《勇者》
「……やられましたよ、先輩。まさか最初からお姫様だけを逃がすつもりだったとはね」
黒衣の魔道士は感心と悔しさの入り交じったような声でヒューガを睨む。
「先の口ぶりから、貴様の執着がアシェ――殿下の身柄ではなく、私への私的な怨恨であることは明白だ。貴様は、私にとって己が命より尊ぶ殿下を穢すことで私に絶望を与えようとしたのだろう? 故に、私はその手段を奪うことだけに専念した。結果、殿下は貴様では決して手の届かないところへ無事逃げ果せ、私も最大の屈辱を回避することに成功した。我ながら、この状況下においては上出来と言える」
「あとは貴様を始末するだけだ」――剣を構え直して言外に告げる。
「……へぇ? お姫様を逃がした途端、急におしゃべりになるじゃないですか。でも、いいんですか? か弱いお姫様をひとり異世界になんか送り飛ばしちゃって。もしかしたら、転移した先でもっと酷い目に遭っちゃうかもしれませんよ?」
「無論、共に行けるなら行ったさ。――だが、私がその素振りを見せて方陣に入ろうとした瞬間、貴様は躊躇いなく魔法で殿下を殺めただろう。私が殿下の亡骸と共に絶望しながら異界へ転移する様を眺め、愉悦に浸るために」
殺気とともに放たれた魔法の源たるマナの奔流を肌に感じたとき、直感的に湧き上がった危機感。
アシュリーゼを悪意の刃から守り無事異界へ転移させるには、隙を突いて彼女を魔法陣の中へ押し込むと同時に正面から捨て身の攻撃を仕掛けて妨害するしかなかった。
「……正直、あなたを侮っていましたよ。てっきり表のお綺麗な世界でぬくぬく育って、すっかり角の取れてしまった腑抜けだとばかり。これはさすがに認識を改めなければなりません、訂正しますよ――さすがは元 《死神》、大した嗅覚だ」
「訂正ついでにひとつ言っておくぞ、現 《死神》」
代わりに補充されたという話だ、そういうことなのだろう。
「貴様は殿下を『か弱い』などと言ったが、それは大きな思い違いだ。あの方は、私よりもずっとしたたかで肝も据わっている。荒事以外のすべてにおいて、私などより遙かに優れた才覚を持っていると言っていい。たとえ身ひとつで見知らぬ地へ放り出されたとしても、しぶとく生き抜くだけの力が殿下にはある」
強がりでもハッタリでもなく、心の底から固く信じている。そして、アシュリーゼもきっとヒューガが迎えに来てくれることを確信している。
そうでなければ、今の自分も、そして彼女自身も、この世には存在していないはずなのだから。
「……貴様の言うとおり、口が回りすぎた。おしゃべりは終わりだ、私に恨みがあるというのなら相手をしてやる。仕切り直しだ――かかってこい、後輩」
この男がしたことは到底許せるものではないが、後ろめたさがまったくないと言えばそれもまた嘘になる。
せめて、騎士として正々堂々決着をつける。ヒューガなりの誠意だった。
「……そうですね。でもその前に――」
魔道士は右手を高く掲げて、ヒューガに見せつけるように仰々しく指を鳴らした。
すると虚空から複数の幾何学模様が浮かび上がり、威圧的な輝きを放ってヒューガの顔を照らす。
――高位魔法の術式、それも4つ同時だと!?
「地・水・火・風――本来一度にひとつしか術式起動できない四属性高位魔法の同時展開、僕は《並列処理》って呼んでます」
「それが、貴様が目覚めた《異能》か。……しかも術式起動に詠唱を要しないとは大したものだ、化け物と言って差し支えない」
「これを見て『大したものだ』で済まされちゃうと、ちょっと僕の立場なくなっちゃうんですけどね……先輩、リアクション悪すぎですよ」
魔道士は大げさに肩を落として苦笑した。
「……怨敵に手の内を晒すような真似をして、いったい何のつもりだ?」
「フェアじゃないからですよ。僕は組織を通じて先輩の《力》を熟知しています。そんな一方的にアドバンテージを握った状態であなたを打ち負かしても、決して僕の気持ちは晴れない。だから――」
再び掲げられた手は、真っ直ぐにヒューガを指さす。
「これでやっと対等というわけです。全力でいきますよ、先輩ッ!」
急に殊勝な台詞を吐かれて面食らっていたのも束の間、4つの術式から同時に異なる魔法が紡がれヒューガを襲う。
足元の石畳に鋭く亀裂が生じたかと思うと、その亀裂から激しい炎が吹き上がった。
身を翻してすんでの所で回避しつつ、前方左右から迫り来る風刃と激流を剣の一振りで両断。一瞬の隙間を縫って魔道士へと一気に間合いを詰める。
「ハハッ! 初見でこれを見切られるなんて……でも――背中がガラ空きですよ!」
パチン!と指が鳴ると同時に、ヒューガが剣圧で無理矢理切り裂いたはずの風と水、2つの魔法が螺旋を描き、荒れ狂う吹雪のうねりとなって背後から牙を剥く。
「くっ――!」
堪らず攻撃を放棄して直撃を避けるべく跳躍すると、鋭く天井を蹴り軌道を大きくずらして着地した。
直後、コンマ数秒前にヒューガが宙を舞っていた一帯は地面から隆起した無数の鋭利な氷岩によって大きく穿たれ、天井を粉々に貫いていた。
――無詠唱の四属性同時発動、しかも複合魔法化も自在とは……本当に化け物だな。
漆黒の魔道兵たちも無詠唱の高位魔法を操っていたが、そのすべてが同じ雷撃魔法であったことを考えると、この男の異質さが一層際立つ。
「嘘だ……なんで、なんでひとつも掠りもしないんですかッ!?」
冷や汗を拭う間もなく地面を蹴って、ヒューガの心中とは裏腹に愕然とした表情を浮かべる黒衣の魔道士へ迫る。
剣の届かない中遠距離は魔道士の間合いだ、ただ魔法を避けて飛び跳ねているだけでは一方的に消耗を強いられ確実に負ける。無理矢理にでも突破口を拓いて懐に入り込むしか勝機はない。
「くっ、来るな! 化け物ッ!! あなたの方がずっとバケモノじゃないかあああァァッ!!!!」
怒号とともに四つの術式の輝きが増大し、矢継ぎ早に、今度は堰を切ったように高位魔法の波状攻撃がヒューガを襲う。
しかし――。
――やはり、術と術の間には必ず僅かな隙間が生じている。これならば……!
