チェス
その日の夜、セレナーデは「僕の弟は、かっこよくてかわいいだろう」と自慢してきた。
けっ。そのドヤ顔がムカつく。セシルに、何か欠点とかなかっただろうか。
考えてみた結果、一つ思い当たるところが浮かんだ。
アイーダはさっそく「残念ながら、あなたの弟は、発達障害である疑いがあるわ。7歳であんな言葉遣いが子供っぽいなんておかしいわ」と報告をした。
「君の場合は、その年齢でも無駄に語彙力がありそうだな。例えば、悪口とか、暴言とか、罵り言葉とか」
「失礼ね。あの頃のあたしは、純粋無垢だったわ。まるで、雪が振ったばかりの美しい大地のように綺麗な心をしていたのよ」
そう。あたしの心は今でも美しいけれども、あの頃は天使そのものだった。
「絶対に嘘だな」
意地悪なセレナーデは、アイーダの言葉をバッサリと否定した。
「だいたい、あなたに出会ったせいで、あたしの性格が悪くなり始めたのよ」
「それは、光栄だね」
そう言って、セレナーデは、アイーダの殺意に満ちた視線をかわすように肩をすくめた。
「まあ、ともかくセシルが発達障害ではないだろう。今まで周りにいる人間が甘やかし続け、人見知り、トラウマが作用した結果、ちょっと子供っぽくなりすぎただけだ。あいつは、むしろ神童だ。文字の読み書き、計算ができるどころか、もうすでに大人並み、いやそれ以上の頭脳を持っている。あんなに頭がいい7歳児は、僕以外他にいなかっただろう」
「さらりと自慢しないで」
ふいに、アイーダに影が落ちた。理由は、セレナーデが近づいてきたからだった。
「セシルのことをかわいいとか思わなかった?」
アメジスト色の瞳は、反らすことを許さないというようにアイーダを捉えていた。
「思うわけない。あたしは、年下のくせに調子こいているんじゃねーよとむかついたことは、何百回とあっても、自分より年下の人間をかわいいと思ったことは一度もない」
あたしが心の底から、かわいいと思ったのは、ウィルの笑顔と鏡に写った自分だけだ。
「それは、君らしいな。だけど、君がセシルに惹かれないか不安なんだよ」
セレナーデは、珍しく弱気な声を出した。
「そんな寝言は、死んでから言ってちょうだい」
「それを聞いて安心したよ」
「でも、まあ、あなたが小さかった時よりもかわいいわね」
「いや、僕の方がかわいかっただろう」
「何言っているの?あなたには、可愛げが全くなかったわ」
「そんなことないから」
二人の視線の間には、火花でも散っているかのように、激しく睨みあう。
「だいだい、あなたは、あの時、背後霊のようにあたしにつきまとってばかりだったじゃない。ホラー小説みたいで怖くてたまらなかったわ。それに比べればセシルはましよ」
「何を言っているんだ。僕は、君を守る騎士のようだったじゃないか」
「あなた、ゾンビに追い掛け回されたことがある?あたしの心境は、まさにそれだったわ」
「恐怖ドキドキと恋愛のドキドキを勘違いしているんじゃないのか」
アイーダが、何か言えばセレナーデがすぐに反論してくる。二人の嵐のように激しい喧嘩は、平行線をたどりいつまでも終わりそうになかった。
朝起きて、軽くパンを食べて、洗濯をし終わると、今日もアイーダの仕事が始まる。
これからあのマドレーヌのように甘ったれた貴族の面倒を見ると思うと、まるで戦場に無理やり連れて行かれるような気分になった。
「え……。何その恰好」
セシルの部屋につくなり、アイーダは絶句した。
うさぎの耳がついたフードを着ている。
「おとうさまがたんじょうびぷれぜんとにかってくれたの。かわいいでしょう」
セシルは、自慢げにそう言った。
「そんなの男の子が着るのは、気持ち悪いからやめなさい」
それを聞いたセシルは、シュンと元気をなくした。
「おねえちゃんは、ぼくのことがきらいなの?」
