第10話 沙奈2
「閉鎖って、何?」
突然聞こえて来た声に驚いて、私は小さくそう呟いた。
私も弥生ちゃんも、私を縛ろうとしていた男子も他のみんなも固まったように動かない。
中等部棟には弟の要が居る。他の中等部の生徒達も、噛まれて怪我をした山内君の彼女や他の人も。
「窓も扉も全部施錠されて開かないんだ。中に気配はあるのに。呼び掛けても反応しない」
駆け込んで報告をした生徒が、そう続けた。
もし・・・。
もし、今のこクラスメート達の状況の様に、午前中の居眠りを『した』『しない』で分裂する様な事が、中等部内にもあったら?
愛海ちゃんと、剣道部の先輩の様に、対立して戦う様な事があちらにもあったら?
愛海ちゃんに山内君ともう1人の男子生徒が味方した様に、対立する人達に派閥の様な物があったら・・・?
もし、抗争の様な状況が起きて、それが大きく広がってしまったら?
魔物って、何?危ないモノ・・・?
私の体は、何かを考えるより先に動いていた。中等部棟へと走り出す。
要、要!大丈夫?
大丈夫ならそれをこの目で確認したい。大丈夫じゃないなら、助けなければ。何もせずにいるなんて出来ない。
そう思って私は、私の事を捕まえようとするクラスメートを押し退けて、廊下を走り抜けた。
「待て!」
叫ぶ隣の席の男子。
「沙奈!」
弥生ちゃんも私を呼んで後を追おうとしてくれるが、周りのクラスメート達が止めて来られない。
「ぅおりゃあ!」
哲平君の声と、何かがぶちぶちと千切れる音が聞こえた。後に女子の小さな悲鳴が続く。もしかしたら鈴蘭テープを力づくで千切ったのかも知れない。
でも、私はそんな事には構わずに走った。
私の必死の形相に、呆気に取られる他のクラスや学年の生徒達。通路を開けようとしてくれる彼等を、それより早く押し退けながら私は進んだ。
突き当たりを曲がり、中程の通用口から出て、中庭を突っ切れば中等部棟へと向かう廊下に近道だ。
通用口に辿り着いた。私を追いかけて来る生徒は見えない。私は一度立ち止まり、息を整えて中庭に歩み出た。
そこで・・・、
彼女が待伏せていた。
須田愛海が。
中庭の真中辺り、生垣に囲まれた小道の中程。息を整えながら進んでいると、横から声を掛けられた。
「先輩・・・」と。
校門横の物よりは小さいが、そこにも大きな銀杏の木が立っている。その陰から、声と共に現れた彼女。
「領寺先輩、私会いたかったんです」
愛海ちゃんは、そう言いながら私に近づいて来た。
私の名前、知っているの?
私は、未だ整わない荒い呼吸で肩を上下させながら愛海ちゃんを見た。
いつもテレビや雑誌で見る通りの整った顔立ち。可愛い笑顔。細くて長い手足。さっき保健室であんな風だったとはとても想像出来ない。
「沙奈先輩って、呼んでも良いですか?」
下の名前も、知ってるの・・・?
