表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/14

11

 11


 午後、五時。みんなでイオンで買い物をしている。歓迎パーティをするというので、食事の材料や、ケーキを買った。キャンドルやクラッカーなどのパーティグッズも一緒に買った。さすがイオンだけあって、一通り、欲しいものは何でも揃った。奏の生活用品は既にトラックに積んであり、明日引っ越し業者が家に運んできてくれるらしいので問題はないが、座布団がないというので、今、めぐみと二人で選びに行っている。食事席用の座布団だ。ぼくは、そういうのが何だか嫌だったから最初拒否して、未だにつけていない。けれど、みんなつけているのにぼくだけつけないのも今になって嫌になってきたんだけど、今さら、ぼくも欲しい、とは言い出せず、そのままになっている。昔に比べて、自己主張はできるようになったつもりなんだけど、まだまだ自分から意思を発信するのは苦手だ。

 ぼくと先生は、二Fフロアに設けられた休憩用のイスに腰をかけて二人を待っている。先生と二人きりでは、もしかしたら襲われるんじゃないか、とぼくは気が気じゃない。けれど、落ち着いている。矛盾した言い方だけど、先生と出会った頃みたいに、外に居るだけで心臓が飛び出そうなくらい激動したり、パニックになって倒れそうになったりはしない。もう、最近はそんな酷い発作が出ることは殆どない。薬の効果は勿論あるんだけど、でもそれ以上にみんなのおかげなのは、もうわかっている。

「ちーちゃんっ」

 と先生がバカにするように言った。

「その呼び方やめて」

「えー、いーじゃんー。せんせーにもそう呼ばせてちょーだいよぉー」

「嫌です」

「何よ。めぐみには何も言わないくせにー。けち!」

「言っても聞かないから、言わないだけです。あの人、バカだから」

「せんせーだってバカだもんっ」

「いや、それ、自分で言うことじゃないです」

 先生は確かにバカだ。というより頭がおかしいと表現した方が適切だ。この人は有名な精神科医で、留学経験もあり、見た目美人で、お金を持っていて、そしてぼくやめぐみを引き取って里親をしている。けれど、ショタコンで、冗談ばかり言って、普段の行動のどこまでが本気なのかまったくわからない。本当に心が読めない。そしてぼくは先生に心を読まれてばかりで、何も言いかえせないし、されるがままになることが多い。先生に反撃することはぼくにはできない。先生の方が頭がいいし、バカだけど、でもやっぱり大人だ。しかし先生だとしても、ぼくの全てを知っているわけではない。先生に秘密にしていることの一つや二つくらいぼくにもある。それはある意味ではぼくの切り札でもあるし、同時に、先生にとっても多分、決定的な秘密なのだと思う。

「ねえ、ちーちゃん」

「何ですか」

「奏ちゃんのこと、もしかして気がついたかなって思って」

「……?」

「大宮事件って知ってるわよね? ちーちゃん、熱心に本とか読んでいたから」

 ひきこもりの男が起こした、連続児童誘拐殺人事件。「一緒にいたら子供に戻れると思った」という歪んだ動機によって発生した凶悪事件で、今でもたまに、テレビで特集が組まれたりもする。誘拐された児童たちは男の自宅に監禁され、暴行を受け、死に至った人もいる。ぼくは、この様な事件に関心があった。自分が子供時代、不幸だったからなのかもしれない。自分と被害者を重ねてしまうのだ。

「奏ちゃんはね、あの事件の被害者なの」

 と先生はあっけらかんとした様子で言った。事件から生還したのは僅か四人で、一人を除く三人は、未だ入院していると本には書いてあった。

「ずっとね大宮の病院に居てね、せんせーが担当してたんだけど、元気になったから、連れてきた」

 先生は軽い調子で言った。そんな簡単な感じで話していい内容だとは思えず、ぼくは言葉を失った。何を言えば良いのかわからなくなったのだ。

「ま、だからね。ちーちゃんたちと一緒でPTSDになっていてね、声がだせないの。声をだすな! って事件の時に命令されていたからね、声をだそうとすると体が拒絶してしまうのよ」

 大宮事件では、手足を縛られ、口にガムテープをつけて監禁されていたとニュースや本などでは言っていた。奏は、今十二才だから、事件が発生した当時、まだ十才か十一歳くらいだったはずだ。見ず知らずの男に突然、拉致され、監禁され、暴行を受けた衝撃は、ぼくにはきっと想像すらできないことだ。ぼくも酷い幼少時代を過ごしたけれどその内容は少し違うから。でも、奏の気持ちは少しわかる。事件当時の気持ちではなく、今、PTSDと戦いながら生きている彼女のことだ。

