【第14話】
乃亜は最近頭痛に悩まされていた。頭の芯から血流の波にあおられるような激しい痛み。そして、時々記憶が飛んでいる事に気が付いた。
いった何時からなのかは自分でもよく判らない。
自分の記憶が飛んでいる事すら忘れているのかもしれない。
普段ほとんど一人の彼女にとって、記憶が飛んでいる事への弊害もなければ、それを指摘してくれる人もいない。
ただ漠然と腑に落ちない程度にすぎないのだ。
一日一回は入っていたナツミからのメールが来なくなると、乃亜の携帯電話のメールフォルダは何時も空になった。
迷惑メールばかりが目について、速攻削除する。
アレから一週間、乃亜の心の中は何をやっていても空虚で、バイトもずっと休んでいる。
昨晩、開業医の薗部からメールがあったが、返信もせずに削除してしまった。
日曜日の昼過ぎになって、携帯電話が鳴った。バイト先からだ。
「体調が悪くて……」と、一度電話を入れたきりで一週間近くも休んでしまっている。
クビかな…… 乃亜は重い気分で通話ボタンを押した。
「あぁ、由衣島さん?」
「はい……」
「どう、身体の具合は?」
「ええ、まぁあ……」
「今日これから出られないかな。友岡が風邪で休みなんだよ」
クビの通告ではなかった……
乃亜は、何となく自分を必要としてくれている事に応えようと思った。
こんなにも無気力で、いい加減で、そんな今の自分でも、声を掛けてくれる人がいると思うと、何だか途端に申し訳ない気持ちになった。
「判りました。これから行きます」
「本当かい。助かるよ。じゃあ」
こんな自分でも、まだ当てにしてくれる人がいるんだ…… 乃亜はジーンズに履き替えると、長Tにジップアップパーカーを羽織って出かけた。
自転車に跨ったとき、パーカーの左の袖口に黒い小さなシミを見つけた。
何だろう…… 何時着いたのだろうか、そのシミはカリカリと硬くなって血痕らしい事がわかった。
乃亜は知らないうちに、何処か怪我でもしたのかと思い、自分の手や指を見たが何処にも傷は無かった。
これ、取れ無そう…… 乃亜はそう思うだけで深くは考えなかった。
バイトに入った乃亜は、何だか異常な忙しさに、ゴールデンウィークに入っていた事を気付かされた。
忘れていた…… この二ヶ月に満たない間、色々な事が集約して時間経過が判らなくなっていた。
もともとゴールデンウィークなんて関係ない。何時も、父親が休日出勤や出張に出てくれる事ばかり望んでいた。
それでなくても、あの男が休みの時は陽の光の射す部屋の中で、激しい凌辱がおこなわれたのだ。
だから乃亜は、父親が目を覚まさないうちにバイトに出かけた。バイトが無くても家を出た。
でも、判っている。夜家に帰れば、もっと激しい恥辱行為が待っているのだと。
それでも、その場だけを逃れたい一身で彼女は出かけるのだ。
昼間だけは普通の高校生として過ごしたかった。どうしても、そうしたかった……
九時を過ぎて、お客の波はひと段落した。店長が、缶コーヒーをおごってくれたので、乃亜はバックルームで一息ついて、再びフロアーに戻ろうとドアを開けた。
そこには、真鍋コウが佇んでいた。
「ビックリしたぁ」
突然ドアが開いたので、コウは驚いて一瞬固まっていた。
「ご、ごめんなさい……」
俯きながら、何とかそれだけは言えた。
突然の再会に、乃亜も身体が硬直した。
「亜矢乃……だよね」
コウはそう言って微笑んだ。
その言葉に乃亜の心臓が、一度だけ大きく跳ね上がった。
まただ…… 亜矢乃ってだれ?あたしにそんなに似ているの……?
「いえ…… あたしは……」
「俺コウ、金曜日にボスコで会ったろ」
「金曜日?ボスコ?」
「所沢のカフェだよ。忘れるほど呑んではいなかったよね」
「あの…… あたしお酒飲まないし…… ボスコって店も知らない」
乃亜には何の事だかさっぱり判らなかった。
「麻希が言った通りか……」
コウは少し苦い笑いを浮かべ「君は外で会っても知らん顔だって」
乃亜は彼の言葉に困惑した。
「ち、違うよ。本当に知らないんだもの…… それに、麻希ってだれ?」
コウはさすがに怪訝な笑みを浮かべた。ポケットから携帯電話を取り出して写真画像を乃亜の顔に差し出す。
そこに写っているのは、以前声を掛けられた真っ赤なグロスを着けた女性。この前コウとこの店に来ていた女性だった。
その娘と肩を組んでピースサインを出すのは、紛れも無く乃亜の姿だった。
何時もはほとんど化粧をしない乃亜だが、写真の中の自分は隣の娘と同じような真っ赤な口紅を着けていた。
それを見た乃亜は言葉が出なかった。