流れ寄る
「あっ、ごめーん。これもお願ーい」
歌うような言葉と一緒に、私の腕の上へさらに数冊、無造作に重ねられた。薄いドリルとはいえ、さすがにちょっとよろめく。なんとかバランスを取り、私は笑みを作った。
「うん……わかった」
「ありがとー」
ヤマモトさんはヒラヒラと手を振り、廊下を曲がってどこかへ行った。
自習時間の課題を職員室へ持って行くのは日直の仕事だ。
私は今日の日直だから、そのこと自体は別にいい。だけど私だけが日直なんじゃなくて、ヤマモトさんも日直なんだけど。
心の中でだけそうつぶやき、私は表情を消す。
息をついてドリルの山を持ち直す。
ごめーん。ありがとー。
どうしてみんな、あんなに気楽に『ごめん』とか『ありがとう』とかが言えるのだろう?そんなことをぼんやり考えながら、私はゆっくり階段を降りた。
ドリルの山を数学のカドタ先生の机に置き、教室へ戻ろうとした時。
出入口近くのキャビネットの上にあるブックエンドに、うちのクラスの学級日誌が立て掛けられたままになっているのに気が付いた。
(ああ……)
ため息が出そうになったけど、わかっていたような気もする。
ヤマモトさんが前回の約束を覚えている訳ないことくらい、いや覚えていても無視するだろうことくらい。
私はあきらめた。学級日誌を取り上げる。
(ギリギリお昼前に気付いて良かった)
お昼休みに書けばいいんだし。不幸中の幸いだけを、私は見ることにした。
お弁当を食べ終わった後、私は日誌を書く。
一時間目・国語。二時間目・英語。三時間目・体育。四時間目・数学。
(数学は自習。ドリルの8Pと9Pが課題)
日誌を書いていると、ななめ前の席のサトウさんが振り向いた。
「なに、またヤマダさんが日誌書いてんの?」
サトウさんはちょっと眉を寄せる。
「ヤマモトにやらせなよ。ヤマモトー」
いつものメンバーできゃあきゃあやってるヤマモトさんへ、サトウさんは声を張る。
「たまには学級日誌くらい書きなよー。前もその前もヤマダさんにまかせっぱなしじゃん」
「あー、ごめんごめーん」
ヤマモトさんはちょっとだけ済まなさそうな顔をする。
「つい忘れちゃってさあ。日誌ってウザいし」
『ウザい』のひとことで軽やかに仕事をほうり出す彼女が、いっそ清々しい気がした。
「いいよ、私が書いとくから」
私がそう言うと、ヤマモトさんはにこにこした。
「やった、ラッキー。さっすがヤマダっち。恩にきるー。次こそマジで私が書くからねー」
どうせ果たされない約束だろうけど、私は笑って、うんお願いと答えておいた。
サトウさんが冷たい目をしたのがちょっと気になったけど、気付かないふりで日誌の続きを書く。
六時間目も終わった。
最後に教室の鍵をかけ、学級日誌と一緒に職員室へ持ってゆく。
冬服に衣替えになってそろそろ二週間。
日が短くなってきた。
斜めから差すオレンジ色の光の中、私は正門をくぐる。
いつもの三叉路で、私はふと立ち止まった。
急に、いつもと反対の道へ行きたくなった。
思えばもう何年もそちらへは行ってない。ふらっ、と一歩踏み出す。
途端に、胃がせりあがってくるような感覚。
大きく息をつく。
じわ、と額に汗が浮いた。
行く必要はない。必要はない。必要はない。
うわ言のように心の中で繰り返しながらも、私は何故かふらふらと、いつもとは逆の道を進み始めた。
こちらの道の先には公園がある。
この辺で一番新しくて綺麗な公園だ。
古くからある運河沿いに、十年くらい前に作られた。
入り口に近い方には幼児向けの可愛らしい遊具が、そこからちょっと奥にアスレチックっぽい難易度の高い遊具がある。
桜やさつき、くちなしやモクセイなんかが適当に植えられている、ウォーキングのコースもある。
私も小学生の低学年までは、ここで友達とよく遊んだ。
遊具を使って立体的に逃げ回る鬼ごっこが、そう言えばその頃、よく流行っていた。
横目でチラッと遊具を見て、私は足早に公園を斜めに横切ってゆく。七年振りに見た遊具は、私が覚えているよりも小さくて薄汚れているような気がした。
風に乗って水のにおいがする。
運河だ。
一瞬足がこわばったけれど、動けなくなるほどでもなかった。私はもうひとつ大きく息をつき、運河へ近付く。
運河の雰囲気自体はあまり変わらない。
流れに沿ってある柵の、ペンキが塗り替えられたくらいだろうか?
