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十月十八日。
琴音先生の家。朝。八時。
八畳ほどのリビングにぼくらは居る。リビングはキッチンとつながっていて、端にテーブルが置いてある。テーブルは六人は座れる大きさだ。使い始めて数年しか経っていないからか、傷も少なく、新品のようである。
イスは四つ置いてあり、住人それぞれの定位置が決まっている。琴音先生のイスにはオレンジ色のクッションが敷いてあり、先生は既に席に着いて、今か今かと朝食を待っている。
雪村めぐみのイスにはすみっこぐらしというキャラクターのぬいぐるみが乗っている。ぼくは残り二つのうち、余ったイスに座っている。特に、これといったマークなどはつけていない。
すみっこぐらしは、サンエックスという会社が展開しているキャラクターで、虎とかウサギとか各種動物をモチーフにしている。
めぐみが好きなのはペンギンのキャラクターで、その子はペンギンなのに体が緑色なことを悩んでいるという設定がある。めぐみに「触ってもいいよ」と言われるので、ぼくも時折、この子を抱くことがあるが、結構肌触りがよくて癒やされる。
「じゃー、食べよぉーっ」
とキッチンからめぐみが歩いてきた。雪村めぐみはぼくのひとつ年上で、背が高くて痩せている。髪は茶髪で肩までのロングヘア。顔は目が大きくて小鼻が小さい、いわゆる美人である。ぼくよりも、一年くらい早く先生の里子になり、ここで暮らしてきた。
「さあさあ、食べて食べてー」とめぐみは席に着いたが、「あ、エプロンエプロン」と言って、一度立ちあがって、デニム地のエプロンを脱いだ。
その下には制服を着ている。めぐみはぼくと同じ通信制の高校に通っていて、歳はひとつ上で十七才である。制服は普通の高校と大きな違いはない。白いブラウスとチェックのスカート、紺色のブレザーである。ちなみに私服登校も許可されているが、「こっちのほーがかわいーから」という理由により、めぐみはいつも制服で通っている。
ぼくは洋服に興味がないのだが、めぐみが制服を着ているので、「千尋も合わせて」という無言の圧力により、ぼくも登校時は制服を着ている。
「今日もおいしくできたよー」
めぐみは再度、席に着いた。
テーブルにはスクランブルエッグのマヨ和えとハニートースト、そしてコンソメスープが並んでいる。今日の朝食だ。野菜がなかったらしく、今日はサラダ類がない。これは全てめぐみが作った。
うちの朝食づくりはめぐみが担当しているのだ。それも毎日。けれど料理はあまり得意ではなく練習中である。それもあってか多種多様なメニューに挑戦している。オムレツ、スクランブルエッグ、ほうれん草のバターソテー、味噌汁、佃煮昆布、納豆、肉じゃが、人参の白和え、茄子の味噌炒め、マカロニサラダ等、どれも自分で作っている。
美的センスは悪くないのか、見た目はいいのだが、どれも味が問題である。めぐみの料理は異常に甘いか、全く味がしないのだ。けれどそれにはちゃんと理由がある。
「じゃー、せんせ」
とめぐみが目配せすると、先生が、
「うん、じゃあみんな、いただきます」
と言ってみんなで手を合わせた。
めぐみは、緑のペンギンを膝の上に置いて、スクランブルエッグのマヨ和えをスプーンですくった。ちなみにめぐみは箸が使えない。食事はスプーンとフォーク、たまにナイフを使って食べる。
この、スクランブルエッグのマヨ和えというやつはあまり有名な料理じゃないのかもしれないが、理屈をきくと至極真っ当な料理だ。
マヨネーズには卵白が入っているので卵とは相性がいい、と昔、誰かから聞いたが、確かにその通りと思う。めぐみは料理が下手だが、スクランブルエッグのマヨ和えは、卵を焼いて、後からマヨネーズをかければいいだけなので、味付けがおかしくなることは少ない。そもそも調味料はマヨネーズしか使わないのだから当然だ。なのでめぐみの料理の中では、当たり、である。
「ねえねえ、ちーちゃん。ちーちゃんも蜂蜜かける?」
めぐみは、ぼくのことをちーちゃんと呼ぶ。理由は「かわいいから」とのことだが、ぼくにはマヨ和えの理屈と違って、まったく理解できない。
「ちーちゃん。蜂蜜マヨ和えスクランブルエッグ、美味しいよ?」
