愛
アイーダ・イスタシアの話をしようか。
お母さんは、あたしが生まれてすぐに病気で死んだ。
だけど、あたしには、優しいお父さんがいたから寂しくなんてなかった。
けれども、7歳の時、お義父さんは、戦争で死んだ。家の財産は、当時、住んでいたメイドに持ち逃げされた。あたしは、家族も、住む家も何もかもいっぺんに失った。あたしをちやほやしていた男の子も、仲良くしてくれた友達もあたしに手を差し伸べたりしなかった。
その後、あたしは孤児院に行った。けれども、誰ともなじめずに浮いていた。
ある日、一人で泣いていたあたしに声をかけてくれたのだ。
『大丈夫?』
驚いて顔をあげると、そこにいたのは、今まであたしが出会ったどの人よりもかっこいい少年だった。まるでエーゲ海を切り取ってはめ込んだようなエメラルドグリーンの瞳。太陽の光でキラキラと輝いて見える金髪の髪の毛。年齢の割には、しっかりしてそうで凛々しい顔立ち。天使みたいに優しそうな笑顔。
全てがあたしにとっては、眩しかった。
彼は、シルクのハンカチを差し出してきた。
『どうして泣いているの?可愛い目が、涙で台無しだよ』
『だって……。あたし一人ぼっちになったの』
そう言って、泣きじゃくるあたしにウィルは、太陽みたいに温かい笑顔を浮かべた。
『じゃあ、俺が君を守るから、君は俺のものになってくれないか』
『え……』
どういう意味かわからず瞬いた。
『俺は、ウィリアム・カレン。この国の第一王子だ。俺の婚約者になってくれ』
そう言って、ウィルはアイーダの手を取りひざまずいた。
心臓がギュッと締め付けられる感覚がした。
『ええ、もちろんよ』
アイーダは、ためらいもせずその手を取った。
全てを失ったアイーダは、初めて一人じゃないんだと思えた。
第一王子の婚約者となったアイーダを養子にしたがる貴族は、たくさん現れた。アイーダは、将来のウィルの力となれるように、その中で一番権威のある貴族を選び、養子となった。
しかし、義理の両親は、アイーダにドレスや、不自由ない暮らしを与えてくれたが、愛情を与えることはなかった。ウィリアムを始め、自分たちより権力が上の人間には、ペコペコするけれども、格下の人間には、手を差し伸べようとしない非道な人達だった。血のつながらないアイーダよりも、自分たちの本当の子供をかわいがってばかりいた。
アイーダも、自分がウィルの婚約者でなかったら、この人達に捨てられるということはわかっていた。けれども、誰にも弱音を吐くことなく堂々と生きていた。
一番の心の支えは、ウィルだった。ウィルといるだけで、楽しくて心が舞い上がった。心臓がうるさいくらいに暴れた。アイーダの喜びや幸せは、いつもウィルと共にあった。
ウィルを誰にも渡したくなかった。彼に触れた全ての人間に、嫉妬をした。彼が微笑みを向ける相手は、あたしだけであって欲しかった。世界に、あたしをウィルの二人だけだったら、どんなにいいだろうと夢見ていた。
ウィルがあたしに手を差し伸べてくれたのは、きっと同情だったのだ。
それでも、あたしは、ウィルに愛されたかった。あたしを好きだと、愛していると言われたかった。ウィルの心が欲しかった。
もしも、ウィルがあの日、セレナーデに会わなければ……。もしも、ウィルがメリッサに出会わなければ……。あたしを好きになってくれていたのだろうか。
そんなの全部、仮定の話であったが、その続きをたまに考えずにはいられなかった。
でも、結局、ウィルが誰を好きになろうと、誰に何と言われても、純粋に、情熱的にウィルを愛している。あたしは、ウィルに捨てられても……。ウィルがあたしのものじゃなくて、あたしはウィルのものでいたい。魂も、心も、身体も、彼だけに捧げたい。ずっと、ウィルを……。ウィルだけを好きでいたい。ウィルを好きじゃないあたしなんて、あたしじゃない。
きっと、他の人は、こんなあたしをバカにするだろう。でも、他人のちっぽけな価値観なんかじゃあたしは、幸せになれない。世界に35億男がいたって、ウィル以外、意味がない。
誰に嫌われたって、バカにされたって構わない。この気持ちに終わりなんて作らない。永遠がいい。あたしの魂の色は、あたしが決める。
絶対にウィルがあたしにくれたものを失いたくない。
早く見つけないと、風や動物に運ばれて、もっと遠くに行ってしまうかもしれない。
辺りは、刻一刻と暗くなり始めていた。これ以上暗くなると、探すことが難しくなってしまうだろう。
ふと、背後から何かの気配がする。
嫌な予感がして、耳を澄ますと足音が聞こえてきた。
そして、目をランランと輝かせている狼が現れた。体長は、2メートル近くある。
「グるるるるるる……」
威嚇するように睨まれて、息を飲んだ。
「ひぃっ……」
捕まれば、確実に殺されるだろう。恐怖で凍り付きそうになりながらも、足を後ろへと動かす。そして、くるりと背後を向いて走り出した。
死ぬ気で走っていると、すぐに苦しくなりだした。足が痛い。肺が壊れてしまいそうなくらい息が苦しい。
もうだめかもしれない。次の瞬間には、食われているかもしれない。
そう恐怖に飲み込まれそうになりながらも、必死で足を動かす。
けれども、限界が近づいてきたとき、行き止まりがやってきた。目の前には高い崖が広がっていた。
「がるるるるるるるるる……」
背後からは、狼が迫っている。涎を垂らしながら、今にも飛びかかろうとする姿が怖くてたまらなかった。
「ウォオオおおおおおおおおん!」
喜びの雄叫びが近くで聞こえる。
その時、ななめ左からも、もう一匹の狼が出現した。
「ぐるるるるるるるるる……」
そっちの狼からも涎が垂れている。
もうだめだ。こんなの、絶対に逃げきれない。
死を覚悟したあたしの脳内に、これまでの記憶が走馬灯のように流れた。
恥の多い人生だった。
小さい頃から、周りにいる誰よりも性格が悪かった。
いつも心の中は、ひねくれた感情や、悪口で溢れていた。自分が不幸だから、人の不幸も願っていた。 救いようのないクアライ性格が悪い嫌な女の子だった。
自分が心の美しい人間になれない失敗作であることに、本当は、とっくの昔に気がついていた。
だから、醜い感情を隠しながら、笑顔ときれいごとを貼り付け生きてきた。セレナーデに会うまで、誰にも、もう一人の自分なんて見せられなかった。
ずっとひねくれていて、ウィルしか見えなかった。見ようとしなかった。わがままで、傲慢で、自分勝手で……。プライドが高くて、バカで、みんなから嫌われてばかりで……。
他人を見下すことでしか自分の価値を認められなかった。傷つけた人間に、謝ることすらできなかった。いつも言い訳ばかりで……、本当は魅力なんて全然ない嫌な奴で……。それでも、何かを手にしたくて必死に生きてきた。けれども、何一つとして手にすることができたような気がしない。
セレナーデに……ごめんと言えていなかった。
どうして、こんな人間になることしかできなかったんだろう。
後悔したところで、全部、遅いのだけれども……。
アイーダは、全てを諦めてそっと目を閉じた。
これが書きたかった。




