4 地獄に仏
引きこもっている時に読んだネット小説で、いわゆる異世界転移物というのがあった。
あれは女神様から強い能力を貰って、異世界無双という展開が多かった気がする。
だが今の俺は、能力どころか靴すらない。
「……なあ香織、ここに来る時女神様かなんかと会ったか?」
「え……?」
困惑して首をかしげるのを見ると、妹も俺と同じなのだろう。むしろ小説とか読みそうもない分、俺より更に動揺しているかもしれない。なにせ、未だに俺の袖を掴んだまま離さないのだから。
なんの当てもなく、どうしたら良いのかと途方にくれていると、悪い事に雨が降りだしてきた。
びしょ濡れになるほど強くはないが、冷たい霧のような雨だ。風のせいもあって急速に体が冷えてくる。すでに足先の感覚は、冷たいを通り越して痛く感じる。
そしてさらに悪い事に、太陽が傾いて辺りは暗くなりはじめている。このままだと最悪、凍死もあるかもしれない。
とりあえず今夜寝る所を探さなければいけない。視線を巡らせると、俺たちが歩いてきたのと反対側には建物がたくさんあって、ちょっとした街を形成していた。
もう時間が遅いからか商店はほとんど開いていないが、宿屋と思しきベッドの絵を掲げた店は開いている。
よし……。
俺は覚悟を決め、妹を連れて宿屋へ向かう。
入り口をくぐるや否や全力で頭を下げ、『今はお金がないが後日必ず払うから、なんとか今晩だけでも泊めてください』と頼み込む。
だが、受付にいたおばさんは露骨に顔を歪めると、取り付く島もなく追い払われてしまった。『そこをなんとか』と頼み込んだが、乱暴な事に棒を持って追い払われてしまった。
他にも何件か、宿屋らしき看板を掲げた店を回ってみるが、どこも同じでまるで相手にされなかった。
どうやら泥まみれの汚い格好と、俺が裸足である事から浮浪者だと思われるらしい。
現状必ずしも間違いとは言えないのが悲しい所だ。
この辺りはどうやら街壁の中に入れない人たちが集まって暮らしているようで、通り沿いこそまだマシだったが、道から離れるに従ってスラムのようになっていく。と言うか、ホントにスラムなのだろう。
辺りに文字はほとんどなく、看板はたいてい絵で描かれている。ベッドは宿屋、野菜は八百屋、動物は肉屋、剣は武器屋だろうか? 識字率がかなり低い事が想像された。
治安もあまり良くないのか、妹が『そっちはなにか嫌な感じがする』と言って袖を引くので、進路を変える事も何度かあった。
さすがに引き返したほうがいいかなと思い始めた頃、ベッドの看板が目に入ったので、最後の望みをかけるつもりで入り口をくぐり、頭を下げて同じセリフを繰り返す。
「あの……えっと……お困りなのですか?」
今まではすぐさま冷たい拒絶か罵声だったのに、初めて聞く困惑した声。
顔を上げると、そこにいたのは長い金色の髪をした少女。そして、髪をかき分けて飛び出している笹の葉のような長い耳……エルフだこれ。
異世界確定案件に一瞬呆気にとられてしまうが、今はそれ所ではないと思い直す。
「はい。妹と二人で遠くからやってきたのですが、荷物もお金もなくしてしまって困っています。お金は後日必ずお支払いしますから、せめて雨風をしのげる場所だけでも……」
今まではどこも俺達の格好を見た瞬間に眉をひそめ、お金がないと言った瞬間に追い払われた。
だがこのエルフの少女は悲しそうな表情を浮かべ、一瞬奥をうかがった後、声を落としてささやくように言ってくれた。
「……わかりました。客室は無理ですが、以前物置に使っていた空き部屋があります。そこでよろしければ」
「――本当ですか! ありが……」
言いかけた所で、慌てた少女に口元を押さえられた。
エルフの少女はしばらく奥をうかがっていたが、ホッとしたように息を吐くと『秘密なのでお静かにお願いします』と言って、俺達を中に案内してくれた。
「どうぞ、こちらです」
案内されたのは、大人が三・四人横になれるかなと言うくらいの狭い部屋だった。
「そこの毛布を使っていただいて構いませんので」
エルフの少女はそう言うと、足早に戻っていく。
改めて部屋を見てみると、シャワーや空調はおろか、トイレもベッドも、灯りすらない。隅に畳まれた毛布が二枚置かれているだけの、本当にただの部屋だ。だが今は、それですらこの上もなくありがたかった。
雨と風がしのげ、下は地面ではなく木の床である。ここならとりあえず、凍死する事はないだろう。
「お兄ちゃん……わたしたち、どうなっちゃうのかな……」
ようやく落ち着いたからか、ずっと俺の後ろに隠れるようにしていた妹が久しぶりに口を開く。
「わからないけど、今夜はここで休ませてもらおう。後は明日、明るくなってから考えればいいよ」
なるべく明るくそう言って、二人で寄り添うように暗い部屋の隅に腰を下ろす。
とはいえ、実際は俺自身不安でいっぱいだった。恐怖と心細さに加えて、寒さと空腹が襲ってきてとても惨めな気持ちになる。妹がいるので気を張っていられるが、一人だったら泣いていたかもしれない。
とその時。不意にドアがノックされ、さっきのエルフの少女が姿を現した。
「あのこれ、よかったらどうぞ。熱いお湯にはできませんでしたが、水よりはぬるくなっていますから。それと、こんなもので申し訳ないのですがお食事も」
そう言ってバケツを置き、パンとスープが乗ったトレイを渡してくれる。
バケツには半分くらいのぬるま湯が入っていて、古びた布が二枚沈んでいた。
昨日までなら、こんな扱いをされたら逆に怒ったかもしれない。だが今の俺達には、涙が出るくらいありがたいもてなしだった。
土下座するような勢いでお礼を言うと、エルフの少女は柔らかい笑みを浮かべ、『困った時はお互い様ですから』と、日本でも聞いた事がある言葉を残し、バケツとお皿は朝回収に来るからと言って去っていった。
早速好意に甘え、ぬるま湯で濡らした布を絞って顔を拭く。妹の髪についた泥は俺が落としてやった。
入浴は望むべくもないが、泥だらけの体を拭けるだけでもとてもありがたい。霧のような雨は体を濡らすだけで泥を洗い流してくれる事はなかったので、これでようやく人間らしい姿に戻ることができる。
「俺は後でいいから、お前が先に体を拭け」
そう言って部屋を出ようとすると、妹がまた袖を掴む。
「わたしなら大丈夫だから……早くしないとお湯が冷めちゃうよ」
目を伏せて、おずおずと言葉を発する。
「いや、さすがにそうはいかんだろ」
部屋を出るべく背を向けるが、妹は袖をギュッと握って離そうとしなかった。さすがに振り解くのは抵抗がある……。
「お願いお兄ちゃん……もう一人にしないで……」
涙ぐむようなその声は、俺の心を強烈に締めつける……。
「……わかった。じゃあお湯が冷める前に、さっさと済ませちゃうぞ」
「――うん!」
妹が言った『もう一人にしないで』という言葉。これは、不安に満ちたこの世界でという意味ではないだろう。俺は引きこもりだった一年の間、妹にとんでもない心配と寂しさを味あわせていたのだ。
改めてその事実を思い知らされ、胸が苦しくなると同時に、この世界では必ず妹を守ってみせると、固く心に誓うのだった……。
現時点での大陸統一進捗度 0%
資産 所持金 ゼロ
配下 なし