(番外編) 悠久の時を生きる存在(前)
※リクエストを頂いたシェラのショートストーリーですが、一香視点です。
大陸暦702年7月。
伝説に謳われる魔王と勇者の戦いから200年余りが過ぎた頃。私は一人、北の小島へ向かって荒れる海を泳いでいた。
お父さんとお母さんが眠る島の周囲は風も潮の流れも速く、凶暴な海棲魔獣も沢山いて、容易に近付ける場所ではない。
魔王だったお父さんと、当時の勇者だったお母さんに産んでもらったセイクリッドウンディーネという特殊な魔獣である私でさえ。けっこう大変な道のりなのだ。
「……お、ようやくかな」
やっと見えてきた島影に、人族の姿に体を変えて上陸を果たす。
背中にくくりつけていた防水の袋から服を取り出して身につけると、私は島の奥へと足を進めた。
「シェラちゃーん、いるー? おーい!」
そう声を出しながら歩いていくと、島の北端。二つの墓石が並んで建っている前に、全身をまばゆい白銀の鱗に覆われた巨大なエンシェントドラゴンが。お墓を守るようにして眠っていた。
「おーい、シェーラーちゃーんー!!」
ありったけの大声で怒鳴り。石をぶつけてみても、ドラゴンの体にはなにも感じないのだろう。目覚める気配すらない。
「やっぱりここは、香織お母さん直伝のこの方法か」
そう独り言を口にし。持って来た荷物から鍋と油を取り出して、風を避けるために岩陰を選んでかまどを作る。
上陸する直前に狩った小型の海棲魔獣を手早く解体し、お母さんに習った通りの方法で下味をつけて熱した油に入れると、間もなく匂いに反応したのだろう。巨大なエンシェントドラゴンが頭を持ち上げた。
「……一香か」
「うん、久しぶりシェラちゃん。――その姿だと声の振動だけで油がこぼれそうになるから、人族の姿になってくれるとありがたいかな」
「…………」
私の言葉に、シェラちゃんは黙って小さな少女の姿になると。魔王城址の地下に服を取りに行く。
「……シェラちゃん、その服もうボロボロじゃない。今度新しいの持ってこようか?」
「要らん世話じゃ。それよりおまえが来るとは、なんぞあったのか?」
「うん、それがね……」
私は表情を引き締め、ゆっくりと言葉を発する。
「……リンネ様が亡くなった。毎年のお墓参りにはこれからも子供のイリアちゃん達が来るから、それは今までと変わらないけど。とりあえず知らせておこうと思って」
「――そうか、あやつもか……」
一見してシェラちゃんの表情は変わらなかったが、声には少し影が差した気がする。
シェラちゃんにとってみれば、リンネ様は洋一お父さん達と一緒に大陸統一の旅をした頃からの仲間で、最後の生き残りだったのだ。
空気が重くなるのを感じ、私はあえて明るい声を出す。
「とりあえず、カラアゲ揚がったから食べようか。ここは風が強いから屋内に移動したいんだけど、シェラちゃんお鍋運んでくれる?」
「む、よかろう」
シェラちゃんはそう返事をすると。今も火の上にあって油がたぎっている鍋を、普通に両手で掴んで魔王城址の地下へと運ぶ。
見た目は人族の少女でも、エンシェントドラゴンは数百度の熱さなど物ともしないのだ。
魔王城址の部屋に移動し。カラアゲを揚げながらシェラちゃんに提供し、私も適当につまみながら、話の続きをする。
「……これで洋一お父さん達の事を知っているのは、私とシェラちゃんとヨミ。三人だけになっちゃったね」
「そうじゃな……」
カラアゲを食べながら、そう返事をするシェラちゃん。
いつもなら満面の笑みを浮かべて口いっぱいに頬張る所なのに、今日はどこか浮かない表情で。一つずつ口に運んでいる。
リンネ様の訃報に落ち込んでいるのか、お父さん達の事を思い出しているのか。あるいはその両方だろうか?