と蜂蜜が入ったチューブタイプの容器をぼくに手渡してくる。めぐみは極度の甘党で何にでも蜂蜜をかける。いわゆるマヨラーやケチャラーと同じ種類の人種だ。蜂蜜は英語でハニーだからハニラー? とでも呼べばいいのだろうか? ともかく、蜂蜜は焼いた卵には合わない。そんなものを勧めてくるなよ、と思う。
「ねえねえ、ちーちゃん、ほらほら」
「いらないから」
「えー、美味しいよぉー?」
「なわけあるか」
ぼくは、蜂蜜を持っためぐみの手を払いのけた。
「いーっだ、ちーちゃんなんて知らないもん」
めぐみは舌を突きだして悪態をついた。とても子供っぽいが、しかし愛嬌のある顔だ。
「ねえねえ、せんせは? 蜂蜜かける? 美味しいよ? ほんとなんだよ。ほんとほんと!」
「え、ええ、そうね。有りは有りよね、それも、まあ」
先生の笑顔が引きつっている。
「じゃあ、ほらほら、いっぱいかけニャさい。メキシコ産最高級蜂蜜だよ」
「ごめんね。めぐみ。でも今せんせー甘いものをお医者さんに止められてるから遠慮するわ。実は、糖尿病になりかけていてね」
「そうニャのー?」
「ええ、あー、どうしてかなー? 最近はお酒も控えてたのにー」
と先生は天を仰ぐ。先生は酒豪だ。毎晩、晩酌をする。控えてた、というのは減らしたという意味で使ったのだろうが、それでも毎晩、缶ビール二本くらいは飲んでいるみたいだし、前はウイスキーを一晩で一ボトル飲みきったりもしていた。一人でだ。それは体に負担がかかるのは当たり前と思う。
「だからごめん。蜂蜜好きなんだけれどね。ごめんね、めぐみ」
「病気じゃ仕方ニャい。めぐがいっぱいかけるからいーよー」
めぐみは残念そうに言って、自分のスクランブルエッグに蜂蜜を大量にかけた。
黄色い卵の上に黄金色のドロドロとした液体がかかっていく。あっという間に蜂蜜マヨ和えスクランブルエッグの完成だ。
その光景があまりにも気持ち悪くて、ぼくは思わず嗚咽を漏らしそうになるが、我慢する。めぐみは好き好んでやっているのだから、それを否定するのは悪いなと思ったからである。
「じゃあ、いただきまーす」
めぐみは蜂蜜マヨ和えスクランブルエッグをスプーンで食べ始める。見るからに吐き気がする食べものだがめぐみにとっては違うようだ。
「ニャー、絶品絶品!」
とめぐみは満面の笑みを浮かべている。心底、美味しい、という顔だ。めぐみは表情が豊かだからテレビの食レポとかが向いているかもしれない。しかし、不味い時も不味い顔をしてしまうから、やっぱりダメかも知れない。
「ちーちゃん」
「何だよ」
「そんなにめぐの顔ばっかり見て、何か言いたいことでもあるのかニャ?」
「ないよ、別に。ただ美味しいそうだなって思っただけ」
「めぐ、変な子でほんとにごめんね!」
とめぐみは突然、キレたように言った。
「めぐ、普通じゃないしみんなからしたらこんなの気持ち悪いよね。でも、めぐにはこれが美味しいんだよ。だから、止められないけど、でも、みんなの気を悪くしたならごめんニャさい」
と怒っているのか、謝っているのかよくわからない様子で言う。しかし、めぐみは本当に感情が豊かで喜怒哀楽が激しいから、多分、ぼくの推測だけれど話している間にも気持ちが刻々と変化しているんだと思う。
「別に、嫌じゃないよ。ただ、俺には美味しそうには見えないから、不思議っていうかめぐみの味覚はどうなってるんだろう、と思っただけ」
めぐみがこうなった理由をぼくは知っているが、こんなめぐみを嫌だと思ったことはない。
「こっちこそ、気を悪くさせたならごめん」
「にしし、いーよいーよ。ちーちゃんは可愛い弟だからねっ。許したげる」
と言って、めぐみは蜂蜜のチューブをぼくに手渡す。ぼくはそれを払いのけず、手にとる。
「何これ?」
「可愛い弟がお姉ちゃんは好きなんだよ」
質問にはハッキリと答えてくれない。めぐみは、ぼくの前では自分のことを「お姉ちゃん」と呼び、ぼくを「弟」と呼ぶ。めぐみは一人っ子だ。母は居たが父は居なかった。他に家族は居なかった。けれど昔から弟が欲しかったらしい。自立が早かったせいか、それとも元から母性が強い性格だったのかは知らないが、弟に甘えられたかったらしい。
ぼくとめぐみに血の繋がりは勿論ないが、しかし里子として同じ屋根の下で暮らしている今は、擬似的にではあるが家族と言ってもいい関係だ。
