【最終話】
アパートの前まで来ると、通りの暗がりにスーツを着た男が立っているのが見えた。
手前側に一人、そして敷地の向こう側にもう一人。
一人はグレー、もう一人は茶色っぽいスーツだが、ほの暗い夜道で顔までは見えなかった。
こんな時間に何をしているのだろう。ただのサラリーマンとは雰囲気が違う。
しかし、そんな事を考えるのが、今は鬱陶しい。
何も考えたくない頭の中で、唯一過るのはコウの事だけ。
彼女がアパートの階段を足早に駆け上がると、部屋の前にもスーツを着た男が二人立っていた。こちらは通路の明かりで顔がはっきりと見える。
一人は四十代くらいで、髪を七・三に分けて濃いグレーのスーツを着ていた。いかにも神経質そうに、眉根をあげて彼女を見つめた。
もう一人は白髪混じりの角刈りで、かなり年がいっている。五十代半ばは過ぎていそうで、濃い色のスーツの上にベージュのステンカラーコートを着ていた。
乃亜が思わず足を止めると、さっき通りにいた二人が階段を上って来て彼女の後ろに立った。
「な、なんですか?」
乃亜は警戒心を露に言った。
「由衣島乃亜さんですね? いやぁ、怪しい者ではありません」
一番年配の角刈りの男は、静かにそう言って身分証明書をかざした。
黒革の証明書入れには、金色のバッヂが光っていた。
「警察……ですか?」
乃亜は、背中にゾクゾクと冷たいものが這い回る気がした。
さっきまで頭の隅にあった、真鍋コウは何処かへ飛んで行った。
昨夜の事がもう知られたのだろうか。警察の捜査能力はそんなに優れているのだろうか……
あの男はやっぱり死んでしまったのだろうか。
乃亜の頭の中でぐるぐると思考がめぐり、足の底がふわふわして床を踏んでいる感触が無くなっていた。
しかし、警察が来たのは昨夜の事ではなかった。
「キミは今、一人で暮らしているんだね」
年配の刑事の目は穏やかだった。しかしその奥の眼光は、乃亜の事を何でも知っている、何でもお見通しという目だった。
内定捜査が影で進んでいたのだろう。
それは昨晩、電車の中でほんの一瞬だけ乃亜が考えた恐ろしい事実に関わりのある事だった。
しかもその恐ろしい現実は、一件だけでは無かった。
「お父さんが亡くなった事件と、一ヶ月前の関町での殺人事件について少し聞きたい事があるので、任意同行していただけますか」
年配の刑事が、優しい口調で話すのを、乃亜は瞬きもせずに見つめていた。
彼女は若い刑事に促されてアパートの階段を下りると、何処に隠れていたのか、何時の間にか現れた黒塗りの覆面パトカーの後部座席に静かに乗り込んだ。
何処かの応接室のような匂いのする車内で、彼女は身近な人たちを思い起こしていた。
ほんのひと時だったけど、心の支えになった真鍋コウ。彼は今どうしているのか。しばらくは、好きなバンドもさせてもらえない事だろう。
そして再びいい関係になりそうだった相田めぐみ。一度でも再び逢えた母親。
でも、この先何がなくとも、全てはうまくいかないような気がしていた。
全ては夢のひと時なのだと。
途端に、しばらく忘れていた薗部や安田の事を思い出した。
彼らは、今頃どうしているだろう。どうせ、別の女性を買ってヨロシクやっているに違いない。
きっと、彼らにとって自分の代わりは幾らでもいるのだ。
覆面パトカーは、タクシーのように静かに闇の中を走っていた。
まるで、何処か知らない世界に届けられるような気がした。
このまま幻想の世界へ迷い込んで、二度と現実の世界へは戻って来れなければいいのに。この世界から、身も心も消えてしまえばいいのに。
そこにはきっとナツミもいて、あの人懐っこいのん気な笑顔で微笑んでくれる。
この先の事など、もうどうでもよかった。
やはり自分には普通の暮らしは出来ないのだ。
得体の知れない何かが、自分の平穏な暮らしの日々を奪ってゆくのだ。
それはやはり、父親の残した呪縛なのかもしれない。
* * * *
明け方の少し冷たい空気が漂う中で、少女は玄関のドアを開けた。
靴を脱いでいると、物音に気づいた男がリビングから姿を現して玄関までやって来た。
「乃亜、こんな時間まで何処へ行ってた」
「うるせぇんだよ」
「なんだ、その化粧は。罰を与えるから来なさい」
「触んな、ジジィ。あたしは、乃亜じゃない」
「何言ってるんだ、さあ、こっちへ来い」
男の大きな黒い手が少女の細い腕を掴んで、無理やりリビングへ引っ張っていった。もう片方の手には、使い込んだ赤い縄ひもを持っている。
「離せっ、ジジイ」
「そんな、反抗的な口をきいても無駄だ。判ってるだろう」
男は力任せに、暴れる少女の身体を安物のソファに押し倒した。
しかしその時、男は自分の腹部にやたらと熱いものを感じた。
何だか判らない、内臓が焼けるような熱さだった。
男は思わず起き上がって自分の腹に手を当てると、そこには在るはずの無い大きな突起物が突き出ていた。触った手には、ぬるりとした生暖かい感触。
視線を落すと、みるみるうちに寝巻きが赤黒く染まってゆく。
それを見た瞬間、男の顔が苦痛に歪んだ。
ナイフを刺した瞬間、手首をひねる事も忘れていない。そうする事で出血が倍増するし、キズの修復も困難になる事を彼女は知っていた。
「あたしは乃亜じゃないって言ってるだろ」
少女はそう言ってソファから起き上がると、乱れた髪をかき上げながら
「あたしは、亜矢乃だよ」
亜矢乃は冷ややかな笑みを浮かべると、悶絶して床に倒れこんだ男を見下ろした。
「肝臓を刺したから、あんたはもう助からないよ。これで乃亜も救われるってもんだろ」
彼女は芋虫のように転がる男の背中に、自分の片足を乗せて床に押し付けた。
* * * *
亜矢乃はあたしの望みを叶えてくれる、あたし自身のもう一人の人格。
亜矢乃はきっと、左胸のカラスアゲハが、絶望と快楽と憎悪の狭間で呼び起こしたもう一人の自分なのだ。
あたしのこころの中の狂気に満ちた切なさは、二人分だった。
父親を殺し、そしてナツミの彼氏を殺したのも亜矢乃だった……
それでも乃亜は後悔したりない。
だってそれは、結衣島乃亜自身の、確かな望みだったのだから。
亜矢乃は乃亜の純粋な願いを叶える、鏡の中の自分なのだから。
彼女が車窓から見上げた青白い三日月は、氷のように冷たい笑みを浮かべながら、静かに流れる雲の波間を漂っていた。
DUAL 了
Dual Personal―タイトルの語源になったのは、もちろん多重人格という言葉です。しかし、本当は読まなければ解らないようにしたかったので、タイトルもあらすじにも多重人格の事は記入したくありませんでした。でも、それだと読者が増えないような気がして… 思いの他たくさんの方に読んでいただき、大変感謝いたします。