よし、どこかの国の雪の女王みたいに、ありのままの姿になるのだ。
「はい、だいきらいです」
アイーダは、素直に答えた。
「どうして?ぼく、おねえちゃんのことがこんなにすきなのに」
セシルは、今にも泣きだしそうに顔を曇らせた。こいつが泣くと面倒くさいことになると判断したアイーダは、「さっきのは、冗談だから気にしないで」と意見を翻した。
それを聞いたセシルは、パッチリとした人形のような目を瞬かせた。さっきまで生気がなかった瞳は、星をはめ込んだようにキラキラと輝いている。子供のくせに、睫毛が長い。全部ぶちっと引っこ抜いてしまいたい。
「よかった」
セシルは、ほっとため息をついた。そして、顔を咲き始めた花のようにほころばせた。それを見たアイーダの脳裏にある動物がよぎった。
「あなた、犬みたいね」
「い、いぬ!」
彼は、青い目をまん丸にした。
「尻尾が生えていないのが不思議なくらいだよ。まるでパトラッシュだ」
「……おねえちゃんは、いぬはすき?」
「あんなうるさい生き物好きなわけないわ」
それを聞いたセシルは、顔を曇らせた。
「おとなしい犬だっているのに」
「うーん。私は、犬より猫派よ。さあ、勉強を始めるわよ」
今日こそは、もう嫌だと言わせるくらい難しい問題を出してやるわ。
そう意気込んでいたが、最初に根をあげそうになったのは、アイーダだった。
セシルは、アイーダが用意したテスト、課題をあっという間に終わらせてしまった。それ以上難しい問題を出そうとしても、アイーダに答えがわからない。
「もう今日の予定が終わってしまったわ。どうしようかしら」
あたしのすることがない。これで、もう退出したら、あたしが仕事をサボったように思われるのだろうか。これから、どうやって時間を潰そう。
「じゃあ、せんせい、ゲームがしたい」
セシルは、青空のように透き通る瞳をキラキラと輝かせた。
「何のゲーム?」
ガキのゲームか。いったいどんなくだらないものにつき合わせられるんだろう。トランプゲームだろうか。おままごととかは、勘弁して欲しい。
「ぼく、おうさまゲームがしたい」
「え?何だって?」
アイーダの口がポカンと開いた。
「だめ?」
セシルは、あざとそうに上目遣いをしながらそう聞いてきた。セシルは、何故か頬を染め上目遣いで甘ったれた声をしながらそう言った。
うわー。何こいつ、めちゃくちゃあざとい。きっと腹の中では世の中は何でも思い通りになるとか、勘違いしているんだろう。こういう人間、大嫌いだわ。
「いや、ダメも何も王様ゲームなんて二人じゃできないよ」
そんなことをしたら、ただの命令ごっこになってしまうだろう。
「だったら、チェスはどう?」
ふっ。勝ったな。
アイーダは、こう見えて、町で一番チェスが上手いと言われるほど、チェスが強かった。こういうボードゲームは、得意なのである。今まで、アイーダに勝ったことがあるのは、セレナーデだけだった。まあ、セレナーデに向けたのは、大昔の話だ。今なら、あいつと再戦したら、ボコボコにしてあげられるに決まっている。
そんなアイーダが、こんなガキに勝つくらい楽勝すぎる。
「いいわね」
あんたが、この先、チェスを見る度にトラウマが蘇るくらいボコボコにしてやるわ。短時間で追い詰めて圧倒的な力を見せつけのもいいし、じわじわと首を絞めていくように少しずつ追い詰めていくのもいいかもしれない。
「おねぇちゃんがかったら、なんでもいうことをきくよ。だけど、ぼくがかったら、なんでもいうことをきいてくれる?」
「いいわよ」
アイーダは、不敵に微笑んだ。
このあたしを誰だと思っている?あなたを、こてんぱんに叩きのめして奴隷にしてあげるわ。
まず初めに、クイーンを奪ってやろうかしら。とりあえず、ポーンを餌にさせれば、バカはすぐに食いつくだろう。
アイーダは、悪魔のような笑顔を浮かべた。




