くび
しかし、セシルは、なかなかアイーダの思った通りに動かなかった。
エサにも食いつかないし、今まで見てきたようなチェスのパターンと違う動きばかりしていた。
アイーダは、セシルの意図がわからずイライラも募っていた。そんな動きをするなんてバカじゃないの?駒の動かし方もわからないの?だいたい、こんなに早く駒を動かすなんて少しも思考していないんじゃないの?
えへへ。ナイト、もらいっと。
いや、ちょっと待て。今、こいつがあの手に気が付いたら、ヤバいんじゃないか。
「わーい。ビジョップだ」
アイーダは、机をひっくり返したいような衝動に襲われた。額から、一筋の汗が流れ落ちる。
やばい。こいつ、強い。ショタの顔を被った地獄からの使者だと思った方がいい。油断していたら、負ける。慎重に駒を動かしていかないといけない。
次は、どうする?ナイトを動かすか。それとも、ポーン?でも、こっちをこうするとこうなって。早くクイーンを動かさないと取られるって。でも、あっちのナイトをとるチャンスじゃないの?
ていうか、これ以上、あいつのポーンがこちらにきたら、ヤバイ。ポーンが進化してしまったら、厄介だ。とりあえず、クイーンを動かしておくか。雑魚は、取られても、勝つために必要な駒はとられるわけにはいかない。
アイーダは、結局、クイーンを動かした。
「なるほど……。じゃあ、ぼくは、これ」
アイーダは、頭を必死に回転させて考えているのに、セシルは、自分の番が来ると少しも考えることなく駒を動かした。
そのことがアイーダをいらつかせた。
アイーダはじわじわと追い詰められていった。そして、終わりは、あっけなかった。
「チャックメイト」
アイーダの方は、最善の手を常に尽くしていたつもりだった。けれども、セシルの方が2,3枚上手だった。気が付いたら、思ってもみない方法で追い詰められていた。
「あたしの負けだわ」
最初に、油断しなければ、あたしが勝てていたかもしれないのに。いや、でも、こいつは、自分の番が来ると迷うことなく駒を進めていた。あたしよりも、頭の回転が早いことは事実だ。
アイーダは、ギリリと歯を噛みしめた。
「じゃあ、ぼくのおねがい。きいてくれる?」
「お願いって何よ」
新しいおもちゃが欲しいとか、どこかに連れて行って欲しいとかだろうか。
「あの……。そ、その……。おねえちゃんに、キスをしてほしい」
セシルは、両手の人差し指を突き合わせながら、恥ずかしそうにそうお願いしてきた。
生理的嫌悪はないけれど、ガキのくせにませているな。大人がしているのを見て憧れていたのだろうか。
「わかった。じゃあ、今からキスするから目を閉じて」
バーカ。あたしのファ―ストキスをあんたにあげるわけない。あたしのキスは、全てウィルだけのものだから。
アイーダは、目を閉じているセシルにそっと顔を近づけた後、自分の親指をセシルの頬に当てた。どうせキスの感触も知らないガキなんて、これで騙せるだろう。それにしても、何てみずみずしくて柔らかい頬っぺただろう。若さを吸い取りたいな。
「よし、これで約束を果たしたから、もうこの話は終わりね」
けれども、目を開いたセシルは、不満そうな顔をしていた。
「……ちがう。いまのは、キスじゃない」
こいつ、目を閉じていたくせにわかったのかよ。
「気のせいよ。きっと、頭を使いすぎて疲れているのよ。きれいな髪の毛ね」
そう言って、話を反らすように、しゃがみこんでから、セシルの銀髪をポンポンとたたいた。
あー。本当に綺麗な髪の毛。むかつくから、毛根ごと全部引っこ抜きたい。
そう思っていた時のことだった。
「え……」
鼻を心地の良いお花の香りがくすぐった後に、頬にムニュと温かくて柔らかい感触がした。そのぬくもりは、あっという間に離れていったが、妙に生々しい感触は、記憶に残った。
あたし、今、頬にキスされていた……。
びっくりして、気持ちがついて行かれない。まるで、飼い犬に手を噛まれたような気分だ。
非難するようにセシルを見たが、彼は少しも申し訳なさそうな態度をしていなかった。
「やくそくは、まもらないとだめだよ」
セシルは、悪びれもせず小悪魔のようにそう微笑みながら囁いた。
こんな奴、真っ裸にひんむいて、木にくくりつけて、カラスのいじめの対象にしてやりたい。
そう思った時、扉がいきなりバーンと開かれた。
そこにいたのは、セレナーデだった。
「アイーダ・イスタシア。君を淫行罪により、セシルの家庭教師から首にする」
「ええええええええええええええ!」
あたしが淫行罪なんて働いたの?つーか、何であんたは、タイミングよくこんなところにいるのよ。
「ちがう。おねえちゃんは、なにもわるくない」
セシルが必死にアイーダにしがみつく。それをセレナーデが強引に引き離した。
「黙れ、セシル。とにかく、こいつは俺が連行する」
「ちょっと離しなさいよ」
セレナーデは、アイーダの腕を掴んでずるずると連行していった。
アイーダが連れて行かれた場所は、応接間だった。この部屋は、珍しく内側からも鍵をかけられるようになっている。
