第7話 スバル
『俺は誰だ』
保健室から教室に向かう道すがら、もやがかかった様な頭を振る。
登校する迄は普通だった。そこから記憶が無い。
登校中倒れて保健室に運ばれた。と、たまたまそこに居た同じクラスの女生徒に教えられた。ずっと意識を失っていたらしい。
言われてみれば、夢を見た、ような気がしないでも無い。
ずっと試合をしていたような、異様な緊張感を常に持ち続けていたような、そんな気がする。内容は覚えていないが、疲れる夢だった事には違いない。
そんな眠りの中で、急に、急にだ。
「起きなくては!」という強い意志があった。
声に導かれるままに起き上がり、ベッドの横に置かれていた自分の荷物の中から竹刀を取り出して、カーテンの中から飛び出し、打った。
須田愛海を。
何故?
戸惑いが頭の中で膨らむ。1年の、後輩の女の子を、だ。
訳が分からない。
しかもそこからが異常だ。俺の体の中に、俺じゃないもう一つの意志が有るとでも言うかのような感覚だった。
自分では無い何者かが俺の体を操る。
そう、正に言葉で表すならばそれだ。
そのもう1人の『誰か』は、2年の女子を守りたいと思っていた。
水川弥生。
話した事も無い、かろうじて名前を知っている程度のその女子を庇う為に、俺は須田愛海に竹刀を打ち込んだ。
しかも須田愛海は壁に強くぶつかりながらも受身を取って俺に向き直り、威嚇なのだろうか、猫の如く奇妙な声を発した。
空気が割れ、肌がビリビリと電撃を浴びたように痺れた。
その須田愛海の様子にも驚いたが、その後の自分にも驚いた。口が勝手に動いて声を発したのだ。俺の意思には全く関与せずに。
「ミアナに手を出すな」
と、そう俺は言った。
『ミアナ』というのが水川弥生の事だとすぐに理解する自分。
最優先で守らなければならない大切な人。愛する人だと、そう思った。
何故か!
そこから、水川弥生とミアナが重なって見え、同じ人間だと認識する『誰か』。
抱き締めて感じた彼女の温もり、その温度、感触、匂い。
ああ、生きている。そう思って安堵する『誰か』。
その後、離席していたキリヤが帰って来て、怪我を負った生徒達の対処を引き継ぎ、怪我人の付き添いで来ていたクラスの女子と一緒に教室に向かって歩いている訳だ。が・・・。
何の為にミアナと別れて別の場所に向かっているのか理解出来ない、と思う自分が居る。一方で、別に水川弥生と自分は何の関係も無いのだから至極当然の事だ、と思う自分が同時に居て、考えが纏まらない。
ただ、足は教室に向かう。俺はまだ、今日登校してから一度も教室に行っていなかった。
新年度が始まり、一度寮に持ち帰った各種辞書等を再び学校に置くために持って来ていた。授業を受ける事はできなかったが、せめてそれを教室に運んでおきたい。
一度教室に行ってから食堂で昼食を摂り、そして部活に向かおうと、そう思っていた。
当然の事なのに、何故だ!と荒ぶる意思が、確かに俺の中にあった。
相反する意思、それは共に自分の意思。
そもそもミアナとは?俺は、誰だ・・・?
と、頭の中で堂々巡りが止まらない。
「ア、スラン様・・・」
教室に入った時、クラスメートにそう声を掛けられた。
今日の授業は午前中だけだった。既に全ての授業は終了していて、部活や委員活動等が無い生徒達はとっくに帰宅している時間だというのに、結構な人数がそこに残っていた。
声を掛けたクラスメートと、他の生徒達も、その名を呼びながら近づいて来る。その場に居るほぼ全員、クラスの総数の半分程度だろうか。
「アスラン様、どうなっているのでしょうか、この、我々の体は」
喋るクラスメートに、別の姿が重なる。
「ああ、どうかお助け下さい」
守るべき市民の姿が見えてくる。何とかしなくてはいけない。俺が。
何故、俺が?