知らず知らずの内に乱れる呼吸をなだめ、私は、そろそろと柵へ近付いて覗き込んだ。
黒っぽいような茶色っぽいような緩やかな流れは、止まっているようにさえ見える。
投げやりな感じに岸に積まれたテトラポッドに、コンビニの袋やペットボトル、小枝や葉っぱなんかが流れ寄って貼りついていたりするのも変わらない。
突然生臭いような嫌なにおいがムッと上がってきて、私は反射的に口元を押さえた。
(……コウちゃん)
こらえた吐き気のせいでにじむ視界の中、私は、弟の名前を胸で呟いた。
七年前、私は小学二年生だった。
三歳になる弟と両親の、四人家族だった。
弟は可愛い盛り、だった。大人たちがよくそう言っていた。実際、可愛いなと思う時が私にもあった。
おねえちゃんおねえちゃんと私を追いかけ、ちょこちょこ走っている姿は子犬みたいな感じがして確かに可愛かった、煩わしくもあったけど。
私が学校から帰るのを、コウは手ぐすねを引いているような感じで待っていた。
玄関を開けると、それこそ犬の子のように走り寄ってくる。
動物モノのバラエティ番組なんかでちょいちょい見た『帰宅したご主人様を出迎える飼い犬』の映像を、私はよく連想した。
遊ぼう遊ぼうとまとわりついてくるけれど、私は小学生だ。宿題は毎日あるし、友達と遊ぶ約束だってたまにはある。一日ヒマにしている幼児の相手ばっかり、正直な話、していられない。
宿題、と言うとさすがにコウは少し遠慮した。この時ばかりはお母さんも、おねえちゃんのお勉強の邪魔はしないの、とたしなめるからだ。
何度もそれが繰り返され、シュクダイ、と言われる時は遊んでもらえないとコウは悟ったらしい。学習机の周りをうろつきながら、コウは私が『シュクダイ』を終わらせるのをおあずけをされた子犬のように待った。
漢字の書き取りをしながらそんな弟の様子を横目で見、私は内心ため息をついた。うっとうしいなと思った。
そこまでして私と遊びたいコウが、可愛くなくはなかったけれど……小二の女の子が、アンゼンマンの『それいけ!コロコロパーク』なんかやりたくなくて当然だ。それでも付き合わない訳にもいかなかった。
おねえちゃんは女の子だから、シグナちゃんとコグナちゃんを貸してあげる、と恩着せがましく貸してくれるプラスチックの楕円のボールを、プラスチックのコースに乗せて転がしながら私はうんざりしていた。
『コロコロパーク』っておもちゃは要するに、プラスチック製のコースにキャラクターを模した楕円のボールを転がして遊ぶ、ただそれだけのおもちゃなんだけど……コウはこういう、単純な動きがエンエンと続くおもちゃが大好きだった。
私は退屈だった。
これのどこが楽しいのか、私にはさっぱりわからなかった。
せめて妹だったらなあ、とたまに思った。おままごとやお人形遊びだったら、私ももう少し楽しく遊んであげられたのに。
「おねえちゃんの番だよ」
はいはい。あーあ。
だから『その日』も、コウは私を待っていた。
玄関を開けるといつもの通り飛んできた。
でも私は友達と公園で遊ぶ約束をしていた。
お約束があるからダメと言ったら、コウは、どっか行くならコウも一緒に行くと言い張った。
お母さんはただ笑っていた。
あの時ちゃんときつく止めていたら良かった、と、繰り返しお母さんは悔やむことになるんだけれど、その時は知らなかったんだから仕方がない。
甘ったれた泣き声を後ろに聞きながら、私は半ば強引に家を出た。ホッとした気持ちが半分、遊んであげられなくて後ろめたい気持ちが半分だった。
でも……考えてみたら。
どうして私が後ろめたくならなきゃならないの?とも思った。
私は別に、『コウのおねえちゃん』になりたくてなった訳じゃない。
コウが生まれたから仕方なく、押し出されるみたいに『おねえちゃん』になってしまっただけだ。
