【第5話】
「もう、チョームカツク」
電話の相手はナツミだった。彼氏の事で、父親と大喧嘩して家を飛び出してきたらしい。
「行く所なくてさ……」
「いいよ。ウチに来なよ」
乃亜は快く彼女を招いた。
ナツミの彼氏は、三歳年上の専門学校生だ。彼女の父親はそれが気に入らないらしく、事あるごとに彼氏を悪く言うらしい。
今日は彼氏と一緒に遊びに行って、帰りが遅くなった事を咎められたそうだ。
父親にしてみれば、娘が心配でたまらないのだろう。
乃亜は、そんな普通の親を持つナツミの事が、少しだけ羨ましく思い、彼女の愚痴をひたすら聞いてあげるのだった。
普通の父親……
乃亜の父親も昔はごくありふれた普通そのものだった。周りの他人から見ればそんな見かけの姿は、死ぬまで同じに映ったかもしれない。
しかし、乃亜には父と一緒にプールへ行ったり、買い物をしたりした日々が、まるで自分が生まれる前のような、それほどに遠い昔の出来事に感じるのだった。
どうしてあの男はあんなふうになってしまったのか。どうして自分に性的興奮を感じるようになってしまったのか…… 以前はそんな事考えても見なかったが、あの男が死んでから乃亜は、時々ふと考えるようになった。
母親が出ていったから、欲求を満たす相手を自分に向けたのだろうか…… いや、普通は風俗に行くだろう。外で女を作るだろう。
いくら欲求が溜まっても、実の娘を性的パートナーにはしない。
どうして…… どうしてあたしだったの。
「でね…… 乃亜?どうしたの?」
「ううん。何でも無い。それで?なに?」
乃亜は気を取り直して、ナツミの話に聞き入った。
考えてもしょうがない…… あの男があたしにした行為は事実で、この身体に刻まれた記憶は永遠に消えはしないのだ。
朝方まで話し込んでいた乃亜とナツミは、昼近くになってようやく起きた。
ナツミが電源を切っていた携帯の留守電を再生すると、十件ものメッセージが父親によって入れられていた。
ナツミは「ムカツク」と言いながら、その日の夜には自宅へ帰って行った。
それでも乃亜にしてみれば、そんな普通の親子関係が微笑ましく感じた。
所沢で買い物をしていた乃亜は、突然女性に声を掛けられた。
「亜矢乃」
最初は自分に声が掛かっているとは思わなかった。だって、乃亜は亜矢乃では無い。
「アヤノ。何シカトしてんのさ」
そう言って、後ろから肩に触れられて、乃亜は怪訝そうに振り返った。
「あの……」
乃亜は顔を見れば人違いと言う事がわかるだろうと確信していた。ところがその女性は乃亜の顔を正面から見たにも関わらず
「何してんの?買い物?」
乃亜は一瞬言葉が出なかった。
マスカラを塗り重ねたガチガチの睫毛の奥に怪しく輝くダークグリーンの瞳に、一瞬吸い込まれそうになる。紅い髪の毛に負けないほど真っ赤なグロスを引いた唇は、ガムを噛んでいる為か終始動きを止めない。
「あの…… 人違いです。あたしはアヤノじゃないです」
今度は相手の女性の方が怪訝な表情を浮かべた。
「なによ、澄ましちゃって」
「は?」
「ま、いいや。昼間は他人って訳ね」
女性はそう言って艶やかなローズピンクの唇で笑みを作ると、そのまま歩いて下り用のエスカーレーターに消えた。
誰…… 何?
乃亜の思考はひたすら混乱していたが、自分に見覚えが無いのだから人違いに違いないだろうと、深くは考えず直ぐに忘れてしまった。




