気持ち
セシルは、勉強の時間が来たため去って行った。けれども、また一緒に遊ぼうと最後に約束をした。
その後、一人で自室にこもっていたアイーダは、ぼんやりと花束を見つめていた。じっと花束を見続けると、自分がセレナーデにしてきた数々のひどい仕打ちが脳裏に蘇ってきた。
そういえば、あたし昨日、あいつにありがとうって言い忘れていたわ。
今まで散々ひどいことをしてきたけれども、一度も謝った記憶がない。
ふと、それに気がつくとそのことが鉛みたいに重く心にのしかかった。何で、あたしがあいつに謝らないといけないの?なんていう理不尽な気持ちも湧き上がるか、一度今までの自分のセレナーデに対する仕打ちを意識すると、洪水のように後悔や罪悪感が溢れてきた。そうして、ますますセレナーデのことを考えてイライラしてしまう。
そんな時、再び、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」と声をかけると、現れたのは、白いワンピースを来たセレナだった。
「どうしたの?」
「私、あなたに謝りに来たの」
セレナはそう言っているが、謝りに来たというより、戦いに挑みに来たように決意に満ちた目をしていた。
「……私が悪かったわ。あなたをあそこに呼び寄せたら、また友達になってくれるってみんなに言われていたの。私、またみんなと遊びたかったの。それで、あなたに嘘をついてしまった。ごめんなさい」
セレナは、深々と頭を下げた。
「そ、そう」
まさかセレナからそんなことを言われると思っていなかったアイーダは、動揺した。
「それに……。あなたがお兄様といちゃいちゃしてばかりいるから。あなたにお兄様をとられてしまうって怖かった」
「別に、あのバカ兄貴が誰と付き合おうが、仲よくしようが、あんたを見捨てようがあいつの勝手だと思うけれど……。ただ、あいつとあたしが、付き合うなんてことはありえないわ」
「え……」
セレナは、驚いたように目をパチパチした。
「人間は、ゴリラと結婚する?ヤギは、狼と恋に落ちたりする?そんなことありえないでしょう。あたしがセレナーデと結婚したり、付き合ったりすることは、絶対にないから安心しなさい」
それを聞いたセレナは、呆然とした。
「……あなたって、本当にひどい女ね」
「セレナほどじゃないわ」
アイーダは、そう言い返した。
コンコンとノックすると「どうぞ」という声が聞こえた。
セレナーデは、税金関係の書類らしきものを必死に書いていたが、アイーダが入ってくると、顔をあげて動かした手を止めた。
「ああ、君か。一体、どうしたんだい?」
「……」
「あの……。あたし、あなたに言いたいことがあって」
今日は、こいつに謝罪と感謝の気持ちを伝えよう。今日だけは、怒ることはやめにしよう。
「いったいどんな悪戯を告白するつもりなんだ。怒らないから、正直に話してよ」
アイーダのセレナーデに怒るのを止めようという決心は、その侮辱する言葉を聞いてガラガラと崩壊した。
「バカにしないで!悪戯の告白なんかじゃないわ。あなた、あたしを何歳だと思っているのよ」
「だったら、何だ。僕には、君の言いたいことの検討なんかつかないな」
そう言われて、正直な気持ちを伝えようと口を開くが、喉に言葉が詰まったようになかなか出てこない。
「その、だから、……あの……昔のことなんだけど」
「何?」
セレナーデは、不審そうな表情でアイーダをジッと穴が開くほど見てくる。アイーダは、そんな彼から視線を反らして、下を向いた。そして、「だから、その……ごめんなさい」と言い切った。
「え……」
「あ、あ、あの時、というか昔に……。いっぱい苛めたり、傷つけたりして、ご、ごめんなさい」
ちょっと謝ったくらいで、何でこんなにむずがゆい気持ちになるのだろうか。
だけど、あの時、謝れなかったことを後悔したことを覚えている。こんな想いを抱えたまま死にたくないと確かに思った。
言葉は、声にしないと伝わらない。あとは、……助けてくれたことに対するお礼も言っておきたい。がんばれ、あたし。
「あと、昨日、助けてくれて……あ、あ」
ありがとうという言葉が、喉につかえたように出てこない。がんばって言わないといけないのにっ……!
ちゃんと言おうと思っているのに、意地っ張りで、ひねくれていて、素直になれないもう一人の自分が邪魔をする。
ああっ。もうどうすればいいんだろう。
その時、グッと頭を引き寄せられ、首が少し傾いた。
目の前に、ウィルの長い睫毛や白い瞼が見える。
そして、唇に何か温かいものが触れた。
え?何、どういうこと?
これって、まさか。
嘘でしょう。
心の中で嵐のような感情が暴れ出す。
あたしは、セレナーデとキスをしているの?
唇はすぐに離れていったが、皮膚の表面を柔らかな吐息が霞めた感触が未だに残っている。
瞬きをするのも忘れて、魂が抜かれたように呆然としていたが、すぐに怒りのあまりわなわなと震えだした。
「調子こいているんじゃねぇよ、この腐れチンコ。死ねえええええええええ!」
アイーダは、思いっきりセレナーデの股の間を蹴ろうした。けれども、残念ながらひょいっと避けられてしまう。
「逃げているんじゃないわよ」
真っ赤な顔になりながら怒鳴りつける。
「僕は、君の命を助けたんだ。これくらい安いものだろう。君からお礼を言われる代わりに、キスをもらうことにしたよ」
セレナーデは、しゃあしゃあとそう言ってのけた。
アイーダは、あまたから角が生えてきそうなくらい怒り狂った。
「あなたがあたしを助けなくて、あたしが狼をぶっ倒していたわ。それに、助けてくれなんて頼んでいなかった。いい?あたしのファ―ストキスは、ウィルに捧げるためにあったのよ。あたしの心も体も全部ウィルのものなの。それを、あなたっていう人間は……」
罵っているはずなのに、セレナーデは何故かアメジストの瞳を光に照れされた宝石みたいに輝かせた。
「初めてだったのか。君のファ―ストキスをもらうことができたなんて光栄だ」
パアンっという乾いた音が辺りに響き渡った。
「死ね!最低!このくそったれのデブが!」
「君よりも僕の方が痩せていると思うけれどな」
「お黙りなさい。さっさと消えないとあなたの股の間のものをぶっつぶすわよ!」
アイーダがそう脅すと、セレナーデは愉快そうに笑いながら部屋から出て行った。
残されたアイーダは、必死にハンカチで唇をごしごしと拭う。
あのバカが。あたしの神聖なファ―ストキスをあっさりと奪うなんてどういう神経をしているのよ。ゴキブリを見て気絶するような無様な死に方をすればいい。
キスされたことは、一生許せない。死ぬまで根に持ってやるわ。
だけど……。
結局、ごめんなさいの続きのありがとうを言えなかった。せっかく、助けてくれて感謝の気持ちを伝えるチャンスだったのに、あいつのせいで言えなかった。やっぱり、あたしは、素直になれなかった。結局、いつも、憎まれ口と毒舌ばかりたたいてしまうけれども……いつか、ありがとうと伝えたい。