もっといえば、私の方こそ『おねえちゃん』が欲しかった。
小さい頃近所に、おねえちゃんのいる友達がいたことがあるけど、すごく羨ましかった。
私もおねえちゃんが欲しい、と言って両親を困らせたものだったけれど、弟が欲しいなんて一度だって言った覚えはない。
「……おねえちゃーん」
後ろでコウの小さい声が聞こえたような気がした。立ち止まり、振り返り、耳を澄ませてみたけれど。
それきり、何も聞こえてこなかった。
夕方になって家へ帰り、私がコウを連れてないのを知ってお母さんは青ざめた。
私と一緒だと思い込んでいたらしい。
お母さんは外へ走り出て……、結局その日は晩ごはんがナシになった。それどころではない大騒ぎになったからだ。
「コウが靴をはいて走り出て……私はその時ベランダで洗濯物を取り込んでて……おねえちゃーんって呼ぶコウの声に、おねえちゃんは立ち止まって振り向いて……コウが走っていく姿が見えたけど、立ち止まったおねえちゃんが待っててくれてるみたいだから、一緒に遊んでくれるんだなって思って……」
お母さんは言った。
何度も何度も。
壊れたおしゃべり人形みたいにおんなじことを、何度も何度も何度も。
何故お前がちゃんとコウを見ていなかった!
最初の頃、お父さんはそう言ってお母さんを責めた。
でもすぐ責めるのをやめた。
壊れたおしゃべり人形みたいになったお母さんは、お父さんに責められるよりずっと前に、ずっと強く激しく自分を責めているのに気付いたからだ。
持って行き場のない感情を、お父さんはぎゅっと噛みしめ、無理矢理飲み下した。
コウのいなくなったいやにガランとしてしまった家の片隅に、私はポツンといた。
一、二度、お母さんはああ言ってるけどおねえちゃんはコウを見なかったのかとお父さんに訊かれた。
コウに呼ばれたような気がして、立ち止まって待ったけどコウは来なかった、と私は答えた。本当にそうだったからからそれ以上は答えようもなかった。
お父さんは私にも、何故ちゃんとコウを見ていなかったんだおねえちゃんなのにと言いたそうな顔をした。
したけれど、言っても仕方がないと悟ったらしい。
言葉と感情をバリバリと噛み砕き、やっぱり無理矢理飲み下した。
結局コウは見付からなかった。
ただ、コウがはいていた靴が片方だけ、運河のテトラポッドの陰に流れ寄って浮いていたのを、翌朝警察の誰かが見付けてくれた。
内側に名前が書かれた、コウが好きなアンゼンマンのイラストがついた靴だった。屈託なく笑う正義の味方の笑顔は泥水に汚れ、何だか泣いているようにも見えた。
運河で靴が見付かったということは、コウは運河へ行った可能性が高いということになる。
そして……運河に落ちた、可能性が高い。
警察は運河の底も捜し始めた。
だけど見付からなかった。
私が友達と遊ぶ約束をした公園は、この、運河の岸沿いにある公園だ。
ここへはコウも、お母さんに連れられてよちよち歩きの頃からしょっちゅう遊びに来ている。
この近所の子供だったら、公園と聞いたら真っ先に思い浮かぶ場所がここだ。
ただ、運河の岸には大人の腰より高い柵がある。
どうやってコウみたいな小さな子が柵を越えたのかがわからない。もしかするとコウを連れ去った悪い大人が、靴だけ運河へ投げ入れたのかもしれない。
警察もそう考え、周辺を捜査したようだけれど結局手がかりは見付からずじまいだった。
アンゼンマンの靴を片方だけ残し、コウは忽然と消えた。
靴が見付かって丸一日経った頃、壊れたおしゃべり人形みたいだったお母さんと、誰かを責めたいのに誰も責められずむっつりしていたお父さんはようやく、もう一人の子供のことを思い出した。
私はあの日の夕方以来、部屋の隅にひっそり座り、お父さんが合間を見てコンビニで買ってくるおにぎりや菓子パンなんかをもそもそと食べていた。
