309 (後日譚)別れの時
大陸暦498年の2月10日。俺は一人でぼんやりと、暗い冬の空を眺めていた。
少し離れた場所ではエルフのみんなとクトル、ヨミと一香が悲しみに涙を流し。一つの棺を囲んでいる。
……いつになく思い詰めた表情の妹が俺に話があると言ってきたのは、つい昨日の事だった。
「お兄ちゃん。わたしもうダメみたい……」
外見はこの世界に飛ばされてきた日。中学二年生だったあの時のままの妹が、そう言って涙を流す。
俺にはその言葉がなにを意味するかが、果てしない絶望と共に瞬間的に察せられた……。
――俺が妹の異変に気づいたのは、ここ十数年の事。あんなに料理上手だった妹が手を滑らせて指を切ったり、火加減を間違えて料理を焦がすような事が起きはじめたのだ。
色々考え。薬師さん達にも相談して妹にも話を聞いてみたが、考えられる原因は一つしかなかった。
妹の特殊スキル。『勇者の加護』は、肉体年齢が衰えないというものであり、それはすなわち、中身の魂は歳を取るという事なのだ。
この世界に飛ばされてから60余年の時を経て、劣化した魂が肉体とバランスをとれなくなりつつあるのだろう。
その事に気付いた日から。俺は前にも増して妹と一緒に過ごす時間を多く取り、なるべく負担をかけないよう、料理なども積極的に手伝うように心がけた。
妹はとても喜んでくれたが、だからといって時の流れが止まる訳ではない。
そして、そこから更に10年余りが過ぎた昨日。妹はついに自らの死期を悟って、俺に別れを告げにきたのだった。
「ごめんねお兄ちゃん……。でも、わたしはお兄ちゃんの妹に産まれて。お兄ちゃんと一緒に過ごせて本当に幸せだったよ……」
そう言って笑顔を浮かべる妹の顔を、俺はまともに見る事ができなかった……。
――正直。大切な人を失うのはこれが初めてではない。
生物には定められた寿命というものがあり。それは人間とエルフ。魔獣や魔王で大きく違うものなのだ。
エルフのみんなは80年経ってもほとんど何も変わらないし。クトルとシェラ、ヨミと一香も同じくだ。
だが人間のみんなはそうはいかず。薬師さんとエイナさんのおかげでこの世界の人間としては非常に長生きをしたが、寿命だけには抗う事ができなかった。
七年前の大陸暦491年にはライナさんが90歳で亡くなり、494年にはリステラさんが91歳で。同じ年にセシルさんも後を追うように亡くなり、一年前の497年には、ニナが87歳でこの世を去った。
……みんな幸せな人生を送れたと言い、最後の瞬間には微笑を浮かべていたが。俺達残された存在には、ただ大切な人を失った例えようもない悲しみと。大きな喪失感のみが残された。
そして今、妹を失った俺は自身の半身を失ったような。生きる希望と目的を同時に失ってしまったような、巨大な喪失感の中にいる。
もうこのまま死んでしまってもいいような気さえして。ライナさんを失った時のエイナさんの落ち込みようが、初めて理解できた気がする。
……それでも、エルフのみんなと子供達。クトルにシェラまでが必死に俺を元気付けてくれ、なんとか死ぬ事だけは思いとどまったが、心に大きな穴が開いてしまったような強大な喪失感は到底埋められるものではなく。俺はただ死んでいないだけの、呆然とした日々を送っていた。
まるでこの世界に飛ばされてくる前、自室に引きこもっていたあの頃のようにである……。
そうして抜け殻のような毎日を過ごしていたある日。定期的に大陸中を回って情報を集めてくれているクトルが、息を切らせて俺の元へ飛んできた。
「魔王様、大変です。勇者が現れたそうです!」
……一瞬、俺はクトルがなにを言っているのかわからなかったが、少し考えてみれば自明の事だ。勇者だった妹が死んで、代わりに新しい勇者が召還されたのだろう。
シェラを仲間にする時。口からでまかせで『勇者は世界に一人だけであり、当代勇者を囲い込む事で当面の安泰を確保できる』というような事を言ったが、図らずもそれは的を射ていた訳だ。
新しい勇者……俺と妹のように、あの世界から召還されたのだろうか?
だとしたら、俺と妹が生きていた時代から80年後の世界だったりするのだろうか?
