そんな甘くない話。
例えば、私がもっと可愛くて 笑顔が素敵な女の子だったなら。
例えば、私が男の子で あなたと同じ学校に通って ずっと一緒にいたのなら。
例えば、私が あなたの好きな子みたいに 素直だったなら。
――――――――――――――私を、好きになって、くれましたか……?
◇
「…え…?どういうこと、ですか?婚約解消、って…急に……」
「好きな子ができたんです。誰よりも、何よりも大切な子が」
レトロな雰囲気の馴染みの喫茶店に私はいた。婚約者である、藤城 和馬に電話で呼び出されたからだ。そう、現在目の前に座り、何でもないことのように婚約解消を求めてきた彼に。
「好きな、子……」
「ええ。僕の全てを理解し、受けいれてくれる。太陽のような子なんです」
―――――――――――――貴方とは違ってね。
言外にそう言われたような気がした。
「……小父さまと小母さまは何と……?」
「まだ話していません。先に貴方の了承を得ておこうと思いまして」
「なぜ、私の了承を……?」
「父も母も貴方を気に入っていますから。僕が勝手に婚約解消を申し出たと知ると、強行手段に出て来るかもしれないでしょう?」
ああ、本当に彼は用心深いというかなんというか。私程度の人間を、あのお二人がわざわざ強行手段に出てまで引き止める訳がないのに。
瞬間、私を本当の娘の様に扱ってくれた小父さまと小母さまの笑顔が頭を過った。
私は、あの優しい人たちの期待には応えられなかったのだ。なんとなく、胸が痛かった。
「まあ、そもそもこの婚約は強制的なものではありませんでしたし、問題ないとは思いますが。万が一、ということもありますから。……もちろん了承していただけますよね?」
「………………」
「何か不都合でも……ああ、そちらとの取引等には何の影響もありませんので。安心してください」
爽やかだけれどどこか冷たい印象を与える彼の微笑みは、私に全てを理解させた。
ついにこの時がきてしまったのだ。
彼に不要とされる、捨てられる瞬間が。
私は俯き、手を膝の上でぎゅっと握った。
わかっていたじゃないか。こうなることくらい。
冷たく私を見つめる彼に、恋をしてしまったその時から。
決めていたではないか。
婚約解消を彼が望んだその時は。
大切な人ができたその時は。
和馬さまを私から開放しよう、と。
「…………わかりました。お父さまには、私からも話を通しておきます」
「…………随分とあっさり受け入れるんですね」
「……拒否する必要性も感じられませんので」
夢ではないのだと、手元にある冷めてしまったコーヒーが告げる。一口口に含むと、苦い大人の味がした。
……本当は、コーヒーなんて好きじゃない。ココアみたいな甘い甘いものが好き。でも、彼が嫌いだと、そう言っていたから。
正式に彼の婚約者になってから、我慢することが増えた。ココアもその一つ。彼は甘いものが好きじゃない。
私がまだココアを飲んでいた頃、一度だけ、彼が私のココアを横からスッと奪って飲んだことがあった。私は、突然の出来事に呆然として、その動作を眺めているばかりだったが。
一口飲んだ後、
『…………よくこんなあまったるいのみもの、のめますね。このにおいもあじも、ぼくはすきじゃないです』
衝撃だった。私はココアが大好きなのに、彼は匂いすら好きじゃないだなんて。
『これ以上飲んでたらココアの匂いが染みついてしまうかもしれない!』
そう考えた私は、ココア断ちを始めた。……毎日洗濯してるのだから、するのは洗剤の匂いだけだと気がついたのは、コーヒーに慣れた随分後だったけれど。
私自身、彼に嫌われたくはなかったので、それ以来コーヒー派で通している。
それだけじゃない。
花嫁修行と称した、料理教室にマナー講座、それから護身術だって習った。学校の勉強だって頑張った。