どうしたらいいのか全くわからず、ただひっそりと小さくなっていた。
学校へ行くべきだろうけど行きたい気はしなかったし、行っていいのかどうかも判断できなかった。
壊れたお人形のようなお母さんも、荒れ狂う塊を無理に飲み下したせいで目が血走っているお父さんも、私は怖かった。
私は出来るだけ二人の視界に入らないよう、息を殺すような感じでじっとしていた。
警察の人や近所の人などが、入れ替わり立ち替わり数時間おきに訪ねてくる。壊れたおしゃべり人形みたいになったお母さんでは対処できないので、お父さんが応対していた。
その間、私はちょっとだけ身体の力を抜くことが出来た。
お父さんがよその人と話をしている間にお母さんから見えない場所へ行けば、私は怖い両親から少しだけ自由になれる。いつも枕元に置いているくまのぬいぐるみを抱え、部屋の隅でうとうと眠ったりもした。
そうこうしているうち、私は突然吐いた。
自分でもびっくりした。
吐くほど沢山食べていなかったのに、あれあれ?とあきれるくらい胃の中のものが全部出てきた。
変な物音と気配にまずお父さんが、お父さんの叫びを聞きつけてお母さんがのろのろとやって来た。そして両親は我に返ったように私の世話をし始めた。
私はしばらく物がうまく食べられなくなった。水を飲んでさえ戻すようになり、ちょっと入院もした。
入院し、私の症状が落ち着いてきた頃。
いつもの雰囲気に近くなった両親がそろって私のベッドの枕辺にきた。ふたりはお互い、いっぱい話をし……気持ちを落ち着かせたみたいだった。
まずふたりは私に、ごめんねと謝った。コウがいなくなって辛いのはおねえちゃんだって同じなのに、気遣ってあげられなくてごめんねと謝った。そして……ふたりで話し合って決めたことを私へ伝えた。
コウは見付かっていないのだから、生きているのか死んでいるのかわからない。
わからないのだから、何処かで生きていると信じて待っていよう。
少なくともコウが十歳のお誕生日を迎えるまでは、何処かで生きて元気にしていると信じて待っていよう。
地域の人にも協力してもらえるよう、ビラを配るなど考えられる限りのことをしよう。
リビングにコウの為の場所を作り、ご飯やオヤツも一緒に食べるつもりでいよう。
季節ごとに新しい服も用意しよう。
そうやって、家族みんなでコウを待っていよう。
私はただ、こくんと頷いた。
退院して家へ戻った。
リビングの一角、ローボードの上が綺麗に片付けられ、コウのスナップ写真や家族皆で撮った写真なんかを貼ったコルクボードと、あの子が大好きだった『コロコロパーク』の一式が飾るように乗せられていた。
オヤツによく食べてたバナナも一房、あった。
「……ただいま、コウちゃん」
小声で私は、笑っているコウの写真へ挨拶した。
奇妙に静かな、それでも『日常』と呼べるものが少しずつ我が家へ戻ってきた。
コウの為の場所には三度の食事とオヤツが欠かさず置かれた。陰膳、というのだと後で知った。
お誕生日には小さいホールケーキが買われ、歳の数だけロウソクがともされた。主役のいないハッピーバースデイが小声で歌われ……私が代わりにロウソクの火を吹き消した。
お母さんは季節が変わる度、私の服と一緒にコウの為の服も一揃い、買った。服のサイズが大きくなる度、いなくなった頃の三歳の服と比べて、コウちゃん大きくなったねと呟くのが癖だった。
お父さんは七歳の誕生日、野球のボールと子供用のグローブを買ってきた。小学生になったコウとキャッチボールをするのが、コウが生まれた時からのお父さんの夢、だったらしい。
キャッチボールしような、とお父さんは、そっとコウの写真に話しかけていた。
退院後しばらくして、私は普通に学校へ通うようになった。
学校で私は、出来るだけ目立たないよう、そして自分の気持ちより相手の気持ちにそうように心掛けている。