めぐみの方が年上だし、先生のところに来たのも早いから、ある意味では姉、なのかもしれない。でも、「お姉ちゃん」なんて、絶対に呼びたくない。恥ずかしい。
「ね、ちーちゃん」
とめぐみはぼくを見つめるだけで、それ以上を言わない。それだけで言いたいことが伝わると思っているからだ。
「ねえねえは素直な弟が好きだよ」
要するに、蜂蜜をスクランブルエッグにかけろ、そしたら許してあげる、ということである。ぼくはめぐみと一年以上この家で暮らしてきたので、言葉にしなくても、もはや伝えたいことがわかるようになってきた。
しかしぼくは、無言でチューブをテーブルに置いた。せっかくマヨ和えは美味しいのに、こんなのかけたら台無しになる。めぐみに許してもらえなくても結構だ。
「ち、ちーちゃん? う、嘘だよね? だってちーちゃんは、優しい優しいお姉ちゃんの……」
「お姉ちゃんじゃないから」
「うわぁあぁぁーーん! ちーちゃんのバカーーー」
とめぐみは大声で突然に泣き始めた。笑って怒って、今度は泣き虫モードだ。「うぇえーーーん、うぇえーーーん、ちーーちゃんがーー、ちーーちゃんがいじめるうぅーーーー」
とめぐみは泣きながら先生の胸に飛び込んだ。
「せーーんせー! うわぁぁぁん! うわぁぁぁーーーん、めぐーー、めぐはぁぁぁーーー」
先生の胸の中でめぐみは泣いている。先生はそっと手を頭にやって、「よしよし」と髪を撫でている。母と子供、という感じだがめぐみの身長は先生より高いので違和感はある。
「ちーーーちゃんなんてーーーーきらいーーーー、だいーーーっきらいーーーーー」
顔を見ると、本当に涙が出ている。これくらいで本当に泣くなんて、いくら何でも常識外れだ、と思うのだがぼくも似たような部分があるので否定は出来ない。ぼくもめぐみも普通じゃないのだ。
「ほら千尋くん、謝りなさい 男の子でしょ?」
「はあ? だから何ですか? 男だからって謝れなんておかしいです」
「いいから、謝るの。千尋くんが悪いんだからちゃんと謝る」
「だから、悪いことなんてしてないし、謝ったし、泣きすぎだし、おかしいです」
「めぐみは傷ついてるのよ。千尋くんなら、わかるでしょ? そうでしょう? ねえ」
めぐみのことは知っている。めぐみは感情の制御が出来ない。だから数分の間に本気で楽しくなったり本気で悲しくなったりする。でも、乱高下は激しいけれど、その感情は間違いなく本物の気持ちだ。
「謝りなさい」
「でも」
めぐみのことは知っているが、しかし、もう謝っている。めぐみのことをじろじろ見たのは確かに、悪かったかと思う。でも、蜂蜜をかけないことについては別だ。味覚は人それぞれだし、強制するのは違うと思う。蜂蜜スクランブルエッグを食べさせられたら、泣くのはむしろぼくの方だ。
「うぇええーーーん、ちーーーちゃんがーーー、ちーーーちゃんがめぐをいじめるぅーーーー」
声がどんどん大きくなっていく。嗚咽を漏らし鼻水が垂れて顔がぐちゃぐちゃになっている。見るに耐えない。
「ちーひーろーくん」
先生が冷めた目でぼくを睨んでくる。わかっている。ぼくが謝れば全て解決するのだ。謝りたくないのはただ、子供じみたプライドのせいである。そしてそれはぼくを成長させてくれるものではない。
「はいはい。めぐみ、ごめんね。悪かった」
「うわぁーーーーん、感情がこもってないーーー」
「ごめん、蜂蜜は本当にかけたくないけど、でも、もっと言い方があったかなって思う。でも、めぐみの味覚を否定する気も、本当にないから。俺もほら、普通じゃない人間だからさ。めぐみの気持ちをわかってあげられるとは言わないけれど、だけど少しは理解しているつもりだよ」
「ぐす……、ほんと?」
めぐみは顔を上げる。振り返ってぼくを見る。
「ほんとにほんとぉ?」
「うん、ぼくらは家族じゃん」
「うわぁぁぁぁいーーーちーーちゃんーーー」
とめぐみはくしゃくしゃの笑顔でぼくに抱きついてくる。
「おい」
「だいしゅきーーーーー」
それからしばらくめぐみはぼくを抱きしめた。
めぐみは昔、薬物乱用者だった。今は止めたけれど、長い間、薬物に染まってきためぐみの体は心身共にボロボロになっている。
