5
5
池袋東口。その日の雨はとても強かった。正午になっても勢いがおさまらず、大粒の雨が降り注いでいた。
傘をさして、サンシャイン通りから西武デパートを右手に歩いて、ジュンク堂書店の方へ行った。ジュンク堂は五階建てのビル全部が本屋という、とても巨大な書店だ。
「すごいでしょ」
とあおいは書店の説明をぼくにした。
ぼくは、都心にはあまり行ったことがなかったから、こういう壮大なものを見ると、びっくりする。
徒歩七分くらい歩いた。ジュンク堂の裏手に入ると、いい匂いがした。
「ここよ」
中華山椒という看板がかかげられた、赤い建物があった。外観は少しくたびれていて、小汚い感じだった。
「空いてるかな」とあおいは言って、中に入っていった。ぼくも傘を閉じて後から着いていった。
店内は狭くて、カウンターとテーブルの間の通路が人一人分くらいのスペースしかなかった。ぼくらは横歩きで、一番奥のテーブル席に向かった。脂の匂いが充満していた。けれど、気持ち悪くならない。おいしい匂いだ。
席に着くとすぐ、店員さんがお水を持ってきた。あおいはテーブルに置いてあったメニューを手にとって、慣れた様子でページをめくっていく。
「ねえねえ、何食べよっか?」
ぼくは変わらず、目を見れず、「あわうわ」とあいまいな返答ばかりしている。
「千尋くんは、辛いの得意?」
「うん」
ぼくは、「はい」か「いいえ」じゃないと答えられないくらい会話力がなかった。けれど、あおいは同い年だったからか、それとも彼女が特別だったからかはわからないが、自然とため口で話すことができていた。
「じゃあ、本場風にしてみたらいいんじゃない?」
とあおいはメニューを見せた。
「すんっごい辛いんだよ」
中華山椒は、日本で生まれたお店だ。以前、中野のお店に入った時、店内の壁に店の歴史みたいなものが書かれていた。
詳しくは覚えていないが、店長は中国人の方で、その写真が飾ってあった。確か、何十年か前に来日し、日本でお店を出した。日本人の舌に合うように調整しているのか、普通の料理は特に異常な辛さというわけではない。
辛いのが苦手なお母さんでも食べられるのだから。しかし、この本場風というのは、メニューの追加説明を見る限り、とても辛いはず。「本場中国四川の辛さ」と赤い字で書いてあるし、「※とても辛いです」と註釈まである。ぼくは辛いのが苦手じゃないけれど、辛党というわけでもないので、これは遠慮したい。
「ねーねー、小籠包食べる?」
「うん」
「私、あんまり食べないから、千尋くんが食べてね」
一皿、一〇個入で八〇〇円だ。ぼくはお母さんから昼食代を貰っているが、一〇〇〇円しかない。お金が不安になる。
「ん、私がおごるよ」
あおいはぼくのサイフの事情を察したのか、太っ腹なことを言い出す。
「私、お金けっこ持ってるんだ。それにお姉さんだもの」
「え?」
「あ、私ね。一六才だから多分、千尋の一つ年上なのね」
「そうな……、んですか?」
「うんうん。精神年齢は一緒かもだけどね」
ぼくはつい、敬語になってしまった。うちの学校は基本的に現役中心だけれど、学年が一年遅れであれば、入学は可能だ。だから、多分、ぼくの同級生の何人かは、今年、一七才になる世代だ。
「私、お姉さんに見える?」
「はい」
「えー? どの辺りが? 具体的に教えて?」
「あの、えっと」
とぼくは言葉に困った。確かにそう言われたらお姉さんに見えなくもない。落ちついているし、どことなく大人っぽい色気がある。
「その」
「うん。なあに?」
あおいの胸元は恥ずかしくて直視できない。けれどわかる。ちゃんと見つめることができなくても、そこにたわわな膨らみがあることはハッキリしている。
「凄く落ち着いている感じなところとかです」
とぼくは答えたが微妙に日本語として変になってしまった。