その様子を見ながら、私はゆっくりと口を開く。
「……ねぇシェラちゃん。今までずっと訊けずにきたけど、あの日の事を話してくれないかな?」
私の言葉に、カラアゲを口に運んでいたシェラちゃんの手がピタリと止まる。
大好物を前に、これはとても珍しい事だ。
場に張り詰めた強い緊張感を少しでも紛らわせるために、私はカラアゲを揚げる作業を続けながら言葉を繋ぐ。
「あの日。勇者がこの島に向かったという情報が届いて、お父さんは私達に島を出るように言ったよね。そしてシェラちゃんは私とヨミを大森林の村に運んでくれた後、またすぐに飛んで行った。そしてそれから何日かして、お父さんが死んだという知らせを持って戻ってきた。シェラちゃん、お父さんと勇者の戦いを見ていたんでしょう?」
「…………」
「あの日の事は、私達の誰も詳しく聞こうとしなかった。多分下手な事を聞いてしまったらお父さんの遺言に反して勇者達を殺しに行ってしまいそうで、みんな怖かったんだと思う。少なくとも私はそうだった。
でもあれから200年以上が経って、もう勇者も聖女もこの世にいない。森エルフの弓使いだけはまだ生きているかもしれないけど、先代の森エルフ王だったスミクト様から生前聞いた所によると、100年以上も大密林に帰ってくる事なく行方不明だそうだし。どんな話を聞かされても、今更探し出して復讐しようなんて思わない……と思う。だからあの日の事、聞かせてくれないかな?」
私の言葉に、シェラちゃんは口に運ぼうとしていたカラアゲを持つ手を降ろし。じっとこちらを見る。
「……ワシを、恨んでおるか?」
「――え、どうして?」
返ってきたのは、想定外の返事だった。
「ワシはあの日。お主達を送り届けた後、主殿の元へ戻った。主殿には断られたが、ワシはその気になればむりやりにでも主殿の命を助ける事ができたのに、それをしなかったのじゃ……」
「でもそれは、お父さんがそう望んだからでしょ」
「たしかにそうじゃ。じゃがワシはやろうと思えば、勇者達を海の上で密かに消してしまう事もできた。いくら待っても姿を現さないとなれば、主殿も諦めて村に戻ったじゃろう。じゃがワシはそれをせず、ただ上から見ておったのじゃ。あの温厚で争いを好まなかった主殿が、魔王として勇者と戦い。次第に追い詰められて、最後に勇者の剣に胸を貫かれるその瞬間まで。ただ黙って見ておったのじゃ……」
……俯いたシェラちゃんの目から、スッと一筋の涙が零れ落ちる。私はシェラちゃんが泣く姿を初めて見た。
「シェラちゃん、辛かったよね……」
私は思わずシェラちゃんの小さな体を抱き寄せ、ギュッと力を込める。
「……怒らんのか? ワシは主殿を見殺しにしたのじゃぞ……」
「それは私も同じだよ。お父さんは戦闘能力が高くなかったから、その気になれば私だってお父さんを縛ってでもどこかに連れ去って危険から遠ざける事はできたし、勇者達をこっそり海の上で殺してしまう事だってできた。
勇者達がどれくらい強かったのかは知らないけど、海の上でなら私が負ける事なんてなかったはずなんだよ。船ごと海底に沈めてしまうくらいは簡単な事だった。だからお父さんを助ける事ができたのにそうしなかったのは、私も同じなんだよ……」
これは私がこの200年、ずっと心の奥で抱えてきた痛みでもある。
私はもしかしたら、お父さんの最期を知りたかったのではなく。この痛みを共有できる相手が欲しかったのかもしれない。
その相手を見つけた事で、私は今まで胸の奥に仕舞い込んできた痛みを絞り出すように、全力でシェラちゃんを抱きしめた。
……私は戦闘特化型ではないものの、一応は魔獣の上位種なので。普通の人族やエルフなら簡単に絞め殺してしまえるくらいの力がある。
だから普段は無意識に力を押さえているが、シェラちゃん相手にそんな遠慮は要らないので、遠慮なしの全力でシェラちゃんの小さな体を抱きしめ続けた。
そしてシェラちゃんも、戸惑いを見せながら私の体に手を回してくる。
最後の一瞬までお父さんを助けられる可能性を持っていたのに、そうしなかった。私とシェラちゃんだけが共有する罪の痛みを分かち合うかのように、私達はしばらくの間ずっと。言葉を発する事もなく、ただお互いの体温と心臓の鼓動とを感じていた。
……兄であり魔人でもあるヨミは、勝てたかどうかはともかく。お父さんと一緒に勇者と戦って運命を共にするべきだったのではないかと、真面目な性格もあってずいぶんと悩んでいた。
私はそれを慰め、『お父さんはそんな事を望んでいなかったよ』と何度も繰り返し言って立ち直る手助けをしたけれど。あれは私にとっても、お父さんに対する罪滅ぼしだったのだ。
私はその事で少し気が楽になったけど、シェラちゃんはどうだったのだろうか?