「頑張ってるんですね」

「そうよ。君たちとおんなじ。千尋くんやあおいとね」

 記憶は曖昧なのもだ。辛かった記憶は気がついたら忘却されて、なかったことになるケースだってある。ぼくが、小さい頃のことをあまり覚えていないように、人間は自分を守るためにその傷を忘れてしまう。けれど、傷自体は消えるわけではない。その矛盾というか、脳の面倒くさい構造によってPTSDという病気が生まれる。

 一度、忘却した記憶と、奏は戦っている。耐えきれない、と判断されたその傷と、戦って勝たなければ、これから先、生きていくこともきっと難しくなる。

 その戦いの辛さは理解できる。突然に訪れるフラッシュバックや、自らの意思とは関係なくやってくるパニック発作や精神の錯乱。自分では制御することが出来ず、立ち向かうと言っても、どう戦えば良いのかわからない。

 原因だってそうだ。親に虐待された傷のせいと言っても、どうしてぼくだけがそんな不幸な境遇だったのか。みんなと同じように、普通の親の下で普通に生きることができなかったのは、どうしてなのか。当たり前に、誰にでもやってくるからこそ、普通、という言葉があるのに、ぼくはその普通を神様から貰えなかった。

 気がついたらそこにあった人生が、みんなとは違う。何か悪いことをしたわけではないのに、PTSDという呪いと共に生きなければならず、それを克服するためには必死な思いで戦わないといけない。普通だったら、そんな余計な荷物なんて背負わずに自由に歩いて生きていけるのに、ぼくだけは最初からマイナススタートだ。みんなは横一列なのに、ぼくだけが違う。

 どうして? なんで? という気持ちが膨む。どうしてぼくだけがこんな人生なの? どうしてぼくだけがこんな辛い思いをしないといけないの? ぼくは悪くないのに、何もしてないのに! 

 いらだちや怒りが募っていくけれど、どこにぶつけて良いのかもわからない。とても理不尽。すごく理不尽。でも、どうしたらいいのかもわからない。

 ぼくはずっとそうだった。学校に行けなくなった後、いつも行き場のない怒りをお腹に溜めていた。

 小さい頃に背負った重荷と戦い続けることは、とてもパワーが要る。だから、奏の気持ちはわかる。まだ彼女のことは何も知らない。けれど、同じような境遇にある、というその言葉だけで、ぼくは今、奏のことをとても身近に感じることができる。

 それを、きっと世の中では共感という。ぼくに決定的に足りていない心の現象のことだ。

 先生に、共感という言葉についてこれまでに何度も説教をされてきた。

 人間は誰しもが他人に対し自分を重ね合わせることが出来る。誰かが辛い思いをした時に、まるで自分のことのように辛くなったり、逆に誰かが嬉しそうにしている時、こっちまで嬉しくなったりする。

 ぼくは、そういう気持ちになることが殆どなかった。

 他人は他人であって、ぼくではない。ぼくのことはぼくにしかわからないし、他人のことは何もわからない。わからないから恐くなるし、わからないから、不安になる。世界にひとりぼっちのような感覚になって、どこにも居場所がないから耐えきれなくなって、逃げだしてしまう。

 それはぼくのことだ。

 学校に行けなくなった頃、外に出るとみんながぼくの悪口を言っているような気がして頭がおかしくなりそうだった。それからその発作は消えるどころか、強くなっていった。だから外に出られなくなって、ひきこもりなって、先生の病院に行くまで、ぼくはずっと一人だった。

 でも、それは当たり前のことだった。誰かの中に自分を見つけられないのなら、人間社会という枠組みの中で生きていくのは余りにも困難に思える。

 人間というのは本質的に社会動物であり、つながりの社会性にも代表されるように、誰かとつながることでしか自分というものを保っていけないからだ。

 山奥の仙人の話しも先生に聞いた。

 その昔、山奥に仙人が居た。仙人は村を一望できる山奥にこもって、一人で暮らしていた。村人は、その仙人を世捨て人だと思っていた。しかしある災害によって村人たちが別の地域へ村を移転させた時、その仙人もまた、村人を追って引っ越してきた。しかし村には住まず、また、村を一望できる山奥に新居を構え、一人で住んだ。村人と接触することはない。けれど、自分のことを仙人と認識してくれる他者がいるからこそ、彼は仙人として生きることができる。

 誰もひとりでは生きていけない。

 仙人は、村人が自分を仙人として見て、認識してくれているからこそ、存在を承認され、満足感を感じることが出来たという話しだ。

 ぼくもきっと、ぼくをひきこもりだと認識してくれる社会があったから、精神を維持することが出来たんだと思う。お母さんもいた。お母さんはぼくに何も指図しなかったけれど、少なくともぼくの話し相手にはなってくれていた。もしも、本当に世界でひとりぼっちだったのなら、ぼくは今、ここにはいないかもしれない。

