結晶家族
雪の音がする。
とても静かで、しんと張りつめた、けれどやわらかい音。
雪が降り積もった白く静かな世界で、ふわふわの新雪を踏みしめながら綾子が言う。
――雪の結晶って、うちの家族みたいだね、お姉ちゃん。
雪と同じ色をした毛糸の帽子をかぶり、可愛いほっぺをりんごのように赤くして、笑っていたのを覚えている。
――うん、うちは雪の家族だね。
手袋につつまれた小さな手と手をつないだまま、わたしはそう答える。
宝物を見つけたみたいに嬉しい気持ちになって、ふたりで笑い合った。
『雪の家族』
ぼんやりと覚えている言葉。
あれは、どういう意味だっただろう。
*
合格通知を目にしたときは、やっぱり嬉しかった。
もともと合格圏内だと言われていたし、試験も手ごたえがあったからきっと大丈夫だろうと思ってはいたけれど、こうして本当に合格したのだとわかったら急に肩がすとんと軽くなった気がした。やっぱり、それなりには気を張っていたのかもしれない。
「本当におめでとう、陽子。この一年、よく頑張っていたものね」
「これで、めでたく春からは花の女子大生だな」
「お父さん、その言い方古いって」
当人のわたしよりも、むしろ家族の方が喜んだ。母、父、上の弟の弘之、下の弟の孝之、という順番にわたしの合格通知を回し見ながら、「本当によかった」「陽子ねえちゃん、すげえ」などと、それぞれ色々なことを言っている。
その顔は、みんな明るかった。嬉しいけれど、何だか少し気恥ずかしい。食事時でもないのに、わざわざわたしの合格通知を見るためだけに家族全員でテーブルを囲んでいるというのも、ちょっと大げさだ。
「ほら、綾子ねえちゃんも見なよ。陽子ねえちゃんの合格通知! ほらほら!」
孝之が、隣の席で携帯電話をいじっている綾子に合格通知を渡そうと手をのばす。
綾子はそれを横目で一瞥しただけで、興味なさそうに携帯電話の画面に視線を戻した。
「よかったじゃん。ニートにならずにすんで」
「ちょっと、綾子。そういう言い方はないでしょう」
母が厳しい声でたしなめた。けれど、綾子はそしらぬ顔で取り合わない。
「もういい? あたし、宿題やんなきゃだから」
ぶっきらぼうな口調でそう言って、綾子は席を立った。リビングの扉が音を立てて閉められ、その直後、階段を上がるパタパタという足音が微かに聞こえてきた。
一瞬の沈黙が降りたあとで、弘之がぽそりと「変なの」と呟いた。
「綾子ねえちゃん、陽子ねえちゃんが大学に受かったの、嬉しくないのかな?」
「そんな事ないわよ。きっと、陽子が東京に行っちゃうのが寂しくて拗ねてるんでしょう。昔から、綾子はお姉ちゃん子だったから。ねえ、陽子」
母のフォローに、わたしは苦笑いで「そうだね」と答える。心の中では、そんなんじゃないよと思いながら。
綾子が「お姉ちゃん子」だったのなんて、もう、昔の話だ。
二歳下の妹の綾子は、自分で言うのも変だけれど、小さい頃は本当に「お姉ちゃん子」で、いつでもどこに行くのにもわたしの後をついてきたがった。小学校にあがってしばらくするまで、口癖が「お姉ちゃん」だったほどだ。
それが、数年前――綾子が中学生になったころくらいから、ぱったりと寄って来なくなった。同時に、一切「お姉ちゃん」と呼んでくれなくなってしまった。
きっかけはわからない。
姉妹なんて、どこもそういうものなのだろうか。
それからは、わたしが話しかけても、綾子は終始不機嫌な態度で「忙しいから」「関係ないし」「べつに」「どうでもいいじゃん」としか返さない。それまでとはすっかり変わって、わたしたちはほとんど言葉を交わさなくなった。
それが最近、珍しく綾子がわたしに興味を示してきたことがある。
一年ほど前。わたしが進路を決めたときだ。厳密に言えば、わたしが東京の大学を受験すると言ったとき。
両親とわたしは、リビングで進学先について話をしていた。わたしが志望大学の名前を口にしたとき、そこに居合わせた綾子が突然口を挟んできたのだ。
「なんで東京なの」
静かに、けれど、怒りをこらえるような剣幕で言った。
「なんでよりによって、東京なの」
わたしも、父も、母も、意外な綾子の反応に驚いた。
けれど、わたしは「ああ、そうか」と、直後に納得する。