ずっとこの島にいてお父さんとお母さんのお墓を守り続ける事で、少しは気が楽になったりしたのだろうか?
私は同じ後悔と痛みを持ち続ける者同士。シェラちゃんがたまらなく愛おしくて、時間が経つのも忘れて硬く抱きしめ続けるのだった……。
「……おい、なんか煙が出ておるぞ」
心の奥底にあったものを吐き出す思いでシェラちゃんを抱きしめていた私だったが、その声にハッと我に返る。
慌てて視線を移すと、油が高温になりすぎたのだろう。カラアゲを揚げていた鍋がもうもうと白煙を噴いていて、『ボッ!』という音と共に火が入った所だった。
――ああ、香織お母さんに『揚げ物をする時は絶対に鍋から目を離さないように』って、キツく言われていたのにな……。
一瞬深い自己嫌悪に襲われたが、それよりもまずは対応だ。
水属性魔法を放ってかまどの火を消し。上着を脱いで水に浸すと、燃える鍋にバサリと被せる。
油が燃えている所には絶対に水をかけてはいけないと、これもお母さんに厳しく叩き込まれた事だ。そして、正しい対処法も教わった。
『窒息消火』と言うのだと。これは洋一お父さんに教わった記憶がある。
図らずもこのタイミングでお父さんとお母さんの事を思い出し。失敗をしたのになぜか無性に温かい気持ちになって、私は蒸気を吹き上げる鍋を見つめるのだった……。
油がダメになってしまったのでカラアゲは断念し。海獣の肉を焼いたものをつまむ事にする。
だが、ただの焼肉と侮るなかれ。香織お母さんに教えてもらった秘伝のタレがあるので、漬けてから焼いても焼いたものに付けて食べても、一般的な塩をかけて焼いただけの物より断然美味しいのだ。
カラアゲにはわずかに劣るが、シェラちゃんにも大好評である。
この北の島は一年中気温が低いので、調味料の保存や熟成には最適の環境であり。お父さんが好きだった『魚醤』という魚を塩水に漬けて発酵させた調味料をはじめ、色々仕込んで寝かせてあるので、味付けには困らない。
そんな訳で、焼肉を焼きながら話を続ける。
「それで、改めてあの日の話だけど。シェラちゃんの事を責めたりするつもりは全然ないよ。ただ、お父さんの最後がどんなだったのか。ずっと気になっていたけど訊く勇気がなかったから、この機会に教えてもらおうと思ってさ……」
私の言葉に、シェラちゃんの顔に明らかなためらいが浮かぶ。
「……聞いても後悔せんか?」
「うん、多分ね。もしお父さんが最後の一瞬に心変わりして、私達に助けを求めたとかだったら死ぬほど後悔するけど。それだったらシェラちゃんが助けに入ってるでしょ? そうならなかったって事はお父さんは納得して最後を迎えたって事だから、聞いても後悔はしないと思う」
「最後の一瞬に……か。思えばワシはそれを願って、ずっと上に留まっておったのじゃろうな。一声呼んで欲しいと耳に全神経を集中させて、いつでも急降下できるように体勢を整えながら……」
シェラちゃんはいつの間にか焼肉を食べる手を止め、遠くを見るように視線を泳がせる。
食い意地の張ったシェラちゃんがお母さん直伝の料理を前に手を止めるなんて、よくよくの事だ。
私もつられるように肉を焼く手を止め、じっとシェラちゃんを見る。
外はもう陽が落ちつつあるようで。明かり取りの窓から入ってくる光は弱くなり、部屋は暗くなっていく。
倉庫にランプを取りに行こうかとも思ったが、そんな必要はない気がして。肉を焼いていた火がゆらゆらと照らす薄暗い光の中で、シェラちゃんの言葉の続きをじっと待った……。
※ショートストーリーのはずが一万字を超えてしまったので、分割します。