「落ちついてる? 私が? まさか」
「いえ本当です」
落ちついて見えるのは本当だ。けれど、それ以外の大人っぽく見える部分のことは口に出せない。
「まあいいわ。それより、ねえ、普通に話してよ」
「普通に?」
「敬語、やだよ。なんかよそよそしいもん」
そうは言っても、さっき会ったばかりなのだ。緊張するし、年上と聞いたら敬語になってしまうのも致し方ない。
「ね? お願い」
女の子にこんなことを言われたのはすごく久しぶりだったからか、胸がうずくような不思議な感じがした。
「敬語! 禁止!」
「う、うん」
だからなのか、ぼくは思わずうなづいてしまった。ハニートラップとは違うが、しかし、男の最大の敵は女、と言われる由縁はこれなのか、とぼくは思った。
「よろしい」
とあおいは満足したように言った。
「ねえ、餃子も食べる?」
とあおいは一〇個入り、五〇〇円の焼き餃子を指さした。
「うん」
「私はその餃子、二、三個貰えたら充分よ。それだけでお腹いっぱいだから」
「小食なんだね」
「うん。千尋は何食べるの?」
「ぼくは……」
あおいからメニューを受け取って検討した。山椒は良心的なお店だから、一〇〇〇円あれば、定食セットを頼める。餃子+ライス+中華スープとか、坦々麺+ライスとか、充分、お腹いっぱいになる。
餃子も水餃子もあおいがおごってくれるから、ぼくは、麻婆豆腐+ライスセットを頼んだ。以前、食べたことがあったからだ。ぼくは、こういう時新しいものに挑戦するより、既にわかっているものを選んでしまう。保守的な性格なのだ。
*
それから注文した料理はすぐに来た。餃子と小籠包はテーブルの真ん中において、あおいは携帯を見ながら餃子を何個か食べた。
ぼくは麻婆豆腐をライスにのせて食べた。ぼくは、どんぶり系があまり好きではない。見た目が嫌いなのだ。だから、麻婆丼にはせず、イチイチ、麻婆をすくってライスにのせてから食べた。辛すぎず、甘すぎず、絶妙に食欲をかき立てる味だった。
ぼくは結構中華が好きだ。なんか、癖になるのだ。合間合間で、餃子と小籠包も食べた。ジューシーでとても胃に溜まる。ぼくは小食というわけではないが、しかし、これだけ食べれば充分にお腹いっぱいになった。
ぼくがひとしきり食べ終えると、あおいは、
「デザートだね」
と言って、杏仁豆腐とバニラアイスを注文した。
「千尋は要らない? おごってあげるけど」
「うん」
「そのうんは、どっち? 食べるの?」
「食べる」
そして、ぼくの分の杏仁豆腐もテーブルに来た。ぼくは甘いものは苦手じゃないが、特に好物というわけでもない。それに、もう結構お腹いっぱいで苦しかった。限界というわけじゃないけど、しかし、これ以上はちょっときついというか、詰め込んでいる感じだった。
けれど、「もう食べられない」と、言うことができない。ぼくは意思をちゃんと主張できない。
「ねえ、千尋は何でうちに来たの?」
淡々としていて、心ここにあらずという調子の話し方だ。
「何か、事情があるの?」
学校が学校だけに、普通の子はここには来ない。頭が悪い、お金がない、非行歴がある、そんな子でも少子化の今の時代、受けいれてくれる全日制の学校はいくらでもある。わざわざ、こんなところにくるのは、それすらできない落ちこぼればかり。ぼくはわかっていた。ここはそういう場所であることが。けれど、何もせずにひきこもるなら、どんなところであっても外に出るべきだと思った。だから入学した。
「話したくないならいいけど」
ぼくは何も言えない。言いたくないわけじゃない。琴音先生の病院へ行った時、ぼくはもう変なプライドを捨てる覚悟をした。だからカウンセリングに行けた。まっとうじゃない自分を認めたからだ。けれど、人はそうそう簡単には、変わらない。
