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DUAL  作者: 徳次郎
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【第2話】

 乃亜の引っ越しは直ぐに行われた。あの家にはもう一秒足りとも居たくなかった。

 新居は市民会館の近くに小さなアパートを借りた。ほんの少しだけ学校が近くなる。

 保証人がいない為、今まで住んでいたマンションの管理不動産に相談した所、とりあえず敷金礼金の他に一年分の家賃を前払いする事で解決できた。

 父親の知り合いである不動産屋の社長は、他に困った事があったら相談に乗ると言ってくれた。おそらくあの男の知り合いの中では一番マシな人間だろうと、乃亜は思っている。

 自分の荷物だけ持って、父親のものは全て廃棄処分した。

 あの男を感じるものは、写真一枚だって新居には持ち込みたくなかった。どうせ仏壇なんてないし、お位牌や遺影を置く場所もなければ置く気も無い。

 1Kの小さなアパートは、一人分の荷物でいっぱいだった。

 引っ越し業者が帰った後の真さらな部屋で、乃亜は大の字になって床に寝転がった。

 これで自由だ。もう、あの男の言いなりにならなくていいんだ……

 それでも彼女は本当に自由になったわけではない。

 彼女の左胸には小さなカラスアゲハ蝶のタトゥーが入っている。

「お前は俺のものだ。誰にも触らせない」父親はそう言って、知り合いの彫り師に頼んで無理やり乃亜の左胸にタトゥーを入れさせた。

 当時十三歳の乃亜に抵抗することは出来なかった。いや、今でも抵抗は出来ないだろう。ついこの間まで、されるがままだったのだから……

 乃亜の父親は180センチを超えた身長にプロレスラーのようなガ体をしていた。土木建築の会社で働いていたその男は、昔、造船所で鉄鋼を運ぶ作業などをやっていたらしい。日に焼けた筋肉の塊のような身体と大きな手に、乃亜がかなうはずもない事は一目瞭然だった。

 激しく拒絶する乃亜に父親は、焼印と刺青どっちがいいかと尋ねた。

 彼女は無言で涙を流し、ただ首を横に振るだけだった。しかし、そんな抵抗が通用する相手では無い事ぐらい、既に乃亜には判っていた。

 焼印は嫌だ…… その時の乃亜にとって、それはあまりにも酷な選択だった。

 ちょうど左胸の乳首のすぐ上に描かれた、五百円硬貨二つ部程の大きさのカラスアゲハは、黒い羽の中に微妙に異なる数種類のダークパープルとオレンジとブルーの模様が入って、見る角度によって様々な色を醸し出し、その怪しい輝きは確かに綺麗だった。

 しかし、もうこの身体は誰にも見せる事が出来ない。

 中学も高校も、修学旅行先の入浴では風邪気味だと言ってみんなとお風呂には入れなかった。

 高校の修学旅行は長い。三日目の深夜、みんなが寝静まった後、いや正確には本当に寝ている者などいないのだろうが、乃亜は見回りの教師の目を盗んで24時間入れる大浴場へ行った。

 誰もいない浴槽の縁いっぱいに張り巡らされた湯船からは、熱い湯気がくゆらいで立ち込めていた。

 二日ぶりの入浴…… 熱いお湯が身体の芯まで染み込んで、その気持ち良さはこのまま自分がお湯に溶け出してしまうのではないかと思ったほどだ。

 彼女が湯船に浸かって数分後、一人の女性が浴場へ入って来た。

 乃亜は身を硬くして息を呑んだ。

 お湯を打つ音が木霊して、シャワーの音が広い浴場に静かに響き渡る。

「あら、こんな時間に…… 誰もいないと思ったわ」

 思い切り隅っこで肩まで湯に浸かっている乃亜にその女性は言った。

 乃亜は振り返って、小さな笑みと共に微かな会釈をする。

「誰もいない湯船は気持ちいいわよね」

 女性が言った。

「すみません……」

「ああ、違うのよ。ひと気の少ないって意味」

 女性は静かに笑うと「あなた、学生さん?」

 乃亜は静かに肯いた。

「やっぱり。今日泊まっている学生さんね」

 乃亜が怪訝な顔で女性を見ると

「あたし、ここの女将なの。今やっと仕事が終わった所よ」

 そう言って、女将は微笑んだ。

 乃亜はそう言われて、彼女の顔を湯気の中でマジマジと見つめた。

 先ほど微かに盗み見た彼女の裸体は潤いのある綺麗な肌だったから、もっと若い、と言っては何だが、大学生でも夜な夜な入って来たのかと思ったのだ。

 しかし、顔をよく見ると、確かに夕方この旅館に着いた時に挨拶していた女将だった。

 乃亜はそろそろ部屋に戻った方がいいと思い、湯船から上がる為に女将の横を通った。

 女将は一瞬湯面から浮いた乃亜の左胸に視線を止めたが、穏やかに微笑んで小さく会釈をしたので、乃亜も同じように返して湯船を出た。

 女性同士でもこんなに恥ずかしい…… この胸を異性の目にさらす事など、この先絶対に出来はしないと乃亜は確信した。

 そしてその呪縛は、あの男が死んだ今でも左胸に残り、これからも永遠に続くのだ。

 窓から入る西日が真新しい部屋の中を黄昏色に染めて、乃亜は眩しい光に照らされながら、勝手に流れる涙も拭わずに天井を見上げていた。




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