柵にもたれ、私はぼんやり運河の水面を見ていた。そのまま視線を川下へすべらせる。
川下の先は、海。
ここからはちょっと遠いけど、向こうに水平線がかすかに見える。水に乗って進んで行けば、海は案外近いのかもしれない。
そう言えば、学校帰りにここへ寄ってからもうずいぶん経ったのかもしれない。夕闇が迫ってきた。
不思議な話だけれど、こうしてぼんやり水面を見ているとどういう訳か水の中へすべりこみたくなってくる。
お世辞にも綺麗とは言えない、澱んだ生臭い水が流れているだけの運河なのに、水が優しく私を呼んでいるような気がした。
水の中に何故か、とても優しくて安らかな世界があるような気がして仕方がない。
ここの運河の水は汚い、とか、私は泳ぎが得意じゃない、とか、そういう理屈や理性をすっとばし、ただただ柔らかく水の中へ溶け込んでしまいたくなる。
無造作に水へ入れば息が出来なくなって、最悪死んでしまうことくらいわかっている。
別に死にたくはない。
でも、じゃあ生きていたいのだろうかとちょっと真面目に考えてみると、今の私にはよくわからなかった。
ごめんねー。ありがとー。
ふと、ヤマモトさんの軽い調子を思い出す。
続いてサトウさんの冷たい目も。
ヤマモトさんはともかく、サトウさんが私の為を思って言ってくれたのはわかる。
嬉しかったし、有り難いとも思う。
でもあの後、ヤマダさんのそういう態度って、はっきり言ってウザいんだけど?って、サトウさんに言われてしまった。
すぐに私は彼女へ、気にかけてくれたのにごめんねと謝った、無視されてしまったけれど。
私は、ヤマモトさんにしろサトウさんにしろ、幸せなんだなあ幼いんだなあ、ってつくづく思い、がっくり脱力する。
この子達はきっと、ごめんやありがとうが届かなくなる人がいることを知らない。
冷たく突き放した人が、永遠に自分の前からいなくなることも知らない。
当然、駅前広場やショッピングモールで見知らぬ人に頭を下げて尋ね人のビラを渡す、身体の深いところが折れてぼろぼろに砕けるような、言い様のない疲れを知らない。
ビラを受け取った人からあたたかい同情の言葉をかけられることもあるけれど、時には心ない冷たい言葉を浴びせられることもある。
『要は、親とか家族の不注意だろ』
『もう生きてないよ』
『かわいそうに、本当は虐待されてたんじゃないの、この男の子』
ビラ配りの後、お母さんは決まって寝込む。
柵に寄りかかり、私は水面を見つめる。
『コウが十歳のお誕生日を迎えるまで』
最初、両親は病室の私へそう言った。
昨日がその『十歳のお誕生日』だった。
いつも通り、小さなホールケーキにロウソクを立てた。小さなケーキに十本のロウソクは窮屈だったけど、なんとか飾れた。
火を灯しハッピーバースデイを歌い、例年通り私がロウソクを吹き消した。
お父さんがロウソクを取りのけ、お母さんがケーキを四等分する。
「そろそろ……コウとお別れすることを考えようか?」
「そう、ね……」
ふたりは静かにそう言った。前から決まっていた事柄のようだった。
私はポカンと両親の顔を見た。意味がよくわからなかった。
両親は哀しそうに苦笑いし、後は黙ってケーキを食べた。
ロウソクの跡だらけの四分の一のケーキは、いつも通りコウの写真の前に置かれた。
柵に寄りかかり、私はぼんやりと水面を見つめ続けている。
行方がわからなくなって七年経ったら『失踪宣告』というものが出来るらしいということを、最近私は知った。
コウのことを死んだと『みなす』つもりなのだろうか?両親は。
コウが私達の前から消えたのは、三歳のお誕生日を祝ってから一か月ちょっとの頃だった。
だから後一か月ちょっとで、コウがいなくなってから丸七年になる。
コウは多分、生きていない。
