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小さい頃は、空を眺めるのが好きだった。空を見ていると、心が楽になる気がした。勿論、あの頃は、それを自覚して行動していたわけではない。でも、ただなんとなく、気がついたら空ばかり見ていた。
ぼくは、東京都東村山市の家で育った。両親は小学校の先生をしていて、お姉ちゃんが一人居た。お父さんは厳しい人だったけれど、悪い人ではなかった。六才のお誕生日に、当時欲しかった音楽プレーヤーを買ってくれたのを覚えている。お母さんはいつもニコニコとしていて、少し後ろからぼくらを見守ってくれていた。ぼくは、気が弱いところがあって、元気で積極的な姉に手を引かれながら生きていた。ぼくの家は、何の変哲もない普通の家族だった。でも、それがおかしくなったのは、お姉ちゃんが死んでからだった。お姉ちゃんはぼくが七才の時、交通事故に遭って死んだ。埼玉県秩父にあるお母さんの実家にみんなで帰省していた時だった。国道沿いの横断歩道で、お姉ちゃんとぼくは車がいなくなるタイミングを待っていた。信号機がついていなかったからだ。お母さんとお父さんはいなかった。その時は、少し年上だったイトコがぼくらを見守ってくれていた。けれど、お姉ちゃんはイトコの指示を待つことが出来ず、飛びだしてしまった。そして車に轢かれてしまった。頭部に強い外傷を受け、激しい内出血によりほぼ即死。ぼくは、お姉ちゃんが車に轢かれる瞬間からの記憶がない。一緒に横断歩道にいて、飛びだしたところまでは覚えているのに、そこから先の事は何も覚えていない。次に記憶があるのは、翌日、病院に泊まっていた両親が家にもどってきた時のことだ。ぼくはお姉ちゃんが死んだことなんて、全然、わからなくて、両親と離れて夜を過ごすことが、凄く寂しかった。だから、翌朝、両親と一日ぶりに会うことが出来て、凄く嬉しかった。でも、両親からしたら、きっとそんなぼくのことは全然、見えていなかったんだと思う。だって、子供が死んだ。そのショックは、とてつもないことだと思うから。
それから、ぼくの家はおかしくなった。子供が交通事故死する、というのはそうそうあることじゃないし、それだけでも、もう普通じゃなかった。それに、お父さんもお母さんも、心をおかしくした。お母さんは毎日、仏壇に線香をあげて、カレーやらお菓子やらを毎日お供えした。目は虚ろで、洗濯や掃除は何もしなかった。ぼくの家は共働きだったけど、家事はお母さんが全部やっていたから、お母さんがご飯をつくってくれないと、ぼくは食べるものがなかった。お父さんは外食ばかり。家には、お母さんが乱雑に買ってきた冷凍食品やらお菓子やらがあって、ぼくはそれを食べるしかなかった。掃除も洗濯も、誰もやらないから家中が汚れていて、足の踏み場もないくらいにゴミが散乱していた。でも、それを片付けないといけない、という感覚はぼくにはなかった。子供の世界は狭い。何が普通で、何が普通ではないのかを理解できるほど、世の中のことを知らなかった。だから、自分の家がおかしいと感じることは出来なかった。子供にとっての世界とは、文字通りの意味で家族だけだったから。
いつも放心状態で抜け殻のお母さんは、ぼくに何もしなかった。関心がないのか、置物のようで、幽霊のようですらあった。ぼくは、そんなお母さんに違和感を感じることができなかったし、そういう余裕もなかった。毎日、お父さんに暴行を受けていたからだ。お父さんは、自分の子供を守ることが出来なかったショックを、ぼくにぶつけるようになった。元から厳しくてプライドが高い人だったから、子供を死なせてしまったという出来事は深い傷となり、自分を責めた。けれど、いくら責めてもお姉ちゃんが生き返ることはないし、ただただ、行き場のない感情が彷徨った。そして、その怒りやら悲しみやらを、ぼくに対して発散するようになったのは、必然とは呼べないけれど、しかし事実として、ぼくは毎日、暴行を受けた。