綾子は都会に――東京に憧れていた。
なんでこの街は遊ぶところもファッションビルもないような田舎なのかと、ことあるごとに嘆いていた。
だから不機嫌の理由は、わたしがいなくなることが寂しいからなんかじゃない。多分、嫉妬しているのだ。
この街からは遠くて滅多に行くことのできない東京に、行きたくてたまらない街に、自分じゃなくて姉が行く。きっとそれが、綾子にとっては面白くないのだろう。
きっと、それだけだ。
合格通知が届いてからは、何かと忙しい日々が続いた。
アパートを探すために両親と一緒に東京へ行ったり、部屋を片付けて引っ越しの準備をしたり、大学の入学手続きをしたり、高校の卒業式があったり、ちょっとした卒業旅行に友達と出かけたり。
日々はめまぐるしく過ぎていき、気が付くと引っ越しの日がすぐそこまで迫っていた。
そんな慌ただしい三月も終わりに近づいたある日、わたしは卒業式以来久しぶりに、卒業した高校へ足をはこんだ。
三年間毎日のように通った道をのんびり歩きながら、普段は気にも留めない見慣れた風景をゆっくり眺めてみる。当分ここをこんなふうに歩くこともなくなるのかと考えたら、少し寂しくなった。気の早すぎるホームシック。
歩道につもった雪を、滑り止めのついたブーツで踏みしめる。踏み固められて固くなった雪の上には、人の足跡がいくつもついていた。屋根に上がって雪下ろしをする近所のおじさん、氷柱の下がったアーケード、電線からぽたぽたと垂れ落ちる雪解け水、誰かが公園に作ったかまくら。
暦の上では春なのに、景色は一向に春の兆しを見せない。
ここは、春の訪れが遅い街だ。
高校に到着し、敷地には入らずに門の外から校舎をぼんやり眺めていると、背後から「佐々木」と声をかけられた。振り返るより先に、誰だかわかってしまう。
「小村くん」
わたしは振り返りながら名前を呼ぶ。小村くんは、片手を上げてそれに応えた。
「久しぶり」
「うん、卒業式ぶり」
「今日寒いね」
「ね。早く暖かくなればいいのに」
元クラスメイト同士としての自然な会話。
ただ、まだ少しだけ、お互いに笑顔がぎこちない。
「メール、びっくりした」
わたしがぽつりと漏らすと、小村くんは「なんで?」と目を丸くした。
「会うの、気まずくないのかなって」
「僕が佐々木に振られた男だから?」
「……ごめん」
「さすがにもう、気にしてないよ」
わたしたちは、どちらからともなく学校の周りを歩き始めた。
ついこの間までは第二の家みたいな場所だったはずの学校が、こうして外から眺めていると知らない建物に見えてくるから不思議だ。卒業したのと同時に、突然部外者にされてしまったような気分。春休み中だからか、校舎は雪で凍りついてしまったかのように、ひっそりと静まり返っている。
わたしたちは並んで歩きながら、とりとめのない話をした。白い息を吐きながら、高校生だったころと同じように。ただ距離だけが違っていた。不自然にならずに手をつなぐことができない距離。間違っても、肩と肩が触れ合ったりしない距離。
「本当に卒業したんだよね。なんか、あんまり実感わかない」
「確かに。四月になったら、またここに通ってるような気がするな」
「わたしも、そう思う」
「佐々木、引っ越しいつ?」
「来週」
「そうか、もうすぐなんだ。悪かったね。忙しいときに」
「大丈夫だよ。もうほとんど準備終わってるから」
見送りに行こうか、とは言われなかった。
見送りに来てほしい、なんてことは、もちろん言わなかった。
別れ際、「こっちに帰ってくるときは連絡ちょうだい」と、小村くんは言った。わたしは「うん」と頷く。
「じゃあ、元気で」
「ありがとう。小村くんもね」
「お互い頑張ろう」
「うん」
校門の前で、手を振って別れた。
思ったより、あっさりしていた。わたしも、小村くんも。
小村くんの家は、わたしとは反対方向だ。だんだん遠ざかっていく背中を見ていたら、無性に、「ごめんなさい」と言いたくなった。でも、我慢した。
四年間いつも隣にいてくれた人に背を向けて、わたしも歩き出す。
小村くんは、この街に残る。わたしは、この街を出ていく。
家に帰ると、玄関の前でばったり綾子に遭遇した。
