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ハルカ  作者: 香津宮裕介
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第四章

 自分が生きているのか死んでいるのかさえ、もう理解できなくなっていた。

 背中と眼窩の痛みはとうになくなって久しく、それ以前に氷点下の世界に厚手とはいえ寝間着のみでいることなど自殺行為に等しく、もはや感覚はおろか思考まで失いかけていたのだ。

 ただ私はソリに倒れ込むように崩れ落ちた姿勢のまま、どうにかこれまで振り落とされることなくいることだけは理解できた。

 時折私の無二の相棒であり唯一の理解者である愛犬が、必死にソリを引く手間に、心配そうに鼻を鳴らすのがわかった。

 そうだ。

 あのクレバスに落ちたはずの狼犬が、リーダー格の彼のみが辛うじて生き延び、こうして再び私を運んでくれている。

 もしあのとき、この頼もしい親友が助けに来てくれなかったら、はたして私はここまで逃げ延びることができただろうか。 満身創痍の親友は颯爽と現れ、フユカに噛みついた。

 そしてぼろぼろのソリに私が乗り込むまで、動揺する狂った街人を威嚇していた。

 このソリは5頭の狼犬により走る。4頭を失い、さらには全身に痛々しい打撲を負った姿で、そう遠くまで行けるものでもない。

 他ならぬ私自身、すでに生死の狭間にいたのである。


「雪、雪雪雪……っ! どこまでも白! いつまでも白! 真っ白よ! あぁ! 気が狂いそう!」


 それは風の音かハルカの声か。

 どちらにしても私の幻聴にすぎない。

 愛犬はすでに息をすることをやめたようで、ただただ荒涼とした世界に、もはや絶え絶えの私ひとりがいるのみであった。

(これは……夢なのだ)

 私はどうしようもない悪夢を見ているだけなのだ。

 何度も自問し、けれど醒めることのない夢を、くり返しくり返し否定し続けていた。もはや病的なうわ言のように。

 醒めることはなくとも、眠ることはできるという理不尽さに、もはや恐怖するだけの思考さえ凍りついていた。

 もしこの吹雪が晴れ、陽が見事なまでの銀世界を照らしだすと、安堵の表情をうかべた同業者が、凍りづけになった私を見つけるだろう。

 そうだ。大昔、この大陸では冷凍されたマンモスが、何体も発見されたという。

 また、アイスマンと呼ばれる凍死した古代人の発見もあったそうだ。

 もしこの吹雪が永遠にやむことなく、何万年もした頃に発見されれば、私にもアイスマンと付けられるだろうか。

 いや、二度と発見されることなく、この星とこの世の終わりを迎えることだって考えられる。

 などと。

 どこまでも馬鹿げた妄想だ。笑える余裕などないのに。

 ――笑う。



 そういえば、ハルカは最後に笑っていた。

 あれは……、どうしてだろう。

 いまさらそんなことを思い出して、なんだというのだ。

 話に聞く走馬灯現象と呼ぶほど鮮烈ではない。

 なんと言ったら良いのだろう。

 そう。出掛けに施錠の確認を忘れ、一日中気掛かりでいる気持ちに似ている。掛けた気はするが掛けなかったような気もする。そんな宙ブラリンの状態。

 気にかかるのだ。

 気にかかる……なぜ。なぜあの時、微笑みをうかべ冷たい海に身を投げたのか。

 あれは決して妄想癖にとり憑かれていた彼女の表情ではない。

 死までの数ヵ月間の彼女を異常とたとえるなら、あの時の微笑はまさしく出会ったばかりの頃の、あの清らかで美しく心優しい少女のものであった。

 そうだ。

 彼女はいつだって心清く優しかった。

 そうだったではないか。

 ひょっとして、彼女は気づいていたのではないか。

 それは恐ろしい妄想。私の妄想。

 私はあのとき、ハルカの存在が非常に邪魔に思えた。


 ――いっそ殺してしまおう。


 たしかにそう考えた。あのまま彼女が身を翻さなければ、事実どうしていたのかわからない。

 私はハルカを手にかけたかもしれない。

 だからハルカは自ら命を絶った。私が殺人者にならぬよう。

 なんだろう。これは。 妄想だ。妄想にすぎない。

 食糧難の地方では、食いぶちを減らすため、働けなくなった高齢者は自ら望んで入水するという。 土着した異国の風習だ。ハルカの語った物語だったか。

 しかし、そんなことがはたしてありえるのだろうか。

 狂ったすえの自殺だと思っていたほうが、よほど気が済む。

 殺されないために自ら死を選んだ。

 ありえない!

