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あの日見た窓の外側

作者: tempp
掲載日:2025/11/25

公理(こうり)様、いらっしゃいませ。越前(えちぜん)様がお待ちですよ」

 いきつけのBar Noapte(ノアプテ)の重たいドアを押し開ければ、大きくもない声が耳に届く。やや薄暗い店内を見渡せば、カウンターの端っこで梅雨(つゆ)ちゃんが軽く手を振った。ノアプテはカウンターしかないからすぐわかる。誰かに間違うこともない。

「早かったね」

「俺は大抵暇だからな」

 自嘲でもなんでもなくただの事実として梅雨ちゃんはそう呟いて、お茶を巻いたヘルシーな煙草を灰皿に押し付けた。口寂しい時に丁度いいらしい。もともと煙草なんか吸わない健康志向なのに、梅雨ちゃんはピアスだらけな見た目のせいでいつも損をしている。本人は全然気にしてなさそうだから、別にいいんだけど。

 そうしてかなり薄めに作られたと色からもわかるハイボールが目の前に運ばれてきた。

「で、何かあったのか?」

「いや、何もないよ。ただちょっと飲みたくなっただけ」

「お前はいつも飲んでるだろ」

「まぁそうなんだけどさ」

 そうして軽くグラスを打ち付ける。


 飲む理由。

 俺は毎晩どこかで飲んで、酔っ払っている。

 けれど今日特に飲みたいと思ったのは秋口で急に冷え込んできたから。今日は結婚式のヘアメイクの打ち合わせが早めに終わって見上げた空が何だか茜な羊雲で、街灯が点く時間でもまだなくってさ、街並みが中途半端にハロウィンの後みたいに暗く陰に沈んでいて、その中にぽつんと取り残された気分になったから。

 そうしてなんだか、冷たい風が吹いて、ほんの少しだけ寂しくなったから、かもしれない。そう思って気が付いたら、梅雨ちゃんにLINEを送ってた。

 梅雨ちゃんはたいてい暇してるし、高校からの腐れ縁だし、まあ、たいてい何言っても聞いてくれる。それにこの16時半っていう中途半端な時間に付き合ってくれそうな当てもなかった。


「最近どう?」

「いつも通りだ。図書館で借りた本を家で読んでる」

 そういえば今もカウンタに載ったクラッチバッグの端っこには、文庫サイズの端っこがはみ出ていた。

「そっか。俺は本とか読まないからなぁ。なんか眠くなっちゃって」

「そうか」

 それでなんとなく会話が止まって、梅雨ちゃんはバーに並ぶたくさんの瓶が光を反射するのを眺めわたして、そのどれかを指さして、チェイサーと一緒に真ん丸なロックな氷が入った琥珀色のウィスキーが運ばれてくる。


 そのなんでもないような空気が、なんだか懐かしい。

 そういえば高校の時もそうだった。梅雨ちゃんはたいてい、窓際の席で静かに本を読んでいた。

 高校の時は確か資格の本とかばっかり読んでいて何が面白いのかと思っていたけれど、今の梅雨ちゃんはたくさん資格を持っていて、名義貸しの収入で世捨て人みたいな生活をしている。終業のチャイムが鳴って振り向いたその向こうに、何故だかこんな琥珀色の空が広がっていた気がする。

 あの頃の俺たちは時間なんていつまでもあると思ってた。ずっとそれが続くと思ってた。

 今も時間はあると言えばあるし、作ろうといえば作れる。けれどたくさんの人間が同じ時間の流れを共有するなんて、社会に放り出されてバラバラになってしまって初めてそれが特別だったんだってわかるんだ。

 けど、俺と梅雨ちゃんの間ではまだその時間が続いている。ハイボールのグラスに触れれば、僅かに汗をかいていた。

「智樹?」

「ん?」

「眠いなら家で寝た方がいいぞ」

 その酷く現実に足がついた言葉になんだかちょっと、笑えてくる。

「別に眠くなんてないよ、ちょっと思い出してただけ」


 梅雨ちゃんのグラスの丸い氷がカタリと音を立てて少しだけ融ける。梅雨ちゃんとの心地よいこの友達な関係も、そのうち消えてなくなっちゃうのかなぁ。なんだかそんな、感傷的な気分になってきた。

 全部が少しずつ、見えないうちに変化していく。

中瀬(なかせ)さんが結婚するんだってさ。そろそろ同級生だった奴らに結婚式の招待出すっていってたけど、梅雨ちゃんは行く?」

「中瀬……? 誰だったかな」

「同じクラスのバレー部のキャプテンやってた子。だから梅雨ちゃんにも来るんじゃない?」

 梅雨ちゃんは少しだけ眉を顰めて思い出そうとしているけれど、おそらく思い出さないだろう。

 そういえば梅雨ちゃんは高校のころからすでにボッチ傾向だった。人当たりはよくて面倒見もいいのに自分から誰かに話しかけたりはしない。見た目がちょっと怖いから用事がなければだれも話しかけない。それで全く一人でいることが苦にならないらしいから、梅雨ちゃんの魂は昔からとても強いのだ。