私は愛海ちゃんの目を見詰めたまま、身動きが取れなくなった。走って来たのとはまた別の理由で動悸が激しくなる。それが恐怖なのか、何か別の感情なのか、自分の事なのによく分からくなる程混乱していた。
「沙奈先輩・・・」
愛海ちゃんは目の前に迫っていた。私より少し背が低い。顔が近づく。愛海ちゃんの右手が私の頬に触れる。高揚した私の頬に冷たく気持ちの良い感触。愛菜ちゃんは反対側の手も添えて、両側から包み込む様に私の頬を覆った。
私は動けなかった。ただ愛海ちゃんを見詰める事しか出来なかった。蛇に睨まれた蛙なのか、推しに見詰められた一ファンなのか・・・。別にファンでは無いのだけれど。
「キス、しても良いですか?」
愛海ちゃんの唇が迫る。私の膝から力が抜けた。生垣に半分埋まりながらその場に崩れ落ちる。追いかけて来る愛海ちゃんの唇。
見つめ合ったまま、人目を避ける様に低い位置で、愛海ちゃんの呼吸が私の唇に掛かる。興奮が伝わる。
私は動けない。逃げられない。
覚悟を決めてギュッと目を瞑った。
唇が触れ合う、その寸前、何かが私と愛海ちゃんを引き離した。閉じていた目を開くと、愛海ちゃんの肩を背後から力任せに引っ張る2本の腕が見えた。
「何してやがる!このヤロー!」
哲平君だった。さっき迄昇降口で捕まっていたはずなのに。
哲平君は、私を背後に庇う様に立ち、引き剥がした愛海ちゃんと対峙する様に向き合う。そして、愛海ちゃんが威嚇、だろうか、口を開き声を発しようとした瞬間、その瞬間に・・・。
愛海ちゃんを殴った。
グーで。
顔を。
力一杯、思いっ切り体重を乗せて。
そこから、景色がスローモーションの様にゆっくり流れた。一瞬が引き伸ばされて60秒くらいになる。
吹っ飛ぶ愛海ちゃんの体。
口元からは赤い血と何かがキラキラと飛び散る。
地面に落ちたそれを見ると、白い。
歯。
ハッとなって愛海ちゃんを見ると、綺麗に揃っていた筈の前歯が無くなっている。
「て、哲平君。愛海ちゃんの、は、歯が・・・」
言いながら私は、哲平君の制服を掴んだ。そうしないとそのまま哲平君が愛菜ちゃんに馬乗りにでもなって、ボクシングの試合みたいに愛海ちゃんの事を左右から連続でタコ殴りにでもしそうに思えてしまったから。
引き寄せた哲平君の顔を横から覗き見た。そして私は驚く。
表情が、いや形相が、険しく、怒りを通り越して激怒の粧いだった。
そして、私に抑えられたままで唸る様な声を出したと思うと、シャーーーっと威嚇の声を発する。
まるで、保健室の時の愛海ちゃんの様に。
「・・・哲平君・・・?」
私は、今自分が見ている事が信じられなかった。
さっきまで普通だった哲平君が、食堂で一緒にランチを食べていた哲平君が・・・。
『午前中眠りについていなかった者は、全て魔物に取り憑かれている恐れがあります』
さっき昇降口でクラスメートが言った言葉を思い出しす。午前中居眠りしていなかったからという理由で縛り付けられていた哲平君。
その時、愛海ちゃんの向こう側の生垣がガサガサと動いて、山内君ともう1人の男子生徒が姿を現した。
1人がノックダウンされていた愛菜ちゃんを助け起こし、もう1人はずっとコチラに顔を向け注意を怠らない。愛海ちゃんを2人が左右から抱えて立ち上がると、哲平君と私の、その背後に視線を移して睨んだ。
瞬間、私の意思とは関係無く左手が勝手に動いた。背後に向かって停止の指示を出す様に。
何これ・・・。
少し震えながら首を捻って背後を振り返る。すると、コチラを睨む影があった。保健室の桐谷先生だ。
桐谷先生は、山内君と睨み合っている。
どういう事・・・?
そして、山内君ともう1人の男子生徒が、まるでクマに遭遇した登山者が逃げる様に注意深く後退って、愛海ちゃんを担いで去って行った。
それを確認してか、何の音も立てずに桐谷先生も居なくなる。
後に残された私と哲平君。私は、哲平君の制服から手を離し、恐る恐る哲平君に呼び掛けた。
「哲平君・・・」
哲平君は、全身に力を入れたまま私を振り返って、そして私の腕を掴んだ。
「行こう」
短くそう言って、私を引っ張って立ち上がらせて、中等部棟でも高等部棟でも無い方向へ進んで行く。
「何処に行くの?」
私は聞いた。遠くの方から大勢の足音が近付いて来るのが聞こえる。クラスメート達が追いかけて来ているのかも知れない。
行く先を教えて貰えないまま哲平君に連れられて、私達は身を隠す様に移動し始めた。