セレナーデは、ドアに鍵をかけてから、ようやくアイーダの手を離した。
「淫行罪って何よ。あたしは、キスされた被害者よ」
アイーダは、声高らかにそう主張した。
「でも、君にしては珍しく怒らなかったね。それは、セシルに情があるからじゃないか」
「そんなのバカバカしい。セシルとは、賭けをしていたの。チェスで勝ったら何でも言うことが聞くって」
「君が約束を守るなんて驚いたな」
「当たり前よ。あたしは、義理と人情に溢れる女だからね」
「僕は、君が僕と遊ぶ約束を39回破ったことを今でも覚えているけれどな」
子供の頃の出来事を未だに根に持っているなんて、ねちっこくて嫌な男だ。
「ふん。騙される方がバカなのよ。それに、その後、あなたは、貞子のように一緒に遊ぼうって押しかけてきたじゃない」
おかげで私は、ホラー小説の主人公並みに恐ろしい思いをした。
「ああ、そうだっけ」
セレナーデが嫌すぎて、姿を見るだけで、心臓発作が起こりそうになったことを今でも覚えている。あたしは、かわいそうな被害者だったのだ。
「それにしても、どうして、あたしが負けたのかさっぱり理解できないわ」
予定では、あたしがあいつをこてんぱんに叩きのめして土下座をさせていたのに。
「ああ、そりゃ君が負けて当然だ」
「何でよ」
「計算能力に関して、あいつは天才的だ。機械を超えている。数十手先しか読むことのできない人間が勝てるものじゃない。だから、君には、数学の勉強を教えさせなかったんだよ。どうせ君よりはるかにできるだろうからね」
気持ち悪いガキだとアイーダは、心の底から思った。
「で、あたしの次の仕事は何なの?」
「あー。どうしようかな。全くこんなに次々と仕事が変わるなんて、どうしようもないな」
セレナーデは、頭に手を当てながら呆れたようにため息とついた。
「あたしを首になって転職してばかりのダメサラリーマンみたいに言わないで」
「ダメリーマンでも、もう少し長期間働いているだろう」
「だいたい、あたしが首になったのは、全部、あたしのせいじゃないわ。あなたがいろいろと難癖をつけているだけじゃない」
「こういう人間は、同じ過ちを繰り返さないか心配だな」
そう言ったセレナーデは、人差し指を顎に当てながら考えた後、何かをひらめいたように手を叩いた。そして、とんでもないことを言ってのけた。
「君には、これから農場の仕事を与える」
「何ですって!!」
アイーダは、眉を吊り上げた。
「あなたは、あたしのことをなんて思っているの?かよわいレディなの。守るべき存在なの。そのあたしが、農作業なんて役割分担がおかしいじゃない」
農作業なんてしたら、白い肌が日に焼けて、虫に刺されて、ひどい目にあうに決まっている。
「ほら、もっと別の何かがあるでしょう。そうだ、厨房なんてどう?あたしは、料理が上手くなるし、あなたも厨房の人間一人を首にできるし、一石二鳥でしょう」
「君を厨房で働かせるなんて、うさぎの群れに、恐竜を放り込むようなものだ」
「お黙りなさい。それ以上、ひどいことを言ったら、あんたの歯を全部引っこ抜いてやるわ」
こいつなんて、ふがふがとしかしゃべれないおじいちゃんのようになればいい。
「だいたい君を何かの群れに放り込んだら、戦争が勃発するだろう」
「あたしを火薬庫みたいに言わないで。あたしの繊細な心に激しいダメージを受けた罰として、慰謝料一億円を請求します」
「安心しろ。君の心は、きっとダイヤモンドみたいに固いから、ちっとも傷ついていないはずだ」
「でも、あたしみたいなかよわい美少女に外で働くなんて無理よ」
「残念ながら、僕は、今まで君以上にたくましい生命体に出会ったことがない。君がどんな言い訳をしたところで、心を動かされたりしない」
「この人でなし!悪魔!あなたなんて、魔女として火あぶりになり『助けてくれー』と泣き叫びながら、処刑されてしまえばいいんだわ。雪山で遭難して一人孤独死もあなたにふさわしいラストかもしれない。とにかく、できる限り痛い思いをしながら、死ねばいい」
「雇い主にそんな暴言がはけるのは、君くらいだろうね」
「……」
「でも、まあ君が頼むなら、農場の仕事を辞めて愛人にしてあげてもいいけれど」
「愛人ですって」
「君の腐った人参のような性格はともかく、その豊満な肉体はなかなか魅力的だ。ぜひ一度味わってみたい」
「お黙りなさい、この豚が。ブヒブヒと醜い声を出すのは、いい加減になさい。このあたしを誰だと思っているの?この星の奇跡よ!一億光年に一人の美少女よ。宇宙一美しい存在なの。それを愛人ですって。そんな寝言は、死んでから言えええええええええええ!あなたの愛人になるくらいなら、畑を耕した方が何千倍もましだわ」
「よし、それなら君の仕事は、農作業などをしているエリオットの手伝いだ。冬の間は、雪かき、雑用などもやってもらう。まずは、さっそくエリオットを紹介しよう」
何か上手く丸め込まれたような気もするが、しょうがない。
次は、私の大好きなキャラクターの登場です。