お湯を張ったお風呂に、ぼくのことを突然に押しつけて、ぼくを殺そうとすることが日常的にあった。ぼくが自分の部屋で過ごしていたら、お父さんが乱入してきて、ぼくを強引にお風呂に連れだしていくのだ。その時のお父さんは目が血走っていて、とても何か逆らえるような空気じゃなかったし、抵抗したら殴られたり蹴られたりした。まだ七才だったぼくが大人の男に勝てるわけがないし、勝とうとも思わなかった。人間は圧倒的な力の前では、ただただ、従ってしまう。抑圧という言葉があるが、力や権力をかざして下の立場にある存在を押し込めようとするのは、ぼくはだいきらいだ。お父さんがそういう行為に及んでいた理由は、ハッキリとは知らない。けれど、ぼくなりに推理するなら、きっと彼は激しいPTSD状態にあったのだ。例えば目の前で殺人現場を見てしまいそれが傷となった子供がいたとする。その子に、「自由に絵を描いて下さい」と白紙とペンを渡したら、その殺人現場の絵を描いたりする。これは何度も言うように、辛い記憶を反芻することによって処理しようとする心の原理によるものだ。お父さんもまた、事件現場に近いものを再現することによって、子供が死んだショックから立ち直ろうとしていたのかもしれない。ぼくを殺そうとすることは、それすなわち、自分の子供が死ぬ、という場面につながるからだ。もっともそんなことは絶対に許されないし、そもそもこの推理が合っているかどうかもわからない。お父さんとは、九才の時以来、一度も会っていないし、今どこで何をしているのかも知らない。
お父さんの暴行は毎日行われた。七才から、九才まで。二年間か、あるいはもっと続いたような気もするけれど、その辺りの時間は正確にはわからない。色んなことを思いだしたけれど、ハッキリしないこともたくさんある。例えば、お父さんが使っていた電極のことは未だにぼんやりとしている。お父さんはぼくを殺そうとするために、理科の実験で使うような電流が流れる機械を持っていた。お父さんは小学校の先生だったから。コンセントをさすと電源が入って、機械の本体から+極と-極のプラグがついた電線が伸びていて、それをぼくの両足のつま先につけるのだ。そうすれば体中に高電圧が流れて、ぼくは余りの痛みに嘔吐したり、気を失ったりした、らしいのだが、そのことは覚えていない。お父さんのことも、お母さんのことも、あの頃の様子は色々思い出したけれど、それだけは未だに、記憶から抜け落ちている。だから、ぼくが九才の時、電極による虐待を受けて、気を失い、病院へ連れて行かれた時のことも、わからない。ただ病院に入院した記憶はあって、目が覚めたらどういうわけか病院にいて、たくさんの大人がぼくの病室に来たことを覚えている。学校の先生とか友達の親とか、知っている人もいれば、知らない人もいた。それは多分、地域の児童相談員とか警察の人とかだったんだと思う。ぼくは、よく知らないそういう人たちに質問をされた。具体的に虐待があった? とかそんな訊き方は勿論されなくて、ご飯は食べた? いつもはどんな食べものを食べてる? 家はきれい? お母さんは好き? お父さんは好き? どこかに連れていってもらった? 怒られることはある? 厳しい? とか、直接的な訊き方はせず、遠回しに家庭環境を探っていくのだ。ぼくが何を答えたのかは、覚えていない。
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それから、何があったのかはハッキリしない。でも、聞くところによればPTSDによる心神喪失状態にあり、言葉を発せず意識が虚ろで、まるで生きる屍のような存在になっていたらしいのだが、それも記憶にはない。記憶の中のぼくは、今のぼくとそう大差ないぼくにしか思えないのだ。しかし、背後から突然、耳元で手を叩いたり、大声を出したとしても、ぼくは驚く様子もなく、何の反応も示さないくらいに、意識がぼんやりとしていたというのだ。ぼくは地元の病院から、川越にある埼玉県立児童医療センターに移送され、そちらで治療を受けるようになった。