例えば海外でマリファナと呼ばれるいわゆる大麻は、依存症になると情緒不安定の症状が現れる。突然に笑いだしたり、何もかもが面白く感じたり、逆に全てが絶望的な感じになったり、憂鬱感が酷くなったり、それがとても短い間隔で行ったり来たりする。めぐみは長い間大麻を吸っていたから気分障害が慢性化してしまっている。
味覚障害も同じだ。コカイン、ヘロイン、LSD、スピードなど、あらゆる覚醒剤や麻薬には味覚障害になるリスクがある。常用者になれば、大抵の人物は細かい味を感じることが出来なくなる。めぐみは薬物ならジャンルを問わず何でもやってきたから、激しい味覚障害がある。めぐみ曰く、「何を食べても漢方薬みたいな味がする~。苦いー」らしい。しょっぱさや辛みは感じない。だから醤油をかけたり唐辛子をかけても変わらない。めぐみが感じることが出来る味は、苦みと、甘みだけだ。
醤油をかけたり、唐辛子をかけても味は変わらないのだが、蜂蜜や砂糖をかけると効果がある。甘くなるのだ。元々、甘いお菓子やケーキが好きだったことが関係しているのかも知れない。だから、どんな食べものにも糖分を足す。特に蜂蜜は「どんな物にでも合う」らしく、チューブを鞄に入れて外に行く時にも持ち歩いている。ラーメン、中華、焼き肉、寿司、パスタ、ピザ、白米……、上げたらキリがないがとにかく全てに蜂蜜をかけて食べる。それはやっぱり、見ていて気持ちがいい物ではないが、しかし、とやかくいうことでもない。それがめぐみなりの自分の障害と向き合う方法なら。
*
めぐみの人生のことは詳しくは知らない。けれども断片的には知っている。昔、めぐみから話を聞いたからだ。生まれは東京の足立区で、母親が水商売をやっていたらしい。父親はおらず、めぐみは母のお店で小さいころから働いていた。そのころに、男遊びを覚え、毎晩のようにお酒を飲み、煙草を吸い、夜の街を徘徊した。
そしてドラッグと出会い、母にあまり愛されていなかったというめぐみは、寂しさからドラッグに依存するようになったらしい。ぼくは専門家じゃないからドラッグをしちゃいけないとか、してもいいとか意見することはできないけど、少なくともお金がかかるのは間違いがない。数グラムで何万円という世界だ。そして、その何万で、幸福になれるのはほんの一瞬でしかない。大麻、コカイン、スピード、LSD、種類は選ばず何でもやった。
依存症になっためぐみは、お金を稼ぐために売春をしていたという。売春自体は、未成年でなければ法律違反でもないけれど、めぐみはまだ一〇代だったから、補導されることもあった。
けれど、警察から出たらまた、すぐ売春をした。体を売ればお金が尽きることはなかったが、しかし、重度の薬物依存になっためぐみには激しい離脱症状がきた。
気分の激しい浮き沈みは序の口で、発汗がとまらなくなり、立ちくらみにより動くのも大変になった。時折、体が痙攣し、光線や音に対して過敏になった。また幻覚妄想という、自分が誰かに命を狙われている、という幻聴や妄想に苛まれるようになり、誰彼問わず、攻撃的になった。
社会生活が困難になっためぐみは、ある日、居もしない命を狙う敵から逃げ回った。そして、裸足にコート一枚、という姿でマンションのゴミ捨て場で夜を過ごした。それが琴音先生の当時の家だった。そこで先生と出会った。
「運命的!」
とめぐみは当時について笑って話すけれど、本当に、先生と出会わなかったらどうなっていたか誰にもわからない。
*
それから数十分が経ち、食事は無事終了する。
「ごちそうさま!」
とめぐみは手を合わせた。
「ちーちゃん! 今日もおいしかったニャあ~」
とめぐみは笑顔でぼくを見る。めぐみが食べた蜂蜜スクランブルエッグはともかく、ハニートーストや「普通」のスクランブルエッグは美味しかった。そしてそれを作ったのはめぐみだ。要するに、「私のご飯美味しかったでしょ? だから、美味しかったって言って欲しい」と、めぐみは言いたいのだ。しかしぼくは素直じゃないので、そんなことはあんまり言わない。
「ね? ちーちゃん。今日も美味しかったよね?」
「まあ、うん」