魔法の攻撃範囲は起動した術式の大きさに比例する。
これが魔道士の得意とする開けた屋外空間などであれば、魔法力の限界まで巨大な術式を展開することでヒューガの回避しきれない超広範囲魔法の連発というシンプルにして強力な戦術でねじ伏せることも可能だっただろう。
だが、大規模な術式を展開できない地下の閉鎖空間では、高位魔法といえど、ひとつひとつの攻撃範囲は自ずと狭まり、どんなに完璧に面を捉えたように術を重ね合わせても必ず隙間は生じてしまう。
ヒューガの目が、研ぎ澄まされた感覚が、常人では為し得ない細い針の穴へと、その身体を通していく。
――そして。
「しまっ――」
「終わりだ」
低姿勢に肉薄、懐を捉え、そして空を裂く渾身の斬り上げが黒衣の魔道士の身体を深く、鋭く切り裂いた――はずだった。
「がはッ!?」
血を噴いて倒れたのは、あろうことか剣を振るったはずのヒューガだった。
「ハァ……ハァ……っ! あーあ……やっぱり、こうなっちゃうんですね」
「貴様……いったい何を――」
確実に仕留めた。己の剣が肉を裂き骨を断つ、いつまで経っても不快感に慣れることのないあの感覚が、たしかにこの手に伝わったはずなのに。
なぜ、この男は傷ひとつ負っていない?
そしてなぜ、自分は鮮血を噴いて地に伏している?
その疑問に答えるように、黒衣の魔道士は再び言った。
「だから言ったじゃないですか、先輩。――僕は女神様に選ばれた《勇者》だって」
「《勇者》……だと?」
呻くように言葉を絞り出す。身体の感覚が急激に希薄になっていくのを感じる。
「組織で行なわれていた儀式の中、僕は女神から天啓を受けて《勇者》として覚醒しました。そうして得たのがこの力――僕が受けるはずだった攻撃を、そっくりそのまま相手に跳ね返す、いわば絶対防御です。……僕の意思なんかお構いなしに、ホント何でもかんでも勝手に反射しちゃうんですよ、コレ。我ながらインチキも大概にしろって感じです」
どこか人ごとのように、《勇者》を名乗る男は肩を竦めた。
「そんな、こと……」
あり得るはずがない。そう言いたくても、もう口が上手く回らない。
「先輩が身をもって証明したじゃないですか。僕は何もしてない、結果としてあなたがあなた自身を斬ったんです。……女神様ってヤツはよっぽど《勇者》という駒に死なれちゃ困るんでしょうね。これ以外にも転移魔法とか魔法解除とか便利な力までいろいろ押しつけてくれちゃって、なんかサポートが手厚すぎて逆に白けちゃいますよねぇ?」
「……?」
もはや声も出ず、辛うじて目をやることしかできない。頭上で喋る男の声すら耳に入らなくなってきた。
「本当はね、先輩。僕は《勇者》の力なんかに頼らず、実力であなたを倒したかったんです。そうでなければ、僕が《死神》を超えたことにはならないから。……でも、あなたは強すぎた。あの波状攻撃をものともせず突っ込んできて、防御魔法を張る間もなく一気に間合いを詰められて思いっきり無防備に斬られちゃったから、《勇者》の力が勝手に発動して、あなたは自分に斬られちゃったんですよ」
ふぅっと、一度深く息をついて、返答を待つかのような一拍を置いた後、《勇者》は続ける。
「もう聞こえてないかもしれませんが、一応言っておきます。だからこの力を使わせた時点で、この闘いは紛れもなくあなたの勝ちだったと。悔しいですけど、《超感覚》なんて反則技、やっぱり僕の実力では超えられる気がしませんよ。それじゃあ……さよなら、僕の憧れだった人。僕は、僕の役割を全うします。だから――」
まるで想い人に今生の別れを告げるように手向けの言葉を漏らすと、虚ろな目の《勇者》は指を鳴らし煙のように消えた。
「待ってますよ」――その言葉を残して。
*
身体の感覚はとうになくなり、夢とも現実ともつかない朧気な意識の中でヒューガの心に浮かんだのは、やはり敬愛する姫君アシュリーゼのことだった。
――姫……アシェ……。返す返す、約束を守れない不徳の騎士で申し訳ありません。私は、どうやらここまでのようです。どうか、ご無事で。どうか、強く生き抜いてこの地に再び舞い戻り、帝国再建の悲願を成し遂げるその日を、そして何よりもあなたの幸福を、遠き彼の地より願い続けています――。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
次回、親の顔より見た例の女神の空間へ。




