とある少年の話
とある少年の話
俺の母親は、ケバくて、酒癖が悪くて、ろくでもないビッチだった。彼女は、娼婦であったということもあったが、生粋の男好きということもあり客以外の男とも寝ていた。そのせいで、俺を身ごもった時、父親がどんな奴か母親でさえもわからなかった。
母さんは、子供を欲しいとは全く思っていなかったみたいで、俺のことを疎ましく思っていた。俺が大きくなったら働かせて金づるにしようとしていたが、やがて育てるのが面倒くさくなり、俺が7歳になった時に、母親に捨てられた。
あんな母親のことは大嫌いだったくせに、捨てられてみると、自分が何の価値もない人間に思えて、惨めで、悔しくてたまらなかった。
足がすばしこかったから、生きていくために万引きをするようになった。罪悪感を抱えたり、後悔をしたりしたことは、一度もなかった。自分がどんなに悪いことをしても、生きていくために仕方ないことだと思えた。むしろ手に入れたお金を数えながら、こんなに貧富の格差があるなんて不公平だと感じていた。呼吸をするように、パンや、財布を盗んでいた。
ずっと泥水の中を這いずり回るように、卑しい生き方をしていた。こんな人生失敗作だと思っていた。けれども、どうやってやり直したらいいのかすらわからなかった。
万引き生活をしてから、一年くらいがたった。
その日も、ターゲットを探していた。
見つけた。銀髪に、夜明け色の目をした綺麗な青年だ。ぼんやりしているみたいだし、簡単に財布を奪えるだろう。あんなに温かそうなコートを着ているなら、きっとたんまりとお金を持っているだろう。今夜は、手に入れたお金でおいしいものが食べられそうだと期待に胸を弾ませていた。
そっと近づいて行く。
そして、さりげなく通り過ぎる振りをしながら手を伸ばす。
よし、これならいけそうだ。ゲットしたら、ずらかるだけだ。そうほくそ笑んだのに、ガシッと腕を掴まれた。
「何をしようとしている?」
全身の血が凍りつきそうになるほど美しいアメジストの瞳に捉えられた。
必死で振りほどいて逃げようとするがびくともししない。
この出会いが俺の人生の全てを変えた。
* *
セレナーデは、財布を盗もうとした俺を雇ってくれた。
まともな寝床さえなかった俺は、普通の人達と同じように生活するようになった。最初は、同情され、施しを受けたことに見下されているような気がして苛立ちを感じていた。
周りの人間は、育ちがよくて、礼儀正しくしっかりとした人間だったため、自分が異物に思えた。
俺は、痩せっぽちでチビなガキで、誇れるようなものは何にも持っていなくて、口も悪くて、愛想もなくて。思いやりがあるどころか、むしろ他人のお金を奪ってきた卑しい人間で……。生まれも、育ちもろくなもんじゃなくて。
自分がどんなにダメな人間か本当はわかっていた。だから、この住む世界が違う人たちの中で、消えてしまいたいような気持ちだって芽生えたことがある。
けれども、そんな弱気な思いは誰にも吐き出せず、全部隠した。
やがて、そんな俺のもとにアイーダがやってきた。
あいつの印象は最悪だった。
お金持ちの家に生まれて、性格が悪くて、傲慢で、高飛車で、ろくに働かないで育って、底辺の人間を見下しているクズ。俺が一番嫌いな人種だったはずだった。
しかも、噂によると恋敵を苛めていたらしい。ちょっとかわいいからといって、調子に乗っているとしか思えない。
一緒にいても、友情や、感謝、親愛なんてものは、全く生まれなかった。あいつは何だかんだ育ちがよい元貴族、それも第一王子の婚約者であった人だ。
俺とは住む世界が違う人……であるはずだった。
あいつは、性格の悪いクズで、気高さなんてなくて……そんなところが自分に似ているような気がした。
アイーダと当主であるセレナーデは、とても仲がよかった。二人の間には、俺がどんなに努力しても埋まらない深い絆があるのだろう。出会った年月のせいか、俺の知らないアイーダをセレナーデが知っているせいか、セレナーデといるときのアイーダが、俺といる時よりもしっくりくる気がしてしまう。まるで、パズルのピースがぴったりとはまるようにあの二人はお似合いに見えた。