「どうして、今こんな話をしたのか、わかるかしら? 千尋くん」

 先生は笑っているようなバカにしているような、いつもの顔で言った。

 多分、奏のことは必ずしも守秘義務があるわけではないと思うし、話してはいけないことではないんだと思う。

 あおいの過去をぼくらが知っているように、本人が望むのならそれはけして秘密であり続けるものではないから。むしろ話すことで楽になったり、前に進むことだってある。あおいは、まさにそれを証明している。

 あおいの過去は、とても辛い。その過去の辛さは、やっぱりぼくにはわからない。でも、あおいは過去をオープンにし、全てを受けいれることで、自分となろうとしている。その姿はとても力強いし、ぼくは彼女によって救われた。

 しかし、奏のことを話すにしても、こんな簡単に話してしまう先生の心理は、やっぱりぼくにはわからない。もしもぼくが逆の立場だったら、きっともっと仰々しい場で、話すことになると思うからだ。

「ちょっとわからないです」

「うん。素直でよろしい」

「バカにしてますか」

「え? してたら、困るかしら?」

「困りはしないですが……」 

「困らないんだ? じゃあ、いっぱいバカにする! これからも、ずっと!」

「そういう問題じゃないでしょ!」

「え? だってバカにされたいんでしょ?」

「そんなこと言ってないから!」

「ちーちゃんは可愛いなぁ」

「その呼び方も禁止!」

「んもう、怒りん坊なんだからぁ」

「先生のせいです」

 ぼくは、相変わらず先生にいいようにされてしまう。先生は頭がいいし、人間の心理の専門家だ。ぼくみたいに学がなく、幼稚な人間であれば操るのも容易いのだ。

 しかし、いつも先生に抗えないぼくだけれど、隠していることはある。とても重要なことだ。

 それを話してしまったら今のこの居場所も壊してしまうかもしれないくらい決定的な内容だ。

 だからぼくは恐くて言えない。言ってしまったら、先生との関係も、あおいとの関係も、変わってしまうから。変わらないことはきっと出来ない。

 なぜなら、あおいや先生は、ぼくがその秘密を知らない、という前提で接しているからだ。知っているはずがないのだ。

 だってぼくは、全部、忘れていたから。

 余りにもつらいことがあった時、心が耐えきれないと脳が判断すれば、それは意識の外側へと追いやられて、忘れてしまう。

 とてもとても、忘れようがないくらいに特別な思い出だったとしても、簡単に消えてしまう。それがPTSDの原因にもなるし、逆にプラスに働くことだってある。

 失敗した過去が消えたなら、それは本来、いいことである。失敗を思い出して寝込むことも、胸がえぐられることもないのだから。

 ぼくの脳は記憶障害が激しい。事実を誤認したり、突然に思い出したり、そして忘れたりする。自分のそんな状態はわかっているつもりだったから、あおいや先生が隠していて、ぼくが忘れてしまったその秘密を、思い出したときも、最初は偽物の記憶かと思った。自分の記憶が色々と混ざり合って作られてしまったイメージかと思った。

 虐待の中には、実際にはそんな過去がなかったのに、後から催眠療法によって植え付けられてしまった偽記憶という問題が起こることもある。

 それは大体成人してから心に支障をきたした人を治療する際に、臨床家が幼少期の虐待を疑い患者へ接することが原因とされる。

 初めから虐待があった、と疑ってかかることで、患者側が、そうだったのかもしれない、と思い込んでしまう。そして催眠療法によってその過去を思い出そうとした時に、あったかもしれない、というイメージから偽物の記憶が生み出され、それが本当だったと臨床家が誤認する。すると、患者も信じ込んでしまう、ということがあるのだ。

 ぼくも催眠療法を受けたことがあるから、先生にそういう話しを聞いた。実際にぼくは催眠療法によって偽記憶が植え付けられたわけではないけれど、最初、秘密を思い出した時は、そうなのかもしれないって思った。だから、誰にも話さなかったし、元から記憶方面に問題があるのは知っていたから、特に気にすることもなかった。

 しかし、その記憶は段々とハッキリしたものへと変わっていき、毎晩夢をみる度に、新しいことを思い出した。

 それは思い出す、というよりも、知った、という感覚に近かった。

 ぼくはその秘密を完全に忘れていたから、改めて思い出したとしても、思い出したという感じはまったくなかった。

 しかしその秘密はぼくに関することであり、ぼくの過去であり、ぼくにとって重大な出来事の記憶だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