「俺さ、中瀬さんちょっと好きだったんだよね」


「へぇ」

 そのさして興味のなさそうな声が、昔から丁度いい。梅雨ちゃんの興味のなさは否定じゃなくて肯定だと知っている。そういえば俺が美容師になるっていって、いいんじゃないの、ってどうでもよさそうに肯定してくれたのは梅雨ちゃんくらいだったし。

「どこが好きってわけじゃなかったんだけどさ」

「じゃあアレやる?」

 珍しく梅雨ちゃんがニヤついている。

「アレって?」

「結婚式に乱入して俺と結婚してくれっていうやつ」

 そんな答えに思わず吹き出す。

「まさか。俺はクラスメイトの(よしみ)でヘアアレンジ頼まれただけだよ」

 俺は映画やドラマとかでアレンジ頼まれる程度には売れていて、それでタウン情報誌で店の広告の写真とかでも出てるから、それを見て連絡をくれたらしい。


「ふうん」

「別に何もない。久しぶりに打ち合わせで会ったら、なんか旦那さんとラブラブでさ」

 なんだか言い訳じみてる言い方な気もするけれど、そうだな、本当に幸せそうだった。

 だからまぁ、これからも上手くいくように祈ってる。俺が好きだった中瀬さんはきっと、もうどこにもいないんだ。それは否定的な意味ではなくて、肯定的な意味で。彼女は彼女の道を歩いている。俺が俺の道を歩いているみたいに。それがなんとなく、わかった。

「お前は行くの?」

「まぁ、行くよね、行かないっていう選択肢は潰されちゃった感じ」

 同級生がいっぱい来そうな場所で髪をセットして、俺だけじゃあさよならなんてわけにはいかないだろ。

「……もし居心地が悪いなら一緒に行ってやろうか?」

「大丈夫だよ。今はそんなことは全然ないんだ。ビジネスだからね」

 俺は高校のときは多分、もうすこしシャイだった。だからあの時の俺ならきっと、平然と中瀬さんと話すことなんてできなかっただろうし、結婚式の出席なんて断っていただろう。


「ただ」

 そこから先は上手く言葉にならなかった。なんか全部変わっちゃったんだなっていう気がして、だから少し寂しくなったのかもしれない。だから今、梅雨ちゃんと飲んでるんだ、きっと。

「俺と飲んでくれる梅雨ちゃんは大事ってこと」

「なんだそれ」

 けれどきっと、そういう事だろう。俺たちは高校っていう不思議な空間を共有していた。その時はそうは思っていなかったけれど、あの小さな世界だからこそ恋をして、様々なものがキラキラと輝いて、そうして目の前のハイボールのグラスの中で氷がまた、カタリと音を立てた。

 こんな風に小さなグラスの中だったからこそ、キラキラと光っていられたんだ。

 梅雨ちゃんは懐からハーブな煙草を取り出して点けると、やっぱりお茶の香りが漂った。優しい香りだ。だからあまりウィスキーにあっていなさそうでどこか愉快だ。

「多分今、中瀬さんに会っても好きにはならなかったと思うよ」

「ふうん? つまりお前は失恋したってわけ?」

「まぁ、そうかもね。けど、多分中瀬さんにってわけじゃない」

 中瀬さんについて思い出せることはもう朧気で、ジグソーパズルみたいにバレーをしている場面やどこか思い出という形式に作りものめいた笑顔だけで、さっき打ち合わせをした中瀬さんと同じ人かっていうと、そう認識するには情報が欠けすぎていた。


 あのころの俺の気持ちはもう、俺にとってリアルじゃなくなっちゃってこと。もう過ぎ去ってしまったってこと。あの輝かしい空間はおとぎ話みたいに窓の外からのぞき込むしかない。つまり失ったのは恋じゃなくて、あの時の俺たちの周りの世界全てだったんだろう。だから酷く、懐かしく感じる。もう手に入らないからこそ、あのころ当然のように手の中にあった懐かしいものが。

「梅雨ちゃんはなんも変わんないからね、安心する」

「相変わらず鬱陶しいな、お前」

 それに俺が仮に中瀬さんと付き合ったとしても、冷静に考えれば幸せになれたとはあんまり思えないな。

「まあ昔を思い出すってのは酔っぱらってる時みたいに全てが綺麗に見えるもんだよ、……じゃあ梅雨ちゃんも結婚式参加って言っとくから」

「ちょ待てよ。思い出せもしない奴の式なんていけるか」

 きっとこの梅雨ちゃんとの関係も、あの頃の残り香みたなものでそのうち消えてしまうんだろうか。

 その儚さがかけがえがない。


Fin

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