運河で靴が見付かった時から、私達家族は無言の内にそう思っている。確信に近いかもしれない。
でも今まで、あえてそれを認めようとはしてこなかった。
悪い人に連れ去られ、ひどい目にあっているコウを想像するのは、運河に沈むコウを想像するより辛かったけど……でも。それでも。
生きていてくれさえしたら、また会える。
そこにすがっていたかったのだろう、私達は。
七年は長い。
コウのことを忘れた日はないけれど、私達家族でさえ、コウのいない日常に慣れてしまった。小さな男の子がちょこちょこと家の中を走り回っていたリアルな感覚が、少なくとも私は上手く思い出せない。
家族以外の人にとってはなおさらだろう。
三歳のある日、忽然と消えた小さな男の子を、近所の人達は今でも覚えているだろう。覚えて、痛ましいと思っているだろう。
だけど……多分。ただそれだけ、だ。
コウがいなくなってから越してきた人も、この近所には結構いる。コウのことは当時、ちょっとはニュースになったから、ああ、あの……とかは思うだろうけど、当然ピンとくる訳はない。
ヤマダさんのお宅の子供は、中学生の女の子がひとり。
その女の子の下に、小さい頃に行方不明になった男の子がいたらしい。
多分近くの運河にはまって亡くなったのだろう、遺体は上がらなかったらしいけど。
かわいそうに。お気の毒に。……おわり。
そうなって当然なのは私にもわかるけど、あまりにもあっさりとまとめられるだろう話に、脱力して笑いたくなる。
私は水面を見つめ続けている。
知らず知らずのうちに身を乗り出し過ぎていたのだろうか?
がく、と身体が傾ぎ、一瞬ひやりとした。ひやりとしたけど、落ちても別にいいかとも、心の何処かで思っていた。
もし運河へ落ち、身体の全部がゆるゆると水の中に溶け、最後に水とひとつになってしまえるのならば。
きっともう、こんな重苦しい思いはしなくてもいい。
「今日は大潮なんだよ、おねえちゃん」
突然思いがけないくらい近くから、聞き覚えのない男の子の声が話しかけてきた。
驚いて目をあげるとすぐそばに、夕闇の中で白っぽく浮かび上がる影があった。
よく見ると小学生くらいの少年だった。
ずいぶんと親しそうに、満面の笑みを浮かべて立っている。
いやに馴々しい。ずっと前からの知り合いみたいではないか。
呆気にとられている私を尻目に彼は、当たり前のような堂々とした態度で私の隣へ来た。
そして柵にもたれ、さっきまでの私のように水面を見下ろす。
「だからすっごく、水が多いでしょ?」
「そう?」
「そうだよ。見てわかんない?」
……誰?この子。
私は横目を使って少年を観察した。
薄闇の中に浮かび上がるのは、白と紺と水色の太めのボーダーに錨やヨットの絵が散りばめられた、やや厚手の真新しい長袖シャツ。
同じく真新しそうなブルージーンズ地のハーフパンツ。
面ファスナーで留めるタイプの、派手なデザインのスニーカー。
どれも真新しい、のがちょっと珍しかった。
小学生の男の子の普段着なんて、洗濯しすぎでヨレヨレ、靴もドロドロのヨレヨレなのが普通だろうから。
ただ、カットしてからずいぶん経ったらしい無造作に長く伸びた髪が、真新しい服装とは何だかアンバランスな気がした。
顔は結構可愛らしい。柴犬の子供って感じの、凛々しい可愛らしさだ。
「見てわかんないって……わかんないよ。運河の方へなんか滅多に来ないんだもん」
こんな変な子、別に無視してたらいいんだろうけど、ついついまともに答えてしまう。私のいつもの癖だ。
えー、と少年は言う。
「来なくたってわかるじゃん。水際見たら」
彼は指差す。
「テトラポッドの水際。苔とか、全然生えてないでしょ?つまり普段は滅多に濡れないってこと。濡れないってことは、水がここまで来ることはほどんど無いってことじゃん」
……なるほど。でも、だから何?
