【第9話】
帰りのホームルームで話す教師の唇には、淡い色が薄っすらと乗っているだけ。薄いファンデーションに僅かな頬紅。着けているのか判らないマスカラとアイライン。
春らしいサンドベージュのスーツは、今日もパンツルックだ。
あの時ホテルで見た女とはまるで別人だった。
乃亜は知らず知らずのうちに、笹沢静果の顔を見入っていた。
「じゃあ、当番は掃除しっかりね」
ホームルームが終わって、形だけの帰りの挨拶を済ませると、笹沢はそう言って教室を出ようとした。
「あ、由衣島さん。ちょっと職員室に来て」
クラス替えが行われたが、乃亜の担任は、笹沢静果だった。殆どの教師は二年生から繰り上がって三年生の担任を勤める。
乃亜はしばらく間を置いてから、職員室へ向かった。
「引っ越しが終わったら教えてちょうだいって言ったじゃない」
「はあ…… でも、担任が誰になるかわからなかったから……」
「先月の時点でクラス編成も担任も決まってるのよ。だから、私が言ったんでしょ」
「すみません……」
そんなの知るか…… だいたいあたしが引っ越しを報告したからってどうだって言うの……
「まあ、いいわ」
笹沢は、溜息交じりでそう言うと
「この用紙に新しい住所を書いて、保護者になる方の印鑑を貰ってきてね」
「保護者…ですか?」
「高校生なんだから必要でしょ。近所に親戚の方がいるのよね」
「あ、ああ。はい。そうです。貰ってきます」
乃亜は用紙を手に、いそいそと職員室を後にした。
「笹沢、何だって?」
廊下を少し行くと、ナツミが待っていてくれた。
教室へ迎えに来たら彼女がいなかったので、他の誰かに訊いたのだろう。乃亜の鞄も一緒に持って来てくれていた。
「別にィ、引っ越し先の新しい住所教えろだって」
乃亜はそう言って、自分の鞄をナツミの手から受け取って歩き出した。
三年になってナツミとは違うクラスになってしまったので、今の教室には乃亜が親しく話す相手はいなかった。まぁ、それでも仲良しごっこをする程度の仲間はいるが……
それでも、一緒に帰る親友はここにいる。乃亜にはそれで充分だった。
ナツミは入間駅近くの古びた商店街に住んでいる。父親はサラリーマンだが、祖父母は御茶屋を営んでいるのだ。
聞いた話では、かなりの老舗らしい。
商店街の入り口でナツミと別れた乃亜は、家に帰ると、笹沢に渡された用紙に印鑑を押して、それをバイト先へ持って行った。
ちょっと甘えた口調で店長に頼み、保護者の欄に親戚の住所と名前を書いてもらう。うろ覚えの親戚の名前は、本当にあっているかは判らないがいちいち確認は取らないだろう。
「そっかあ、由衣島は今一人で住んでるんだな。大変だな」
店長の隣にいた、社員の斉藤が言った。
「けっこう気楽でいいですよ」
乃亜はあっけらかんとした女子高生を装って、笑顔で応える。
それがここでの彼女のキャラクターなのだ。
ここでの乃亜は、両親を失ったちょっと不幸なただの女子高生。左胸のタトゥーと一緒に父親に刻まれた彼女の傷など誰も知らない。
乃亜が上がりの時間になってバックルームへ入ろうとした時、ちょうど入って来たお客に目が止まった。
彼女は足早にドアの内側に隠れるように入った。
真鍋コウ…… しかし、一緒にいるのは、以前所沢で買い物をしている時に、人違いで声を掛けて来た赤い髪の女だった。
二人は楽しそうに映画の新作の棚でDVDを物色している。
どういう関係だろう…… 恋人同士?
乃亜は細く開けたバックルームのドアから、そっと二人の姿を目で追っていた。
心臓の鼓動が高鳴るのがわかって、彼らに聞こえてしまうのではないかと思うと、余計にドキドキした。
コウがアダルトコーナーを指差すと、彼女に頭を叩かれて、そのまま手にしたDVDだけを持ってレジカウンターへ歩いて行った。
乃亜はドアを静かに閉めるとエプロンを外し、深い溜息をついた。