多分買い物にでも行っていたのだろう。駅前にあるアクセサリーショップの袋を提げている。
学校は休みなのに、何故か綾子は制服を着ていた。それも防寒具はマフラーだけで、コートの類は何も身に付けていない。さすがにぎょっとした。暖かい地域ならまだしも、まだ冬真っ盛りなこの街で、そんな恰好をするのは早すぎる。
「綾子、それ寒くないの? 風邪ひくよ」
「べつに」
言葉とは裏腹に、鼻と頬は赤く、冷たい空気に晒されている太ももには鳥肌が立っている。言葉と一緒に吐かれる息が白い。
「しかも、あんたには関係ないじゃん」
「なにそれ、その言い方」
「なにが? てゆーか、どいてよ。家入りたいんだけど」
「わたしが東京行くのが、そんなに気に入らない?」
ぴたり、と綾子は動きを止めた。
「綾子ずっと都会に憧れてたもんね。わたしが自分を差し置いて東京に行くのが、面白くないんでしょ?」
そのとき、綾子は一瞬、とても――とても傷ついた顔をした。
はっとしたときには、綾子はすでに表情を変えていた。口元を歪めて、言葉の通りバカにしたような笑みを浮かべる。
「ほんっと、あんた、ばかなんじゃないの。成績だけは良いくせに」
嫌な笑い方だった。
それから綾子はわたしを押しのけるようにして、家の中に入っていった。それに続いて玄関に上がると、洗面所の方から「あんたはまた、そんな寒そうな恰好して」という母の声が聞こえてきた。
*
引っ越しの前夜は、ちょっとしたパーティのような夕食だった。
母が張り切ってくれて、食卓にはわたしの好物ばかりが並んだ。ふたりの弟は「今日はごちそうだ」と喜んで、わたしよりもたくさん食べていた。父と母は、いつもよりもよく笑い、綾子は普段の通り不機嫌な顔で黙っていた。
明日からわたしはここにいないのだと思ったら、さすがに少し、寂しくなった。
お風呂からあがって、自分の部屋に戻ろうとしていたとき、階段を上がりきったところで綾子に「ねえ」と呼び止められた。
「なに?」
「うん、ちょっと」
「あ、そうだ。お風呂空いたよ。次、綾子でしょ?」
「ああ、そう。まあ、入るけど」
わたしは内心で首を傾げる。どことなく、綾子の様子が変だ。
綾子は廊下の壁に寄り掛かって、髪の毛を手で弄びながら言いだした。わたしと目を合わせようとしない。
「あのさあ、あいつと別れたって聞いたんだけど」
「あいつって?」
「だから、あのパッとしない男。あんたの――」
綾子はそこで一度言葉を切って、
「――彼氏」
「誰から聞いたの、そんな話」
「誰でもいいじゃん、べつに。で、どうなの。答えてよ」
「別れたよ。誰から聞いたか知らないけど、だからその話は本当。これで満足?」
「なんで別れたの」
「綾子には関係ないでしょ」
むっとなって言うと、綾子は不満そうな表情を浮かべた。
「ふうん、そう。本当だったんだ。ふうん」
なのに、口調はどことなく嬉しそうに聞こえた。そういえば、綾子は小村くんを嫌っていたみたいだったことを思い出す。付き合い始めたころ、小村くんとふたりで歩いていたときに綾子とばったり会ったことがあった。そのとき、綾子は敵を見るような目で小村くんを睨み付けていた。綾子が中学生だった頃の話だ。
「あのさあ、本当に行くわけ?」
「え?」
「だから、東京」
綾子の話は、いつも唐突だ。
「行くよ」
「あっそ」
「綾子も、高校卒業したら好きなところに行けるよ」
「あんたさあ、この家嫌いなんだよね」
本当に、脈絡なく唐突だ。
「だから出ていくんでしょ」と綾子は続けた。「そうなんでしょ? 雪の家族とか、自分で言ってたくせに」
「え? 雪の家族って」
「べつに」と言って、綾子は軽蔑するように鼻で嘲笑った。「覚えてないんだ、ばかみたい」
わたしは軽い眩暈を覚えて、目を細めた。
ああ――綾子。あなたって子は、本当に。
わたしは思い出す。
今からだいぶ前、まだふたりとも小学生だった頃の、あのときの会話を思い出す。
学校からの帰り道。雪道を歩く、わたしと綾子。
――雪の結晶って、うちの家族みたいだね、お姉ちゃん。
綾子の小さな手に握られた、くしゃくしゃになった「雪の化学実験」のパンフレット。
――だって、雪の結晶は六角形だって先生言ってたもんね。うちと同じ。
手袋越しに感じる、ぽかぽかと温かい手。