朝食は美味しかった。だけれどそうやって素直に気持ちを告げることがぼくは苦手だ。半端なプライドのせいかもしれないし、小さい頃から心を抑圧してきた弊害かも知れない。先生からもよく言われている。「もっともっと自分を出していきなさい。思ったことがあったら何でもせんせーに言いなさい」と。しかし、人生は思うようにいかないし、自分を変えることは凄く難しいと思う今日この頃だ。
*
「じゃ、めぐ。お薬飲んじゃおーかニャー」
とめぐみはプラスチックのケースを戸棚から出した。
白濁色で、ケースの上に「雪村めぐみ」と書いたシールが貼ってある。ケースを開けると中は細かい仕切りで区切られている。ネジ入れみたいなものをイメージしてもらえばいいと思う。その中には、内服薬が日にちごとに分けられて入っている。めぐみはドラッグ依存からは抜けだしたが、後遺症が激しいため、精神薬や漢方薬を服用している。これはもちろん非合法なものではなく、合法的に医者から処方してもらったものである。精神薬に関しては、処方したのは他でもない琴音先生だ。
薬は、日にちと時間ごとに分けられ、ホッチキスでとめられている。めぐみの薬は四種類ある。心を落ちつかせる薬と、女性機能を活発にする薬。これが漢方薬だ。そして、不安を軽減するための精神薬を二種類飲んでいる。さらに夜には睡眠導入剤が追加で増える。
「ちーちゃんのも出したげる」
とめぐみは、別のプラスチックケースを出した。「優木千尋」、と書いてある。ぼくの薬入れである。
そこからぼくの分の朝食後薬を取り出し「ほい、ちーちゃん」と、渡してくれた。
「ありがと」
ぼくはそれを受け取った。
ぼくの薬はめぐみより少ない。ツムラの五三番、という名前のは心を落ちつかせる漢方薬。めぐみもこれを飲んでいる。とても苦くて、吐きそうな味がするやつだ。ジェイゾロフトは、いわゆる抗不安薬である。細粒タイプになっていて水と一緒に流し込むんだけれど、これもまた苦いし、飲んだ後に口渇感がとても強く出る薬である。しかし、ジェイゾロフトを飲むと不安感が解消されて、外に出ててもPTSDの症状が出づらくなるので、かかすわけにはいかない。ちなみに、夜はぼくも眠剤が追加される。
「ねえ、ちーちゃん。めぐと同時に飲もーよー」
「いやだ。何で同時に飲まないといけないんだよ」
「えー、いーじゃん、何が嫌ニャの?」
「何が嫌とかじゃなくて、嫌なんだよ」
「だからニャにがー? ねえねえ、飲も飲もー。ねぇー?」
「やだよ」
「ケチ!」
とめぐみはぼくの肩を小突いた。
「ケチな男はモテないぞっ」
と頬を膨らませるが、モテなくても別にかまなわないのでダメージはない。
「別にいーし」
とぼくはそそくさと、薬の封を開けた。
「喜怒哀楽が激しい女の子は……、モテるかもね」
とぼくはツムラを口に入れた。「にがい……」と思った。すぐに水を含んで流し込んだ。
「そーだよね、ツムラやだよねー。でも、飲む!」
とめぐみも一気に、自分の分のツムラを口に入れた。
「うげー、苦ーい」
と苦虫を噛みつぶしたような顔をしている。めぐみの表情はレパートリー豊富で見てる分には面白い。愛嬌があるというのはこういうタイプだろうか。
「苦いよね。効果、ないのに。だから先生、これやめてもいいんじゃないですか?」
ツムラの漢方は、あまり効果が出ないことで有名だ。もちろん個人差はあるし、効く人には効くのだろうが、漢方薬の性質は、あくまでも自己治癒力を高めることである。だから症状が大分進行していると、効かない。
「だめ、飲みなさい。漢方は大事よ、依存性がないしね」
「依存してもいいじゃん。薬を飲んで幸せになれるなら、俺はそれでもいいよ」
犯罪抑止に一番効果があるといわれているのは、人と人の繋がりらしい。
例えば仮に誰かをレイプしようと思ったときに、それでもそんなことをしたら家族になんて言われるか、家族に合わす顔がない、恥ずかしい、だめだ、いやだ、と考える人は、犯罪をする率が下がる。法律違反だから、と考える人よりも、そっちのほうが防止力が高いらしいのだ。
それは根本的に人間が社会的動物だからであり、集団から排除されることを本能的に嫌っているからだ、と昔、本で読んだ。
ぼくにも家族がいる。親は、生きているしたまに連絡もとっている。だからぼくが、もしもドラッグに手を染めようと思ったとしても、家族にバレたらみっともないな、と考えることができたなら、少しは心のストッパーになるのだろう。そういう意味では、ぼくが薬物依存に陥るリスクは低いのかもしれない。