「ねえ、千尋はこれからどうなりたいの? どうしたいの?」
「俺は……」
「うん。教えてよ」
とあおいが言うが、ぼくは次の言葉がなかなか出てこなかった。
普通になりたい、と言えばよかった。だから、外に出るために訓練をしている。学校がない日でも、一日、一分でもいいから外に出るようにしている。今は全然、ダメでも、毎日、続けたら変わるかもしれない。塵も積もれば、というやつだ。けれど、それをあおいには言えなかった。やっぱり、恥ずかしかったのだ。
「じゃあ、私から言うね」
ぼくが口ごもっていると、あおいが口を開いた。
「私はね、私になりたいんだ」
その言葉がぼくにはイマイチぴんとこなかった。
「私はさ、おかしいの。心がね、壊れてるの」
「え?」
「千尋は、琴音先生って知ってるでしょ?」
その名前が出てくるとは思わなかった。
だからかなりびっくりした。
「え?」
「知ってる?」
「うん」
「私ね、先生と友達なんだ」
「そうなの?」
ぼくはとても驚いた。先生とあおいに接点があるなんて、想像だにしていなかったから。
いや、それよりぼくは何年かぶりに同世代の子と会話をして、生まれて始めて女の子とお店でご飯を食べていたから、頭が真っ白だった。緊張で脳が思考停止していたから、川澄あおいの素性とかを考えている余裕もなかった。ただ、今、この状況についていくだけでいっぱいいっぱいだったのだ。
「うん。私、先生の紹介でうちに来たんだよ」
「俺も、そう」
「そうなんだ。じゃ、私たち仲間だね」
「ん?」
「先生の患者仲間ね」
まだ、患者かどうかもわからないのに、あおいはそう断言した。
表情は何も変わらないけれど、しかし、嬉々とした感情が垣間見えた。
「ほら、これ」
とあおいは携帯の画面をぼくに見せた。
そこにはラインの画面が写っていて、友達欄の中に、三上琴音の名前があった。
「先生とさっきもラインしてたの。千尋は、先生とラインしてないの?」
「うん」
「何でしないの?」
そもそも、先生とラインの話しなんてしなかったし、プライベートで会話をするほど、まだ先生のことを信頼していなかった。ぼくがするラインはお母さんだけだった。
「いや、あの……」
とぼくが答えられずにいると、あおいは、「まあ、いいや」と言った。
「でも先生、千尋のこと心配してるよ」
とぼくにまたラインの画面を見せた。そこは、あおいと先生のトークルームが映っていた。
琴音:【千尋くんはどうしてる? 調子悪そう?】
と書き込みがあった。
「ごめんね。実は先生から千尋のことは聞いてたの」
とあおいは手を開いてごめんねのポーズをした。
「騙したみたいね。ごめんごめん。でも全部ってわけじゃないの。名前と性格くらいよ。知ってたのは」
「先生は何て言ってたの?」
「え?」
「先生は俺の性格について、どう言ってたの?」
「あー、それはぁ、訊かない方がいいかも!」
「なんだよ。気になるじゃん」
「だって……、あんまりいい内容じゃないから」
とあおいはばつが悪そうに下を向いた。
「ま、気にするな。少年よ」
「誰が少年だ」
「え? 千尋は少年じゃないの? あ、少女だったのか!」
「ちがう。俺は男だよ」
「ふーん」
「バカにするなよ」
「え? したらダメなの? ねえ? ダメなのー?」
「当たり前だろ」
とぼくはツッコミを入れた。こんな風の掛け合いをしたのは何年かぶりだったから、ツッコミをするのも緊張した。上手くできたのかはわからない。
だけどちょっと嬉しかった。内心では心が躍るようなそんな気分だった。やっぱり人と話をするのはとても楽しい。あおいのことはまだ何も知らないし、こちらから訊く度胸もなかったけど、今日学校に来てよかったな、思った。
それから会計を済まして外に出た。雨粒が変わらず強かった。ぼくらはカラフルな傘の群れの中に消えていった。




