【第26話】
乃亜は点々と街路灯の連なる夜道を、ひとり自転車を走らせていた。
終電から降りる人の波に流されるようにして入間駅の階段を下りて、見慣れたロータリーに佇む岩の塊のような公衆トイレを見ると、ホッと息が漏れてきた。
それでも何時もの緩い坂道がやたらと長く感じて、ペダルを踏んでも踏んでも自転車が前に進んでいないような気がした。
ふと横を見ると、煌々と明かりを燈すファミレスが在る。ナツミと最後に来て一緒にご飯を食べて、一緒に笑った場所。
乃亜は、何だかそれが、もう何年も前の出来事のような気がした。
ようやく市役所の前まで来た時、最近はめっきり見なくなった暴走族のバイクが、けたたましい爆音と共に、交差した国道を横切るのが見えた。
アパートへたどり着いた乃亜は、部屋へ入るとホッと息をつくと共に、再び身体が震えた。 脱いだライダースジャケットを放り投げると、そのまま着ていた服を全て脱ぎ棄てシャワーを浴びた。
あの男の酒臭い臭いが未だに感じられて、乃亜は全身をくま無く洗い流した。
パジャマを着ると、頭にタオルを巻いたまま布団に潜り込んだ。
何だか身体がだるくて、頭の中も混乱して正常な思考が働かない。
いったい今夜起きた出来事は、本当に現実なのだろうか……
何も考えたくなくて、布団をすっぽりと被ったまま震える身体を押さえることが出来なかった。
翌朝、乃亜は普段どおりに目を覚ました。布団から起き上がる時、頭に巻いてあったタオルがスルリと落ちて、昨晩髪の毛を乾かさなかった事を思い出した。
肩に着く髪がぐしゃぐしゃのままで、しかも半乾きだった。
溜息混じりで再び髪の毛を濡らして、ドライヤーできちんと乾かす。
さっきスイッチを入れたコーヒーメーカーから香ばしい香りが漂い始めた。
ふと、昨晩の出来事を思い出して、重い現実が彼女に圧し掛かった。
今さっきまで忘れていた。普通に穏やかな日曜の朝だった。
こうして、何時もは何もかも忘れて過ごしていたのだろうか……
どうすれば判らないほどに重要で、殺人事件に繋がるかもしれない出来事を学校の宿題のように簡単に忘れるなんて……
今の乃亜には、昨晩の出来事よりも今さっきまでその事実をすっかり忘れている自分にショックを受けた。
あんな事があった翌日に、普通に起きて、普通にコーヒーを入れていた。
乃亜は、途端にコウの声が聞きたくて電話をかけた。しかし、彼の電話は電源が切られていて繋がらなかった。
乃亜は息をついて電話を置くと、コーヒーをカップに注いだ。
何故だろう。
昨晩はかなり動揺していたはずなのに、一晩経ったらたいして何も感じない。あの男は自分を襲って来た。正当防衛だ。アイツが悪いんだ。自業自得だわ。別に、あんな男がどうなろうと知った事か。
そんな言葉が次々と浮かんで、彼女の心を思いの他平常に保とうとする。
もう一人の人格が自分にいるらしいという事は、コウや麻希に聞いて知っていたし写真も見せてもらった。
そこにいたのは、紛れも無く自分自身だった。
それでも乃亜には、別の人格でいる記憶がない。だから、何処か架空めいた事として捉えていたのだ。
しかし、昨日のあの一瞬の出来事が、もう一人の人格を彼女に実感させたのだ。
一瞬目を閉じた時間は、自分が思っている以上に長かったに違いない。
昨夜は身体の震えが止まらなかった。布団の中で丸くなってその恐怖に耐えていた。
それなのに、一夜明けたらその動揺は何処かへ飛んで行ってしまった。
昨夜の出来事を現実と受け止める自分が、何処か冷静で投げやりだった。
夕方からのバイトも普通にこなして、電話の繋がらないコウの事だけが、何となく気がかりだった。
今まで電話が繋がらなかった事は殆ど無い。圏外だったとしても、しばらくしてかければ繋がるのが普通だった。
今日1日で何度もリダイヤルして、それでも一向に彼の電話には繋がらなかった。
バイトが終わって店を出た時、そういえば、コウの家はこの近くなのだと言う事を思い出して、途端に彼の事が恋しくなった。
帰る道とは反対方向に伸びる住宅街を、暗闇の中で見つめた。
静まり返った暗がりに灯る街路灯が何処までも続いて、緩くカーブした先に消えていた。
いきなり携帯電話が鳴って、乃亜はビクリと身体を震わせた。電話は麻希からだった。
「あ、乃亜。コウの事聞いた?」
「知らない。コウがどうかしたの?」
コウの名前を聞いた途端に、乃亜の心臓が一瞬跳ね上がった気がした。
「昨日さぁ、BOSCOにガサ入れあったんだって」
「うそっ」
乃亜はとっさにそう返した。
昨日の夜は自分もそこに行ったのだ。自分が帰った後の事だろうか。コウも捕まってしまったのだろうか。
一瞬で彼女の思考がぐるぐると頭の中で走り回る。
「かなり遅い時間だったらしいよ。コウも含めてみんな補導されたってさ」
やっぱり…… 乃亜は今一瞬考えた悪い予測が当たった事に落胆した。
それを聞いて、コウの電話が繋がらない理由がはっきりした。
「乃亜、今何処?」
「バイト終わったところ」
「じゃあ、コウん家の近くにいるんだね」
「うん……」
「電話繋がらないし、たぶん家に行っても会えないと思うよ」
「うん。判ってる」
「そんなに心配しなくて大丈夫だよ。逆に、Boscoの店長の方が心配」
乃亜は、麻希にそう言われて、初めてあの店の事を考えた。
「しばらくは営業停止だね」
麻希は少しだけ冷たく笑ったと思うと「コウは停学かもね」
「停学?」
「でも、その程度だろうから、大丈夫だよ」
麻希は何だか軽い口調でそう言った。
それが、乃亜を励ます為にあえてそうしているのか、彼女のもともとの性格なのかは乃亜には判らなかった。だから、少しだけイラついた。
乃亜は、電話を切った後、コウの家に行ってみようかとも思ったが、やっぱり止めておく事にした。
今自分が行ったからって、どうなるものでもない。それに麻希が言った通り、会えはしないだろう。警察沙汰になったのだから、親が放っておくとは思えない。
乃亜はゆっくりと自転車に跨ると、国道の緩い上り坂を自分のアパートの在る豊岡方面に向かって走り出した。