「そっ。でも、千尋くんの主治医はせんせーだからね。何を言ってもムダよ。残念ねー」
「別に、残念じゃないです」
ぼくは自分のことを、冷めた目で見ている。自分のことを後ろから見ているぼくがそこに居て、色んなことが客観的に感じている。先生が大好きな精神医学で言うところの、離人感覚とかいうやつなんだろうと思う。
その感覚は、そういう感じがする、というのではなくて、本当に視点が自分の後ろや横や、上になったりする。
寝ている自分を、天井から見下ろすことがある。ハッキリとだ。最近はその症状は減ったけれど、昔は酷かった。そのせいかぼくは、自分を自分であるとイマイチ認識できないでいる。
「どうでもいいです」
ぼくはジェイゾロフトの粉を口に含んだ。
漢方とは違う、独特の苦みに晒されて口が一気に乾いていく。脳味噌も同じだ。数分で頭がぼんやりとして、面倒なことが消えていく。
薬で心配事が解消されるなら、それもひとつの形だってぼくは思う。
「じゃあ、千尋くん、ちゅーしてもいい? ね? いーよね」
「いやです」
「何よ。どうでもいいんでしょ?」
「それとこれとは別です」
三上琴音先生は、いわゆるショタコンというやつだ。それはロリコンの女性バージョンとでも考えてもらえばいいと思う。
その昔合ったロボットアニメの主人公の少年がショウタロウという名前で、その、年端もいかない短パンの男の子に性的興味を抱くファンを、オタク界隈で、ショウタロウコンプレックス、と呼んでいたことから生まれたらしい。
ショタコンは女性だけでなく、男性もいるが、今回はその説明は不要と思う。先生は女性だからだ。
このコンプレックスは幼稚園生くらいから高校生くらいまでの男の子を対象範囲としている。
先生は主に中高生萌えの人で、ぼくくらいの年齢が好きだ。
見た目が大人びていなくて線が細く幼い顔立ちが特に好みらしい。萌え、っていうのは、オタク用語だが、ようするに興奮するとか好き、って解釈してくれたらいい。
ぼくはオタクじゃない。けれども、先生の「病態」を知るために、インターネットを駆使して、こういう世界を勉強した。
例えば同人誌、というものがある。それは、アニメや漫画などの二次創作漫画や、自費出版したオリジナル作品をさす。商業作品と違い、スポンサーなどの圧力が少ないため、同人誌は必然的にエッチな作風が人気になる。有名なアニメキャラがエッチなことをする作品とか、確かに同人誌じゃなければ出せないと思う。
そういう多数の作品群の中に、ショタというジャンルがあって、大人のお姉さんと小さな男の子がエッチなことをする本が世の中には多数出回っている。ぼくも読んだことがある。買ったことはないが、見たことがある。この家で。先生の部屋でだ。
この家は一階にリビングやお風呂があり、客間がひとつある。そして二階には寝室として利用できる部屋が四つある。
先生の部屋は、階段を上がってから一番奥にあるところにあって、特に鍵もかけていない。
先生が、
「一緒に暮らす家族だから鍵はだめ」
とみんなに言っているからである。
だからぼくの部屋にも鍵はないし、めぐみの部屋にもない。里子とはいえ、確かに、共同生活をしているし、先生は保護者の立場なのだから、家族と定義してもおかしいことではない。「お母さん」なんて絶対に呼びたくないけれど、先生は多分、呼ばれたいのだろうと思う。
お母さん、もとい先生の部屋を訪れることは特にないが、掃除する時は別だ。
この家は家事を当番制で行っている。料理はめぐみが率先してやっているので週七日、めぐみが担当。先生やぼくが手伝うこともあるが、めぐみがキッチンから離れる日はない。
料理とちがい掃除は三人のローテーション制だ。しかしめぐみが料理をやってくれているので、必然的に、というかぼくと先生の番が多い。
しかし先生はだらしないから、サボったりテキトーに掃除をしたりするので、あまり期待はできない。
ぼくは掃除好きというわけじゃないけれど、やるからにはそれなりにきっちりやるタイプだ。命令に従順、だからなのかもしれない。
それである日の掃除当番の日、先生の部屋に入った。
先生は部屋掃除を特に拒否しない。家族だから、なんだろうか。めぐみも、同じだ。ただし、