お父さんは逮捕され、殺人未遂で懲役十年。虐待は長期に渡っており悪質だったものの、娘を失ったショックからPTSDになっていたことによる心神の喪失を踏まえ、情状酌量の余地を検討された結果、執行猶予が二年ついた。お母さんは直接的に暴行を加えていなかったことと、父の暴行がお母さんにも及んでおりDV状態だったこと等から執行猶予三年、懲役二年の刑を受けた。この一連の出来事は、テレビや新聞を通して日本中に流され、多くの人が見聞きすることになった。ぼくの家が東村山にあったから、そこから東村山児童虐待事件と呼ばれるようになって、未だに、テレビなどで昔にあった事件の特集が組まれたりすると、この東村山児童虐待事件が取り上げられたりもする。そこでぼくの家や近所がテレビに映っていたりして、凄く驚く。ぼくは事件の当事者だったけれど、そんな話題になっていたことは当然ながら、まったく知らなかったからだ。しかし、いくら子供だったとはいえ、まったく何も知らないというのはやっぱり変だから、その辺りはやっぱり、心が正常じゃなかったという証明なんだと思う。
今にして思えば、自分が興味をもって調べていた事件が、まさか自分のことだったなんて、驚きを通り越して少し怖い感じがする。
あの頃、児童医療センターで、琴音先生と一緒にいたことを覚えている。どういう話をしていたのか、どういうことをやっていたのかは、断片的ではあるけれど、記憶にはある。
先生は今と何も変わらなくて、笑顔を絶やさなくて、スキンシップが多かった気がする。
催眠療法や暴露療法、認知行動療法、プレイルームセラピー、様々な事をしたらしいが、どれがどの治療だったのか、記憶を整理するのはちょっと難しい。多分、真っ暗な狭い部屋で行われていたのが、催眠療法で、玩具がたくさんある部屋で行われていたのが、プレイルームセラピーだったんだと思う。
ぼくは治療を受けているという実感はなかった。お母さんやお父さんと会えないのは、仕事の影響で遠くに行ったから、と聞かされた。その話をしたのは琴音先生だった。まだ若かった頃、といっても七年くらいしか経っていないから、そこまででもないが。先生は、「私をお母さんだと思って、何でも言ってね。ここは千尋くんの新しいおうちなのよ」と言った。そのことを、すごくハッキリ覚えている。
治療をしたという感覚はなくて、玩具がたくさんある部屋で遊んだり、毎日、日記を書いて、それを読み上げたりしてただけ、な気がする。
玩具の部屋は、プラモデルから幼児が使う立体的な遊具までたくさんあって、それを使って空想するのが好きだった。いわゆるおままごとみたいなごっこ遊びを、先生とよくした。どんなストーリーだったのかまでは思いだせないが、凄く子供じみた感じだった気がする。仲間を集めて悪を倒そう、みたいなそんな感じだ。
そのごっこ遊びをしていた時、ぼくの隣には友達がいた。友達、と呼んで良いのかはわからないが、玩具の部屋にはぼく以外にも人がいた。ぼくとそう年も変わらない子供が、何人もいた。
みんな、入院している子供たちであり、琴音先生の患者だった。そのことは当時は知らなかった。子供の世界っていうのは特殊で、何でここにいるのか、とか、どこに帰るとか、そういうことをあんまり気にしなかった。
ただ、琴音先生はみんなに愛称をつけた。何人いたのかは正確には思いだせないけど、多分、3,4人くらいだったと思う。
先生は、自分のことを「お母さん」と呼ばせ、ぼくらには、「お姉ちゃん」や、「お兄ちゃん」、「弟ちゃん」「妹ちゃん」と名付けた。それは家族ごっこの一貫であり、遊びだった。少なくともぼくはそういう風に感じていた。
今思えば、それは擬似的な家族を形成し、本来の家庭で培われなかった社会性の獲得や、通常は家族から与えられる愛情などを感じ取れるようにするための治療方法だったのだと思うが、当時はわからなかった。
その、家族ごっこのメンバー中に、川澄あおいがいた。