「おねえちゃん、理科、嫌いでしょ?」
「ほっといてよ」
素っ気なく言ってやったけど、鈍いのか少年は、ちっともこたえていない様子だ。
「大潮の時はね、うんと満ちて、うんと引くんだよ。びっくりするくらい差があるんだよ。知ってる?」
「知らない。ボクはよく知ってるんだねー」
適当におだてると、少年は得意そうに小鼻をふくらませた。
「まあね。オレ、海で暮らしてるし」
ああ……なるほど。この子、この辺の子じゃないんだ。
私は思った。
普段は海辺の町で暮らしていて、ここへは例えば、親戚の家へ遊びに来たとかそんな感じなんだ。
だから真新しい服を着ているのかもしれない、よそ行き感覚で。
やたら馴々しいのも、町ぐるみで濃厚な付き合いのある田舎町だったら、これが他人へ対する普通の態度なのかもしれないし。
「だから大潮の時はアブナイんだよ。川岸に流れ寄る間もなく海まで持っていかれちゃうからね。いや、海も悪くないよ、色々面白いこともあるし。オレはキライじゃないけどさあ、おねえちゃんは退屈しちゃうんじゃない。『コロコロパーク』、退屈だったんでしょ?」
「はあ?」
言われた意味がとっさには理解できなかった。
何故ここに『コロコロパーク』なんて単語が出てくるのだ?
『コロコロパーク』って……アレ、だよね、アンゼンマンの……。
「海での遊びなんて最初の頃、底から上を眺めて、キラキラしながら登ってゆくあぶくを数えるくらいしかないんだよ?おねえちゃん、そういう遊びの面白さ全然わかんないじゃん。メチャクチャ退屈しちゃうでしょ?」
「……あんた、誰?」
ぞわぞわする予感を胸に私は訊く。
訊くまでもない、気もしたが。
「コウだよ」
あっさり彼は言う。にこにこしながら。
「な……う、う、うそ、嘘ばっかり……」
つっかえつつ私は言う。
この少年の目に、表情に、三歳のコウの面影があることに今、気付いたけれど……気付いたけれど。
「ウソじゃないってば。シツレーだよ、それ」
コウを自称する少年は唇をとがらせる。
「だって昨日でオレ、十歳になったし。ゆうべ家族のみんなでお祝いしてくれたじゃんか。そりゃあおねえちゃんのよく知ってるコウは三歳だったかもしれないけどさあ、いつまでも三歳な訳ないじゃん。セイチョーするよオレだって。おねえちゃんだってセイチョーして、ショーガクセイからチューガクセイになってんだしさあ」
そこまで言うと彼は急に、ふっ……と笑った。
優しくいたわるような……淋しさをこらえているような。
どことなく大人っぽい、複雑な笑みだった。
「だから。もう、いいんだよ、おねえちゃん」
瞬間息が止まった。
胸の真ん中を撃ち抜かれたような衝撃だった。
そのまま馬鹿のように私は、コウを自称する少年の顔を見つめた。
薄闇の中の彼の瞳は真っ直ぐで、三歳のコウと同じ色をしていた。
笑みを深め、彼は静かに言う。
「海での暮らしは悪くない、ホントだよ。それにオレはもう、おねえちゃんに遊んでもらわなくてもひとりでやっていけるし……」
ポケットから何か赤っぽい物を取り出し、彼は強引にそれを私の手へと押し付けた。
「十歳にもなってねーちゃんに遊んでもらわなきゃなんない、なんて、カッコ悪いもんな」
バイバイ、と言い、夕闇に溶けるように少年はいなくなった。
ずいぶんと長くぼうっとしていたらしい。
辺りがすっかり暗くなってから、私はようやく我に返った。
おそるおそる手の中の物を見た。
運河沿いにある街灯に照らされたそれは、アンゼンマンのイラストがついた、なんとなく湿った感じのする白茶けた幼児用の靴。
見付かっていなかった、コウの靴の片割れだった。
「コウ。コウ……コウちゃん!」
弟の名を呼んだ途端、私の目から涙があふれ出た。
あの日以来初めて、私は涙を流して泣いていた。
身体の奥で堅く堅くこわばっていた何かが、優しくゆるやかにほとびてゆく、そんな心地がした。
すっかり暗くなってから帰宅した私を、お母さんはものすごく心配して待っていた。