「机の中は見ちゃだめ」
と言っていたが、恥じらいとは違うものだと思う。
だって洗濯も当番制だからぼくは普通にめぐみの下着を洗ったり、干したり、たたんだりしているから。少し脱線したけれど、掃除の日、ぼくは先生の部屋に行った。先生は特に「引き出しを見たらいけない」とか、「押しいれは掃除しなくていい」とか言っていなかったので、ぼくは戸をあけて中を見た。
そこで、例のブツを発見したわけだ、同人誌は押し入れの中の段ボールに何十冊も入っていて、表紙を特に隠したりすることもなく、普通に置いてあった。
ぼくが掃除の為、入室することは知っているのに、そういう風に置いていたことは、間違いなく隠す気がない、ということだとぼくは解釈した。直接口で言うより、間接的に自分の趣味を知らせて、オープンにしようと考えているんだと思う。そしてやがてぼくを襲うつもりなのだ。
思えば先生の言動は、最初から怪しかった。
ぼくはそういう趣味がないので意味がわからなかったが、それで合点がいった。
その日、段ボールの中の同人誌を何冊か読んだが、中学生や高校生くらいの子と、三〇前後のお姉さんがエッチなことをする作品が大半だった。
「姉と弟」とか、「医者と不良高校生」とか、「保健室の先生と中学生」とか、「OLと年下アルバイト」とか、そんな内容ばかりだった。それだけならまだいい、というかよくないけれど、でも、ぼくが本当に気持ち悪いと思ったのは、その後だった。
言葉を失ったぼくは段ボールを閉じて、掃除を再開した。それだけなら多分まだ、先生の性癖がそういうもの、というだけで、疑いはすれど、ぼくとは直接結びつけなかったかもしれない。だって結びつけたくない、からだ。
けれど、再開した掃除の途中で、先生の机の引き出しを開けたときだった。そこにまた、一冊の同人誌があった。
表紙はメガネをかけた医者の絵があって、ピンクの字で、「ことね」って書いてあるのが見えた。
そこから先は、何かの書類が重なっていて、最初は見えなかった。でも、恐る恐るそれを手にとってタイトルを確認すると、「ことねせんせいと……」と書いてあった。
……、の先は吐き気がするのでここには書けない。実際にその時ぼくは、気持ち悪くなってその場に少し、うずくまった。自分の名前がそういう本で書かれていた時のショックは、PTSDのフラッシュバックと同等だ。いや、もっときついかもしれない。胃から胃液がせり上がってきたが、なんとか耐えた。ぼくはその中身を見なければいけないと思った。
作中の登場人物は医者の「ことねせんせい」。せんせいは、胸が大きくてメガネをかけていて、とてもいやらしい絵だった。
せんせいは精神科医で、仕事が終わって家に帰った。家には心を閉ざした男の子が居て、その男の子が夜な夜な、せんせいの下着で自分を慰めているのを発見してしまう。ことねせんせいは恥ずかしさを感じつつも彼と……、という内容。ほんと気持ち悪かった。ぼくは頭を抱えて、しばらく本当に固まってしまった。立ち直るまで時間がかかった。
後で調べたのだが、同人作家の中には、依頼を受けてそれを書く作家も居るらしい。先生のアレは、作中の設定や名前からして、多分、自分で依頼をして書いてもらった本なんだと思う。そこまでするか。変態。それも筋金入りのど変態だ。
それからぼくは先生が恐くなったし、軽蔑するようになった。元々、信頼感は高くなかったけれど、人としてアレは受けいれられない。先生の趣味と、ぼくを結びつけざるを得なくなり、夜が恐くなった。元々、眠れなかったのに、もっともっと眠れなくなった。
里親制度には種類がある。養育里親とか短期里親とか、親族里親とか専門里親とか、それぞれ名前がついている。
ぼくは専門家じゃないから、それぞれの詳しい違いはここでは説明できないが、要するに特に素行に問題がない子供は養育里親のところへ行き、何らかの事情により期限つきのケースは短期里親がひきとる。
親族里親は親族が里親になること。それで専門里親は、虐待とか非行の子供を預かるやつで、二〇〇二年に他の三つに加えて新設されたらしい。