あおいは、今と同じように体が小さくて色が白くて、目鼻立ちがハッキリした顔だった。ぼくは、あおいのことをお姉ちゃんと呼び、あおいはぼくのことを弟ちゃんと呼んでいた。
あの家族ごっこの設定は、多分、実際の年齢とか、それまで境遇とかを加味して琴音先生が考えたものだったんだと思う。
ぼくは最初あおいの名前は知らなかった。
みんなと会うのはその家族ごっこだけでなく、他の治療や、ご飯の時も一緒だった。あおいは、ぼくに色々話しかけてきた。家はどこ? とか、食べものはなにが好き? とか、些細なことだった。あおいは調子がよくて元気な印象があった。でも、後からして見たら、あの頃、あおいは解離性同一障害の治療中だから、そのあおいは、今のあおいとは少し違うかもしれない。けれど、我が強いのは同じだ。
あおいは、ぼくが「お姉ちゃん」と呼ぶと、よく、「お姉ちゃんじゃない。あおいだ」と言っていた。だから、あれが川澄あおいだったと、思い出すことが出来たのだ。
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先生の病院に入院していたころのことは、もう思い出した。
完璧ではないけれど、自分の思い出として、しっかりとこの胸のなかにある。
あれからぼくは十二才頃には実家に戻った。その時にはもう、自分が病院にいたことや、お父さんに殺されかけた日々なんて全部忘れていた。
何がどう作用して、そういう風に思い込めたのかはわからない。子供は脳が柔軟だからとんでもないことができるから。
でも、今ぼくがそのころのぼくを思うなら、全部、忘れて、まったく別の誰かになりたかったんだと思う。
記憶を消し、書き換えることで、その残酷な現実から逃げたかったのだ。
実家では、裁判で有罪となったお母さんと一緒に過ごした。元々住んでいた東村山には多分、事件の影響で住めなくなったんだと思うけど、ぼくの新しい家は東久留米にあった。けれどぼくは、昔からそこに住んでいたと思い込んでいた。
お母さんは昔のぼくに直接的に暴力は振るわなかったけれど、家事を放棄し、食事を与えないのは育児放棄だった。
そんなお母さんが、またぼくと暮らすことは法律的には可能だけれど、倫理的にそう許されることではない。
けれど、そうなった理由は推測できる。
ぼくが虚構の人生を信じ込んでいたからだ。
ぼくは、死にかけて病院に行ったことを忘れ、お母さんと二人で暮らす平凡な人生を信じていた。そんなぼくの妄想を否定することより、それを守ることを選んだのだ。選んだのは、まず間違いがなく、琴音先生だろうと思う。主治医だった先生は、ぼくの精神状態を分析して妄想を守ることを選んだ。現実から逃げたのは理由があるのだから、それを否定するのではなく受けとめられる時まで守ろうとしたんだと思う。
十五才の時。琴音先生の病院へ行った時、提案してきたのはお母さんだった。お母さんは、昔の知りあい、と言っていた。先生と再会した後、里子になるまでの間も早かった。本当に、一ヶ月足らずで、あっという間に先生の家に行くことになった。それも、最初に提案してきたのはお母さんだった。
お母さんのことは、好きでもないし嫌いでもない。それは今も変わらない。お母さんは、ぼくに何もしてくれなかったから。妄想の人生を生きていたあの頃も、お母さんはぼくに関心を示さなかった。でも、もしかしたらそれは、あえてそうしていたのかもしれない。ぼくの妄想を否定しないためには、少なからず腫れ物に触るような慎重さが必要だったと思うからだ。ぼくはまだ人の親になったことがないから、親の気持ちなんてわからない。
ぼくを殺しかけたお父さんのことも、ぼくを放置したお母さんのことも、何もわからない。だから今は、親への気持ちは一旦、置いておこうと思っている。そんなことは、いつか時が来ればきっと結論が出ると思うからだ。先生が、ぼくの妄想の人生を肯定したように、逃げたい時は、逃げてもいいのだ。必ずいつか、また受けとめるべき日がくるから。それまでは、無理せず、今を生きていけばいいと思う。それはきっと、琴音先生の願いだと思うから。