そう思った時、保健室で一緒だった女生徒が追い付いて後ろに立った。俺の歩く速度が速くて、遅れたらしい。
「アスラン様?」
疑問形でそう名を呼びながら俺の腕をトンと押した。
瞬間、俺の脳がスパークした。
火花と共に思い出す。産まれてから今に至るまでの記憶を。
そうだ。俺の名は『アスラン』。警備隊の隊長。市民を守る為に、身を挺して戦うのが俺の仕事だ。
俺は警備隊長だから。市民と市を守らなくてはならない。そうしなくてはミアナを守れない。ミアナは俺の全てだ。
そうだ。ミアナは、俺の・・・。
ミアナが産まれたのは、俺が10歳の時だった。
現市長の孫として、全市民に祝福されて産まれた。
普通の赤ん坊より小さく産まれて来たミアナは、成長するに連れて少しずつ普通とは違う所が見え始めた・・・。
まず周囲が気付いたのは、極端に眩しがる、という事だった。目が見え始める頃から、日の当たる所で目をぎゅっと瞑り、それでも足らずに両手で目元を覆う様に隠す仕草を繰り返す。医師に相談してみると、瞳孔による光の調節が上手く出来ておらず、強い光の下では過ごし辛いのでは無いか?と言われた。我が市は専門的な知識を持つ医師に恵まれていなかったので、それ以上は分からないままだった。
ミアナは日の当たる所には出されなくなった。
次の異常は、食事を摂り始めた頃からだった。何かを口に入れる度に体中が赤く染まる。虫に刺された様に腫れ上がり、痒いのだろうむずがり暴れた。酷い時は口の中、喉の奥も腫れるのか息をするのも大変そうな様子が見られた。これは、食べる物によって腫れたり腫れなかったりする事が徐々にわかり、大丈夫な物だけを食べる事で解消された。
だかそのせいで食べる量が足りなかったのだろう。産まれ付きの小さな体は、その後もずっと小さなままだった。
小さいながらも成長し、2本の足で立ち、歩く様になってから次の異常は現れた。息切れをすると直ぐに咳込んでしまうのた。激しく動いたり、感情が昂った時も同じ。咳込んで止まらず、ヒューヒューと不安を煽る様な音を立てて苦しむ。
その為、ゆっくりと動き、安静に過ごす事を強要されるようになった。
市長の仕事を手伝う為、ミアナの両親はよくミアナを俺の母に預けて行った。
市では、6歳から教養を付けさせる。男子は12歳から警備隊で訓練を受ける事になっていた。俺も12歳になると訓練に参加した。訓練の休みの日は必ずミアナと遊んだ。体の事もあり、常に気掛かりだったというのもあるが、無邪気に懐くミアナは可愛かった。
そんなミアナに訪れた最大の不幸は、突然の両親の死だった。
ある日、彼女の両親は、祖母である市長と共に移動中に、襲われた。
奴等に。
蝙蝠の様な羽を持ち、美しい女の顔と体で見る者を惑わせる。奇妙な匂いで人間の行動を鈍らせて、狩っていく。
魔物。
と俺達人間は呼んでいた。
魔物は、突然現れたらしい。詳しくは分からないが、俺が産まれた時にはもう人間の脅威となっていて、警備隊が魔物から人間を守るようになっていた。
その日、市長の移動に付いた警備隊は全滅した。市長を守る為に身を投げ出したミアナの両親も同じ道を辿った。
生き残ったのは市長ただ1人だった・・・。
まだ何も分からないミアナを残して、彼女の両親の命は奪われてしまった。
以来、ミアナは俺の家で引き取る事になった。
ミアナの両親の仇を討つために、俺は警備隊の訓練に精を出し、警備隊長にまで登り詰めた。
ミアナは、体は弱いながらも頭は良かった。他の子供よりも早く、確実に教養を身に付けて行った。
世襲制では無いが、市長の座は今迄ずっと親族で守って来た。両親の死と彼女自身の身体的な「弱さ」によって、受け継がれなくなってしまうかも、と言うプレッシャーがミアナにあったのは間違い無い。
苦しみながらも無理をするミアナ。
全て見てきた。兄のように、父のように。
成長するに連れて美しくなって行くミアナへの俺のその感情が、家族のそれから男女のそれに変わるのは当たり前の事だった。
そして今・・・。
何かが起こっている。知らない場所で、知らない体で。
この体の持ち主にとっては寝耳に水の出来事であろう事は間違いない。
だが、市民が居て、ミアナが居る。
俺は、守らなければならない。
「状況を整理しよう」
俺はそう言った。
ドアが開く。担任の教師が姿を見せた。
教師は室内を見回し、俺と目が合うと一瞬固まる。
そして、俺に向かって敬礼をした。
部下だ。
「慌ててはいけない。一つずつ順を追って、なすべき事を成していこう」