――うん、そうだね。うちは雪の家族だね。
忘れてなんかいない。
雪の結晶は、必ず六角形のかたちをしている。どんな大きさでも、どんな模様でも。五角形でも七角形でもなく、「六」で完結するひとつの結晶体。
わたしたちも、そうだった。
わたしたちは、雪の家族だった。
父、母、わたし、綾子、弘之、孝之の六人で構成された、家族という名前の結晶だ。
時には喧嘩をしたり衝突が起こったりすることもあるけれど、バラバラになったり誰かひとりが欠けたりすることなんて有り得ないと、そう信じられた居心地の良い場所。
だから、わたしは出ていくのだ。
あたたかい家族に、優しい恋人、馴染の友だち、慣れ親しんだ街並み。家族だけじゃない。深い雪に覆われるこの街自体が、きっと完結した結晶のようなものだ。
その一部としてここにいれば、きっとわたしは母親のお腹の中にいる胎児のように、守られながら安心して生きていけるだろう。ぬるま湯の中をゆらゆら泳ぐような、あたたかな優しさに甘やかされて。
それでは、駄目だと思った。
わたしは一度、すべてを手放してみなくてはいけないと思った。
だから、あえて地元を進学先に選ばなかった。「行きたい学部がある」「学びたいことがある」と、それらしい理由を並べてはいたけれど、結局どれも、自分と周りに対する最もらしい言い訳でしかなかった。
とにかく、ここから離れる口実がほしかった。
生まれ育った、この街から。大好きな人たちのいる、この街から。本当は一時だって離れたくなんかない、この街から。
「覚えてるよ」
わたしは言った。綾子の肩が、微かにぴくりと動く。
「それに、出ていくのは嫌いだからじゃない。好きだから」
「なにそれ、意味わかんないんだけど」
「そのうちわかるよ」
「偉そうに」
綾子は息をはきながら、そっぽを向いた。
「綾子こそ、まだ覚えてたんだね」
田舎は嫌だ。家族に干渉されるのはむかつく。口ではいつもそう言いながら、本当はわたしたちの中で誰よりも、綾子が一番、そうだったのかもしれない。
「ばかにしてんの? あたし、記憶力だけは良いんだから」
わたしが東京に行くことが、妬ましかったわけじゃなかったのかもしれない。
本当のところを、確かめようなんて思わないけれど。
「そのうち遊びに来たら。特別に泊めてあげるよ」
「どうせ狭苦しいワンルームでしょ。あたし、そんなとこ嫌なんだけど」
「そう」
「あんたが帰ってきなさいよ。こっちに」
「帰るよ、お盆には」
「あっそ。どうでもいいけど」
そう言うと、綾子はわたしに背中を向け、腰を屈めて何かを拾い上げた。
「捨てといて、これ。いらないから」
そして再びこちらへ向き直ると、突然、ぽい、と何かを投げてよこした。わたしは少し慌てながら、それを両手でキャッチする。
「あっちで変な男に引っかかんないように、せいぜい気を付ければ。お姉――……なんでもない」
そう言い置いて、綾子は階段を下りて行った。
わたしの両手の上に残ったのは、見覚えのあるアクセサリーショップの袋だった。自分の部屋に戻ってから、ゆっくりラッピングを解いた。袋を逆さにして、中身を手のひらに落とす。繊細な音をたてて落ちてきたそれは、華奢なシルバーのペンダントだった。
わたしは引っ越し用の段ボールのひとつを開けて、手鏡を取り出した。鏡を覗き込みながら、ペンダントを首にさげる。
わたしと綾子は、とても似ていると思った。
こういうとき、感傷的になって泣いたりしない。離れ離れになる前に、もう一度「お姉ちゃん」と呼んでくれるような、そんな演出もしない。
もしこれがホームドラマのワンシーンだったなら、いまいち雰囲気と盛り上がりに欠けるだろう。でもそれが、わたしたち姉妹なのだ。
明日はきっと、いつも通りの家族に見送られるだろう。母は諸々の細かいことを心配しながら、父は静かに微笑みながら、綾子は仏頂面で、弘之はちょっと寂しそうに、孝之は明るい表情で。見送られるわたしは、「いってきます」なんて澄まして答えて。
それが、わたしたちなのだ。
きっとずっと変わることなく、そのままであり続ける。
わたしの胸元で、雪の結晶のモチーフが、きらりと光った。
それはきちんと、六角形のかたちをしていた。
《了》