 そんな馬鹿なことがあるはずないではないか!

 フユカに殺されそうになった私は、生きたいと願った。死から逃げたいと無様にあがいた。

 殺されたくないし、死にたくもない。

 これは生物の生存プログラムではないのか。危険が迫れば回避しようと働く。

 だがどうだ。

 そのあげく、半分あの世に身を置いている現在の私は、身近に感じる死を受け入れている。

 逃れることはできないと、あきらめているからだ。生に執着する意欲すらなくなっている。

 生きることをあきらめたら、死んでも良いと思える。

 こういうことなのか。

 ……いや、少し違う気もする。

 死んでも良いと、死にたいとは違う感情だ。自然にと自発的に、との違いだ。死期を早めてまでなにを望むというのだろう。

 死んで得られるものを欲したというのだろうか。

 私の場合は安息。

 ハルカの場合は――

 やはり。

 そうなのか。

 私がひそかにうとましく思っていることを知って、私になら殺されてもよいと。

 そうなのか。

 やはり、そうだったのか。

 もし。

 でも、もしそうなら。もし本当にそうだったとしたら。

 ハルカを殺したのは私だ!

 すると今度はコロニー住民の群れが一斉に前に出てきて、私からハルカを隠そうとする。

 なんなのだ、この人たちは。私はこんな人たちなど知らない。三年前、あのコロニーには行っていない。

 その瞬間、まばたきほどのわずかな一瞬のうちに、やはり数十人の集団が消え去ったのだ!

 なんだかよくわからない。

 わからないが、どうでもいい。

 ただの思い込みだ。

 信じ込むことで、自分をだませる。

 そして。

 私の目の前には、真っ白な世界に一脚の椅子。そこに深く腰をかけた人物がひとり、うつむき加減で小さいが凛と張った声でなにかをつぶやいていた。

 長く白く美しい髪をした、華奢な女性だった。

 私は一度、彼女の名を呼んだ。

 けれども彼女はふり返らなかった。髪に隠れて表情も見えない。

 彼女の瞳は赤いはずだった。アルビノだからだ。

 私は知っている。彼女を知っている。

 白い肌に赤い目。白ウサギのようだと思った。

(さみしいから……死んだのか……?)

 冗談のように思う。

 私があまりにお前をうとましく思っていたからか。

 私の騙った夢にありもしない理想を抱いたが、箱を開けてみればそこはあまりも薄っぺらな現実だったろう。

 夢では生きれぬのだ。

 理想は希望になれど、現実には届かない。

 お前はコロニーの中でしか生きれなかったのだ。

 お前の夢に酔いしれた人々の中でしか、生きれなかったのだ。

 可哀想な檻の中のウサギよ。ハルカ。

 カナタにはわからないわ、と彼女が言った。

 私の夢なんて、と。

 ゆっくりと顔をあげ、しっかりと私を見た。

 全身を覆い隠すような長衣トーガをまとった彼女は、私には聖なる使いであるかのように思えた。

 ハルカが微笑んでいた。初めて会った時のように、無垢で清らかな慈悲に満ちた笑顔だった。

「カナタには、わからないわ」

 もう一度彼女は言った。

 そういえば、フユカにもそんなことを言われた気がする。

 私はまず、ハルカに謝らなければいけないと思った。

 けれども、それより強い想いが私の口をついて出た。

「ハルカ、そばに行ってもいいかい」

 抱きしめてもいいかい?