学校に通い、家に帰って花嫁修行。休日は花嫁修行をしたり、小母さまとお茶会をして。時々、それにお母さまや和馬さまが加わって。
そんな毎日を過ごして行くうちに、彼が次第に本音を話してくれることが増えたから。私は愚かにも、ほんの少しだけ彼に近づけたと、本当の彼に触れることができたような気さえしていた。
私は、錯覚してしまった。
自分は和馬さまの特別なのだと。
だけど、現実はココアみたいに甘くはないらしい。
「……貴方がそれをお望みならば、私は従うのみですもの」
「……相変わらず、ですね。貴方はいつもそうだ。自分の意見なんて話さない。ただ、僕の言葉を聞き入れるばかりだ。…本当に、光輝とは大違いですね」
彼の口から出た見知らぬ存在に気を取られた私は、怒ったような、しかしどこか寂しそうな微妙な表情をしている和馬さまに気がついていなかった。
『光輝』
そうか。それがこの人の大切な子の名か。
「……光輝さま、とおっしゃるのですね」
「ええ。……ずっと一緒にいたいと思っています。誰にも渡さない」
ほんとのほんとに、もう終わりなんだなと思った。だってこんなに強い瞳をしている彼を、私は今まで見たことがなかったんだから。こんなに一人の人間に執着している彼を私は知らない。ならば、私は婚約解消を受け入れるだけだ。それだけでいい。間違ってなんかない。
(ああ、うらやましいなぁ)
願わくば、
彼が最後に見る私の顔は笑顔がいい。
彼が私を思い出す時、泣き顔だなんて嫌。
……彼が私を思い出すことなんて、ないかもしれないけれど。
「では、私はこれで失礼させていただきます」
「お送りしましょうか?車、まだ呼んでいないんでしょう?」
どうして。最後の最後に優しくなんてするのだろうか。
今までそんなこと、一言も言ってくれなかったくせに。
恋が彼を変えたのか。
否、光輝という子が彼を変えたのだろうか。
唇をキュッと結んだ。そうしないと、堪えきれない何かが溢れてきてしまいそうだったから。
「…………お気持ちだけ、いただいておきます。今日まで本当にありがとうございました。小父さまと小母さまに、よろしくお伝えくださいませ」
そう言って椅子から立ち上がった瞬間、ふと首にかけていた大切な大切な…私の宝物の存在を思い出した。
「ああ、そうでした。これはお返ししておきますね。婚約者でなくなった今、私が持っていても…意味のない物ですし。ここにお代と一緒に置いておきますから」
首から外し、代金と共に机の上に置く。何故か驚いた顔をしている和馬さまと目が合った。どうしてそんな顔をしているのだろう。…もしかしたら覚えていなかったのかもしれない。だってこれは、ずっと昔にもらった誕生日プレゼント。そして婚約の証でもあった。
彼が初めて私にくれたもの。
小父さまたちに言われて、嫌々くれたことくらい知っていた。
それでも。
少し照れくさそうに頬を染めて、私の指にはめてくれた。
それだけで嬉しかったのです。
それだけで幸せだったのです。
さようなら。私の宝物。
お別れですね。和馬さま。
「――――――どうか、お幸せに……藤城さま」
ねえ、私は最後、笑えていたかな。
プルルルル プルルルル ピッ
「……もしもし?」
『あ、もしもーし。俺だけどー』
「申し訳ありませんが私に“俺”という知人はいませんそれでは」
『ちょ、俺だってばぁ!絶対わかってて言ってるよねぇ!?』
うぜえ
『口にっ口に出てるからぁ!!お願い、俺にも優しさちょーだい!』
「……で、用事は何」
『あれ、優しさが見当たらない…。ん~…落ち込んでるところにつけこもうかなぁ、みたいなー…』
「最低か」
『ごめんなさ~い』
「………………」
『ん?どうかした~?』
「……今から」
『今から?』
「そっち、行くから。……その、お茶、用意しといてよね」
『!うん!わかったぁ!待ってるから、気を付けて来てねぇ~』
「はいはい。切るから」
プツッ ツー ツー