に立って言った。
先生は今日は出張だ。先生はその世界では有名人だから、他院から招聘されたり、大学院のラボに行ったり、児童虐待に関するシンポジウムに参加したりと忙しい人だ。今日も大宮の方で仕事を依頼されているらしい。
「倒れちゃやーよ。ね? 千尋くん」
「は? 大丈夫ですよ」
ジェイゾロフトを服用するようになってから、外で倒れたことはあまりない。特にめぐみが隣にいる時は、一度くらいしか卒倒したことはないと思う。めぐみが慌ただしいから、彼女が心配になって自分の問題にかまけている余裕がないせい、とぼくはは解釈している。
「そうは言ってもね、心配だわ」
「ぼくをなんだと思ってるんですか」
「ガラスの少年」
「キンキキッズですか」
「そう! 古い歌をよく知ってるわねー。関心関心。デビューしたころの堂本光一みたいな、あんな顔がせんせーは好きなのよ。あとジュニア時代のタッキーとか」
「いや、知らないし」
「あと、千尋くんとか」
「はぁ?」
「千尋くんは母性本能をくすぐる顔よね。ちゅーしてもいい?」
「だめ」
「じゃあ、抱きついてもいい?」
「だめ」
「じゃあ、ぎゅーってしてもいい?」
「同じだろ!」
先生の相手をするのは疲れる。
あおい:【今、電車乗った】
あおいは西武線でも山手線でも地下鉄でも何でも学校へ行けるが、定期は山手線で買ってある。あおい:【千尋は?】
千尋:【まだ家】
あおい:【遅刻するの?】
千尋:【ちがう。もう出る】
あおい:【スタンプ】
木陰からこちらを覗くネコのスタンプが送られてきた。
千尋:【どういう意味?】
と訊くが、返答がない。
「何だよ」
と思わず独り言。
「どーしたの?」
「何でもないです」
「あー、あおいと何かあったんだー」
「何もないですよ」
「何?何? フラれた?」
「先生、ウザイですよ」
「じゃー、ちゅーしてもいい?」
「変態」
とぼくがつぶやくが、そんなのお構いなしに先生は、
「ちゅうううー」
と抱きついてくる。だからぼくは後方へステップしてそれを回避する。
「えー、何で逃げるのよー?」
「だから、やだってつってんだろ」
「言ってないわ」
「言った」
「今は言われてないわ」
「はぁ……」
と思わずため息。けれど僕には、今は先生が必要なのだ。この家がぼくの居場所。先生はお母さんじゃないけれど、でも、ぼくはここにいたい。
「まあ、いいわよ」
「何がいいんだか」
「それよりね、今日は四時までには帰ってきて欲しいの。今日ね、四時に、新しい里子の子が来るの」
「は?」
「えー? そうニャのー?」
「ええ、ごめんなさいね。話すの遅くなって」
専門里親制度には一人が預かれる人数に制限はないが、経済状況や養育者への負担等を考慮し、里親一人につき、多くても三,四人くらいが限度である。うちにはまだ、めぐみとぼくだけしかいないから、増える可能性は先生も話していたし、ぼくも知っていた。先生は里親に生きがいというか、楽しさを感じているように思えるから。
「遅すぎ」
「ごめんなさいね、ホント」
「何で、今になったの?」
「サプライズ? 的な! その方が面白いかなって思って!」
「ああそう」
「四時に狭山市駅で落ち合うことになってるから、ちゃんと帰ってきてね」
「急すぎだよ。今日からずっと住むことになるのに?」
「そうね」
「心の準備とか、できないじゃん」
ただでさえまともじゃないぼくらが、突然に他人と暮らすのは相当に大変だ。もともな人でも、他人との共同生活には覚悟や忍耐が必要と思うのに、ぼくらに話すのが遅すぎると思った。
「だめ先生め。先生は本当にだめだめ先生だ」
「せんせーだってちゃんと考えてるのよ」
「そーだよ、ちーちゃん。せんせはだめじゃないよ」
「めぐみは黙れ」
「ニャに? お姉さまに向かってその言葉はニャんだ!」
「お姉さまじゃない」
「まあまあ。めぐ。落ちついて」
「でもせんせ」
「せんせーも悪かったわよ。でも、どうしてこうなったのか、千尋くんはもうわかってるわよね?」
「さあ? 知らない」
けれども、先生の意図することはなんとなく想像がついた。ぼくらは精神面に不安がある。精神薬に頼るような人間だ。だから事前に心の準備期間をもらったところで、どうせ、ちゃんと心の整理をすることなんてできない。
ぼくらは心のコントロールが苦手だ。むしろ、余計に心配事が増えて、おかしくなっちゃうかもしれない。だったら、その日に言われた方が、まだマシかもしれない。考えてもしょうがないのだから、ただ、なるようにしかならないのだから。けれど、それを先生には言いたくなかった。
「まあいいわ、それよりほら、そろそろ行かないと遅刻するんじゃない?」
「ああああ! もうこんな時間?」
とめぐみが騒いだので、ぼくもスマホを見た。時刻は八時二十二分。三十五分の電車に乗りたいので、結構ギリギリである。駅まで歩いて大体十分。しかし前後するし、駅についてからホームに行くまでエスカレーターに乗ったり階段を登ったり、数分時間がかかる。もう出ないと絶対間に合わない。
「ちーちゃん! 行くよ」
「うん」
「じゃあ、せんせ。行ってきまーす」
とめぐみはぼくの手をとった。
「走らないと!」
「じゃ、行ってきます」
「はい、気をつけるのよ」
「じゃあ、ちーちゃん行くよー」
とめぐみに連れられてぼくは走り出した。