学校の方へも連絡を入れたりしていたらしい。
玄関で私の姿を見ると、あわててお母さんは何処かへ電話をかけた。
申し訳ありません今戻りました、と言いつつ、ペコペコ頭を下げている。電話を切って振り返り、何処へ行っていたのと叱ろうとして……言葉を止めた。
ついさっきまで泣いていたらしいのを、改めて私の顔を見てわかったようだった。
「どうしたの?」
静かに訊くお母さんの声に、涙がまた盛り上がってきた。
「……コウに会ったよ、お母さん」
「え?」
私は右手に握りしめていた、アンゼンマンの靴を差し出した。
お母さんは息を呑む。
「アイツ。十歳になったからもうひとりでやっていけるんだって。もうおねえちゃんに遊んでもらわなくてもいいんだって。あんなに……あんなに毎日毎日、遊んで遊んでって言ってたくせにさ。言ってたくせにさ……勝手だよアイツ!」
後は言葉にならなかった。
号泣する私を胸に抱き寄せ、お母さんは黙って私の頭と背中をなでていた。
次の大潮の日。
私は小さな花束を持って、再び運河へ向かった。
アンゼンマンの靴の片割れは、私があの日、大潮で水かさの増した川面の、テトラポッドの陰に流れ寄っていたのを見つけた、ということにして警察に話した。
警察は再び運河の底を捜し始めた。
今度は海の方まで念入りに捜してみる、とも言っていた。
大潮の時はアブナイんだよ。
十歳のコウが言った言葉を私は思い出す。
水に惹かれそうになっていた私を、あの子はもしかすると、止めにわざわざここまで来てくれたのかもしれない。
コウが三歳だったあの日。
大潮、だったのだろう。
私がふらふらと水へ惹かれかけたように、きっとコウも水へ惹かれたのだ。
幼いあの子は惹かれるまま、何も知らず恐れすら感じず、真っ直ぐ水へと向かったのだろう。
多分、柵と柵とのわずかな隙間を、信じられないくらい器用にくぐり抜けて。
私は水面へ花を投げ入れる。
花束は力なく水面を乱し、すぐにテトラポッドの陰へと流れ寄った。
でもきっと引き潮に乗って、コウの所まで流れ着くだろう。
(もういいんだよ、おねえちゃん)
花束を拾い上げ、ちょっと困ったように笑うコウの姿が見える気がする。
ボーダー柄のTシャツとハーフパンツ、小学生の男の子に人気のスニーカーはお母さんがコウの為に買ったものだった。
リビングにあるコウのコーナーにこれらがきちんと置かれていたのを、私はしばらくしてから気が付いた。
コウはわざわざあれを着て、私の前へ現れたのだ。
三歳のコウに囚われている私へ、十歳のコウを見せたくて。
(わかったよコウちゃん。コウちゃんは……セイチョー、したんだよね)
テトラポッドへ流れ寄るみたいに、おんなじ所でグズグズしていたのは私。
おんなじ所でぐるぐると、澱み続けていたのは私。
三歳のコウに囚われ、八歳のままで心を縛られていたのは……私。
「バイバイ、コウ」
テトラポッドへ流れ寄ったままの花束に軽くほほ笑みかけ、私はきびすを返す。
ちょっと前、また私とヤマモトさんに日直が回ってきた。
私は登校後すぐ職員室へ寄り、学級日誌を持ってきた。
そして始業ギリギリに教室へ入ってきたヤマモトさんへ日誌を差し出した。
「はい」
ヤマモトさんは色つきリップクリームで彩られた唇を小さくポカンと開けた。
「約束だから今回は書いてね」
ヤマモトさんは一瞬、持ってきたんならあんたが書いたらいいのにとでも言いたそうな顔をしたけど、さすがにそこまで言わなかった。
整えた眉をさも面倒臭さそうにしかめたけれど、わかった、としぶしぶ受け取った。
この間からなんとなく態度がよそよそしかったサトウさんが、一部始終を見ていてにやっとした。
やれば出来るじゃん、とでも言いたそうな笑みだった。
公園を斜めに横切り、私は出入り口へと向かう。
もうすぐ、コウのささやかな葬儀が行われる予定だ。
夕映えの公園があまりにも綺麗で、私はなんだか泣きたくなった。