【第8話】
春休みが終わると、乃亜は三年生になった。高校生活最後の年と言っても、彼女には未だ未来は見えてこない。
ただ、あの男から逃れられた現実だけが今の乃亜を支えていた。
乃亜は高校一年の春、自殺をしようと思った事があった。
それまでも何度かそう言った衝動に駆られていたが、この時はマンションの屋上へ実際に登った。
十階の彼女の家から最上階の十二階までは非常階段を歩いて登った。そこから少しズレた位置にその上り口は在った。
屋上へ続く階段の入り口にはプラスチックの鎖が掛けられて、立ち入り禁止の札がぶら下っていたが、そんなものは簡単に潜り抜けて階段を上った。
両側が壁で覆われた階段は、常夜灯が細々と照らしているだけのほの暗い、やけに荒涼とした空間だった。
どう考えても、天国への階段には見えなかった。
階段を上り切った小さな踊場には、古びたテレビとミニコンポが置いてあった。誰かが粗大ゴミを放置して行ったのだろう。
その光景はまるで、今の自分の心中を抽象画で表したような、あまりにもシックリとくるものがあった。
屋上へ続く鉄の扉はカギが掛かっていたが、内側からツマミを回せば簡単に開錠できるものだった。
重い扉を開いた瞬間、外の風が強く吹き込んできて、髪の毛が大きくはためいた。
風は思いのほか冷たく、コンクリートの床に大きな給水棟が殺伐と佇んでいた。
乃亜はゆっくりとコンクリートの床を歩いた。
自分の気持ちとは裏腹に清々しく晴れ渡る空が、やけに悲しかった。
地上に続く街並みの向こうには、たくさんの雲がひしめいていた。
マンションは中央が吹き抜けになっている為、四角いドーナツのような形をしている。
彼女は鉄柵に手をついて、中央の吹き抜けを見下ろした。下から吹き上げる風が、乃亜の髪の毛を舞い上げた。
そこは、地獄へ続くトンネルだった……
一階のエレベーター通路まで続くその吹き抜けは、下から見上げると暗い空間に青い空や流れる雲がぽっかりと覗き、何処か幻想的だ。
しかし、逆から見たそこは、暗く遠く、まるで地の底まで延びているような通風孔のような縦穴にすぎなかった。
ぜったい成仏できない…… 乃亜は直感でそう思った。
気を取り直して屋上の縁まで歩いた乃亜は、再び鉄柵越しに下を覗き込む。何時も自分が歩いている通りが見えた。
オモチャのような車が行き交っているが、通行人はいない。
あそこまで、何秒かかるのかな……
地面にぶつかる瞬間って、どんなだろう…… 痛みはあるのかな……
真下に広がる景色はどれも色あせしてくすみきって、何処か現実味がなくて、安っぽい小さな映画のセットをただ見下ろしているような錯覚に陥る。
ふと乃亜が視線を移動させると、向かい側にあるガソリンスタンドの従業員がこちらを見て指を指しながら仲間を呼んでいる。米粒のような小さな生き物だ。
乃亜はハッとして身を屈めると、ダッシュで屋上の扉を開けて、そのまま階段を駆け下りた。
こうして、彼女の自殺は未遂にすらならないまま終わりを告げる。
その一年後、あの地獄へ続く吹き抜け部分へダイブした男がいた。
乃亜はその男が、何階に住んで、どんな人間だったのかすら知らないが、あの地獄へ続くトンネルへ飛び込む恐怖は少しだけ知っているのだ。




