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 午後五時一〇分。座布団を買いに行っためぐみと奏は、まだ帰ってこない。店内放送で明日の土曜日は全品割引の特別セールがあると言っている。最大、五十%オフだと言う。それは確かになかなか大きいから、明日、買い物に来ようかと思う。特に欲しいものはないけれど、なんとなく、来てみたいと思う。昔のぼくだったら、そんな軽い理由で外にでるなんて考えられなかったけれど、今は、外にでることは戦いではなく、何でもない日常の一ページになった。

「セールだってー。せんせーがちーちゃんに何かプレゼントしてあげよっか」

「いりません」

「えー? ああ、うんうん。そうだよね。ちーちゃんは物より、せんせーそのものが欲しいか」

「だからいりません」

「えー? なあに? ちゅーが欲しいって? ったくもう、ちーちゃんは寂しん坊なんだからぁ。しょうがないなぁ。ほらぁ、こっちに来なさい」

「しね、カス」

「千尋くん! そんな言葉使ったらだめでしょ! せんせー泣いちゃう!」

「何でそこだけ聞こえるんだよ」

 琴音先生は、耳鼻科に行くべきだ。重度の難聴だ。自分に都合の良い事しか聞こえない先生の神経は、狂っている。それこそ、妄想の世界にどっぷりという感じだ。自分の妄想に準ずる話ししか見えず聞こえず、それ以外は全てないものとして認識される。そんなやつを人は、メンヘラと呼ぶ。だから心療内科に行くべきだ。精神科医が心療内科に行ってはいけない理由なんてないのだから。

「うぇーん、ちーちゃんが不良になったぁ! せんせー、泣いちゃう!」

「何からツッコんだら良いのか……」

「でも、ちゅーしてくれたら許したげるわ」

「はぁ?」

「はい。ちーちゃん。ちゅー?」

 と先生は唇を突きだして、キスを懇願する。三十代女性の色香を伴った魅力的な唇は、乾きとみずみずしさが混在していて、とてもえっちだ。

「しね、カス」

「うわぁぁぁぁぁん、ちーちゃんのばかぁぁあああ」

「お前はめぐみか」

 先生の姿は喜怒哀楽が制御できないめぐみみたいだった。でも、大人になってからもきっと子供みたいに振る舞いたい時がきっとあるんだと思う。ちーちゃん呼びを急にしはじめたのは、もしかしたらそんな、意味があるのかもしれない。

「ちがうよぉ。せんせーだよぉ。せんせー、大好きぃぃって言ってぇぇぇ?」

「言わない」

 昔のことを思い出した。その事実は先生もあおいも、まだ知らない。お母さんも知らない。誰も知らない。先生は、どう思うだろう。思い出したことを話したら、何て言うだろうか。「よかったね」と言うだろうか。それとも、「何で隠してたの」と怒るだろうか。あおいはどうだろう。あのつかみようがない顔で、何て言うだろう。まったく想像できない。

「琴音せんせー愛してるって言ってよぉ」

「言うわけないだろ」

 ぼくはいつ、この話をするのだろう。先生には、いつか言わないといけない。東村山事件のことは、本を読んだりネットを見て調べた。思い出した記憶と照らし合わせて、色んなことがわかった。でも、まだ不透明なところはたくさんある。記憶は完全じゃない。入院してた頃のぼくのことや、それから妄想を信じ込むようになった経緯や、その様子。実家に戻ってからのこと。やっぱりずっとお母さんを通してぼくのことを見ていたのか。だとしたら、これまでの陽気な振る舞いや、冗談ばかり言って核心をはぐらかすのも、もしかしたらぼくの妄想を守るために演じていたキャラなのかもしれない。何よりも、一番気になるのは、今のぼくを見て、先生はどう思うのか。今、こうしてここにいるぼくは、あの頃のぼくと比べてどう違う?

「言いなさい。千尋。これはせんせー命令です」

「言わない!」

「大丈夫。せんせーがちぁゃんと受けとめたげるからぁ」

「じゃあ、もしも仮にそれを言ったとしたら、先生はどう思うんですか?」

「え? どう思うって……、嬉しいに決まってるじゃない」

「まあ、そうでしょうね」

「うん。それにね、その言葉じゃなくても、千尋くんが話してくれることは何でも嬉しいわ。どんなことでもね」

「変態め」

「えー? どこがー? 初めて会った時なんか何も話してくれなかったじゃないの。 そういう子がね、こんなにも話してくれるようになって嬉しくなったらいけないかしら?」

「何だか母親みたいなことを言いますね。子の成長を見守る母みたいな感じですか」

「そうかもねー」

 この人に、いつになったら言えるだろう。記憶を思い出したこと。色んなことがわかったこと。

いつかは言えると思う。でも、今はまだ言えない。それはどうしてだろうか。PTSDのせい? 違うと思う。虐待されていたせい? 違うと思う。

「千尋くんは、先生の子供みたいなものだもん」

 でも、答えはまだわからない。

 言いたいことは他にもある。ぼくが今ここにいること。こうして、生きていられること。それについて、先生やみんなに伝えたい言葉がある。

 午後、五時一五分。店内の人影がまばらになった。窓は近くにはないけれど、もう陽が暮れる時間。十月の夕方。

 視線の先に、めぐみと奏の姿が見えた。めぐみは笑顔で手を振って、奏の手を握って小走りでこっちに向かってくる。変わらずにはつらつとしている。

「おまたせー」

 と帰ってきためぐみと奏。その手におさまりきらないくらいの大きな袋を持っている。中には座布団が入っているのだろう。 

「じゃあ、帰りますか」

 と琴音先生が言った。めぐみがうなづく。奏が後を追う。

 小さい頃、死にかけたぼく。中学生の頃外にでられなくなった。発作が起きて、倒れそうになった。まともじゃない。頭がおかしいぼくは、もうどこにも行けないって思った。そんなぼくは、頭のおかしい先生や女の子と出会った。彼女たちはぼくと同じくらい変な人ばかりで、最初は面食らったけれど、でも、そのおかげでぼくもぼくでいいんだって思えるようになった。

 みんなと違うこと。それはいけないことじゃない。だって変態のショタコンでも、能面のロボットでも、薬物中毒のメンヘラでも、殺人事件の被害者でも声が出せなくても外にでられなくても記憶がなくてもコミュ症でも、みんなと同じように普通を手に入れることは出来るんだから。

「ほら、千尋くん行くわよ」

 と振り返った先生の横顔は優しかった。隣にはめぐみや奏がいる。スマートフォンの待ち受けにはあおいがいる。ぼくは恵まれている。ぼくはみんなと出会えて本当によかったと思う。イライラすることも、ムカつくこともたくさんあったけれど、でも、この何でもない日常をくれたみんなに、ただ一言言いたい。

「ありがとう」







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