一瞬そんな疑問が湧いたが、会って確かめたいという希望までは湧いてこなかった。それだけ俺は妹を失った喪失感に包まれ、気力を失っていたのだろう。
それにそもそも。本能的に対立する魔王と勇者であってみれば、会って和やかに話す事は難しい。
自分が勇者だと公言しているようだから、積極的にレベル上げなどもしているのだろう。
妹が言っていたように、勇者の本能に強く影響されて、魔獣や魔王を見たら無条件で襲いかかってくる可能性が高いと思う。
――でもそうか、新しい勇者か……。
俺はしばらく考え込み。やがて一つの結論に到達する。
「クトル。みんなに集まってもらうように伝えてきてくれるかな?」
「はい!」
そう返事をしてクトルが飛び出していき。しばらくすると一人、また一人と、みんなが集まってきてくれる。
リンネ、妹のレンネさん、薬師さん、レナさん、セレスさん、ヒルセさん、ヨミ、一香、シェラ、そして戻ってきたクトル。
……人間の仲間はもうここには誰もいない。
エイナさんはたしか95歳くらいで存命だが、ライナさんの死後、『ここはお姉ちゃんとの思い出が多すぎます……』と言って、旧パークレン子爵領屋敷に引っ込んでしまった。
エスキルさんも存命のはずだが、今は遠く離れた大陸南東部の故郷にいる。
……集まってくるみんなの表情は、一様に複雑だ。
期待と不安が入り混じった微妙な視線を俺に向けているのは、最近ずっと半死人のようだった俺から急に呼び出しがかかったからだろう。
妙な緊張感が場に満ち。全員が集まるまで誰も口を開かなかったが。全員が揃ったのを確認して、俺は重々しく口を開く。
「クトルからの報告によると、新しい勇者が出現したらしい。それで……俺は魔王として勇者に倒されようと思う。だからみんなには勇者に協力するか、最低限邪魔しないであげて欲しい」
一息に言い切った俺の言葉に、一瞬時間が止まったかのような沈黙が流れ。一呼吸置いて嵐のような反論が来る。
『洋一様の身はなにがあってもこの村でお護りしますから、どうかそんな事を言わないでください!』
『せめて身を隠す選択肢を選び、進んで倒されるような事はしないでください』
『大森林の奥に山エルフでなければ到底辿り着けない洞窟があります。いざとなればそこに』
『そうです。洋一様を売り渡すエルフなどいるはずがありませんから、あそこなら絶対安全です』
『逆に勇者を捕らえて、どこかに閉じ込めてしまえばいいのではないでしょうか?』
『お父さんを失いたくない、私も戦う!』
順番に、リンネ・レナさん・レンネさん・ヒルセさん・ヨミ・一香の発言だ。
黙ってこっちを見ている薬師さん、目が怖いです。セレスさんとクトルは驚いて声も出ない様子。シェラは……表情を変えないのでよくわからないな。
みんな俺を想って言ってくれているのが伝わってきて、目頭が熱くなるが。それでも俺の答えは変わらない。
「みんなの気持ちはとても嬉しいけど、でも多分。これが一番いいんだよ。魔王と勇者が争うのはこの世界の宿命みたいなものなんだろうし。クトルやシェラ、ヨミや一香の前でこんな事を言うのはなんだけど、魔王と魔獣は基本、人間とエルフの敵なんだよ。もちろんみんなのように個人的に心を通わせるのは素晴らしい事だけど、この村にも時々野生の魔獣が襲ってきたりしてるでしょ」
そう言ったが、誰一人納得してくれないようで。さっきは声も出なかった勢も加わって、みんな口々に再考をうながしてくる。
「……うん。みんなが俺の事を想ってくれているのは本当に嬉しいよ。ありがとう……。でもね、俺は妹と一緒に長い時間を幸せに過ごせただけで十分満足だし。妹がいなくなってしまったこの世界で永遠の時を生き続ける事には、やっぱり耐えられないんだよ。わがままを言っているのは重々承知だけど、どうか分かって欲しい」
そう言って頭を下げると。場がシンとして、重い空気に包まれる。
……正直、俺が満足しているのは本当だ。
俺は一度、元の世界で自分から妹との関係を拒絶しようとしたのである。
この世界に転移した事で妹との関係が改善し、家族と多くの仲間を得る事もでき。奴隷エルフの解放という大事業も成し遂げる事ができた。もし俺と妹をこの世界に転移させた神様みたいな存在がいるのなら、心の底から感謝したいくらいである。
……みんなには。特に子供達には申し訳ないが、俺としては妹との平和で幸せな時間を71年間も。普通の人間の寿命を考えても長いくらいの時間をもらったのだから、代わりに魔王として勇者に倒されてやるくらいは安い代償という感覚なのだ。
――みんな納得していない。だけど反論の言葉を見つける事もできないという、愁然とした暗い空気が場に満ちる。
「ごめんね、みんな……」
それだけ言って。俺はまた深々と頭を下げるのだった……。
大陸暦498年5月29日
解放されたエルフの総数 504万1500人 全体の100%
資産 所持金 323億4192万