里親になるのには審査があるが、特別な資格は必要ない。けれども専門里親だけは別だ。内容が内容だけに専門知識を要するから、自治体が実施する研修や大学で特別に講義を受ける等し、児童福祉論とか発達心理学とか教育学とか、そういったものを学ばないと専門里親にはなれない。もっとも先生の場合は仕事柄、既にそういった教養があるからか、研修は免除されたときいた。
里親になるためには、各自治体の担当機関に問い合わせれば、以降は担当者の案内に沿って粛々と進む。
まずは書類審査で経済力とか家庭環境とか学歴とかが審査される。それを通過すると、面接になる。担当者が直接会って、人となりを見る。
そしてそれも通過したら、今度は、しかるべき機関で犯罪歴とか、児童ポルノ関係の嫌疑がないとか、社会的な立場や養育するための時間があるかなど、を調査される。
そしてそれが終わると、各地域の里親リストに登録されて、児童相談所や役所から里子を紹介されるようになっている。ちなみに、里親には基本的に支援金などは支給されず、里子の生活にかかる費用は全て、実費である。
この調査、先生は、余裕だったと思う。何しろ、小児医療のスペシャリストなのだ。実績もあるし、収入も充分ある。医者だけれど、外来が主だし、専門外来で予約制だから、診察が極端に長引いたりすることも少なく、残業もあまりない。論文を書いたりすることはあるけれど、そういうのは主に家でやっているから、帰宅も早い。収入も充分ある。確かボーナスを抜いて一〇〇〇万以上ある。本の印税とか契約料とかもあるから、貯金も結構あるのだと思う。講演依頼もよく来るらしい。いわゆる金持ちだ。成功者なのだ。
もちろんそれは先生の努力があってのことだから、努力した者が報われる世の中で、とてもいいことだと思うけれど、しかし、性欲を押し殺して勉強に励んだ結果が、ショタコンど変態だとしたら、悲しいことである。思春期に、満たされない思いがあったのか、どうなのか。聞きたくもないが。
これがもし男だったら、バレたら絶対、里親をクビにされる。女子中学生や女子高生が大好きで、家にJKやJCのエロ同人誌を多数所持している三〇代の独身男、とか絶対、無理であろう。ペドフィリア扱いされるのは確定的である。
しかし、先生は女性だ。女性がこれを持っていた場合、里親を認定する市の担当者はどう思うだろうか。案外、そこまで糾弾されない気もする。世界は努力したものに成功を与えたのかもしれないが、男女に平等を与えているわけじゃない。性に関しては、男性の方が不利かと思う。ぼくの主観だけれど。
「ショタコンの変態め。診察室で何をしているか、考えたくもないですね」
先生の仕事は小児精神科医だ。
職場には、心に不安を抱えた少年少女が毎日、何人もやってくる。診察は、保護者同伴で行われる時と、そうじゃない時がある。
大抵の場合、一度、保護者同伴で診察をし、その後、子供、および、保護者、と一対一でカウンセリングをするのが基本である。少年期の問題には、家族との関係や、家族の事情というものも、大きな要因であったりする。なので家族との対話も先生の業務には必要なわけだ。だが、子供と一対一でカウンセリングをしているとき、何をしているのか、疑わしい。体を触るくらい、やっていそうだ。先生はあの優しい笑顔で見つめているのかもしれないが、その時内心ではドキドキしているのかと思うと、本当に気持ち悪い。
「何もしてないわ。仕事よ」
「どうだか」
「うがった見方ばかりしてー。千尋くんはえっちなんだね」
「それはあんただろ」
「うんうん、せんせーを見てたら興奮しちゃうね。せんせー、えっちだもんね。下着とか盗みたくなっちゃうわね」
「ならない!」
先生は確かに、美人かもしれない。けれどこの歳まで結婚していないのは、先生の恋愛対象が、犯罪的だからだ。
「妄想と現実をごっちゃにするな!」
あの同人誌は、先生の願望なのか。そうだとしたら、ぼくはなにがあっても先生に弱みは見せたくない。変なことをしたら、先生はそこから興奮して、一方的に勘違いして、ぼくに襲いかかってくるに決まっているからだ。
「うんうん、千尋くんは恥ずかしいんだね。わかるわ」
「わかってない!」
先生は人の話を聞かない。だけど強く言うべきだ。自分の意見をちゃんと主張し、戦わないといけない。けれどそれすらもスルーされた時は、もう諦める。相手をしないのが一番だ。じゃないとイライラしてきて、こっちの身がもたないから。