 彼女は笑った。

 つられて私も笑った。

 たぶん、きっと泣いていたのだろう。彼女の姿が激しくにじんでいた。

「私はもう死んでいるのよ」

「僕も死んでいるんだよ」

 だからハルカに会えたのだ。

 それを聞いて、彼女は少しだけ困ったような顔で、もう一度だけ笑った。

「さよならだね」

「どうして」

「出会えたから」

「出会えたのに……」

「わからなくていい」

「どうして」

「カナタにはわからない」

 言い残し、世界は暗転した。


 私はぽつんと、深淵の底に置いてきぼりにされてしまった。


 


          *


 


 ウサギは雪に閉ざされた白い闇の中でしか生きれなかった。

 そこから連れ出したのは他ならぬ私だ。

 彼女はあのコロニーでしか生きれなかったのだ。

 首都は海に近いこともあって、よく雲間から光がのぞいていた。

 光は危険なのだ。

 もう何百年も昔の先祖が犯した過ちが、その何百年後かの私たちに襲いかかっている。

 人体に有害な紫外線を大量に含んでいるのである。そのせいで海も死んでいる。

 魚の捕れない海。捕れてもたいがいは奇形で毒素をはらんでおり、充分な煮沸調理なしでは口にすることができない。私の故郷はそんな場所だった。

 私の両親は、そんな魚を捕って売っていた。生活はとても苦しかった。

 私は、いやだった。

 子供心にとても低俗な生活の気がして、もっと人々に認められ求められた生き方がしたかったのだ。

 そして家を離れ、この仕事を始めたが思いの他、夢に見ていたほど容易なことではなく、いつだって死の危険がつきまとうし、たとえ死んだところでまた別の人間が高級な手当てで後を継ぐだけで、特別に私個人の存在を渇望されているというほどのことでもない。

 辺境の小さなコロニーで、ひとりの少女が人々に愛され望まれ求められ生きていた。

 ただ、それだけのことだった。

 どこにも私の姿など映し出せなかった。

 なのに、やはり心のどこかでは。

 妬んでいたのかもしれない。

 いまとなってはわからない。

 アルビノの彼女を連れ出せば、ここより紫外線の量は絶対的に多いので、確実に短期間で死に至らしめることは可能と考えつかなかったはずはなかった。

 いまとなってはわからない。


 もう、終わりにしよう。

 なにもかも。

 何人もの先輩や同僚たちがこの雪に抱かれて眠っている。誰にも知られずひっそりと。

 私もその中のひとりになるだけだ。

 青白い肌と紫色の唇。

 見つけられることもないのに、見られたときのことを思う。そんなアイスマンになった私を、誰か私だと気づいてくれるだろうか。

 私が私のまま残るというのは、ここに在り続けるということだ。

 死んでいても生きていても、同じことではないか。

 ならば。

 とても楽だ。

 このままだらだらと、なんやかんやと生に執着して、必死になったり逃げたり、ずる賢く立ち回ってみたりするよりは。

 こうして。


 こうして、ただ。


 雪に身をゆだねて      い る     だ け          で   生 き て い


             け る


      な ら、


  ずっと


          こ う し


      いたい。


   このま ま


  こ こ     で


  眠ろう。


  ねむ


 


    ろ


 


      う。


  ハルカが


  抱いてくれる。


  やさしく


   つめたく


    抱きしめて


  くれる。


            だ か ら と


                    て も


   安 心し


    て


       眠 れ る  。


                     あ あ


   あぁ


 




      な ん


 




   だか


  と ても


  と     て            も


                  ら


                   く


                  だ ・・    ・・・・









 光の中にいた。


 雪の中。


 雲の切れ間からそそがれた、強い光の中にいた。


 目の前にハルカがいた。


 彼女は笑っていた。


 体は冷たく、それでも鼓動が熱かった。


 肺がとても苦しく、心地よかった。


 ゆっくり、ゆっくり起きあがる。


 ハルカが私を見ていた。


 彼女の背後には、激しくうねりをあげる、壮大な海があった。


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