たまにセレナーデと一緒にいるアイーダを見ると、胸が痛くなった。どうして、そんな風に痛くなるのかわからなかった。
これじゃあ、まるで俺がセレナーデに嫉妬をしているみたいだ。いやいや、そんなわけあるはずないって。あんな女を好きになる奴は。悪趣味すぎるだろう。
そんな風に、ふと頭によぎった考えはすぐに否定した。
春が近づいてきた頃、アイーダの帰りがやけに遅かった。
仕事が終わったら、毎日、同じタイミングでご飯を食べているのに、その日、アイーダはいなかった。
あいつ、帰ってくるのがやけに遅くないか。
どこかで仕事をサボっているのだろうか。実は、どこかの男とほっつき歩いているんじゃないのか。あんな奴のこと、心配したりする必要はないはずだ。そうだ。多分、セレナーデと一緒にいるだろう。
だけど、帰りの遅いあいつのことがやけに気になる。誘拐されたんじゃないのか、とか危険な目に会っているんじゃないかなとかつい考えてしまう。
あんなババアを気になるなんて、バカじゃないか。
そうだ。
アイーダなんて、自己中心的で、性格が悪くて、良心なんて欠片も持っていないようなクソ婆だ。仕事もすぐにさぼろうとするし、俺の悪口ばかり言うし、ガミガミうるさいし……。
でも、俺が苛められていた時、助けてくれた。笑った顔は、けっこうかわいい。性格悪いクズだけど、そんなところがおもしろい。口が悪いところは、俺と似ている。別にあいつのことなんて全然、好きじゃないのに。
だけど、あいつといると、楽しんだよな。ありのままの自分でいられて、ありのままの自分を受け入れてもらえて……。
何故かいつもよりも美味しくなく感じられるご飯を機械的に口に運んでいると「エリオット」と話しかけられた。
振り返ると、妖精のように美しい銀髪の男が立っていた。
「何……ですか?」
一応、馴れない敬語を使おうと試みた。
「アイーダがどこにいるか知らないか」
上質なヴァイオリンのように滑らかで透き通るような美声でセレナーデは、問いかけてきた。
「……あんたと一緒にいるんじゃないのか」
「いや、今日は一度も会っていない」
「じゃあ、わからない。昼過ぎ頃、セレナと話しているのを見たけれど」
「そうか。じゃあ、セレナに聞いてみる」
後ろを向いたセレナーデの長くて美しい髪の毛が揺れた。
そんな美しくて、高貴で、かっこいいセレナーデの存在は、ますます何もない自分を惨めにさせた。
玄関で待っていれば、アイーダの居場所のわかったセレナーデがやってくるだろうか。
そんな考えが芽生え、玄関の隅に立っていると、けわしい顔をしたセレナーデがやってきた。
「アイーダの居場所は、わかったのか」
「ああ。七番街の裏路地だ。すぐ行く」
こんな時間になっても帰られないということは、あの近くの崖から落ちているのかもしれない。何やっているんだよ、あのバカ。俺が今から、助けにいかないと。早くしないと、あいつが死んでしまう。
「俺も行く!」
「それは、ダメだ。あそこには、狼もいる。お前が行っても、噛み殺されるだけだ」
「でも……」
それでも、ここで待つだけなんて嫌だ。
「君が行ったところで、何の力にもなれないどころか、足手まといになるだけだ」
セレナーデは、冷たい目をしながら、事実を伝えた。
胸が引き裂かれたように痛い。
彼が正しいことを言っていることをわかっているのに……、いや、だからこそ苦しい。
「だったら……」
そうだ。俺が今できることなんて、頼むことだけだ。
「セレナーデが、あいつを助けてくれ」
ああ。
自分が無力であることが、こんなにも悔しい。セレナーデを頼るしかないことが、悔しくてたまらない。
「もちろんだ。絶対にアイーダを助けると約束しよう」
セレナーデは、そう誓うと風のように去って行った。
きっと、彼はかっこよくアイーダを救い出すだろう。
俺はここで待つことしかできない。
美しくもなくて、優しくもなくて。強くもなれなかった。
そんな自分が、ただひたすら悔しかった。




