◆3.マクエル・チェスター
その日、魔法省南部第3支部の副支部長を務めるマクエル・チェスターは、部下の叫び声で目を覚ました。
「副支部長! 緊急です! 副支部長!」
職員寮の一角に存在する自室の扉をガンガンと叩かれ、マクエルは眉を寄せる。
時計を見やれば、朝の8時を少し過ぎた頃だった。眠りについてからまだ5時間も経っていない。
「んう……マクエルさま? どうかなさいました……?」
隣で眠っていたレイラも目を覚ましたようだ。下着姿で目を擦る彼女の頭を撫でると、マクエルは小さくため息を吐いた。
「何だ、こんな朝から……後にできないのか」
「違うんですよ、副支部長! 先程山地の方に魔物が出たとの報告が……!」
「魔物だと……? どうせまたいつもの白鷲だろう。討伐隊に行かせておけ」
マクエルは眠りを邪魔されるのが嫌いだ。
それもティナという邪魔者を追い出し、愛しいレイラと結ばれた後の心地よい眠りだったというのに、無能な部下というのは満足に寝かせてもくれないらしい。
「違います、そうじゃないんです! 報告によれば、山地に現れたのはあの竜鷲だと……!」
再度ベッドに潜り込もうとしたマクエルは、続く部下の言葉に動きを止めた。
(……竜鷲?)
聞いたことがある。確かついこの間、魔法省の本部が大規模な討伐隊を組織して何とか食い止めた上級の魔物だと──。
「……は?」
そこで初めて、マクエルは背筋が凍るのを感じた。
マクエル・チェスターは、幼少期より大変恵まれた環境で育った。
親は男爵、しかも自分はその長男だ、マクエルが調子に乗り、そして他人を見下すまでそう時間はかからなかった。
マクエルが馬鹿だなと思う人間はたくさんいたが、その中でも、ティナ・シストロイズという女は特段の馬鹿だった。
マクエルは親の命令じゃなきゃティナと婚約しようだなんて思わなかっただろうし、婚約期間中もティナに愛の言葉を囁くことが苦痛だった。
レイラの存在がなければ、マクエルはここまで耐えることもできなかったかもしれない。
それほどレイラはマクエルにとっての癒しだった。彼女は若くて身体つきが良かったし、加えてマクエルのことをこれでもかと褒めそやしてくれる。
無駄に頭が良く男に恥をかかせるティナとは大違いで、マクエルはすぐにレイラのことを気に入った。しかも話を聞いてみれば、レイラはティナに仕事を押し付けられて困っているというじゃないか。
ティナがやたらとお人好しなことを知っているマクエルはその話に多少驚きもしたが、しかしレイラとティナのどちらを信じるべきかなんて最初から決まっている。
嫌気がさしていた婚約を破棄するのにもちょうどいい機会だと思い至り、マクエルはティナをこれ幸いとばかりに追い出した。あの瞬間のティナの顔なんて思い出すだけで笑える。惨めでみっともない、全てに絶望した傑作の顔だった。
そう、あいつはただ仕事をこなすしか能のない女。
しかもティナは恐ろしいほどに鈍感で、そして知恵ばかり立派な馬鹿だった。きっとまともな死に方はしないであろう、哀れな女だ。
「な、……何だ、これは……?」
──そんな彼女とようやく婚約を破棄して、レイラという新しい女も手に入れて、大変気分が良かったはずなのに。
目の前に広がる光景が信じられず、マクエルは思わず呟いた。この惨状は、地獄は、なんだ。
大きな怪鳥──〈竜鷲〉が目の前の木々を薙ぎ倒す姿は、何か夢か幻の類ではないのだろうか。
「副支部長、あ、あれは……」
討伐隊の1人が怯え切った声で尋ねる。そんなの、マクエルにだってわからない。
血まみれの猟師が、竜鷲の足元で泣き叫んでいるのが見えた。今は辛うじて生きているが、あの鋭い爪が擦りでもすればもう命はないだろう。
(な、ぜ、……こんなことに?)
浮かんだ疑問に答えは出ない。
どうして。
どうしてだ。
ここ三百年近く、この辺りには低級の魔物しか出なかったはずだ。あれらは南部第3支部の討伐隊でも楽に倒せていたし、今回だって、きっとその類だと思ったのに。
(上級の魔物なんて、田舎の一支部で倒せるわけがないだろ……! 本部は何をやっているんだ!?)
嫌な汗が流れ、マクエルは唾を飲み込んだ。ただでさえ、田舎支部の討伐隊は名目上の意味合いが強いのに。
踵を返し、マクエルは討伐隊に告げた。
「……引き返すぞ」
「えっ!? じ、じゃあ竜鷲は……」
「放っておくんだ! どうせ太刀打ちできやしないんだから、あとは本部の応援が来るまで待っていれば──」
「む、無理ですよ! 応援が来るのなんてずっと後だろうし、待ってたらあの魔物が町に降りちまう!」
「そうですよ副支部長! そんなことになったら家族まで……!」
「あそこで腰抜かしてる猟師はどうすればいいんですか!?」
「見捨てて逃げれば良いだろう!」
叫んだマクエルに、討伐隊の全員が言葉を失った。
「逃げるんだよ、自分だけでも助かればそれで良い! 残りたい奴は勝手にしろ、どうせ死んだ人間のことなんてすぐ忘れるんだ!」
そもそもとして、マクエルがここにいること自体がおかしいのだ。
マクエルはチェスター男爵家の長男だ。次期男爵だ。貴族だ。
本来であれば丁重に守られていなければならない立場なのに、何故かこんなところで上級の魔物を前にしている。
それもこれも『緊急時には責任者の同行を』なんてルールを定めた魔法省のせいだ。魔法省も馬鹿しかいない。
「ふ、副支部長……」
荒く息をしたマクエルを部下の1人が呼ぶ。
だがもう抗議を聞く余裕はない。マクエルは足を踏み出そうとし、しかしそれよりも先に、部下がマクエルの背後を見つめながら呟いた。
「も、もう……逃げられないです……」
「は?」
後ろを振り返る。
その瞬間、マクエルは、別の方向を見ていたはずの竜鷲と目が合った。
「あ」と思った時にはもう遅い。1秒と数える間もなく、マクエルの右腕に激痛が走った。
「がっ……!?」
部下が一目散に逃げていく。倒れ伏す視界の中、マクエルは信じられないものを見た。
己の右腕が、宙を舞っているのだ。
(これは、何が)
起きているのか。
顔を横へ向ける。竜鷲が足を振り上げていた。
その瞳に映っているのはマクエルだ。嘴から赤い炎も見える。
(僕が)
(僕が、……僕が死ぬのか?)
そんなはずが、ないのに。
自分は誰よりも恵まれていて、ティナのように馬鹿な人間どもを使い潰す側に立つはずなのに。
地面に身体を打ち付けつけたマクエルに、竜鷲はいよいよ狙いを定めたらしい。痛みは未だ肩口を襲っている。
なぜだ。
なぜなのだ。
「なぜ、僕がっ……!」
鉤爪が振り下ろされんとしたその時、眩い閃光が迸った。
眩しさに目を瞑り、マクエルは地面に伏せる。次いで暴風のような風が吹き荒れた。
マクエルは顔を上げた。
そこに大怪鳥の姿はない。
木が薙ぎ倒された平地に広がっていた光景は、飛び去っていく竜鷲と、それから――。
「ま、……間に、合った…………」
──真っ黒な鱗を持つ怪物と、その背に乗るティナだった。